忘れられないこと 6
                               2025年4月13日 寺岡克哉


15章 恩師
 2017年1月30日。私の恩師である、丹生潔(にうきよし)先生が亡くなりました。
享年91歳(満年齢)でした。

 丹生先生は、名古屋大学の名誉教授で、素粒子物理学の実験研究を行ってきた方ですが、
私にとって、ものすごく憧(あこが)れの人でした。
 かつて私が、弘前大学の修士課程から、名古屋大学の博士課程に進学したのも、じつは
丹生先生に憧れていたからでした。
 私がそこまで憧れたのは、丹生先生はノーベル賞を超えた「超ノーベル賞級」の科学者
だと、心の底から思っていたからです。

 どうして私が、そのように思っていたかというと、
 1974年に、サミュエル・ティンと、バートン・リヒターという2人の科学者が、
「チャームクォーク(注1)を含む素粒子」を発見して、ノーベル賞を受賞しました。
が、しかし丹生先生は、それより3年も早い1971年に、チャームクォークを含む素
粒子を、すでに発見していたからです(注2)。

----------------------------------------
注1:チャームクォーク
 陽子や中性子などの素粒子は、さらに小さな「クォーク」という粒子から出来ています
が、このクォークには、アップクォーク、ダウンクォーク、ストレンジクォーク、チャー
ムクォーク、ビューティークォーク、トップクォークの、6種類があります。
 1970年代の初頭では、アップ、ダウン、ストレンジの3種類のクォークしか知られ
ておらず、第4のクォークである「チャーム」の発見は、素粒子物理学の世界において、
ものすごく画期的な出来事だったのです。

注2:
 丹生先生たちの研究グループは、チャームクォークを含む素粒子の発見について、19
71年の国際学会で発表しています。
 しかしながら、人工的な「加速器」ではなく、自然の「宇宙線」による実験であり、ま
た、見つかった事例も1例しか無かったため、当時の研究者たちを納得させるまでには至
りませんでした。
 近年では、「丹生先生がチャームクォークの発見者である」という認識が、世界的に定
着しつつあります。
----------------------------------------

 つまり、丹生先生よりも3年遅れた研究が、ノーベル賞を受賞したのです。
 だから私は、丹生先生が「超ノーベル賞級」の科学者であると、心の底から思っていた
わけで、それは現在でも変わらずに、私はそのように思っています。

 ちなみに、定年を迎(むか)えて教授職を後輩に譲(ゆず)った後の丹生先生は、私が
名古屋大学の研究室を去るころには、大学院生と同じ部屋で机を並べていました。それが
実は、私と同じ部屋であり、私の左隣が丹生先生の机だったのです。
 丹生先生は、とても人当たりの良い方(かた)ですが、「研究に対する真摯(しんし)
さと真剣さ」を、強いオーラのごとく発する人でした。

 例えばある時、研究室に入りたての学部の4年生が、「新しい理論を考えてみました」
と研究室で発表しました。すると発表後に丹生先生は、新人の4年生の所に近寄って行き、
「ちょっと、その考え方がよく理解できなかったのですが、もう少し詳しく教えてくれま
せんか」と、丁寧な言葉で質問していたのです。超ノーベル賞級の科学者が、学部の4年
生に対してです!
 その姿を見た私は、丹生先生の研究に対する真摯な姿勢に、完全にシビレてしまい、崇
拝(すうはい)の念すら起こっていました。
(ちなみに、その新人だった4年生は、私よりもずっと優秀な人で、現在では国立大学の
准教授になっています。)

 またある時、私が担当している実験に関して、丹生先生が質問してきたのですが、私が
よく理解していない部分を曖昧(あいまい)に受け答えしていると、ものすごく厳しい表
情になり、どんどんと情(なさ)け容赦(ようしゃ)なく、その部分を突っ込んでくるの
です。
 丹生先生は、研究に対する曖昧で中途半端な態度を、絶対に許さない人でした。それで
私は、丹生先生を前にすると、ついつい緊張してしまうというか、いつも気が引き締まっ
ていました。

