忘れられないこと 5
                                2025年4月6日 寺岡克哉


12章 「時間」という圧倒的な強制力
 2017年2月18日。私の心を突き刺すような、とても痛々しいニュースを見てしま
いました。30歳代の姉妹2人が、寝たきりの母親の世話をせず、餓死させてしまったの
です・・・ 

 当時の報道によると、警視庁の福生(ふっさ)署は2月18日。東京都の羽村市に住ん
でいる会社員の女性(35歳)と、その妹である派遣社員の女性(32歳)を、「保護責
任者遺棄致死(ほごせきにんしゃ いきちし)」の容疑で逮捕しました。

 2人の姉妹は2014年の7月に、自宅マンションで同居していた当時64歳の母親が、
ほぼ寝たきりの状態で自力で生活できないのを知りながら、食事を与えたり病院での治療
を受けさせたりせず、栄養が取れない状態にして衰弱させ、死亡させたという疑いが持た
れています。
 母親は当時、自宅から病院に救急搬送されたのですが、まもなく死亡してしまいました。
死因は「餓死」であり、警視庁の福生署が、その経緯を調べていました。

 逮捕された2人の姉妹のうち、姉の方は「食事の面倒をきちんとみてあげられなかった」
と話して容疑をおおむね認めていますが、妹の方は「今は気が動転しているので、気持ち
の整理をしてから話す」として、容疑の認否を保留していました。

              * * * * *

 ところで世の中には、ほかにも色々と悲惨なニュースがたくさんありますが、なぜ、こ
のニュースが、とくに私の心に突き刺さったかというと・・・ 
 じつは私の母が、末期の癌(がん)で死んだとき、日に日に痩(や)せて行くところを、
私は目(ま)の当たりにしていたからです。

 2015年の8月・・・それまで、手術や放射線治療さらには色々な抗癌剤を使用して
きましたが、いよいよ母の治療手段が尽きてしまい、手の打ちようが無くなってしまいま
した。
 それで病院を退院し、最後の時が訪(おとず)れるまで、自宅で療養することになった
のです。

 病院を退院したとき、母の体重は41.8キログラムありました。ところが、「緩和ケ
ア病棟(ホスピス)」に入院する直前の2016年2月には、31.9キログラムへと、
10キロも体重が減ってしまったのです。

 その、2015年8月から2016年2月までの6ヵ月の間・・・私は目の前で、日に
日に痩(や)せていく母を、看(み)続けていたわけです。
 最後の方になると、母の食欲がほとんど無くなってしまい、しゃぶしゃぶ用の薄い肉を
1時間半ぐらい煮込んで、どんなに柔らかく食べやすく調理をしても、食べてもらえるの
は、せいぜい一口か二口ほどになってしまいました。

 どんなに、どんなに私が努力をしても、一日また一日と「時間」が経つにつれて、母の
体重が情(なさけ)け容赦(ようしゃ)なく減っていきます。「時間」でも止めない限り、
体重の減少を止めることは絶対に不可能な状況でした。

 このとき私は、「時間」という圧倒的な強制力。まるで暴走する大型ダンプカーのよう
に、ものすごく巨大な力で突き進んでいて、誰にも絶対に止めることが不可能・・・その
ような、とてつもなく大きな力に圧倒され、心の底から打ちのめされてしまったのです。

 「時間という巨大な力」を、それほどまでに強く感じたのは、私の人生においても、こ
のときが初めてでした。それで、この体験は今でも忘れられないこととなりました。

 2016年の2月。母の体重が10キロも減ってしまい、もう私には、どうすることも
出来なくなりました。それで私は、主治医の先生に、母の栄養管理に自信が無くなったこ
とを告(つ)げたのです。そして母は、以前から予約してあった「緩和ケア病棟」に入院
し、点滴による栄養管理を受けることになりました。

 その後、1ヶ月ほどして、母は永遠の眠りについた次第です・・・ 

              * * * * *

 ところで、この章の最初で取り上げた事件についてですが、
 自分の目の前で、母親が日に日に痩(や)せ衰(おとろ)えていくのを見ていれば、居
ても立ってもいられない気持ちに駆り立てられて、病院に連れていくと私は思うのですが、
この姉妹の場合は、そのような気持ちが起こらなかったのでしょうか?

