書き残したいこと 4
                                2025年6月8日 寺岡克哉


4章 愛すれば幸福!

 以下は、キリストが愛について説いている、とても厳(きび)しい教えです。
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 「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しか
し、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがた
の天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇(のぼ)らせ、正しい者
にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。自分を愛してくれる人を愛した
ところで、あなたがたにどんな報(むく)いがあろうか。徴税人(ちょうぜいにん)でも、
同じことをしているではないか。自分の兄弟にだけ挨拶(あいさつ)したところで、どん
な優れたことをしたことになろうか。異邦人(いほうじん)でさえ、同じことをしている
ではないか。だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な
者となりなさい。」
               (新約聖書 マタイによる福音書 5章43~48節)
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 ところで私は、20歳代のときに新約聖書に出会ってから、「愛さなければならない!」
と、つよく思い続けてきました。

 つまり、
 嫌な人間であっても、愛さなければならない!
 さらには、罪を犯した人や、敵でさえも愛さなければならない!
 と、つよく思い込もうとするというか、念じていたわけです。

 そのような自分なりの努力を、新約聖書に出会ってから30年ぐらい続けていました。
 ところが、「愛さなければならない!」と、自分に義務を課して言い聞かせ、いくら強
く思いを込めて念じてみたところで、見ず知らずの人間や、大嫌いな人間や、犯罪者や、
あまつさえ自分に危害を加える恐れがある人間など、とてもじゃないけれど愛せるもので
はありません。

 それで私は、50歳代のときに、
 「憎い人間は、やはり憎いのだ!」
 「悪い人間には、どうしても怒りが込み上げてくるのだ!」
 「それが人として、自然な心の在り方なのだ!」
 「無理をして善人を演じたとしても、自分勝手な悪人の餌食(えじき)になるだけだ!」
 「もしも本当に、敵や悪人を心から愛することが出来たのなら、それは精神が異常であ
るのに違いない!」
 などと思い直し、「愛さなければならない!」という考えを捨てて、怒りや憎しみの感
情を抑(おさ)えなくなりました。

 そうしたら私の、他人を受け入れる心が、だんだん狭(せま)くなって行きました。つ
まり私が、狭量(きょうりょう)な人間になったわけです。
 そして、外を歩いているときに他人が自分の前に割り込んできたり、若者のグループが
大声で話をしているなど、そのような、ちょっとしたことでも、怒りや不満をつよく感じ
るようになりました。
 そしてついには、毎日のように、何らかの怒りや不満に悩まされるように、なってしまっ
たのです。つまり私は、どんどん不幸になったわけです。

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 ところが、そのような不幸な状況の中にあっても、
 外を歩いているときなどに、可愛(かわい)らしい子供が笑顔で私に近寄ってきたり、
 愛情にあふれた話(小説や漫画、アニメなどのフィクションも含む)などを、見聞きし
たりして、
 ふと、「愛の感情」で自分の心が満たされるときに、怒りや不満がスッと消えて、大き
な幸福を感じることが分かりました。

 そして、そのような体験を繰りかえしているうちに、58歳のころ、私の中にとつぜん
の閃(ひらめ)きが起こったのです。

 「愛さなければならない!」のではなく、「愛すれば幸福!」なのだと。

 私には、この発見が、天の啓示にも感じられました。
 つまり、「愛さなければならない!」と、自分自身をがんじがらめに縛(しば)りつけ
るのではなく、幸福になるため、幸福を得るために、「愛する」のです。自分の幸福を最
大限に追求するために「愛する」のです。

 愛すれば幸福であり、愛することが出来なければ、幸福ではありません。そして、怒り
や憎しみ、妬(ねた)みなどに駆(か)られていれば、それは「不幸」な状態なのです。

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 愛すれば幸福!
 これは、それまで私の人生で発見した、最大で最高の真理となりました。

 愛すれば幸福!
 この真理にたいして、「外的な状況」は、いっさい関係がありません。つまり、お金が
無くて貧乏であっても、病気を患(わずら)っていても、身体障害があって五体満足でな
くても、家族や友人がいなくて一人ぼっちであっても、さらには自分の死に直面している
ときでさえ、「愛すれば幸福!」という真理は、まったく揺(ゆ)らぐことがないのです。

 その逆に、
 何億円もの金を持っていても、健康で五体満足であっても、家族や友人たちに囲まれて、
賑(にぎ)やかに暮らしていても、安全が保障されて命の危険がなくても・・・そんな理
想的な状況にあっても、怒りや憎しみ、妬みなどの感情につよく駆られていれば、それは
「不幸」以外の何ものでもないのです。

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 いま上で述べたように、「愛すれば幸福!」という真理にたいして、「外的な状況」は
いっさい関係がありません。
 お金が有っても無くても、体が健康であってもなくても、五体満足であってもなくても、
命の危険があってもなくても、愛すれば幸福なのです。

 ゆえに、どんな状況の人でも、愛すれば幸福になることができます。

 つまり「愛すれば幸福!」という真理は、原理的に、どんな人でも幸福になれる真理で
あり、どんな人でも救われる真理なのです。

              * * * * *

 ところが!
 当然ながら、愛することができなければ、幸福になることはできません。だから、「愛
すれば幸福!」というのが、いくら正しい真理であっても、すべての人を救うことはでき
ないのです。なぜなら、この真理によって、愛することができない人を、救うことはでき
ないからです。