 以上のように、私にとって丹生先生は、
 ものすごく「憧(あこが)れ」の人であり、恩師であり、また「緊張」の人でもありま
した。
 そのような方と、一時(いっとき)でも机を並べることができて、その背中を見つづけ
ることが出来たのは、私の人生においても、他に例がないほどすごく光栄なことであり、
今でも忘れられないことなのです。


16章 雪崩に巻き込まれたときは
 2017年2月25日。北海道・倶知安(くっちゃん)町のニセコアンヌプリ岳で、ス
キー場のコースの外でスノーボードをしていた2人が雪崩(なだれ)に巻き込まれ、この
うち外国人の男性が死亡してしまいました・・・ 
 雪崩が起こった現場では、男性2人が雪に埋まり、一緒にいた仲間などに救出されたと
いいます。が、しかし、ニュージーランド国籍の35歳の男性が、搬送先の病院で死亡が
確認されたのです。
 また、雪に埋まったもう1人の、東京に住む日本人の35歳の男性は、胸に軽いけがを
しました。
 警察によりますと、雪崩の範囲は幅およそ200メートル、長さおよそ350メートル
に及んだということです。

              * * * * *

 ところで私は、このニュースを見たとき、ある忘れられない話を思い出しました。
 それは、私がかつて大学の山岳部に所属していた時に先輩から教えられた、「雪崩に遭
遇(そうぐう)したら、どのような対処をとるか」という話です。

 その話というのは、まず山の上方で「雪煙(ゆきけむり)」が確認され、雪崩が迫(せ
ま)っていることを察知したら・・・ 

 いちばん最初にやらなければならないのは、スキーを履(は)いていた場合、スキーを
外(はず)すことです。なぜなら、スキーを履いたまま雪崩に巻き込まれて、雪に埋まっ
てしまったら、足に付いているスキーが邪魔をして、雪の中で身動きがとれなくなるから
です。

 そしてスキーを外したら、その次に、リュックサックなどの「荷物」を下ろします。こ
れも、荷物を背負ったままで雪に埋もれたら、身動きがとれなくなるからです。

 それでもまだ、時間的に余裕があったら、雪崩が流れるのと直角の方向の、「出来るだ
け高い場所」に走って逃げます。

 そして、いざ、雪崩に巻き込まれる瞬間が来たら・・・その時は、鼻と口を両手でしっ
かりと覆(おお)います。これは、鼻や口に雪が詰まって、窒息することを防ぐためです。
 ちなみに、ヨーロッパおよび北アメリカの統計では、雪崩埋没時の死因は「窒息」が全
体の75~94.6%を占めるそうです。従って、雪崩に巻き込まれる直前に、鼻と口を
両手でしっかりと覆うことは、ものすごく大切です。

 そしてついに、雪の中に埋まってしまったら・・・鼻と口を覆っていた両手を、徐々に
外側に押し広げて、鼻と口の周りに空間をつくります。そしてさらに、その空間をだんだ
ん広げて「空気」を確保します。

 雪の中で空気が確保できたら、その次に、口から「唾(つば)」を垂(た)らします。
なぜなら雪の中は「真っ暗」なので、どちらが上で、どちらが下か、分からなくなるから
です。そのため、唾を垂らしたときの顔の伝わり具合から上方を判断し、上にむかって雪
をかき分けていくのです。
 ちなみに、せっかく雪の中で空気が確保できたのに、下の方に掘り進んだため、死んで
しまった人もいるそうです。

              * * * * *

 以上が、私が昔に教えられた、「雪崩に遭遇したときの対処法」です。

 最初、この話を聞かされたとき、「雪の中に埋まってしまった後」でさえも対処法があ
ることに、ものすごく驚きました。
 そしてこれは、日常の生活において役に立たないものの、「人間はどんな状況に陥(お
ちい)っても、最後の最後まで諦(あきら)めてはならない」という人生の教訓として、
今でも忘れられない話となっているのです。


17章 焚き火の名人
 ここでは、いま思い出しても「ニヤッ」と笑ってしまうような、ちょっと面白い思い出
話を紹介しましょう。

 それは、私が大学1年生のときでしたから1982年のことです。
 大学の山岳部に所属していた私は、その年の夏に、沢登り(さわのぼり)をしていまし
た。( 「沢登り」というのは、尾根(おね)と尾根の間にある谷を、小さな川(つまり
沢)に沿って登って行く登山方法のことです。)

