忘れられないこと 3
                               2025年3月23日 寺岡克哉


6章 2008年のノーベル物理学賞
 2008年のノーベル物理学賞は、南部陽一郎(なんぶよういちろう)さん、益川敏英
(ますかわとしひで)さん、小林誠(こばやしまこと)さんに授与されました。このとき
受賞された3人は、素粒子物理学の「理論的な研究」に大きな貢献をした方々です。

 ところで、以前に私が名古屋大学の院生だったとき、素粒子物理学の「実験的な研究」
に取り組んでいました。そんな関係もあって、南部さんと益川さんは、私も実際に講義を
受けたことがあります。そしてまた、益川さんと小林さんは名古屋大学の先輩でもありま
した。
 このように、私にも少なからず御縁のあった方々なので、この年の受賞は、私にとって
忘れられないものとなりました。

               * * * * *

 ところで受賞当時、南部さんはシカゴ大学の名誉教授であり、研究者としては益川さん
や小林さんよりも一世代上の方です。つまり、すでに南部さんが教授になっていたとき、
益川さんや小林さんは、まだ学生でした。
 その、南部さんが行った代表的な仕事は、「なぜ素粒子が質量をもつのか?」つまり、
「なぜ物質は重さをもつのか?」という疑問に、答えを与える道すじをつけたことです。
 ふつうに考えれば、「どんな物でも、物質ならば質量(重さ)を持つのは当たり前では
ないか!」と、思ってしまいます。しかし、それは物理学的に自明なことではなく、なか
なか難しい問題なのです。
 この難問にたいして、南部さんが提唱した「対称性の自発的な破れ」という物理学的な
概念が、解答をあたえる糸口になりました。その功績が認められて、今回の受賞となった
のです。

 ところで私が大学院生だったころ、南部さんを名古屋大学へ招いて、特別講義をして頂
いたことがあります。
 その南部さんの講義は、まず最初に、「私が学生だったころ、先生たちから『君ほど物
分かりの悪い学生は見たことが無い!』と、よく言われていました。」という話から始ま
りました。
 だから私は、「きっと、すごく分かりやすくて面白い講義をしてくれるに違いない!」
と、期待に胸をふくらませたのです。しかし、その私の期待は、ものの見事に裏切られま
した。というのは、講義の本題に入って10分もたたないうちに、私の頭では話がチンプ
ンカンプンで、まったく理解できなくなったからです。
 ちょうどそのとき、私の隣の席で講義を聞いていた教授(私の指導教官)が、「この講
義を聞いている人間の中で、ここまでの話が理解できるのは、理論を専門に研究している、
ごく数人だけだろうなあ」と、つぶやきました。特別講義なので、学生だけでなく教官た
ちも聴講していたのです。
 もちろん、私の頭が理解できないのと、教授が「理解できない」と言っているのでは、
その内容に雲泥(うんでい)の差があるのでしょう。しかしながら、それなりの人(プロ
の科学者)が聞いても、南部さんの講義が相当に難しかったことは、確かなのだと思いま
す。

 南部さんについては、そんな思い出が、今でも私の中に残っています。

              * * * * *

 一方、益川さんと小林さんは、「小林・益川理論」というのを構築した功績により、
ノーベル賞が授与されました。
 小林・益川理論といえば、素粒子物理学の教科書にかならず出てくるほど有名です。だ
から私も最初は、教科書によって、お二人の名前を知りました。
 ところで「理論の呼び名」では、小林さんの名前が先に来ています。だから私は長い間
ずっと、小林さんの方が年上なのだと思い込んでいました。しかし実は、益川さんの方が
5年先輩なのです。

 その、小林・益川理論の功績は、「クォークは少なくても6種類ある」と予言したこと
と、「CP対称性の破れ」という物理現象を説明したことです。
 つまり、陽子や中性子などの素粒子は、さらに小さな「クォーク」という究極の素粒子
から出来ていますが、小林・益川理論が発表された当初、そのようなクォークは3種類し
か見つかっていませんでした。
 しかしそんな時代に、「少なくてもクォークがさらに3種類以上あるはずだ!」と、小
林・益川理論は大胆に予言したのです。そして、その後たしかに、実験によってそれら3
種類のクォークが新たに見つかったのでした。
 つまり、理論による「予言」が見事に的中したわけです。このことにより、小林・益川
理論は、絶大な評価を受けるようになりました。

 一方、「CP対称性の破れ」とは、粒子と反粒子(つまり物質と反物質)をくらべると、
それらが振る舞う様子(粒子の崩壊のしかた)に、少しばかり違いがある(対称でない)
ということです。
 その、「わずかな非対称」が原因の一つとなり、ビッグバン(宇宙の始まり)のとき、
物質と反物質が作られたのに、「反物質」の方は消えさり、この宇宙に「物質」だけが残っ
たのです。
 小林・益川理論は、クォークが6種類以上あれば、それらの複雑な混じり合いのために、
「CP対称性の破れ」が起こるとしています。

