心の宝物 9
                                2025年2月2日 寺岡克哉


31章 死は苦でない!
 「死は苦でない!」というのを、自分なりに発見できたこと。
 そして自分の人生を経(へ)るごとに、「死は苦でない!」という確信が、ますます深
まっていること。

 それは、私にとって「心の宝物」となっています。

             * * * * *

 ところで、「死は苦でない!」ということに対して確信を持つことができる根拠、そし
て、その確信をさらに深めることができる根拠は、これまでの私の人生で、以下の4つが
得られています。

 まず1つ目の根拠は、
 本人の実感として、「死後」というのは「生まれる前」と、まったく同じだと考えられ
ることです。
 なぜ、そのように考えられるかと言えば、「生まれる前」と「死後」では、「自分の肉
体が存在しない」という意味で、まったく同じ状態だからです。
 この考え方を認めると、私が「生まれる前」には、何億年もの時間が存在していたはず
ですが、しかし私は、そのような長い時間を、たったの1秒にも感じていませんでした。
 これと同じように、私の「死後」にも、何億年という時間が存在するはずですが、しか
し私は、そのように長い時間を、たったの1秒にも感じることができないと思います。つ
まり「死後」においては、苦を感じている暇(ひま)も時間も、まったく存在しないので
す。
 以上のような、私なりの発見によって、「死は苦でない!」というか「死は苦であり得
ない!」という確信を、まず最初に持つことができたのでした。

 つぎに2つ目の根拠ですが、
 私たちが毎日経験する「熟睡(じゅくすい)」の状態もまた、時間を1秒にも感じるこ
とができないので、本人の実感としては「死後」と同じだということです。つまり私たち
は、毎日のように「死の実感」を体験している訳です。
 そして例えば、もしも私が熟睡中に、頭をピストルで撃たれて即死させられたとしても、
やはり私は、実感として何の変化も感じることができないと思います。ゆえに「死後」と
「熟睡」は、(肉体が死んでいるか、生きているかの違いはありますが)本人の実感とし
て、まったく同じだと言えるのです。
 この考察によって私は、「死は苦でない!」という確信を深めることができました。

 そして3つ目の根拠は、
 現代では医療技術が進んでおり、「心肺停止の状態」から意識を取りもどした人がいる
ことです。
 これは私が以前に、父から聞いた話ですが、父の知り合いが心肺停止の状態になり、病
院の集中治療室で意識を取りもどしたそうです。
 その人の話によると、自宅でとつぜん意識が朦朧(もうろう)となり、家族に助けを求
めようとしたが声を出すことができず、気が付いたら集中治療室のベッドで寝ていたそう
です。もしも心肺停止のまま、病院に運ばれるのが遅れたら、実感としては1秒の時間も
感じることなく、そのまま確実に死んでいたでしょう。
 私は、この話を聞くことによって、「死は苦でない!」という確信を、さらに深めるこ
とができたのです。

 最後に4つ目の根拠は、
 私は以前に、心臓発作が起こって、救急車で病院に運ばれたことがあるのですが、その
ときの治療で「麻酔」の経験をしたことです。
 それまで私は、睡眠以外で、「自分の意識が無くなる」という経験をしたことがなかっ
たので、麻酔が効いてくるとき、どのように自分の意識が無くなって行くのか、ものすご
く興味がありました。
 それで、意識が無くなっていく過程を、しっかりと把握(はあく)したいと思い、いざ
麻酔薬が体に注入されるというとき、私は目をカッと開き、ものすごく意識を集中させて、
待ち構(かま)えていました。
 ところが、「だんだん眠くなる」とか、「だんだん目の前が暗くなる」とか、そのよう
な感覚を、まったく感じることが出来ませんでした。
 つまり、麻酔を注入している医師の姿を、目をカッと開いて見ていたら、その一瞬後に
眠りから覚めたのです。自分が眠っていたことには、まったく気づくことが出来ませんで
した。
 もしも私が、麻酔で眠っている間に、頭をピストルで撃たれて即死させられたとしても、
やはり私は、実感として何の変化も感じることができないと思います。
 この麻酔の経験によって、「死は苦でない!」という確信を、さらにもっと深めること
ができたのでした。

