忘れられないこと 4
2025年3月30日 寺岡克哉
9章 キセノンが1100万テラベクレル!
2011年6月6日。原子力安全・保安院は、福島第1原発事故によって大気中に放出
された放射性物質の量を、37万テラベクレルから77万テラベクレルに上方修正しまし
た。
(テラは10の12乗で「兆」という意味。ベクレルは放射能の単位で、1秒間に1発の
放射線を出す、放射性物質の量が1ベクレル。)
ところが!
実際に放出されたのは、決して、そんな少ない量ではありませんでした。
じつは1100万テラベクレルもの「キセノン133」が、大気中に放出されていたの
です!
さっそく見て頂きたいのですが、下の表は、原子力安全・保安院の平成23年8月26
日付けニュースリリースに添付(てんぷ)されている、「別表1」に載っていた数値です。
ケタ数の大きさを実感してもらうために、指数表示でない数字(ゼロがたくさんある数値)
もあわせて書きました。
なお、このデータの元を、さらに辿(たど)ると、平成23年6月6日付け原子力安全・
保安院の、「東京電力株式会社福島第一原子力発電所の事故に係る1号機、2号機及び3
号機の炉心の状態に関する評価について(13ページ目)」という資料にまで遡(さかの
ぼ)ります。
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核種 2011年3月11~16日までに大気中へ放出した量(ベクレル)
キセノン133 1.1×1019 11000000000000000000
セシウム134 1.8×1016 18000000000000000
セシウム137 1.5×1016 15000000000000000
ストロンチウム89 2.0×1015 2000000000000000
ストロンチウム90 1.4×1014 140000000000000
バリウム140 3.2×1015 3200000000000000
テルル127m 1.1×1015 1100000000000000
テルル129m 3.3×1015 3300000000000000
テルル131m 9.7×1013 97000000000000
テルル132 7.6×1014 760000000000000
ルテニウム103 7.5×109 7500000000
ルテニウム106 2.1×109 2100000000
ジルコニウム95 1.7×1013 17000000000000
セリウム141 1.8×1013 18000000000000
セリウム144 1.1×1013 11000000000000
ネプツニウム239 7.6×1013 76000000000000
プルトニウム238 1.9×1010 19000000000
プルトニウム239 3.2×109 3200000000
プルトニウム240 3.2×109 3200000000
プルトニウム241 1.2×1012 1200000000000
イットリウム91 3.4×1012 3400000000000
プラセオジム143 4.1×1012 4100000000000
ネオジム147 1.6×1012 1600000000000
キュリウム242 1.0×1011 100000000000
ヨウ素131 1.6×1017 160000000000000000
ヨウ素132 4.7×1014 470000000000000
ヨウ素133 6.8×1014 680000000000000
ヨウ素135 6.3×1014 630000000000000
アンチモン127 6.4×1015 6400000000000000
アンチモン129 1.6×1014 160000000000000
モリブデン99 8.8×107 88000000
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私は最初、このデータを見たとき、「やはりプルトニウムも大気中に放出されていた!」
と強く思いました。なぜならプルトニウムの放出については、マスコミで全く報道されて
いなかったので、この資料に辿りついてはじめて、プルトニウムの放出が公的に認められ
ていたことを知ったからです。
ところが、しばらくして(恥ずかしながら、資料を手に入れて何日も経ってから)、数
値の指数部をよく見ると、キセノン133のデータが「1019」 になっていることに気
がついたのです。
1. 1×1019といえば、1100万テラベクレル(テラは1012 で「兆」という
意味)にもなります。
福島第1原発事故による放射性物質の放出量としては、今まで見たことも無かったよう
な、とても大きな数値だったので、私はものすごく驚きました。
* * * * *
ところで、こんなに莫大(ばくだい)な量の「キセノン133」が放出されたのに、
「人体への危険」は無かったのでしょうか?
この疑問にたいして、たとえば日本保険物理学会の、暮らしの放射線Q&A活動委員会
によると、キセノン133や、クリプトン85は、希ガス(不活性ガス)と呼ばれており、
これらの放射性物質を体内に取り込んでも組織に沈着することはなく、内部被曝について
心配する必要はないとしています。
それに加えて、キセノン133の半減期は5.243日と短いので、その10倍の53
日ほど経てば、1100万テラベクレルの1024分の1の、1万テラベクレルほどまで
キセノン133が減っていたはずです。
しかしながら!
