忘れられないこと 7
2025年4月20日 寺岡克哉
18章 身近になった太平洋戦争
2018年の3月。北海道の保健福祉部から、「特別弔慰(ちょうい)金の請求につい
てのご案内」という文書が送られてきました。
それを見てみると、「国では、先の大戦で公務等のため国に殉(じゅん)じたもとの軍
人、軍属及び準軍属の方(戦没者等)に対する弔意の意を表するため、戦没者等のご遺族
の方に特別弔慰金を支給しています」と、書いてありました。どうやら私の父が、このた
び支給の対象者になったようです。
ところで私の父の兄、つまり私の叔父(おじ)は「戦死」したのですが、弔慰金申請の
受付先になっている区役所で説明を聞いてみると、「確かに叔父が戦死した」という事実
を証明しなければならず、そのためには、叔父の戦死が記載されている「戸籍」が必要と
のことでした。
それで戸籍を取ったのですが、その戸籍には、ものすごく読みにくい手書きの崩(くず)
し字で、以下のように書いてありました。
「昭和拾九年四月弐拾五日午後九時参拾五分印度国アッサム州マニプール県クンピー東
北側基地ニ於テ戦死」。これを読みやすいように書き直すと、
「昭和19年4月25日午後9時35分 インド国アッサム州マニプール県クンピー東
北側基地に於(お)いて戦死」と、なります。
まず私は、この戸籍の記述を見たとき、
日本軍がインドにまで侵攻していたとは知らなかったので、ちょっと不思議な感じがし
ました。それで世界地図を見たのですが、インドのマニプール県というのは、おそらく現
在のマニプル州で、その州都は「インパール」です。
これにより、私の叔父が「インパール作戦」で戦死したことを確認することができまし
た。
戸籍の記述を見て、つぎに私が疑問に感じたのは、
私の叔父が、午後9時35分という夜中に、「基地」において戦死していることです。
もしかしたら日本軍の基地が、「夜襲」にでも遭遇(そうぐう)したのかも知れないと
思いました。が、これについては、私の父が子供のころに聞いた話によると、怪我をして
動けなくなり、手当てを受けたのですが、その甲斐(かい)がなく死亡したそうです。
私は思うのですが、
「インパール作戦」というのは、日本軍の補給路が断たれて多くの餓死者を出した、も
のすごく悲惨な戦いでした。
従って当然ながら、医薬品なども極度に不足していたはずで、おそらく私の叔父は、満
足な治療を受けることが出来なかったのではないかと推測されます。
* * * * *
ちなみに、
太平洋戦争が終結してから、2018年の時点で、73年もの年月が経とうとしていま
す。
私は、このたびの弔慰金の請求に関して、戸籍を取り寄せるなどの協力をしたのですが、
「太平洋戦争」という73年も前の出来事が、いま現在の私に、戸籍を取り寄せるという
「具体的な行動」を起こさせたのです。
そのことに、ものすごく不思議な因縁を感じるとともに、日本の戦後処理はいま現在で
も続いており、やはり戦争を行うというのは、とてもとても大変なことなのだと認識を新
たにさせられ、それを決して忘れてはいけないと心から強く思った次第です。
19章 北海道胆振東部地震
2018年9月6日。札幌に住んでいる私は、「北海道胆振(いぶり)東部地震」に遭
(あ)いまたが、その時のことは今でも忘れられないでいます。
9月6日の午前3時ごろ・・・
私は、そろそろ寝ようと思いながらウイスキーの水割りを飲み、インターネットで動画
を見ていました。そうすると、まず微(かす)かな揺(ゆ)れを感じ始めたので、「地震
かな?」と思いました。その揺れは、すぐに収まるだろうと思ったのですが、しかし、な
かなか揺れが収まらないどころか、その逆に、だんだん揺れが大きくなって行くように感
じたのです。
「これは大きいのが来る!」と、そのとき私は咄嗟(とっさ)に思い、急いで父の寝室
に行きました。私は、父と二人暮らしをしていますが、父の寝室には大きなタンスがあり
ます。
そのタンスには、地震による転倒防止の「つっかえ棒」を、タンスの上部と天井との間