 ちなみに昔は、この宇宙に物質だけが存在する分、同じ量の反物質だけが集まった「反
宇宙」というのが存在するはずだと、考えられた時期もありました。しかし現在では、そ
のように考えなくなっていますし、実際の宇宙観測によっても、反宇宙の存在は否定され
ています。

 ところで、益川さんを名古屋大学へ招いて、特別講義をして頂いたことがありました。
 しかしながら、やはり私の頭では、ぜんぜん話が理解できなくて、チンプンカンプンで
した。
 その講義が終わったあと、私が所属していた研究室の準教授(小林さんと同期)が、
「益川さんも、ずいぶん偉い先生になられて、何やら分からない難しい話をするように
なった!」という、感想をもらしていました。だから、理論を専門にやっている人でなけ
れば、やはり難しい内容だったのでしょう。

 以上、紹介しましたように、非才(ひさい)の身である私ですが、ノーベル賞を受賞さ
れた方々と縁が持てたことは、今でも忘れられないこととなっています。


7章 東北地方太平洋沖地震
 2011年3月11日の午後2時46分。東北地方の三陸沖を震源とする、「超巨大地
震」が発生しました。
 東北地方を中心に、北海道から関東の太平洋岸に大きな津波が押し寄せて、ものすごく
甚大(じんだい)な被害が出ました。

 3月11日の午後・・・
 北海道の札幌に住んでいる私にも、この地震による揺れが感じられました。
 札幌の震度は3で、地震の揺れは、そんなに大きくありませんでしたが、しかし数分に
わたって、ずいぶん長い間、揺れが続きました。そして気分がすこし悪くなり、ちょうど
「船酔い」に似た感じになりました。
 このように、揺れは大きくないけれど、気持ちが悪いくらい長くつづいた地震を、私は
以前にも経験したことがありました。それは、私が名古屋に住んでいた時に起こった、
「阪神・淡路大震災」です。
 だから私は、「この地震の揺れは大きくないけれど、きっと何処(どこ)かで、ものす
ごく大きな地震が発生したにちがいない!」と、すぐに直感で思いました。それでテレビ
のスイッチを点(つ)けたら、やはり大地震の報道がされていました。
 テレビでは、気象庁から「大津波警報」が発令されていることが報道され、一刻も早い
避難を呼びかけていました。それから、まもなくして、大きな津波が押し寄せる映像が、
私の目に飛び込んできたのです!
 ものすごい勢いで流される、自動車、漁船、そして民家・・・
 日本全体で、いったい何人の方々が犠牲になったのか、まったく想像もつきませんでし
た。

              * * * * *

 3月11日の午後2時46分に発生した、この超巨大地震は、気象庁によって「平成2
3年(2011年)東北地方太平洋沖地震」と命名されました。
 震源は、三陸沖の牡鹿(おが)半島から東南東へ約30km付近の、深さ約24kmの
地点でした。マグニチュードは9.0で国内では観測史上最大、世界でも観測史上4番目
の「超巨大地震」となったのです。

 この、マグニチュード9.0が、どれくらい大きな地震かと言うと、たとえば「阪神・
淡路大震災」のマグニチュードは7.3でしたが、私の計算では、それに比べて地震のエ
ネルギーが354.8倍にもなりました。
 そのような「超巨大地震」の発生によって、宮城県の栗原(くりはら)市では、震度7
という揺れを観測し、そのほか岩手県から関東までの、とても広い範囲において、震度5
強~震度6強の非常につよい揺れを観測しました。

 また、午後3時50分には、高さ7.3メートル以上の大津波が、福島県の相馬市を襲
い、午後3時55分には、高さ約10メートルの大津波が仙台市の仙台新港を襲いました。
そのほか、北海道から関東の太平洋側で、3~4メートル台の大津波が観測されました。

 さらには、東北地方や関東地方で、合計およそ855万戸が停電しました。
 鉄道は、東北地方と首都圏の、在来線すべての運転を見合わせることになり、首都圏で
は、勤め先などから家に帰ることのできない「帰宅困難者」があふれました。

              * * * * *

 そして・・・
 亡くなったり、行方不明になった方々は、時間が経つごとに、どんどん増えて行き、
一体どこまで増えるのか、その当時はまったく見当もつきませんでした。

 2011年3月13日の午後6時現在において、死者が1500人を超え、行方不明が
2万人以上になったという報道もされていますが、それからも、まだまだ犠牲者が増えて
いく可能性がありました。

 それから、およそ13年後・・・ 
 警察庁は2024年2月末時点で、死者は12都道県で1万5900人(岩手4675
人、宮城9544人、福島1614人、茨城24人、千葉21人、東京7人など)、行方
不明者は6県で2520人(岩手1107人、宮城1213人、福島196人など)、東
北地方の被災3県で今も身元のわからない遺体は53人(岩手47人、宮城6人)と発表
しています。