キセノン133が大量に放出されたとき(事故発生から24時間後)に、とても多くの
人々が、かなりの「外部被曝」を受けてしまったことは絶対に間違いないのです。
* * * * *
ところでなぜ、キセノン133が1100万テラベクレルも大気中に放出していたのに、
原子力安全・保安院は、全体で77万テラベクレルしか放出していないと発表したのでしょ
う?
それは恐らく、原子力安全・保安院が、国際原子力事象評価尺度(INES:Interna-
tional Nuclear Event Scale)に従った計算をしたからだと思います。
INES(国際原子力事象評価尺度)とは、国際原子力機関(IAEA)および、経済
協力開発機構の原子力機関(OECD/NEA)が決めたもので、原子力施設の事故やト
ラブルについて、どれぐらい深刻なのかを簡明に表現するための指標です。
「深刻さ」のランクは、レベル0~7の、8段階に分かれており、福島第1原発事故は
「レベル7」という最悪の評価でした。
この「レベル7」と認定される条件は、「ヨウ素131等価」で数万テラベクレル相当
以上の放射性物質が放出された場合ですが、これに該当するのは、福島第1原発事故より
以前においてはチェルノブイリ原発事故しかありません。
ところで、その「ヨウ素131等価」というのが、キセノン133の場合は「曲者(く
せもの)」になっていたのです。
なぜならINESユーザーズマニュアル(2008年版)によると、大気中に放出され
た場合の、ヨウ素131等価の値を求めるためには、それぞれの核種の放出量に以下のよ
うな倍率を掛けることになっていたからです。
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核種 倍率
アメリシウム241 8000
コバルト60 50
セシウム134 3
セシウム137 40
水素3(トリチウム) 0.02
ヨウ素131 1
イリジウム192 2
マンガン54 4
モリブデン99 0.08
リン32 0.2
プルトニウム239 10000
ルテニウム106 6
ストロンチウム90 20
テルル132 0.3
ウラン235 1000
ウラン238 900
希ガス類 無視してよい(事実上0)
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おそらく、原子力安全・保安院が「77万テラベクレル」と発表したのは、セシウム1
37と、ヨウ素131から求めた、「ヨウ素131等価」の値なのでしょう。
たとえば最初の表と、2番目の表(すぐ上の表)から、セシウム137の放出量は1万
5000テラベクレルなので、ヨウ素131等価にするためには、それを40倍して60
万テラベクレル。
また、ヨウ素131の放出量は、16万テラベクレルなので、これを合計すると76万
テラベクレルとなり、原子力安全・保安院の発表と、ほぼ同じ値になります。
しかし例えば、これにセシウム134も加えると、18000×3=54000テラベ
クレル増えて、合計で81万4000テラベクレルになります。
なぜ、原子力安全・保安院が77万テラベクレルと発表したのか、私にはよく分かりま
せん。
話の本題にもどりまして、ふたたび上の表をみると、
希ガス類(キセノン133やクリプトン85など)は無視する(放出量に0を掛ける)
ことになっています。だからいくら大量に放出しても、INES(国際原子力事象評価尺
度)では、「放出量がゼロ」と評価されてしまうのです。なぜINESでは、希ガス類を
無視するのか私には分かりません。
しかし、とにかく、
キセノン133が、1100万テラベクレルも大気中に放出していたのに、原子力安全・
保安院が77万テラベクレルと発表したのは、以上のような理由によるものと思われます。
* * * * *
ところで!
いくらINES(国際原子力事象評価尺度)で、「希ガス類」の放出量が無視されても、
それが「放射性物質」であることは全く変わりません。
だから、放射性の希ガス(つまりキセノン133)の莫大な放出によって、多くの人々
が被曝(ひばく)してしまったことは絶対に間違いないのです。
キセノン133が大量放出したとき(事故発生から24時間後)から、しばらくの間
(おそらく数日~10日間くらい)は、日本国民のすべてが一時的に国外退避をしても、
まったく不思議ではないほどの放射能汚染だったと言えるでしょう。
そのことを私は、ずっと忘れられないでいますし、原発に対する警戒心を緩(ゆる)め
ないためにも、忘れてはいけないと思っています。
10章 小惑星が地球に衝突!
