忘れられないこと 9
2025年5月4日 寺岡克哉
24章 急性肺炎
2021年4月15日。
以前から肺癌(はいがん)を患(わずら)っていた私の父が、「急性肺炎」で亡くなり
ました。享年(きょうねん)86歳(満年齢)でした。
そのときの経緯ですが、
4月13日の午後に、父が38℃の熱を出したので、肺癌の治療で通っている病院に電
話で連絡をしました。そうすると、発熱の外来受診は午前で終了しているので、翌日に病
院へ来るように言われました。
それで翌4月14日の午前に病院へ行きましたが、新型コロナが問題になっていた時な
ので、一般の患者とは離れたところで待機しつつ、肺のレントゲン写真を撮影して血液検
査をしました。
それらの検査により「肺炎」であることが分かり、新型コロナウイルスのPCR検査も陰
性だったので、緊急の入院となりました。
入院時の父の容体(ようだい)は、歩くだけで息が切れるので、車イスで移動する状態
でしたが、普通に喋(しゃべ)ることができ、いたって大丈夫な様子でした。
それで私は、入院に必要なものを取ってくるために、いったん家に帰ったのですが、私
が家に着くと、すぐに主治医の先生から電話が来たのです。
その先生の話によれば、私が帰った後、父の容体が急に悪化して、命の危険もあるとい
うことでした。
それで私は、また急いで病院へ向かったのですが、病院に着くと、幸いなことに父の容
体は峠を超えて安定していました。主治医の先生の話によれば、看護師さんたちも非常に
頑張(がんば)ってくれたので、なんとか容体を安定させることができたそうです。
新型コロナが問題になっていたときですが、特別に面会が許されました。父は個室に移
されており、かなり大きな機械(おそらく酸素吸入器)の管が口につけられ、複数の点滴
もされていて、「この病院で可能な、最大限の治療をしてくれたのだな」と、いうように
私は感じました。
父は意識がはっきりしており、「もう、死ぬかと思った!」と、冗談まじりの口調(く
ちょう)で言ったので、
私は、「(癌だけでなく)肺炎だって死ぬんだよ!」と、思わず大きな声で言い返してし
まいました。
このとき私は、「冗談が言えるぐらいなら、もう大丈夫だ!」と思って、すごく安心し
ていたのですが、しかしこれが父との最後の会話になったのでした・・・
翌4月15日。
この日、私は病院へ行く予定がなく、さらに翌日(4月16日)に、父が使う「紙パン
ツ」を病院に持って行く予定でした。
それで、この日の夜は、ゆっくりと家で風呂に入っていたのですが、風呂から上がった
とき、とつぜん電話が鳴りました。私は裸のまま、濡れた体で電話に出ると、それは病院
からの連絡であり、「父の容体(ようだい)が急変して、すでに危ない状態」だと言うこ
とでした。
私は急いで病院に向かったのですが、すでに父の意識はなく、オシロスコープに表示さ
れていた、心臓の最後の一鼓動が「ピッ」と鳴ったのを、聞くことができただけでした。
つぎの瞬間に、父の心臓は完全に停止し、主治医の先生が、父の腕(うで)の脈拍が止
まったのを確認して、死亡の診断を下しました。
令和3年4月15日午後9時47分のことです。死因は「急性肺炎」でした・・・
しかし、それにしても父は、
4年以上もステージ4(つまり重症)の肺癌と戦って生き抜いてきたのに、けっきょく
死因は、肺癌ではありませんでした。
ある日に38℃の熱が出たと思ったら、その後たった2日で、あっけなく肺炎で死んで
しまったのです。
この事実を突き付けられた私は、人生の行方(ゆくえ)というのは、ほんとうに全く解
からないものだと、つくづく心の底から思い知らされ、忘れられない出来事となったので
した。
25章 父の葬式
前章で述べたように父が亡くなりましたが、「父の葬式(そうしき)」は、私がやりたい
ように、まったく自由奔放(じゆうほんぽう)にやらせてもらいました。そのため、ちょっ
と他では見られないような、とても変わった葬式になり、忘れられないものとなりました。
それがどんな葬式だったのか、これから紹介しようと思いますが、しかし、その前にま
ず、まだ父が生前で元気なときに、私は以下のようなことを、あらかじめ父と取り決めて
いました。
●葬式は、ごく身内だけの少数でやりたいけれど、それで良いか?
父の回答は、それで全く良いということでした。
●坊さんに数十万円も支払うのはバカらしいので、葬式に坊さんを呼ばなくて良いか?
父の回答は、それも全く良いということでした。
●坊さんを呼ばないので、葬式では、私が般若心経を唱(とな)えてあげようと思うけれ
ど、それで良いか?
