赦す愛 2004年6月27日 寺岡克哉
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
そのとき、ペトロがイエスのところに来て言った。「主よ、兄弟がわたしに対して罪
を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」
イエスは言われた。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しな
さい。」 (マタイによる福音書 18章21−22節)
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
新約聖書にある上の言葉は、キリストと、その一番弟子ペトロとのやりとりです。
私は、エッセイ121の「受けとる愛」からエッセイ122の「受け止める愛」へと考察
を進めてきたら、「赦す愛」というのも「あり」なのではないかと思うようになりました。
怒ることをやめて、相手を「赦す」。
憎むことをやめて、相手を「赦す」。
このような「赦す」ということも、「愛」の一つと考えて良いのではないかと思えるよ
うになったのです。
しかしながら、「赦す」という感情には、
「親密になりたい!」とか、
「いつも一緒に居たい!」
「身も心も一つになりたい!」
などのような、いわゆる「愛しい!」という感情が存在しません。
「赦すこと」とは、どちらかと言えば、「怒りや憎しみを抑えて耐え忍ぶ」という感情
が大部分を占めると思います。とてもじゃないけれど、楽しさや喜びを感じるような
「心地よい状態」ではありません。
そしてまた、相手を「赦す」ということは、非常に難しいことです!
それは前回にお話した、「相手を受け止めること」よりも、さらに難しいことだと思
います。
例えばそれは、「肉親が犯罪に巻き込まれて殺された場合」などを想像してみれ
ば、分かるかと思います。
もしも私がそのような状況になったら、犯人を本当に赦すことが出来るかどうか、
まったく自信がありません。たぶん、一生赦すことが出来ないかも知れません。
このように「赦す」ということは、場合によっては、とても大きな「精神的な労苦」が
必要なのです。
しかし、このような精神的な労苦を必要とする愛、つまり「赦す愛」というものが
存在しなければ、たとえばイスラエルとパレスチナの紛争などは、絶対に解決でき
ないのです。
「憎しみと暴力の連鎖からは、平和は絶対にやってこない!」
「お互いに赦し、理解し、愛し合うことが大切だ!」
この言葉の重みと困難さを、今の日本で本当に心の底から理解しているの
は、犯罪被害者の家族の方々ではないでしょうか。
ところで、相手を「赦すこと」が出来なければ、正にそのことによって、自分自身も
また大いに苦しめられます。
なぜなら激しい怒りや憎悪の感情は、それを感じること自体が、すでに大きな
「苦しみ」だからです。
さらには「赦すこと」が出来ずに、たとえば暴行傷害や殺人などの暴力的な手段
に訴えれば、自分の受ける「苦しみ」はますます大きくなって行きます。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
「もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しに
なる。しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦し
にならない。」 (マタイによる福音書 6章14−15節)
「あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなた
がたに同じようになさるであろう。」 (マタイによる福音書 18章35節)
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
これらの聖書の言葉は、そのことを言っているように私には思えるのです。
たとえば、もしも自分が永遠に「人を赦すこと」が出来なければ、正にそのことに
よって、自分自身が永遠に苦しめられるのです。
また例えば、自分が世の中を恨んで憎めば憎むほど、自分は世の中から孤立し、
自分自身が大変な孤独に苦しめられるのです。
だから「赦すこと」は、じつは「自分を救うこと」にもなっているのです。
それは、私の経験からも言うことが出来ます。
私の場合などは、もう10年以上も前のことなのに、他人から受けたちょっとした
屈辱を忘れることが出来ずに、それを突然に思い出して今でも不愉快な気持ちに
なることがあります。
私は、つまらない事やくだらない事には記憶力が良く、執念深い性格なので、よく
そのようなことに悩まされるのです。
しかし、その相手をその場ですぐに「赦すこと」が出来たならば、その後10年以上
にも渡って苦しめられずに済んだのです。
以上、お話してきましたように、
「赦す」ということは、非常に困難なことです。
とても大きな、「精神的な労苦」を必要とします。
怒りや憎しみ、あるいは悲しみを抑えて、ひたすら耐え忍ぶという要素が
大きく、楽しみや喜びを感じるような「心地よい状態」ではありません。
しかし「赦す愛」は、人類の平和にとって、そして自分自身にとっても、「最も
重要な愛」のように私は思います。
目次にもどる