             * * * * *

 以上、これまで私の人生で得られた4つの根拠により、「死は苦でない!」という確信
をもち、その確信をさらに深めてきました。

 そしてそれにより、自分が年老いて行き、体力が落ちて、だんだんと死が近づいてきて
も、必要以上に恐れることが無くなりました。

 また、かつて私は、いまは亡き母や父の介護をしており、癌(がん)が進行して、だん
だん体が弱っていく母や父の姿を、毎日毎日、目の前で見ることになりました。
 そして、いよいよ母や父が死を迎えたとき、「死は苦でない!」という確信を持つこと
によって、「母や父は、もう苦しみを感じているはずがない」と確信が持てました。
 それで母や父が死んだとき、悲しみよりは、なにか「ホッ」とした安らぎを感じること
ができたのです。

 さらにまた、子供が虐待されて殺されるという、目を覆(おお)いたくなる事件がまっ
たく後を絶ちませんが、そんな報道を見たとき、「亡くなった子供は、ずっと続いてきた
長い苦しみを、もう感じなくて良いのだ!」という確信を持つと、「何ともやりきれない、
吐き気がしそうな怒りや悲しみ」を、和(やわ)らげることができます。

 たしかに人によっては、「死は苦でない!」という確信を持つことで、「自殺を恐く感
じない」とか、「殺人を悪と感じない」というような、ものすごく悪い弊害(へいがい)
が生じる可能性も、おそらくゼロではないでしょう。

 が、しかし私にとっては、「死は苦でない!」という確信をもち、その確信をさらに深
めることによって、老いや病気などによる死の恐怖や、肉親の死による悲しみ、理不尽な
殺人への怒りなどに対して、心の安定と平和を保(たも)つことが出来るようになりまし
た。

 それで、「死は苦でない!」という確信が、私にとって「心の宝物」となったのです。


32章 肉体の死で終わらない生命
 世の人々をひろく愛し、苦しみから救おうとした、釈迦やキリスト・・・。
 その釈迦やキリストの、「思い」や「意志」・・・。
 つまり、「釈迦の慈悲」や「キリストの愛」は、彼らの肉体が死んでも、なお生き続け
ている、彼らの「生命」であるといえます。

 なぜなら、釈迦やキリストが死んでから2千年以上も経った現代でも、「釈迦の慈悲」
や「キリストの愛」は、私たちに「生きる目的」や「生きる希望」つまり「生きるエネル
ギー」を与えてくれるからです。
 そして、「釈迦の慈悲」や「キリストの愛」が、私たちに「生きるエネルギー」を与え
てくれるのは、釈迦やキリストの「生命」が私たちに与えられるからです。
 つまり、「釈迦の慈悲」や「キリストの愛」は、釈迦やキリストが私たちに与えてくれ
る「生命」であり、釈迦やキリストの「生命そのもの」なのです。

 このように釈迦やキリストの「生命」は、彼らの肉体が死んでもなお、2千年以上にも
わたって生き続けています。
 それは例えば、「釈迦やキリストの魂(たましい)が、今も私たちの中で生き続けてい
る」という言葉にたいして、とくに違和感を感じないことからも分かります。

            * * * * *

 ところで、釈迦やキリストと比べたら非常に烏滸(おこ)がましいのですが、私の思い
や意志(つまり私の生命)も、誰かに喋(しゃべ)ったり、文章に書いて読んでもらった
り、私が取った行動を見てもらうことによって、私以外の人たちに少しは伝わって行くは
ずです。

 それは、釈迦やキリストの生命に比べたら、ごくごく小さなものであるのは言うまでも
ありません。
 しかし私も60歳を過ぎて、「自分の死」と向き合うことが多くなるにつれて、「私の
肉体が死んでも、私の生命は、他の人の中で生き続ける」という生命観に、私の心は確か
に救われています。

 そしてそれが、私の「心の宝物」となったのです。


33章 永遠の生命
 以前に24章で、神とは「この世界そのもの」であると述べました。

 そして「この世界」とは、時間、空間、エネルギー、物質、生命、人間、意識、情報、
人類社会、生態系、地球、太陽系、銀河系、自然法則、因果関係、偶然や必然などを含め
た、「この宇宙に存在する事物の全て」のことでした。