 しかし、だからと言って、「愛すれば幸福!」という真理が、誤(あやま)りであるこ
とには決してなりません。なぜなら「愛すれば」という、この真理の前提条件が満たされ
ている限り、幸福であるのは絶対に間違いないからです。

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 また、「愛すれば幸福!」という真理は、幸福になるための方法や、救われるための方
法を、明確に示している点ですごく重要です。

 つまり、この真理は、
 幸福になるためには、どうすれば良いのか?
 救われるためには、どうすれば良いのか?
 という大きな難問に対して、「愛すれば良い!」と明確な答えを与えるのです。

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 しかしながら正直に言うと、愛することが、なかなか難しいのも、否定できない事実で
す。

 とくに、困難な状況に陥(おちい)っている人には、愛することがとても難しいでしょ
う。たとえば失業、貧困、いじめ、虐待、病気、怪我などに苦しんでいる人は、愛するこ
とが、本当にものすごく難しいと思います。

 しかしそれでも、幸福になるためには、愛することがどうしても必要なのです。
 たとえ自分が困難な状況にあるからと言って、他人を憎み、世の中を憎みつづけていれ
ば、それは地獄のような不幸であること以外の、何ものでもないのです。

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 ところでまた、「愛すれば幸福!」という真理は、幸福になるための「努力の方向」を
明確に示す点でも、ものすごく重要です。

 つまり「幸福になる努力」とは、「愛する努力」なのです。

 たとえば、いくら努力して金持ちになっても、愛することが一切できなければ、虚(む
な)しさや寂(さみ)しさを感じるだけで、幸福を感じることはできません。
 さらには、いくら努力して金持ちになっても、愛さないどころか、憎んだり怒ったりし
ていれば、それは不幸以外の何ものでもないのです。だから、お金持ちになる努力は、幸
福になる努力ではありません。

 一方、金持ちであろうと、貧乏(びんぼう)であろうと、愛すれば幸福です。
 ゆえに、「幸福になる努力」とは「愛する努力」なのです。

 「愛すれば幸福!」というのは、幸福の本質です。
 この真理を、心から認めて納得すれば、「幸福を得るための努力とは、愛する努力であ
る」という結論に、疑問を感じることが無くなるでしょう。
 そして、必要以上の金を得ようとするとか、血で血を洗う権力争いに始終するとか、そ
のような「不幸をまねく愚かしい努力」から自分を遠ざけ、自分の人生を、不幸から守る
ことができるでしょう。

              * * * * *

 ところで、「愛すれば幸福!」という真理においては、愛する対象を選びません。
 つまり、人(恋人、家族、友人など)でも、組織(会社、クラブ、国家など)でも、仕
事でも、趣味でも、とにかく何か一つでも「愛するもの」を持てば幸福が得られます。

 しかしながら、人や組織、仕事、趣味などは、いつか失ってしまう可能性がゼロではあ
りません。そして、もしも「愛するもの」を失ってしまったら、ものすごく大きな不幸に
見舞われてしまいます。

 また、「ある一つのもの」を愛せば、別のものに対して怒り、憎んでしまう可能性もあ
ります。
 たとえば、ある人を愛せば、その愛する人に敵対する者に対して、怒りや憎しみの感情
が起こってしまうでしょう。
 また例えば、ある国家を愛する人は、その国家に敵対する国に対して怒り、憎んでしま
うことでしょう。
 そして怒りや憎しみに駆(か)られるのは、やはり不幸以外の何ものでもありません。

 従って、最も完璧(かんぺき)で、絶対に失うことがなく、怒りや憎しみに決して駆ら
れることがない幸福を得るため。つまり、不幸を絶対に招くことがない「完全でゆるぎな
い幸福」を得るためには、「ある一つのもの」を愛するのではなく、「この世界のすべて」
を愛するしかないのです。

 それを指摘したのが、古代インドの釈迦(しゃか)です。
 釈迦は、「慈悲(じひ:仏教における愛の概念)」を説くことにより、「この世界のす
べて」を愛することの大切さを教えました。
 たとえば以下は、「スッタニパータ」と呼ばれる仏教経典の中で、釈迦が「慈悲」を説
いている部分です。

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 あたかも、母親が自分の一人子を命を懸(か)けても守るように、そのように一切の生
きとし生きるものどもに対しても、無量の慈(いつく)しみの心を起こしなさい。
 また、全世界に対して無量の慈しみの心を起こしなさい。
 上に、下に、また横に、分け隔てなく恨みなく敵意なき慈しみを行いなさい。
 立っている時も、歩いている時も、座っている時も、寝ている時も、眠らないでいる限
りは、この慈しみの心をしっかりと保ちなさい。
 この世では、この状態を崇高(すうこう)な境地と呼ばれる。
                  (スッタニパータ 第1章8節149~151)
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 上の詩句を要約すると、一切の生きとし生きるものと「全世界」に対して、つねに無量
の慈しみの心を起こすことにより、「崇高な境地」が得られるとしています。
 私は、上の詩句で「全世界」というのを、以前に1章で定義した「この世界そのもので
ある神」と解釈でき、「崇高な境地」というのを「完全でゆるぎない幸福」と解釈できる
のではないかと考えています。
 そうすると、つねに神を愛することにより、「完全でゆるぎない幸福」が得られると結
論できるのです。

 「愛すれば幸福!」という真理によって、何を愛しても確かに幸福は得られます。
 が、しかし、絶対に不幸を招くことがない「完全でゆるぎない幸福」を得るためには、
心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、つねに神(この世界そのもの)を愛する必
要があるのです。


 つづく



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