無上のありがたさ        2004年7月4日 寺岡克哉


 近ごろ私は、座禅をして瞑想すると、「無上のありがたさ」と言えるようなものを感じ
るようになりました。
 実をいうと以前から、そのような「感覚」を感じたことは何度かありました。しかし最
近は、それが「ありがたい!」という感覚であることに、はっきりと気がついて来たの
です。
 今回は、そのことについてお話してみたいと思います。

 ところで、これは私が個人的に感じる「感覚的な話」なので、ひとりよがりな話になっ
てしまいがちです。しかしながら私は、その時その時に感じた「感覚」を、忘れないう
ちに書きとめて置きたいのです。
 そして、私の感じたこの「すばらしい感覚」が、この世に確かに存在することを知っ
てほしいのです。
 そしてまた、もしかしたら「私と同じような感覚」を体験した人がいて、「共感してもら
えるかも知れない!」という思いもあります。

 それで私は時々、非常に個人的で、しかも客観的な根拠のない「感覚的な話」を、
あえてエッセイに書いたりするのです。
 しかしながら、「根拠のない感覚的なもの」でありながら、私の感じる実感とし
ては、そのような感覚が「確かに存在する」のです!


                  * * * * *

 私は、座禅をして瞑想をすると、「何か温かい空気」に全身が包まれているような
感じがしてきます。
 何というか、宇宙の全体に満ちている「無限のエネルギー」に、全身が包まれるよ
うな感じです。そして私の心と体の中にも、「ジンジン」としたエネルギーが満ちあふ
れてきます。
 それはどんな種類のエネルギーかと言えば、「生命力のエネルギー」とか、「愛の
エネルギー」と表現するのが、私の感覚にはピッタリとします。

 つまり、
 「宇宙の全体に満ちあふれている、無限の生命力のエネルギー」とか、
 「宇宙のすべてに広がっている、無限の愛のエネルギー」
というようなものを、心と体の全体で実感するのです。
 そして何の理由も根拠もなく、ただとにかく、「とても大変なありがたさ」を感
じるのです!


 それは、
 「最愛の異性とギューッと強く抱きしめ合って、身も心も完全に一つに溶け合って
しまいたい!」とか、
 「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、誠心誠意に命の限りを尽くして神を
求め、愛する!」
 というような、「求める愛」の感覚ではありません。

 そしてまた、
 母親が、赤ん坊を優しく抱きかかえて守るような・・・
 父親が一生懸命に働き、家族を養い守るような・・・
 自分の身も心も、自分の生涯も命のすべてを、相手に捧げ尽くそうとするよう
な・・・
 そのような「与える愛」の感覚でもありません。

 またあるいは、
 「大いなるもの」に自分が完全に受け入れられ、愛され、守られているような、
「根源的な安心」とか「絶対的な安心」という感覚でもないのです。

 今回お伝えしたいのは、それらの感覚とは少し違って、とにかく、ただひたすら
「無上のありがたさ」を感じるということなのです。

 この宇宙が存在すること。
 太陽や地球が存在すること。
 水や空気、山、川、海など、地球の大自然が存在すること。
 動物や植物など、この地球に生命が存在すること。
 家族や友人、あるいは全く見知らぬ人であっても、とにかく人類が存在すること。
 そして・・・ この世に自分が存在すること。

 そのようなことが、有り難くて有り難くて仕方がないのです!
 心が「ジーン」としたり、「ジワーッ」としたりして、理由もなく目頭が熱くなるのです。
 そして、ただひたすら、すべてに感謝したい気持ちでいっぱいになるのです!

 ところで・・・ 「ありがたいと思う気持ちを大切に育てよう!」と、私が意識し始め
たのは、本当に最近になってからでした。
 それは、
 何でもすぐに有り難がるのは、素直だが愚かな人間のすることだ!
 だから、いいように他人にこき使われたり、簡単に騙されたりするのだ!
 私は、簡単に気安く「ありがたい!」などとは、絶対に思わないぞ!
というような、「ありがたさを感じること」に対する「警戒心」が、心の底にこびりつい
ていたからだと思います。

 しかしながら、「ありがたさを感じる能力」を高めることは、幸福を得るため
にとても大切です。


 そのことに、あらためて気づかされた次第です。



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