現地時間で2013年2月15日の午前9時20分ごろ(日本時間で、同日の午後0時
20分ごろ)。
ロシア中部のチェリャビンスク州などで、空から火の玉のような物体が、白い煙を残し
ながら落ちていくのが目撃されました。
ロシア非常事態省によると、落ちてきた物体は「隕石(いんせき)」とみられ、落下中
に強い光を発しながら爆発して、空中でバラバラになったということです。
ロシア軍などが捜索を行なった結果、州都のチェリャビンスク市から西におよそ70キ
ロ離れた「チェバルクリ湖」の凍結した水面に、直径8メートルの穴が見つかり、岸辺で
は直径6メートルのクレーターのようなものが確認されました。
このほか、チェリャビンスク市から100キロ圏内において、少なくても4ヵ所で、隕
石の一部と思われる破片が見つかったという情報があります。
一方、日本の気象庁でも、
2月15日の午後0時23分から40分にかけて、ロシアの西部やカザフスタンなどに
設置された6ヶ所の地震計で、隕石の落下に伴(ともな)うとみられる「振動」を観測し
ました。
気象庁の精密地震観測室によると、震源は、北緯56度、東経58度付近で、チェリャ
ビンスク市の近くでした。
観測された振動の波形は、通常の地震とは異なり、最初から揺れ幅が大きいのが特徴的
で、気象庁は、隕石の落下や爆発による衝撃、または大気中に発生する衝撃波などを捉
(とら)えていた可能性があるとみています。
* * * * *
これらの隕石落下にともなう「衝撃波」で、広い範囲に被害が出ました。
チェリャビンスク市を中心にして半径100キロにわたり、窓ガラスが割れるなどの被
害が7420棟(むね)に上っています。このうち94%がアパートなどの集合住宅で、
被災世帯は12万に達するといいます。また、ガラスの破片などによる負傷者は1586
人にも上りました。
チェリャビンスク市に住む人々からは、隕石落下時の状況について、
「寒い部屋でストーブをつけたように、急に熱を感じた。暖かく感じた方を見たら光が
走っていた。」
「この世の終わりが来たのかも。」
「誰も何が起きたか分からなかった。みんな大声で叫びながら、逃げようと出口に向
かった。」
「核戦争の始まりかと思った。原爆は最初、強い光を発したと習ったから。」
などなどの証言が得られています。
ちなみに「チェリャビンスク市」は、モスクワから真東に1560キロの距離にあり、
同市から南に120キロ行くとカザフスタンとの国境になっています。チェリャビンスク
市は、シベリア鉄道の起点になっている交通の要衝で、およそ109万人が住んでいるロ
シアで9番目の大都市です。だから、もしも隕石が「市街地」に落下していたら、大惨事
になるところでした。
この災害で死者が1人も出なかったのは、不幸中の幸いだったと言えるでしょう。
* * * * *
ところで、NASA(アメリカ航空宇宙局)の発表によると、
大気圏に突入する前の隕石の重さはおよそ1万トンで、直径はおよそ17メートル。上
空20キロ前後で爆発し、そのときのエネルギーはおよそ500キロトンとしています。
(広島に投下された原爆のエネルギーは、およそ15キロトンとされていますから、50
0キロトンというのは、その33倍のエネルギーになります。)
またNASA(アメリカ航空宇宙局)は、隕石が地球に至るまでの推定軌道を公表しまし
たが、それによると、太陽に近いところでは金星付近、遠いところでは火星の外側を通る
楕円(だえん)軌道で、1周するうちに2回、地球の軌道と交差するとしています。
この楕円軌道は、日本の探査機「はやぶさ」がサンプル(砂粒)を回収した、小惑星
「イトカワ」の軌道と似ており、このたび落下した隕石は、イトカワと同様の「地球近傍
小惑星」だったと見られています。
つまり、このたびの隕石落下は、じつは小惑星が地球に衝突したものだったのです。
ちなみにNASA(アメリカ航空宇宙局)は、このたびロシアに衝突したのと、おなじ規
模の小惑星が地球に衝突するのは、100年に1回の出来事だとしています。