 その後、東北地方太平洋沖地震は、「東日本大震災」と呼ばれるようになりますが、こ
の大災害は私だけでなく、日本人全体にとって忘れることが出来ないものとなりました。


8章 5時間後にメルトダウン!
 東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)による津波が原因となり、福島第1原発で甚大
な事故が発生しましたが、その約3ヵ月後の2011年6月6日。
 経済産業省の原子力安全・保安院は、福島第1原発の1号機~3号機のすべてで「メル
トダウン(炉心溶融)」が起こり、いちばん早くに起こった1号機の場合では、東北地方
太平洋沖地震(東日本大震災)が発生してから、およそ5時間後にメルトダウンしたとい
う分析結果を発表しました。

 また、翌6月7日。政府の原子力災害対策本部は、1号機~3号機の核燃料が溶けて、
原子炉の「圧力容器」の底に落下するメルトダウンにつづき、さらには、溶けた燃料の熱
によって圧力容器の底をも溶かし、その外側を囲っている「格納容器」にまで燃料が落下
してしまう「メルトスルー(溶融貫通)」が起きた可能性も考えられるという報告書をま
とめ、IAEA(国際原子力機関)に提出しました。

              * * * * *

 ところで、東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)が発生したのは、3月11日の14
時46分です。
 そして、原子力安全・保安院の分析によると、1号機の場合、炉心の露出が開始したの
は3月11日の16時40分ころ(地震発生からおよそ2時間後)。炉心の損傷が開始し
たのは、同日の18時ころ(地震発生からおよそ3時間後)。圧力容器に破損が生じた
(つまり完全にメルトダウンした)のは、同日の20時ころ(地震発生からおよそ5時間
後)となっています。

 ところが!
 1号機の半径2キロの住民に避難指示が出されたのは、3月11日の20時50分(地
震発生から6時間04分後)。
 福島第1原発から半径3キロ以内の住民に避難指示が出されたのが、同日の21時23
分(地震発生から6時間37分後)。
 避難対象地域を半径10キロに拡大したのは、翌3月12日の5時44分(地震発生か
ら14時間58分後)。
 避難対象地域が、半径20キロに拡大されたのが、同日の20時20分(地震発生から
29時間34分後)だったのです。
 だから、「メルトダウン」が完全に起こっていた、まさにその時点において、原発の近
くに住んでいる人々は、だれも避難していなかったことになります。

              * * * * *

 しかし、それにしても・・・
 原発事故が発生してから3ヵ月ちかくも経ってやっと、「じつは地震発生の5時間後に
メルトダウンが起こっていました」と発表するとは、あまりにも日本国民をバカにしてい
るようで、憤(いきどお)りを隠すことができません。

 もしも事故発生当初に、メルトダウンが起こっていたと分かっていながら、その事実を
国民に隠して避難をさせなかったのなら、国民の生命安全にたいして、ものすごい大問題
となる「隠蔽(いんぺい)事件」だといえるでしょう。

 その逆に、まったく隠蔽などしていないと言うのなら、メルトダウンが起こっても、そ
の時点では(つまりリアルタイムでは)、状況を把握(はあく)することが全くできない
という、「きわめて不完全な原発技術」しか、日本は持っていないことになります。

 後日、この疑惑に対する1つの解答に出会いました。
 それは、「原発はいらない (幻冬舎ルネッサンス新書 小出裕章 著)」という本で
す。その本の、36~37ページには、次のように書かれていました。

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 3月12日に枝野幸男官房長官が記者会見で、「1号機の原子炉圧力容器の水位が下が
った」と述べました。専門家なら、誰でもこれが危険な兆候であると判断して当然です。
にもかかわらず、そのあとNHKのニュースで東大の関村直人教授が、「原子炉は停止し
たが、冷却されているので安全は確保できる」といった意味のことを発言したのです。

 これに対し、(元京都大学原子炉実験所助教授)の海老沢徹さんは、次のように反論し
ています。
 「関村さんの発言には唖然(あぜん)としましたよ。」
 「炉の冷却ができなくなってから100分くらい経つと水位が低下しはじめ、その後
20分くらいで燃料棒を覆(おお)う被覆菅(ひふくかん)が融けて燃料が顔を出す。」
 「やがて炉心溶融に向かうのは、スリーマイルの事故報告書を見ればはっきりと書いて
ある。」
 「研究者なら当然知っているはずなんですよ。」
 「関村さんの話を聞いて、『この段階で何を言っているのか』と思いました。」
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 上の文章を見るかぎり、やはり原発推進派である御用学者たちが、メルトダウンを隠蔽
したと考えざるを得ません。

 上でも述べましたが1号機の場合、
 炉心の露出が開始したのは、3月11日の16時40分ころ。
 炉心の損傷が開始した(メルトダウンが開始した)のは、同日の18時ころ。
 圧力容器に破損が生じた(つまり完全にメルトダウンした)のは、同日の20時ころで
す。

 しかし一方、3月11日の19時03分に、政府が「原子力緊急事態宣言」を発令しま
したが、このとき官房長官は「避難の必要はない」としていました。その時点ですでにメ
ルトダウンが進行していたのにです。

 日本というのは、原発がメルトダウンしても、避難指示が出せない国である。
 これは絶対に忘れられないことであり、また、忘れてはいけないことだと言わざるを得
ません。


 つづく



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