に設置しており、さらにはタンスの上部と、背後の壁とを、転倒防止の鎖(くさり)で繋
(つな)いでいるのですが、しかし、もしもタンスが倒れたら、父が下敷きになるのは確
実でした。だからタンスが倒れないように私の手で押さえるために、父の寝室へ急いで行っ
たのです。
ちなみに、
2011年に起こった「東日本大震災」のとき、父の寝室のタンスには鎖(くさり)を
付けていたのですが、地震によって鎖が切れていました。幸いにもタンスは倒れなかった
のですが、その後、念のために、鎖のほかに転倒防止の「つっかえ棒」も設置することに
したのです。とにかく私の家では、大きな地震が起こった場合、父の寝室のタンスがいち
ばん心配でした。
さて、
父の寝室に急いで行き、私がタンスを押さえたのと同時に、「大きな揺れ」がやってき
ました。その大きな揺れは、30秒ぐらい続いたように感じましたが、その間、私は必死
になってタンスを押さえていました。
私が住んでいる地域では、「震度5強」の揺れを感じたのですが、幸いにもタンスは倒
れずに済みました。
大きな揺れが収まったので、私は父の寝室から、自分の部屋に戻ってみました。
そうしたらテレビが倒れており、立て直してスイッチを点(つ)けてみたら、画面に
「ひび」が入っていました。壊れたテレビのコンセントを、いつまでも入れっぱなしにし
て置けば、火事になる危険性があると思い、テレビのコンセントを抜きました。
そしてリビングルームに行き、
その部屋(へや)にあるテレビ(こちらは倒れずに大丈夫でした)を、父と二人で見て
いました。ところが、しばらくすると「停電」になってしまったのです。夜中だったので、
急に真っ暗になり、何も見えなくなりました。手探りで懐中電灯を取ろうとしましたが、
しかし、私の方向感覚が90度ほど狂っていたので、関係のない場所を手探りしてしまい、
そのことに気がつくまで、なかなか懐中(かいちゅう)電灯を取ることが出来ませんでし
た。
このように、「急に真っ暗になって方向感覚が狂(くる)う」ことなど、私には初めて
の体験でした。
懐中電灯を点(つ)けて、家の中を「見る」ことが出来るようになったので、トランジ
スターラジオを取り出してスイッチを入れました。
ちなみに私は、以前に登山をしていたので、山で天気図を書くために小型のトランジス
ターラジオを持っていたのです。最近では、もっぱら野球中継を聞くのに使っていました
が、停電でテレビが見れない状況になると、スマホを持っていない私にとっては、ラジオ
が「唯一の情報源」でした。
ところで停電になって最初のうちは、「停電など30分ぐらいで復旧するだろう」と軽
い気持ちでいました。ところが、このたびの停電は、なかなか復旧しなかったのです。
懐中電灯の明りしかなく、「シーン」と静まり反っている家の中では、ラジオの声と、
そこから流れる情報だけが、唯一不安を和らげてくれました。
これと言って何もすることがなく、また、何かできる訳でもないので、そのまま夜が明
けるまで、ラジオの声に耳を傾けて情報を収集していました・・・。
夜が明けると、懐中電灯が無くても、自由に家の中を動き回ることができました。
それで、家の中を一通り見渡してみると、色々なものが倒れたり、落ちたりしていまし
た。それらを片付けているとき、たまたまトイレに行きたくなったのですが、用を足した
後にトイレの水を流しても、タンクに給水されなかったので、「水道の水が出ない」こと
に気がつきました。
確認のため、台所(だいどころ)にある水道の蛇口を開いてみましたが、やはり「断水」
していました。
私の家は、マンションの一室なのですが、おそらく停電によって、給水ポンプが動かな
くなったのだろうと思います。「停電になると水が出なくなる!」。これも初めての経験
であり、これまで全く知らなかったことでした。
ちなみにラジオは、常に点けっぱなしにしていたので、停電が北海道の全域で起こって
いて、復旧の目途(めど)が立っていないことは、すでにラジオ放送で分かっていました。
従って、断水の復旧も、いつになるのか全く分からない状況でした。
さあ、困りました!