ロシアにとっては不幸な災害でありましたが、それほど珍(めずら)しい現象をテレビ
の映像で見ることが出来たのは、今でも忘れられないでいます。
11章 母の食事
2015年8月から2016年2月にかけて、私は「食」というものついて、ずいぶん
考えさせられ、また悩(なや)まされていました。
というのは、私の母が末期の癌(がん)を患(わずら)っていて、2015年の1月か
ら8月まで八ヵ月間の入院生活を送っていましたが、その後退院して「自宅療養」という
形になり、栄養剤を飲ませつつ、柔らかくて食べやすい料理を作るために、食材の選び方
や調理方法について日々考え、頭を悩ませていたからです。
何とか少しでも食べてもらえるように、いろいろ苦心して料理を作るのですが、癌のた
めに体調が悪くなり、熱が出たり、お腹が痛くなったりして、ほとんど食べることが出来
ない時もありました。
そんなときは、とても心配になり、ほんとうに困ってしまいました・・・
* * * * *
いま上で述べたように、その当時の私は病人を目の前にし、「食」というものについて
色々と考えさせられる毎日でした。
そして、そんな状況の中にいたとき、昔に聞いたことがあった、ある一つの話を、何度
も思い出すようになっていたのです。それは、かつて私がラーメン店で働いていたときに、
調理指導の先生から聞いた話でした。
その先生は日本料理が専門で、かつては高級料亭で腕を揮(ふる)っていたこともある
そうです。それなのになぜ、ラーメンという「大衆料理」に関(かか)わるようになった
のか、私はすこし疑問に感じました。それで、そのことについて質問してみたのです。
そうすると、その調理指導の先生が言うには、あるとき、ある病院からの要請があって、
入院患者の食事をつくる調理場を点検して、改善する必要がある部分を、チェックしてほ
しいと頼(たの)まれたそうです。
そして、その病院での仕事の折(おり)に、年老いた入院患者さんたちが、いったい何
を食べているのか見学したら、なんと驚いたことに、どんな食材でもミキサーにかけて、
すべて「流動食」にして食べさせていたそうです。
「これでは、あまりにも可哀(かわい)そうだ!」と思った調理指導の先生は、病院の
栄養士さんと相談して、いつもの流動食と栄養の成分が同じになるように食材(ネタ)を
選び、「寿司」を握(にぎ)って患者さんたちに食べさせたそうです。
そうしたら年老いた患者さんたちは、「こんな美味しい物は食べたことがない!」と
言って、涙をポロポロ流しながら寿司を食べたそうです。
そのとき調理指導の先生は、「”食” というのは一体なんだろう」と改めて考えさせら
れたと言います。
そんなことがあって、「これからは ”大衆料理” にも、目を向けて行かなければならな
い」と、考えるようになったと言うのです。
* * * * *
年老いた患者さんたちが、「こんな美味しい物は食べたことがない!」と言って、涙を
ポロポロ流しながら寿司を食べた・・・
母の介護をしていた当時の私は、何回も何回もこの話を思い出して、忘れられなくなっ
てしまいました。
やはり「食事」というのは、必要な栄養分を、ただ無理矢理(むりやり)に口から流し
込めば良いというものではないのでしょう。
おそらく、「美味しいものを食べる」という楽しみは、「生きようとする力」を生み出す
ための大切な要素の一つになっていることは、絶対に間違いないと思います。
だから私は、母の介護をしていたとき、なるべく本人が「食べたい!」と思えるような
料理をつくること。そしてまた、家族みんなが一緒になって、できるだけ同じ料理を食べ
ること。そんなことを目標にしながら、毎日の食事を作っていた次第です。
ちなみに私の母は、家での栄養管理が難しくなったため、2016年2月に緩和ケア病
棟(ホスピス)に入院し、翌3月に亡くなりました。
つづく
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