生命の否定が起こる理由 2002年5月12日 寺岡克哉
「なぜ生きなければならないのか?」
「生命の否定」に取り憑かれてしまった時は、どうしても、このように思ってしまい
ます。この「生命の否定」は、人間の高度な思考能力である「理性」の働きによっ
て起こります。人間の理性が、「生きることに意味はない!」と判断して、生きるこ
とを否定してしまうのです。
ところで理性は、なぜ「生きることに意味はない!」と判断してしまうのでしょう
か?
私は、「理性」が生命を否定する思考様式は、だいたい次のようであると考えて
います。もちろん、以下に述べることが、生命の否定が起こる理由の全てではあ
りません。しかしながら、多くの人に当てはまりそうな、いちばん一般的で大まかな
思考様式は、次のようなものであると考えています。
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まず第一に、生きることそのものが、苦しくてしょうがない。毎日をただ生きるだ
けでも、たいへんな苦しみだ。
生きていくことの恐れや不安・・・病気、怪我、失恋、死別、孤独、ストレス、生存
競争、権力争い、人間関係のトラブル、失業、金銭トラブル、等々。生きることの
苦痛や苦悩を数え上げたら限がない。
一方、死は苦しみではないのだ! エッセイ2で述べたように、「死」は、実感と
しては「生まれる前」や「熟睡」と全く同じ状態だ。死んでしまえば、何億年の時間
でさえも一瞬にも感じられない。苦しみを感じている暇も時間も、全く存在しない
のだ。だから死は、苦しみではありえない。
そして人間は、遅かれ早かれ必ず死ぬ。死を免れることの出来る人間は、こ
の世に一人も存在しない。全ての人間が、いつかは必ず死ぬのだ。
これでは、死ぬために生きているようなものだ! 結局は、死んでしまうことの
ために、毎日の苦しみに耐えて生き続けているのだ。
ところで、地獄のような苦しみの毎日に耐えて、長い年月を苦しみ抜いてから
死んでも、明日にでも直ぐに安楽死をしても、死んでしまえば全く同じことだ。そ
して死は苦しみではないし、どうせ全ての人間は、いつか必ず死ぬのだ。
それならば、さっさと死んでしまった方が、生きる苦しみが短くて済むだけ余程
ましではないか。生きなければならない理由など、見出せるはずがない!
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「生命の否定」が起こる思考様式は、大体このようなものではないかと、私は
考えています。
「生命の否定」が起こる一番の理由は、苦しみに耐えてまで生きるほど
の、「生きる意義」を持っていないことです。
私は、「生命の否定」が起こるのは、生きることの苦痛や苦悩が大きいからと
言うよりは、むしろ「生きる意義」を見出せずにいることの方が、より本質的な原
因だと考えています。
確かに、重い病気やひどい怪我などで、本当に耐えられないほどの、しかも
長く続く「苦痛」に苦しめられれば、「生命の否定」が起こっても仕方がないかも
知れません。
また、多額の借金を抱えて破産したり、リストラやいじめに合ったり、失恋した
り、愛する人や子供が死んだ時などの、たいへんに大きな「苦悩」によっても、
「生命の否定」が起こりえます。
しかしそのような状態に陥っても、生きてやらなければならない仕事がある時
は、苦痛や苦悩を乗り越え、その仕事をやり抜く人も確かにいます。
この場合の「仕事」とは、単なる会社の仕事ではなく、生きている間にどうしても
やり遂げなければならないと感じているライフワーク、「人生の仕事」とか「生命
の仕事」といえるようなものです。(「生命の仕事」に関しては、後の機会に詳述
したいと思います。)
逆に、衣食住に満ち足りて、怪我も病気もなく、平和な家庭でお金にも困って
いないのに、人生において何もやるべきものを持っていないと、「生命の否定」
に取り憑かれてしまいます。
「生命の否定」を打破するためには、「生きることの苦しみに耐えてまでも、
そして最後には必ず死んでしまうとしても、それでも生きることには価値があ
り、意義があるのだ!」と、納得できるような「何ものか」が必要なのです。
「自分のため」だけに生きていると、どうしても生きる意義を喪失してしまい
ます。なぜなら、自分は必ず死ぬからです。死ぬもののために、生きることは
出来ないからです。
生きる意義を得るためには、自分よりも好ましく大切に思うもの、究極的に
は、自分の命よりも大切なもの、自分の命よりも愛するものを持つことが必要
なのです。
しかし、気をつけなければなりません!
この「自分の命よりも大切なもの」として、宗教戦争を起こすような「神」であ
ったり、戦前の日本の「お国」であったり、戦後の日本の「会社」であったり、
「お金」であったりすることがあるからです。もっと低俗な例では、インチキな
新興宗教であったりします。
「生きる意義を得たい!」という気持ちを、戦争や金儲けの道具に利用され
ることが多々あるのです。
何かもっと安心して、「生きる意義の拠り所」として信用できるものが、現代
では必要になって来たと思います。
私は、エッセイ1で述べた「大生命」や、エッセイ5で述べた「理性的な愛」、
エッセイ11で述べた「生命の意義」などが、その候補になり得るのではないか
と考えています。
今後折に触れて、それらについて色々な方面から考察して行きたいと思って
います。
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