何のために生きるのか 2   2004年8月8日 寺岡克哉


 人は「何のため」に生きるのか?

 この問題に対して前回は、
 「死にたくないため」に生きる。
 「欲望や快楽を満たすため」に生きる。
 「死後に天国へ行くため」に生きる。
などについて考えました。
 しかし、「死にたくないから生きる」と言っても人間はいつか必ず死ぬし、「欲望や
快楽のために生きる」というのも、死んでしまえばそれで終わりです。
 しかしながら、「天国の存在」を心の底から信じきることも、なかなか出来ません。

 しかしだからと言って、
 「生まれたからには、死ぬまで生きるだけだ!」
 「何のために生きるのかなど、考えても意味はない!」
と言い切ってしまうのは乱暴だし、それでは納得が行きません。

 それでは、人は「何のため」に生きるのでしょうか?
 この問題に対して、今の私がいちばん納得できる答えは、「永遠の生命のため」
に生きるというものです。
 しかし私が言う「永遠の生命」とは、「あの世の天国における」永遠の生命ではあり
ません。そうではなく、「この世に存在し続ける」永遠の生命なのです。
 私が死んでも、この世で永遠に生き続けていく、「私の永遠の生命」です。

 この「永遠の生命」とは、一体どんなものでしょうか?
 それは一言でいうと、「地球の生命全体としての、私の生命」です。
 つまり「地球の生命全体」が、「私の生命」なのです。

 こんなことを言えば、
 「そんな訳あるはずがない!」
 「バカなことを言うな!」
と、思われるかも知れません。しかしそのことは、「いったい私の生命はいつ始まっ
たのか?」を考えれば、分かってもらえると思います。

 そもそも・・・ 「私の生命」は、いつ始まったのでしょうか?
 私が生まれた時に、「私の生命」が始まったのでしょうか?
 いいえ、違います。
 なぜなら生まれる前の、私が胎児だったときの生命も、「私の生命」だからです。

 それでは、母親が妊娠をしたとき。つまり、父親の精子と母親の卵子が結合して
「受精」をしたときに、「私の生命」が始まったのでしょうか?
 いいえ、それも違います。
 それは例えば、もしも精子や卵子に「生命」というものが全く存在しないで、受精
のときに「生命」が突然に発生したのならば、たしかに「私の生命は受精のときに
始まった!」と言えます。
 しかし、そんなことはありません。精子や卵子は「受精」という「生命活動」をする
からです。だから精子や卵子に「生命」が存在することは明らかです。
 ゆえに、受精をする前の精子や卵子の生命も、受精という変化を遂げる前の
「私の生命」なのです。

 それでは、精子や卵子が作られたときに、「私の生命」が始まったのでしょうか?
 いいえ、それも違います。
 精子は、父親の細胞が変化したものであり、卵子は、母親の細胞が変化したもの
だからです。
 つまり、父親や母親の「もともと存在していた生命」が変化して、精子や卵子が作
られたのです。だから精子や卵子が作られたときに、「私の生命」が始まったので
はありません。
 このように考えると、父親や母親の生命も、変化を遂げる前の「私の生命」だと
言えるのです。

 そしてこの考え方を延長すれば、人類の祖先や哺乳類の祖先、さらには地球で
生まれた最初の生命も、変化を遂げる前の「私の生命」だと言えます。
 つまり「私の生命」は、40億年前に地球で最初の生命として生まれ、それが数を
増し、進化をくり返して、地球全体に広がったのです。
 だから、地球の生命全体が「私の生命の本体」であり、一個の人間として今ここに
生きている私は、「私の生命の一部分」にすぎないのです。
 これは例えば、「一個の人間としての私」は約40兆個ほどの細胞から出来てい
ますが、それら細胞の全体が「一個の人間としての私の本体」であり、一つ一つの
細胞は「一個の人間としての私の一部分」であるのと全く同じです。

 ところで地球の生命全体、つまり「私の生命の本体」は、すでに40億年も生き
続けています。たぶんこの先も、何十億年と生き続けて行くことでしょう。
 だから「私の生命の本体」は、ほぼ永遠に生き続ける「私の永遠の生命」だと言
えます。
 せいぜい100年程度ですぐに.死んでしまうのは、「私の生命の一部分」にすぎ
ないのです。

                 * * * * *

 話をもとに戻しまして、
 人は何のために生きるのか?

 この問題に対して、今の私がいちばん納得している答えは、
 「私の生命の本体」、つまり「私の永遠の生命」がさらに幸福になり、進歩し、発展
するために、「一個の人間としての私」を精一杯に生かし切るというものです。

 私の生命の本体のため。
 私の永遠の生命のため。
 そのために、「一個の人間としての私」がやれることは何でも、生きている間に精
一杯にやるのです。
 一個の人間という「私の生命の一部分のため」に生きるのではなく、「私の生命の
本体のため」に生きるのです。
 一個の人間という「死によって消滅する生命のため」に生きるのではなく、死によっ
て消滅しない「私の永遠の生命のため」に生きるのです。



                   目次にもどる