父の回答は、「それで結構、結構」ということでした。
そこで私は、この取り決めのあと、父が亡くなるまでの2年間ぐらい、「般若心経」を
1日に1回、父に聞かれないように毎日唱えて練習していました。父に聞かれないように
していたのは、本人が生きているうちに葬式の練習をしていたのを、知られたくなかった
からです。
●坊さんを呼ばないので、戒名(かいみょう)を考えておいてほしい。
父の回答は、「雲水(うんすい)」で良いということでした。
私は、〇〇雲水の4文字とか、〇〇〇〇雲水の6文字とかでなくて良いのかと聞き返し
ましたが、父は「ただの ”雲水” だけで良い」と言うのみでした。
いざ葬式となったときに、親族からの批判を避けるため、私は以上のようなことを、あ
らかじめ父と取り決めておいたのでした。
* * * * *
そして2021年の4月・・・
父の葬式を執(と)り行ったのですが、新型コロナの流行もあって、葬式に参加したの
は、私と妹夫婦の3人だけとなりました。
しかし会場は、40人ぐらい入れる大きなもので、じつに広々としていました。私は、
葬儀屋(そうぎや)の担当の方に、「こんなに大きな会場を使わせてもらって良いのです
か?」と質問したら、その担当の方は、「どうせ空(あ)いているので、ぜひ使って頂き
たい」と、言ってくれました。
この、葬儀屋の担当の方は、じつに柔軟な対応をしてくれる人で、葬式に坊さんを呼び
たくないことや、その代わりに私が般若心経を唱えたいと話しても、とくに苦言を呈(て
い)することなく、快(こころよ)く、その方針で葬式の準備をしてくれました。
また、担当の方との打ち合わせでは、坊さんを呼ばないので、「戒名をどうするか?」
という話になりました。
私は、父が生前に「雲水でいい」と言っていたのを話したら、担当の方が、「何雲水
(〇〇雲水)ですか?」と聞いてきたので、私は、「ただの ”雲水” だけでいい」と、父
が言っていたことを話しました。
すると担当の方から、それでは、ちょっとあれなので、「雲水 故 寺岡孝(父の本
名)」というのでは、どうでしょうと提案されました。
私は、「まさにそれだ!」と思い、「本当にそれは、とても良いですね」と、すぐに了
承しました。
そして次に、
遺体を棺桶(かんおけ)に納める時の衣装、つまり死装束(しにしょうぞく)を決める
ことになりました。
そこで、担当の方から提案されたのは、紫色の羽織(はおり)に、頭の近くには小さな
「編み笠」、胴体の横には小さな「杖」、足下には小さな「わらじ」を置くという、いかに
も旅をしながら修行をする「雲水」のような装束でした。
私は思わず、「こんな衣装があったのですね」と言ったら、担当の方が、「いろいろな
宗派からのニーズがあるので、調べて見たら、このような死装束もありました」と、教え
てくれました。
もしも父が生きていて、この衣装を見たらと思うと、
「まことに結構!結構!」と言って、ものすごく喜んでいる様子が目に映り、私はとて
も感激しました。
* * * * *
以上のように、父の葬式は、
たった3人だけの少人数で、坊さんを呼ばず、戒名も勝手に決めて、死装束は雲水風で
あり、私が読経をするという、とても変わったものになりました。
しかしながら、父の生前の意思を、とくに無視したわけでなく、父との別れを偲(しの)
ぶ十分な時間が取れたので、なかなか良かったと思っています。
(大人数の葬式になれば、その対応で忙しくなり、故人を偲ぶどころではなくなります。)
ちなみに、
これからの時代は、小規模な葬式も、ふつうに行われるようになって行くと思いますが、
故人が生前のうちに、よく話し合って本人の意思を確認しておき、その家族ならではの自
由でオリジナリティのある葬式を行うのも、「結構ありなのかな」と私は思っています。
26章 銀河鉄道999
「銀河鉄道999(スリーナイン)」というのは、漫画家である松本零士(まつもとれ
いじ)さんの代表作品です。
ちなみに私は、松本零士さんの漫画やアニメに、とても大きな影響を受けました。その
中でも、いちばん大きな影響を受けたのは「銀河鉄道999」で、今でも忘れられない作
品となっています。
「銀河鉄道999」は、たしか「少年キング」という漫画雑誌に連載されていたと思い
ます。
その当時、まだ私は中学生でしたが、少年キングの漫画で銀河鉄道999しか読みたく
なかったので、雑誌を買うことはせず、じっと単行本が出るのを待ってから、読んでいた
のを記憶しています。
新しい単行本が出るのが、待ち遠しくて、待ち遠しくて、毎日のように書店に通ってい
たことは、今でも「楽しい思い出」となっています。
ところで、この「銀河鉄道999」という漫画のメインテーマは、「機械の体をタダで
くれる星に行って、永遠の命を得る」と、いうものです。
そのために主人公の少年は、銀河超特急999号に乗り、いろいろな星を旅して、さま
ざまな人と出会い、あるいは戦いを生きぬいて行きます。
が、しかし、主人公の少年は、けっきょく終着駅で最後の最後に、機械の体にはならず、
限りある命しかない「生身(なまみ)の体」であり続けることを選択したのです。
私は、銀河鉄道999を読むことによって、「永遠に生き続けることが、幸福であると
は限らない!」という人生観に、生まれて初めて触れることになりました。そして、もの
すごく大きな衝撃を受け、その後の私の生命観に、とても大きな影響を与えたのです。
その証拠に、たとえば私の拙書「生命の肯定」の210ページ(本サイトでは「エッセ
イ743」に掲載)で、「もしも個の生命が永遠に生き続けるならば、それはたぶん死ぬ
こと以上の苦しみとなるであろう。しかもそれは永遠に続く無限の苦しみになる。」と書
いたのですが、この私の生命観は、まちがいなく「銀河鉄道999」の影響を受けていま
す。
しかし残念なことに、松本零士さんは2023年2月13日に、急性心不全のため東京
都内の病院で亡くなりました。享年85歳(満年齢)でした。
つづく
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