 ちなみに、当時の我が山岳部では、沢登りで野営をするときはコンロを使わずに、すべ
て「焚(た)き火」で炊事(すいじ)をすることになっていました。そのため、「焚き火」
の技術が必要不可欠で、1年生は、それを必ず習得しなければなりません。

 それで私は、パーティーリーダーのS先輩から、焚き火のやり方を教わっていたのです
が、その日は少し小雨が降っていて、拾(ひろ)ってきた焚き木が濡れており、まず最初
に私が火をつけようとしても、なかなか火をつけることが出来ませんでした。

 そこでS先輩は、雨が当たっていない岩の蔭(かげ)などに積もっていた、まだ濡れて
いない枯れ葉をすこし持ってきて、まずそれに火をつけました。それから、2ミリぐらい
の太さの、ほんとうに細くて燃えやすい小枝から火に入れ、その次に、割り箸(ばし)ぐ
らいの太さの枝、そして小指ぐらいの太さ、親指ぐらいの太さへと、火に入れて燃やす枝
を、だんだん太くすることによって、火力を大きくして行きました。
 そしてついに、腕(うで)ぐらいの太さの焚き木に、見事に火をつけたのです。

(焚き木が少しぐらい濡れていても、濡れているのは木の表面だけで、水が奥まで浸(し)
み込んでいる訳ではなく、十分な火力があれば焚き火はできるのです。)

 私は、その手際(てぎわ)のすばらしさを見て、「S先輩はすごいですね!」と思わず
言い、感動してしまいました。
 そうしたらS先輩は、「俺は(さらに上の学年の)T先輩から、焚き火を教えてらった
が、T先輩は俺よりも焚き火が上手い。しかし、そのT先輩が言っていたが、(T先輩と
同学年の)N先輩には、T先輩も焚き火では敵(かな)わないそうだ」と、言ったのです。

 その話を聞いた私は、「つまりN先輩が、我が山岳部で一番の、焚き火の名人なのだ!」
という尊敬の念が起こり、「いつかN先輩の焚き火の技術を、実際にこの目で見てみたい」
と、ずっと思い続けることになったのでした。

              * * * * *

 それから私は、焚き火がとても面白くなり、焚き火の技術を磨(みが)いて行きました。

 そして2年後・・・私が大学3年生のときに、名人であるN先輩の焚き火を見る機会が、
やっと訪れたのです。(N先輩はOBだったので、一緒に沢登りをする機会が、なかなかあ
りませんでした。)

 さて、いよいよ火をつけるという時、
 まずN先輩は、1リットルのポリタンクに入った「灯油」を、リュックサックから取り
出して、焚き木の上から注(そそ)ぎました。そうしてから、平然とした顔で火をつけた
のです。

 それを見ていた私は、あっけに取られて、「N先輩は焚き火の名人だと聞いていたので
すが、そんな(邪道な)火のつけ方をするのですか!」と、思わず聞いてしまいました。

 そうするとN先輩は、
 「何だかんだ言っても、これ(灯油)に勝(まさ)るものはない」
 「色々なことをやっても、結局、この方法が一番なんだ」
 と笑いながら言い、さらに灯油を火に注いで、メラメラと炎(ほのお)を大きくしまし
た。

 そのN先輩の言葉を聞いた私は、焚き火に対する私の思い入れというか、焚き火に対す
る浪漫(ろまん)が崩壊したような気持になり、ちょっと哀(かな)しくなってしまいま
した。
 が、しかしながら、「名人が行きついた境地とは、合理性だったのだ!」というような、
ある種の「悟り」に近いものを、教えられたような気もしたのです。

 それから40年以上も経った現在ですが、その当時のことを、いま思い出しても、「焚
き火とは、このようにやるべきものだ!」と勝手に決めつけ、固定観念に囚(とら)われ
ていた自分が、とても滑稽(こっけい)に思えて、ついつい「ニヤッ」と苦笑(にがわら)
いをしてしまうのでした。


 つづく



      目次へ        トップページへ