神の御業 25
                                2026年1月25日 寺岡克哉


25章 科学の進歩 2
 前章では、「科学」というものが発生した初期の状況から、古代ギリシャ時代までの進
歩について見てきました。この章は、その続きになります。

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 前章で述べたように、2600年前ごろから2200年前ごろにかけての古代ギリシャ
において、科学が大いに進歩しました。
 しかし、その後ギリシャ地方は、勢力を拡大してきた「ローマ帝国」に飲み込まれてし
まいます。ところが、そのローマ帝国も、西暦395年には「西ローマ帝国」と「東ロー
マ帝国(ビザンツ帝国)」に分裂し、476年には西ローマ帝国が滅亡してしまいます。

 この、西ローマ帝国の崩壊によって、5世紀の西ヨーロッパでは知識的な衰退が起り、
古代ギリシアの科学知識が損(そこ)なわれてしまいました。

 しかし、それとは対照的に東ローマ帝国では、古代ギリシャの学問を保存し発展させる
ことができました。6世紀の東ローマ帝国の学者であるヨハネス・ピロポノス(490年頃
~570年頃)は、アリストテレスの物理学に疑問を呈(てい)しました。この批判は、ガ
リレオ・ガリレイ(1564年~1642年)などの後世の学者たちに影響を与え、およそ10
00年後に活躍したガリレオは、ピロポノスの著作を広く引用しているのです。

 また東ローマ帝国では、多くの古代ギリシアの書物が保存され、アラビア語にも翻訳
(ほんやく)されました。
 イスラム帝国のアッバース朝(750年~1258年)では、これらのアラビア語訳に基づ
いて、アラビア人の科学者たちが研究をさらに進歩させたました。
 また6世紀から7世紀にかけて、隣接するサーサーン朝(ササン朝ペルシャ)ではジュ
ンディーシャープール学院が設立され、ギリシア、シリア、ペルシアの医師たちにとって
もっとも重要な医学的拠点となりました。

 アッバース朝時代のバグダードに設立された知恵の館では、13世紀にモンゴルの侵攻
が発生するまで、アリストテレス主義の研究が隆盛を極めました。イブン・ハイサム(965
年〜1040年)は、光学の研究に人工実験を取り入れ、イブン・スィーナー(980年~1037
年)が著した「医学典範(てんぱん)」は、医学界におけるもっとも重要な出版物の一つ
とされ、18世紀にいたるまで使用されました。このように、イスラム圏も科学の進歩に
貢献していたのです。

 11世紀になると、ヨーロッパの大部分がキリスト教化し、1088年にはヨーロッパ最
初の大学であるボローニャ大学が誕生しました。これに伴(ともな)って、古代の文献と
科学文献のラテン語訳に対する需要が高まり、「12世紀ルネサンス」につながる大きな
要因の一つとなりました。

 西ヨーロッパではスコラ学が栄え、自然界の対象を観察・記述・分類する研究が行われ
ました。13世紀には、ボローニャ大学の医学教師と学生たちが人体解剖を始め、世界初
の解剖学の教科書がモンディーノ・デ・ルッツィ(1270年頃~1326年)が行った人体解
剖に基づいて作成されました。

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 14世紀~16世紀にかけてのルネサンス期になると、「カメラ・オブスクラ」と呼ば
れる、小さな穴(ピンホール)やレンズを通して光を箱や部屋に入れ、反対側の壁に実像
が上下逆(さか)さまに映し出される光学装置が作られたり、「望遠鏡」の改良が行われ
るなど、光学分野における進歩が見られるようになりました。

 またルネサンス期では、ヨハネス・グーテンベルク(1398年頃~1468年)が「印刷機」
を発明したことにより、さまざまな学術論文を広く出版するために、それが使用されるよ
うになりました。

 ニコラウス・コペルニクス(1473年~1543年)は「地動説」を提唱し、惑星は地球で
はなく太陽を中心に公転していると主張しました。これは、惑星の公転周期が中心からの
距離に応じて長くなるという定理に基づいており、コペルニクスはこれがプトレマイオス
の「天動説」と矛盾することを発見したのです。

 ヨハネス・ケプラー(1571年~1630年)は、惑星運動の法則を発見し、コペルニクス
が提唱した地動説をさらに改良しました。

 ガリレオ・ガリレイ(1564年~1642年)は、天文学・物理学・工学などの分野で重要
な業績を残しましたが、地動説を支持したことでローマ教皇・ウルバヌス8世から迫害を
受けることとなりました。

 このようにルネサンス期は、天動説と地動説をめぐって、宗教による科学への迫害が酷
(ひど)くなった時代でもあったのです。

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 17世紀後半から18世紀にかけての啓蒙(けいもう)時代になると、万有引力の法則
で有名な、人類史上最大の科学者であるアイザック・ニュートン(1642年~1727年)が
現れ、彼の著書である「自然哲学の数学的諸原理」は、古典力学の基礎を築き、後世の物
理学者たちに多大な影響を与えました。

 この啓蒙時代においては、「科学の目的と価値」というのが、より多くの食料や衣類な
どの品物を得ること。つまり、「物質的な豊かさ」を求めるための技術開発や発明を行う
ことにあると考えられていました。
 たとえば「知は力なり」という言葉で知られるフランシス・ベーコン(1561年~1626
年)は、「科学の真の正当な目標は、新たな発明と富の恵みによって人間の生活を豊かに
することである」と述べて、人間の幸福にほとんど寄与しないような、哲学的・精神世界
的なものに対する考察にふけらないよう科学者に勧めています。

 また啓蒙時代における科学は、学会や学術団体(アカデミー)が主導しており、これら
の組織が科学的な研究開発の中心となり、科学の専門化を支えました。さらには、識字率
が向上することで「科学の大衆化」が進んだことも、この時代における科学的な発展の重
要な点です。

 18世紀になると、医学と物理学の分野で大きな進展がみられました。また、化学が一
つの学問分野として成熟し、磁気と電気に対しても新たな理解が得られました。18世紀
末の1800年には、アレッサンドロ・ボルタ(1745年~1827年)が「電池」を発明し
ています。

 また、カール・フォン・リンネ(1707年~1778年)は分類学を創始し、「分類学の父」
と呼ばれるようになりました。
 つまり、リンネはバラバラだった植物名を、一定の規則に従って命名する「学名」を考
案したのです。それは植物を、科・属・種などに分類して命名する方法であり、後(のち)
には植物だけでなく生物全般にも応用され、現在まで広く用いられています。そしてまた、
現生人類を「ホモ・サピエンス」と名付けたのも実はリンネだったのです。

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 申し訳ありませんが、この続きは次の章でやりたいと思います。



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