トイレに流す水は、いつも浴槽の水を、次の入浴の直前まで捨てないで取ってあるので
問題ありませんでしたが、しかし「飲み水」は、ペットボトルに1リットルと、電気ポッ
トの中に2リットルぐらいしかありませんでした。ゆえに俄然(がぜん)、「水」がとて
も貴重になったのです。
断水のため、食器などの「洗い物」が一切できなくなりました。
だから、この日(9月6日)の朝食は、ただの水と、買い置きしていたクッキーや、そ
の他の菓子で済ませました。というのは、茶碗や、お椀や、箸などの「洗い物」を、出し
たくなかったからです。
ところで、炊飯(すいはん)ジャーの中には、前日の夜に炊(た)いたご飯が残ってお
り、冷蔵庫の中には、前日の夕食で作った味噌汁の残りが入っていました。ところが、停
電で冷蔵庫が止まってしまったので、冷蔵庫の中の物がダメになるのは、もはや時間の問
題でした。
それで昼食は、少しぐらいの洗い物が出るのを覚悟して、ご飯と味噌汁がダメになる前
に、食べてしまうことにしました。それでも、「洗い物」を少しでも減らしたかったので、
ご飯は、茶碗を使わずにサランラップで「おにぎり」のように包(くる)んで食べました。
そして箸は、(非常時なので)買い置きしていた「割り箸」を使い捨てにしました。
幸いにも、ガスコンロは使うことができたので、冷蔵庫に入れておいた味噌汁を温める
ことができました。しかし、「紙コップ」が2個しか無かったので、これは後々のために
取っておきたいと思い、私はナベごと味噌汁を飲みました。
ナベの中の味噌汁を残しておくと、後で腐(くさ)ってしまうと思い、味噌汁はすべて
飲み干しました。そして濡れていたナベは、ティッシュペーパーで拭いて、乾かして(干
からびさせて)おきました。干からびたナベは、後で洗うのが面倒になるけれど、腐らし
てしまうよりは良いと考えました。
昼食を食べ終わって、しばらくした頃。
窓から外を眺めていると、一階の管理棟のところに、人の行列ができているのが見えま
した。さらによく見ると、行列に並んでいる人たちは、ペットボトルやバケツなどを持っ
ています。どうやら、管理棟の外側に設置してある水道の蛇口から、水が出ているみたい
です。
さっそく私も、大き目のナベを持って、水を貰(もら)いに行きました。水は、かなり
勢(いきお)いよく出ており、並んで待っている時間は、そんなにかかりませんでした。
これで、食器を洗うほどの水は無いですが、「飲み水」に関しては問題が無くなり、だ
いぶ気持ちが楽になりました。
これは、後から知ったことですが・・・
16~17年前に行なった、受水槽室(管理棟の地下にある、各家庭に届ける水を溜め
ておく水槽)の改修工事のさいに、このたびのような非常時にも水が使えるようにと、地
下室から壁をくり貫(ぬ)いて外部に水道管を通し、蛇口(じゃぐち)を取り付けたのだ
といいます。
マンション管理組合の、先人の方々の知恵には、敬服するばかりです。
いちおう「飲み水」が確保できた後、地震が発生してから、およそ12時間後の午後3
時ごろ。近所のスーパーマーケットに「買い物」に行ってみました。
まだ停電は復旧していなかったので、屋外に出て道路を歩いて行くと、やはり交差点の
信号が消えていました。しかし、そんな状況でも「車が走っていた」ので、信号が消えて
いると、どのタイミングで道路を渡ればよいのか分からず、けっこう難儀しました。
たとえば車同士では、衝突をしないように、ずいぶん慎重(しんちょう)な運転をして
いましたが、しかし「歩行者」に対しては、ずいぶん横柄(おうへい)な感じの運転をし
ているように見えました。
だから道路を渡るときは、細心の注意をして、駆け足で渡るしかありません。ゆっくり
歩いて道路を渡っていたら、車に轢(ひ)かれかねないような、そんな危険を感じざるを
得ない状況でした。
近所のスーパーマーケットに到着してみると、出入り口のところに、人の行列ができて
いました。何やら品物が売っているみたいなので、その行列の後ろに並んでみることにし
ました。
行列の前の方に来ると、店の様子がすこし見えましたが、すべての照明が消えているの
で、店の中の方は「真っ暗」でした。そのため、日の光が入る「出入り口のスペース」に、
「買い物かご」に入れられた商品が、露天商のように並べられていました。
「菓子パン」や「カップめん」などの商品には、バーコードでは値段が分からないので、
1つ1つマジックペンで値段が書かれていました。
そして「会計」は、店員さんが「電卓」でやっていました。「おつり」は、100円玉
や50円玉、10円玉などが、すこし大き目の籠(かご)に、たくさん入っていて、そこ
から取り出して払っていました。
そう言えば、商品の値段は10円が最少単位で、5円玉や1円玉などは、「おつり」に
無かったような気がします。なんとなく「昔の市場」のような、そんな買い物の仕方でし
た。
ちなみに私が買ったのは、切り餅、菓子パン、カップめん、割り箸、マッチ、単3電池
