心の宝物 8
2025年1月26日 寺岡克哉
28章 自我意識
私には、私の「自我意識」が存在します。
自我意識とは、「自分が生きていること」や、「自分が存在していること」を認識する
意識です。
また、自分と外界を区別し、「自分は一人しか存在しない!」と言う、「自己の独自性」
を認識する意識です。
そしてまた、今日の自分も、昨日の自分も、1年前の自分も、10年前の自分も、つね
に同じ自分であるという、「自己の同一性」を認識する意識です。
さらにまた、自分の欲求や希望、目標などを自らの意思で実現させようとする、「能動
的」な思考や行動を生じさせる意識でもあります。
つまり「自我意識」とは、私が「私である」と実感し、それを認識する意識です。
* * * * *
ところで当然ですが、私の自我意識は、私だけにしか存在しません。皆さんもそうだと
思います。
もしも私の自我意識が、私以外の人間にも存在すれば、私は常に自分の体が二つ以上存
在するように感じるはずだから、すぐに分かります。だから私の自我意識が、私だけにし
か存在しないのは自明の事実です。
しかし、この「自明の事実」が、私にはどうにも理解のできない不思議な現象なのです。
なぜ私の自我意識は、私に存在するのでしょう?
なぜ、この時代に、この場所で、この家族の下に生まれた人間に、私の自我意識が存在
するのでしょう?
地球には2024年の時点で81億もの人間がいます。それなのに、なぜ私の自我意識
は81億の中の1人を選び、この私に存在するのでしょう?
たとえば難民の子どもに生まれ、すぐに餓死する人間に、私の自我意識が存在してもお
かしくはありませんでした。
また、妊娠中絶や流産で、自我意識を持ち得る前に死んでもおかしくはありませんでし
た。
あるいは、お金持ちや上流階級の家庭に生まれた人間に、私の自我意識が存在してもお
かしくはありませんでした。
さらにまた、百年前、千年前、一万年前の人間に、私の自我意識が存在してもおかしく
はなかったのです。
しかしなぜ、今のこの私なのでしょう? それが、どうしても理解できない謎なのです。
* * * * *
ところで、私が生まれるとき、父親の何億もの精子の内、一つ隣の別の精子が受精すれ
ば、私の自我意識は存在しませんでした。だから、違う日に行われた性交によって受精し
ても、私の自我意識は存在できなかったのです。それは兄弟の場合を考えてみれば分かる
でしょう。
さらには、もしも私が一卵性の双生児(同じ受精卵から生まれた双子(ふたご)で、まっ
たく同じDNAを持つ)であっても、私の双子の兄弟には、私の自我意識は存在しません。
彼に存在するのは、彼の自我意識です。
だから、もしも私の「クローン人間」を作ることが出来たとしても、そのクローン人間
には、私の自我意識は存在しません。彼に存在するのは、彼の自我意識なのです。なぜな
ら、私の体が常に二つ存在するように、私は感じることが出来ないからです。
つまり、たとえば私が日本にいて、彼が外国へ旅行をしたとします。そうしたとき、も
しも私が日本に居ながらにして、外国にいる彼が見たものや聞いたもの、あるいは彼の思
考や認識が、同時に私にも認識できるのであれば、彼に存在するのは、私の自我意識です。
しかし、そんなことは起こり得ません。私は私、彼は彼です。だから私のクローン人間
であっても、その人間に私の自我意識は存在しないのです。
* * * * *
しかしながら面白いことに、私の体を構成している物質は、一年も経てば全て入れ替わっ
ているそうです。
なぜなら生物は、食物として新しい物質を体内に取り入れ、古くなった体の組織をつね
に作り替えているからです。たとえば髪が伸びれば散髪し、爪が伸びれば切り、皮膚の組
織が古くなれば垢(あか)となって落ちて行きます。このように体の組織は、常に新しい
ものに作り替えられているのです。
そしてこれは、体の全体にも言えることで、人間の場合は一年も経てば、体を構成して
いる全ての原子が、同じ種類の別の原子にすべて置き換わっているそうです。
つまり一年も経てば、「物質としての私」は、まったく別の人間になっているわけです。
しかしそれなのに、私の自我意識は、相変わらず「同じ私である」と認識し続けているの
です。
これも、自我意識の不思議なところです。
* * * * *
ところで・・・
あなたや私の自我意識は、唯一無二のもので、大変に貴重なものです。
なぜなら今後、地球に何百億もの人間が生まれようとも、あなたや私の自我意識は、二
度と生じることがないからです。
それどころか、今後「ビッグバン」が何万回も起ころうと、あなたや私の自我意識は二
度と生じることはありません。
なぜなら、過去に何回のビッグバンが存在したのか知りませんが(過去には無限の時間
が存在するから、無限回のビッグバンが起こっていても不思議ではない)、もしも、その
いずれかの宇宙に私の自我意識が発生していれば、今の私がそれを記憶しているはずだか
らです。
しかし私には(他の多くの人にとってもそうだと思いますが)、そのような記憶が一切
ありません。だから未来において、何万回のビッグバンが起ころうとも、「あなたや私の
自我意識は二度と生じることがない」と考えるのが妥当です。
* * * * *
以上、ここまで述べてきましたように、