 どうも私には、とうてい理解できません。


13章 障害者施設での刺殺事件
 2016年7月26日の午前2時45分ごろ。
 神奈川県・相模原(さがみはら)市緑区の千木良(ちぎら)にある、知的障害者施設の
「津久井やまゆり園」に、刃物を持った男が侵入して入所者の人たちを次々と刺し、19
人が死亡、26人が重軽傷を負うという、とても凄惨(せいさん)な事件が起こりました。
 神奈川県警は、午前3時すぎに津久井署に出頭してきた、現場近くに住んでいる「やま
ゆり園」の元職員だった26歳の男を、殺人未遂と建造物侵入の疑いで逮捕しました。

 ちなみに、
 1948年に銀行員の人たち「12人」が毒殺された「帝銀事件」。
 1995年の「13人」が死亡した「地下鉄サリン事件」。
 2001年に、小学校の児童「8人」が刺殺された「付属池田小事件」。
 2008年に「7人」が死亡した「秋葉原通り魔事件」。
 同2008年に「16人」が死亡した「大阪個室ビデオ店放火事件」。
 これら過去に起こった凄惨(せいさん)な事件と比べても・・・このたび「19人」も
の人々が刺殺されたのは、死者数において「戦後最悪の殺人事件」であったといえます。

              * * * * *

 ところで!
 この事件の犯人は、2016年の2月15日に、衆議院議長の大島理森(おおしまただ
もり)さんに宛(あ)てた手紙を、議長公邸の職員に手渡していました。その手紙の詳報
は、2016年7月26日付の毎日新聞によると、以下のようになっています。

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 衆議院議長 大島理森様
 この手紙を手にとって頂き本当にありがとうございます。
 私は障害者総勢470名を抹殺することができます。
 常軌を逸(いっ)する発言であることは重々理解しております。しかし、保護者の疲れ
きった表情、施設で働いている職員の生気の欠けた瞳(ひとみ)、日本国と世界の為(た
め)と思い、居ても立っても居られずに本日行動に移した次第であります。
 理由は世界経済の活性化、本格的な第三次世界大戦を未然に防ぐことができるかもしれ
ないと考えたからです。
 私の目標は重複障害者の方が家庭内での生活、及び社会的活動が極めて困難な場合、保
護者の同意を得て安楽死できる世界です。
 重複障害者に対する命のあり方は未(いま)だに答えが見つかっていない所だと考えま
した。障害者は不幸を作ることしかできません。
 今こそ革命を行い、全人類の為に必要不可欠である辛(つら)い決断をする時だと考え
ます。日本国が大きな第一歩を踏み出すのです。
 世界を担(にな)う大島理森様のお力で世界をより良い方向に進めて頂けないでしょう
か。是非、安倍晋三様のお耳に伝えて頂ければと思います。
 私が人類の為にできることを真剣に考えた答えでございます。
 衆議院議長大島理森様、どうか愛する日本国、全人類の為にお力添(ぞ)え頂けないで
しょうか。何卒(なにとぞ)よろしくお願い致します。
文責 植松 聖(うえまつさとし)

 作戦内容
 職員の少ない夜勤に決行致します。
 重複障害者が多く在籍している2つの園を標的とします。
 見守り職員は結束バンドで見動き、外部との連絡をとれなくします。
 職員は絶体に傷つけず、速やかに作戦を実行します。
 2つの園260名を抹殺した後は自首します。

 作戦を実行するに私からはいくつかのご要望がございます。
 逮捕後の監禁は最長で2年までとし、その後は自由な人生を送らせて下さい。
 心神喪失による無罪。
 新しい名前(伊黒崇)本籍、運転免許証等の生活に必要な書類。
 美容整形による一般社会への擬態。
 金銭的支援5億円。
 これらを確約して頂ければと考えております。
 ご決断頂ければ、いつでも作戦を実行致します。
 日本国と世界平和の為に、何卒よろしくお願い致します。
 想像を絶する激務の中大変恐縮ではございますが、安倍晋三様にご相談頂けることを切
に願っております。
                植松 聖 (住所、電話番号=略) かながわ共同会職員
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 上の文面を見てもらえれば分かると思いますが・・・おそらく犯人の男は、このたびの
犯行にたいして、
 「取り返しのつかない、ものすごく残虐(ざんぎゃく)で非道なことをしてしまった」
と、いうような罪悪感などは全く持っておらず、
 「人類のために正義を実行した!」と、誇(ほこ)らしく思っているのではないかと推
察されます。

