神とは「存在させる働き」つまり「存在の肯定」
すなわち「愛」である
2025年7月13日 寺岡克哉
「神とは、この世界そのものである」と、私は以前に神を定義しました。
ただしここで、「この世界」とは、
人間や人類社会、生命、生態系、地球、そして太陽系や銀河系を含めた「宇宙全体」の
ことだけではありません。
たとえば、ビッグバンが起こる前の世界が存在するならば、それも「この世界」としま
す。
また、この宇宙全体をその内部に含むような、さらに大きな世界が存在するならば、そ
れも「この世界」とします。
さらに、この宇宙の他にたくさんの宇宙が存在するという「マルチバース」と呼ばれる
考え方がありますが、この世界がマルチバースであるならば、それら存在する全ての宇宙
を含めた「マルチバース全体」も、「この世界」とします。
とにかく、ビッグバン以前の世界も、この宇宙を内部に含む巨大な世界も、マルチバー
スも、それらが存在するならば「この世界」とします。
ところで、およそ140億年前にビッグバンが起こったのなら、ビッグバンが起こる以
前の世界というのが、必ず存在するはずです。
また、140億年前に誕生した「この宇宙」は、現在でも膨張を続けていますが、その
膨張し続ける宇宙の外延部(がいえんぶ)よりも、さらに外側の世界。つまり、この宇宙
全体でさえも、その一部として内部に含んでしまうような、さらに巨大な世界。言うなれ
ば「この宇宙の入れ物」が、必ず存在するはずです。
そしてまた、マルチバースが存在することは、理論物理学によって、その可能性が指摘
されています。つまりマルチバースは、理論的に存在する可能性があるわけです。
ゆえに、ビッグバン以前の世界や、この宇宙を内部に含む巨大な世界は、論理的に存在
しなければならず、また、マルチバースが存在する可能性も否定できません。
以上を踏(ふ)まえて、さらに考えを進めて行くと、
「この世界」というのは、無限の過去から存在し、無限の広さを持ち、無限の数の宇宙
を含み、無限の階層構造を持っていても、まったく不思議ではないと私は思っています。
たとえば、この世界全体から見ると、この宇宙全体など、1つの素粒子ていどの存在か
も知れません。つまり、この宇宙全体が1つの素粒子だとすれば、そのような宇宙が複数
集まって超巨大な原子を作り、さらにそれが多数集まって、超巨大な星や生命を作ってい
るかも知れないのです。
また逆に、1つの素粒子の内部には、この宇宙全体に匹敵(ひってき)するような世界
が広がっているかも知れません。たとえば、たった1つの陽子の中に、数えきれないほど
の超微小な銀河や星や生命が含まれているかも知れないのです。
そのような、無限の過去から存在し、無限の広さを持ち、無限の数の宇宙を含み、無限
の階層構造を持つものが、私が考えている「この世界」です。
その上で、「神とは、この世界そのものである」と、私は以前に神を定義したのでした。
* * * * *
いま上で述べたように「この世界」というのは、とてつもなく広大無辺で限(かぎ)り
が無く、もう、これ以上のものは考えられません。
が、しかしそれでも、「なぜ、この世界は存在するのか?」という疑問は、依然として
残ってしまいます。
この疑問について考えてみたのですが、その結果、この世界を「存在させる」何らかの
「働き」があるからとしか、考えようがありませんでした。
つまり「存在させる働き」というもの。それは「存在」という現象を「肯定」するもの
であり、その「存在の肯定」とも呼べるものによって、この世界の「存在が肯定」されて
いるから、この世界が存在するのだと私は考えたわけです。
なぜなら逆に、もしも、この世界の「存在が否定」されていたら・・・
つまり、この世界を「存在させる働き」がまったく無いどころか、さらには、この世界
を「存在させない」ようにする何らかの「働き」があったとしたら、この世界は存在する
はずがないからです。
上で述べた考察から、この世界の「存在が肯定」されているのは間違いありません。ま
た逆に、この世界が存在するという自明の事実によって、この世界の「存在が肯定」され
ていることが、明白に証明されるのです。
そして「存在の肯定」とは、じつは「愛」のことです。
なぜなら、たとえば愛する人、愛する家族、愛する仲間、愛する町、愛する国、愛する
動物、愛する植物、愛する自然、愛する地球など・・・これら「愛するもの」はみな、そ
の存在を望み、その存在を願い、そして実際に、それらが存在するように力を尽(つ)く
したり、働きかけたり、行動するなどして、その「存在を肯定する」からです。
その逆に、「存在の否定」とは「憎しみ」のことです。
なぜなら、たとえば憎い人間、憎い組織、憎い制度、憎い民族、憎い国、憎い雑草、憎