です。
「切り餅」は、オーブントースターが停電のために使えないので、「焼く」ことはでき
ませんが、ガスコンロが使えたので、ナベで「お湯」を沸かし、その中に餅を入れて少し
煮ると、すぐに柔らかくなって食べることができます。以前に大学山岳部に所属していた
ときは、そのようにして山で餅を食べていました。
じつは「紙コップ」も欲しかったのですが、残念ながら売っていませんでした。
少しは「買い物」ができたので家に帰り、リビングルームにあるソファーに寝そべって
ラジオを聞いていると、「停電」は北海道の全域で起こっていて復旧には時間がかかり、
ごく一部の地域でのみ、本日(9月6日)中に復旧できる見込みがあるようなことを、報
道していました。
「今日中に、わが家の停電が復旧するのは無理かな」と思いながら、その後しばらくラ
ジオを聞いていると、とつぜん目の前が「真っ白」になり、いったい何が起こったのか、
数十秒ほどの間、まったく理解できませんでした。
つまり、何が起こったのかと言うと、私はソファーに寝そべって上を向いていたので、
リビングルームの蛍光灯が視野の中に入っていたのですが、スイッチを入れたまま停電に
なったので、その状態で蛍光灯が消えていました。
ところが、思いもよらず停電が復旧して、いきなり蛍光灯が点いたため、光った蛍光管
を直接に見てしまったわけです。
ものすごく幸運なことに、私が住んでいる地域では、9月6日の午後5時ごろに、停電
が復旧しました。(後でテレビの報道で知ったのですが、まだこの時点では、北海道全体
の10%の戸数しか、停電が復旧していなかったのです。)
水道の蛇口を開いてみましたが、水道も復旧しています。これで、「洗い物」でも何で
もできます!
なんとか生活の心配が無くなり、テレビも見ることが出来るようになって、不自由で窮
屈(きゅうくつ)な環境から一挙に解放されたような、そのような「解放感」と「嬉しさ」
を、思わず感じてしまいました。
以上のように北海道胆振東部地震は、私が体験した地震の中で、いちばん忘れられない
ものとなったのです。
20章 道路の信号が消える恐怖
前の19章ですこし触れたましたように、胆振東部地震によって大規模な停電が起こっ
ていたとき、私は近所のスーパーマーケットに買い物に行ったのですが、交差点の信号が
消えていたので、道路を渡るのがとても危険でした。
歩行者が横断しようとしているのに、止まってくれる車など皆無で、道路を渡るときは
細心の注意をして、駆け足で渡るしかありませんでした。ゆっくり歩いて道路を渡ってい
たら、車に轢(ひ)かれかねないような、そんな危険を感じざるを得ない酷(ひど)い状
況でした。
それで、「すごく危(あぶ)ないな!」と感じていたのですが、しかし「交通事故が起
こった」というニュースも無かったので、信号が消えても、けっこう大丈夫なのかなと思っ
ていました。
ところが!
2018年10月3日に公表された北海道警察のまとめによると、胆振東部地震によっ
て大規模停電が発生し、北海道内のほぼ全域で信号機が消えた9月6日から、ほぼ全面復
旧した9月9日にかけて、交差点で発生した交通事故が合計で128件にも上り、平時の
ときよりも多かったことが分かりました。このうち人身事故は9件で、重軽傷者が13人
に上っていました。
北海道警察は、
「地震発生直後、交差点では減速するドライバーが多く、死亡事故などの大事故は起こ
らなかった」
「ただ、物損事故を含む交差点での事故は、通常よりも3割ほど多く、信号が消えて危
険な状態だった」としています。
そして、たとえば9月6日の午前11時ごろ。
札幌の実家に帰省中だった東京都の女性は、携帯電話の充電器を購入しようと自宅を出
て歩いていたときに、複数の交通事故を目撃したといいます。
この女性は、「国道は車で渋滞(じゅうたい)し、歩行者が交差点を渡ろうとしても、
クラクションを鳴らして突っ込んでくる車もあった。いつ大事故が起きてもおかしくなかっ
た」と、証言しています。
また、札幌市豊平区の国道36号線の交差点では、高齢者の男性が乗用車にはねられて
「ぐったり」と横たわり、救急車で搬送されたそうです。
さらに、その1キロメートル先の交差点でも、乗用車が出合い頭に衝突し、一方の車が
歩道に乗り上げて横転していたといいます。
* * * * *
以上、ここまで述べてきましたが、
歩行者が交差点を渡ろうとしいるのに、クラクションを鳴らして突っ込んでくる車があっ
たなんて、とても正気の沙汰(さた)とは思えません!
「すべての信号が消える」という、ものすごく異常な事態なのに、そんな状況の中でも、
平然と車を乗り回すような人間の「本性」を見たような気がします
すべての信号が消えるという異常事態によって、狂気に駆られた車への恐怖は、今でも
忘れることができません。
つづく
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