 たとえば、他宗教や他民族の人々を虐殺(ぎゃくさつ)するような人間は、これと似た
ような心情なのかも知れません。
 そのように考えると、この事件によって「人間性の負の一面」を見てしまったように思
え、ぞっとして身の毛がよだち、とても忘れられないものとなりました。


14章 あるトルコ人との思い出
 私は以前、トルコ人と親睦(しんぼく)を深めることが必要になりました。
 というのは、以前に私が所属していた大学の研究室は、国際共同の実験で中心的な役割
をしていたため、実験参加者による「ミーティング」をやるとなると、イタリアやドイツ、
ベルギー、韓国などの国々から、研究者たちが集まってくるのが常(つね)だったからで
す。
 そのような環境の中、ある日に行われる予定のミーティングで、新メンバーとして実験
に参加した「トルコ人の研究者」が、来日することになったのでした。

 その当時、大学院生だった私や仲間たちは、ミーティングをやるとなると、懇親(こん
しん)会の準備をしなければならない立場にありました。

 そのような訳で、
 「トルコ人はイスラム教を信仰しているから、お酒を勧(すす)めたら悪いのではない
か?」とか、
 「ブタ肉は食べないのではないか?」
 「とつぜん、メッカの方に向かって礼拝をするのではないか?」
 などと、半分は冗談まじりでしたが、大学院生の仲間たちと、いろいろなウワサ話をし
ていました。
 つまり、私が最初に持っていた「トルコ人」にたいするイメージは、大体そんな感じだっ
たわけです。

              * * * * *

 さて、
 そのときに行なわれたミーティングで、トルコから来日したのは、けっこう年寄りの女
性の先生と、すこし若手の30代後半ぐらいの男性の研究者でした。
 ミーティングが無事に終了し、各国の偉い先生方がいるフォーマルな懇親会が終わった
あと、若手の研究者だけで居酒屋に行くことになりました(つまり二次会です)。

 ところが、そのときに入った居酒屋は、いろいろなメニューが1品ずつ1枚の貼(は)
り紙に書いてあり、そのメニューを書いた貼り紙が、壁中に貼られているような店だった
のです。
 そのような居酒屋に、(お酒は飲んでも大丈夫だと言ったので)トルコ人の男性研究者
を連れていったのですが、その他にドイツ人やベルギー人の若手研究者たちもいました。

 もちろん、日本語で書かれたメニューの貼り紙の意味など、彼らは全く分かりません。
 私は、いちいちメニューの貼り紙を指さして、その意味を英語で説明するのが面倒だっ
たし、そんなことをやっていたら、いつまで経っても料理が注文できないと思いました。
 そこで私は、外国人の若手研究者たちに向かって、「皆さんはゲームのつもりで、どれ
でも良いからメニューの貼り紙を、一人ずつ指し示してください。そうすれば私はそれを
注文します。どんな料理が来るのかは、出来てからのお楽しみとしましょう」と、提案し
ました。
 そうしたら、トルコ人の研究者は「アジの活(い)き造(づく)り」を指(ゆび)さし
たのです。
 料理が来ると、アジの活きはとても良く、まだ尾ひれがピクピクと動いていました。じ
つは私も、「アジの活き造り」を実際に見たのは、その時が初めてで、すこし「ギョッ」
としたほどです。
 これはさすがに、トルコ人にとって食べるのは抵抗があるかも知れないと思い、「この
料理は、このようにして食べるんですよ」と説明しながら、わさびと醤油を皿に取り、私
が先に一口食べて見せました。
 そして、「もしも食べたくなかったら、無理して食べなくても良いですよ」と、トルコ
人の研究者に言ってあげました。
 しかしながら私の意に反して、トルコ人の研究者は、けっこう平気な感じで「アジの活
き造り」を食べたのです。

 ところが・・・食べ終わってから、「生まれて初めて、生きたアニマルを食べた」と、
すこし声を震わせて言ったのでした。そのとき私は、「とても悪いことをした」と思いま
した。おそらくトルコ人の研究者は、場の雰囲気を壊さないようにと、かなり無理をした
に違いありません。

 ほかの外国人研究者たちが、何のメニューを指(ゆび)さしたのか、今では全く覚えて
いません。が、しかし、そのトルコ人研究者のことだけは、今でも忘れられないでいます。


 つづく



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