い害虫、憎い害獣、憎い病気、憎い戦争など・・・これら「憎いもの」はみな、その消滅
を望み、その消滅を願い、そして実際に、それらが消滅するように力を尽(つ)くしたり、
働きかけたり、行動するなどして、その「存在を否定する」からです。
このように、「存在の否定」が「憎しみ」であることを考えれば、「存在の肯定」が
「愛」であることが納得できると思います。
以上の考察から、「存在させる働き」つまり「存在の肯定」すなわち「愛」というもの
が存在するので、この世界が存在するのだと結論できます。つまり、「この世界」を存在
させているのは、「存在させる働き」つまり「存在の肯定」すなわち「愛」なのです。
この理由により、「神とは、この世界そのものである」という以前の定義から、「神と
は、 “存在させる働き” つまり “存在の肯定” すなわち “愛” である」という定義へ、神の
定義を変更することにしました。
なぜなら、「この世界を存在させているもの」が見つかったので、それを「神」とする
のが妥当(だとう)であると考えたからです。
つまり「存在させる働き」である神が、「この世界」を存在させることによって、この
世界が存在しているのです。
それはつまり、「存在の肯定」である神が、「この世界」の存在を肯定することによっ
て、この世界が存在しているのです。
それはすなわち、「愛そのもの」である神が、「この世界」を愛することによって、こ
の世界が存在しているわけです。
* * * * *
ところがさらに、「なぜ、神が存在するのか?」という疑問が生じるかもしれません。
その疑問にあえて答えれば、神を存在させる働き、つまり神の存在を肯定しているもの、
すなわち神を愛しているものが、存在するからだとしか答えようがありません。
さらにまた、いま上で述べたものが、なぜ存在するのかと言えば、「神を存在させる働
き」を存在させる働き、つまり「神の存在を肯定しているもの」の存在を肯定しているも
の、すなわち「神を愛しているもの」を愛しているものが、存在するからだとしか言いよ
うがないのです。
そして、このような因果関係は、まさしく無限につづいて行きます。
が、しかしながら、そのような因果関係が無限につづいて行くとしても、「存在させる
働き」つまり「存在の肯定」すなわち「愛」というのが、「いつも同じ原因」になってい
ることは注目に値します。
つまり、「存在する」という現象の原因をどこまで遡(さかのぼ)っても、「存在させ
る働き」つまり「存在の肯定」すなわち「愛」が、その原因になっていることは、つねに
「一定不変」なのです。
やっとゴールが見えてきました。
「存在させる働き」つまり「存在の肯定」すなわち「愛」というのは神であるから、神
を存在させているのは神であり、その神を存在させているのも神であって、どこまで行っ
ても「神」という1つの答えしか存在しません。
そして神とは、すなわち愛であるから、愛を存在させているのは愛であり、その愛を存
在させているのも愛であって、どこまで行っても愛しか存在しないわけです。
ところで上でも述べましたが、「この世界」というのは無限の過去から存在し、無限の
広さを持ち、無限の数の宇宙を含み、無限の階層構造を持っており、これ以上は考えられ
ないほど、とてつもなく広大無辺で限(かぎ)りがありません。
しかしさらに、そのように広大無辺な「この世界」を存在させているのが愛であり、そ
の愛を存在させているのも愛であるから、この先どこまで追究しても「愛」しか存在しな
いことになります。
ゆえに、いちばん根源的で究極的な存在は「愛」であると結論されます。
* * * * *
愛が「この世界のすべて」を存在させている! この結論は、とても魅力的で感動的で
す。
しかも「愛」というのは、私たちの感性によっても認識できるものであり、愛の存在を
実感することは多くの人にとって可能です。
「この世界のすべて」を存在させている愛、「この世界のすべて」を包み込んでいる愛、
「この世界のすべて」に行きわたっている愛というのは、実際に私も感じることができま
すし、感性のするどい人や、それなりのトレーニングを積んだ人ならば、感じ取ることが
できるものと思います。
神とは、「存在させる働き」つまり「存在の肯定」すなわち「愛」である。
このように定義した神ならば、「この世界を存在させている究極の原因」として論理的
に存在しなければならないので、「理性」による論理的な認識が可能です。
そしてまた、「この世界のすべてを包み込んでいる優しくて暖かな愛」というような、
「感性」による実感としても認識が可能なのです。
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