 つまり神とは、「この宇宙に存在する事物の全て」と言うことになります。

 だから「私」という存在も、この宇宙に存在する事物の一つなので、ごくごく微小なも
のではありますが、「私も神の一部」だといえます。つまり私は、神の一部として、この
世界に生まれたわけです。

              * * * * *

 ところで「私」は、この世界に存在して、呼吸したり、食べたり、飲んだり、見たり、
聞いたり、考えたり、喋(しゃべ)ったり、文章を書いたり、何かを愛したり、憎んだり、
怒ったり、楽しんだり、安らいだり、苦しんだり・・・等々、生きて様々な「生命活動」
をします。

 そして、それら「私の生命活動」は、さらに様々な「波及効果」をもたらして行きます。

 たとえば、その一例として、
 私は生命活動によって「呼吸」をしますが、そのときに酸素を吸って二酸化炭素を出し
ます。
 その私が出した二酸化炭素は、植物の光合成に使われて、植物が育ちます。
 そして育った植物は、草食動物に食べられ、草食動物は肉食動物に食べられます。
 そしてさらに、それらの動物が死ぬと、細菌によって分解され、植物の養分になります。
 このようにして地球の生態系は維持され、その中で生物が進化して行きます。
 いずれ何億年も経てば、現在の人類よりも進化した生物が現れて、宇宙に進出するかも
知れません。そして宇宙に進出した生物は、さらに生命活動を広げて行くことでしょう。

 このように、「私の生命活動の波及効果」は、永遠に続いて行きます。

              * * * * *

 ところで、上で述べた「私の生命活動の波及効果」は、私が生きて存在し、生命活動を
行わなければ、絶対に存在しませんでした。

 だから「私の生命活動の波及効果」は、「私の生命活動の延長」と考えることが出来る
でしょう。

 そして、私の生命活動が延長しているなら、それは私の生命活動が続いていることにな
ります。

 そしてさらに、私の生命活動が続いているならば、それは私が生きていることになるの
です。

 つまり私は、肉体が死んで自我意識が消滅しても、永遠に生き続けることになります。

              * * * * *

 ところで、この「私の生命活動の波及効果」も、宇宙に存在する事物の一つなので、神
の一部です。

 つまり私は、この章の最初で述べたように神の一部として生まれ、私の肉体が死んで自
我意識が消滅した後も、神の一部として永遠に生き続けるわけです。

 このような「永遠の生命」を知ることにより、「私」というものが永遠に消滅しないこ
とに対して、確信を持つことが出来るようになりました。

 そしてそれは、私のもっとも大切な「心の宝物」となっているのです。


 おわり



あとがき

 キリストは「富は天に積みなさい」と言いました。それは以下の、新約聖書の記述にあ
る通りです。

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 あなたがたは地上に富を積んではならない。そこでは、虫が食ったり、さび付いたりす
るし、また、盗人が忍び込んで盗み出したりする。富は、天に積みなさい。そこでは、虫
が食うことも、さび付くこともなく、また、盗人が忍び込むことも盗み出すこともない。
あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ。
               (新約聖書 マタイによる福音書 6章19-21節)
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 ところで一方、本書で述べてきた「心の宝物」というのは、私が「天に積んだ富」であ
ると言えます。

 それは私にとって、いつ思い出しても、新たな感動と幸福を呼び起こします。けっして
飽きたり古くなったりせず、「心の宝物」の価値はいつまでも低下しません。そして「心
の宝物」は、誰にも盗み出すことが出来ません。
 それが、上の聖書の言葉の、「虫が食うことも、さび付くこともなく、また、盗人が忍
び込むことも盗み出すこともない」というのに相当するのだと思います。

 しかも「心の宝物」は、どれほど多くの人に分け与えても、まったく減ることがありま
せん。
 だから本書によって、読んで頂いた皆さんの「心の宝物」を少しでも増やすことが出来
たなら、それが私にとって存外の幸せなのです。

                          2025年2月2日 寺岡克哉



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