なぜ私の自我意識が、「現代の日本に生まれたこの私」に存在するのかは、大いなる謎
です。
しかし、私たち個々人の自我意識が、「唯一無二のもの」であることは確かです。
そしてこの先、何千回、何万回のビッグバンが起ころうとも、あなたや私の自我意識が
生じることは二度とありません。それほどまでに、私たち個々人の「自我意識」は貴(と
うと)いものなのです。
そして、このような自我意識の不思議さと貴さを悟れたことは、私にとって大切な「心
の宝物」となっています。
29章 人生における最大の誤解
私の自我意識が存在するのは、最大の奇跡です。
なぜなら、今ここに私の自我意識が存在できるためには、じつに無限の時間と、無数の
プロセス(過程)が、絶対に必要不可欠だったからです。
たとえば・・・
138億年前に、ビッグバンによって宇宙が誕生しなかったら、私の自我意識は存在で
きませんでした。
ビッグバンのエネルギーから、素粒子や原子などの「物質」が作られなかったら、私の
自我意識は存在できませんでした。
星間物質が集まって、太陽や地球が誕生しなかったら、私の自我意識は存在できません
でした。
そして地球に生命が誕生し、それが人類まで進化しなかったら、私の自我意識は存在で
きなかったのです。
ちなみに、ビッグバンが起こる以前でさえも、まだまだ未知のプロセスが、無限の過去
から無数に続いてきたはずで、それらの結果として、ビッグバンが起こったと考えるのが
自然でしょう。
このように、私の自我意識が存在できるためには、無限の時間と、無数のプロセスが絶
対に必要だったのであり、それらの、どれ1つが欠けても、私の自我意識は存在できなかっ
たわけです。
そう考えただけでも、今ここに私の自我意識が存在できるのは、ものすごく奇跡的なこ
とだと思わざるを得ません。
* * * * *
ところが実は、地球に人類が誕生したからと言って、私の自我意識が存在できる保障は、
どこにも無かったのです。
なぜなら前の28章でも述べたように、地球の人口は2024年の時点で81億人と言
われていますが、しかし、それら81億の人間の中から、なぜ私1人だけが私の自我意識
を持つことができたのか、その保障などどこにも無かったからです。
さらには、現生人類(ホモ・サピエンス)は、およそ20万年前のアフリカで誕生した
と言われますが、人類の長い歴史の中で、しかも人類が地球全体に分布して行った中で、
なぜ、現代という時代の、日本という場所に、私の自我意識が存在できたのか、その保障
も、どこにもありませんでした。
これらの考察から、地球に人類が誕生しても、私の自我意識が存在できる保障は、どこ
にも無かったと結論せざるを得ないのです。
* * * * *
しかしさらには、現代の日本に、私の父と母が生まれ、偶然にも父と母が出会って結婚
したとしても、私の自我意識が存在できる保障は無かったのです。
たとえば、これも前の28章で述べましたが、私が生まれるとき、父親の何億もの精子
のうち、一つ隣の別の精子が受精したら、私の自我意識は存在できませんでした。
だから、私が生まれるのとは違う日に行われた性交によって受精した場合も、私の自我
意識は存在できなかったのです。これは、私の兄弟のことを考えれば十分に納得できます。
しかしさらには、もしも私が一卵性の双生児(同じ受精卵から生まれた双子で、まった
く同じDNAを持つ)だったとしても、私の双子(ふたご)の兄弟には、当然ながら「私
の自我意識」は存在しません。
つまり、私とまったく同じDNAを持って生まれたとしても、その肉体に、私の自我意
識が存在できる保障は、どこにも無かったのです。
ゆえに、私の自我意識が存在できたことは、どうやっても説明できない、奇跡中の奇跡
だと言わざるを得ないのです。
* * * * *
さて、いま上で述べたように、私の自我意識が存在できたのは奇跡中の奇跡であり、私
の人生における最大の奇跡と言ってよいでしょう。
ところが!
世界中の殆(ほとん)どの人が、自分の自我意識が存在するのは、まったく当たり前の
ことだと感じているでしょう。
それはもう、「これ以上に当たり前のことなど、この世に存在しない!」と、心の底か
ら確信するほど、まったく当たり前のことだと感じているはずです。
なぜなら、世界中の誰もが、朝に目が覚めてから、夜に眠りにつくまで、自分の自我意
識の存在を、つねに「自覚」し続けているからです。
さらには、世界中の誰もが、今日も、昨日も、1年前も、10年前も、物心(ものごこ
ろ)がついてから毎日ずっと、自分の自我意識の存在を「自覚」し続けてきたからです。
このような理由から、世界中の殆どの人が、自分の自我意識が存在するのを、なんの疑
問も持たずに、「当たり前中の、当たり前のことだ!」と、心の底から確信しているわけ
です。
* * * * *
以上、ここまで述べてきましたように、自分の自我意識が存在するのは、奇跡中の奇跡
です。
ところが世界中の殆どの人が、自分の自我意識が存在するのは、まったく当たり前だと
実感し、そう確信しています。
これは、世界中の殆どの人がまったく気づかないでいる、「人生における最大の誤解」
だと私は考えています。
かく言う私も、ちょっと油断をすると、この「人生における最大の誤解」に陥(おち
い)ってしまいます。そして、「自分の存在なんか大したことない!」などと思ってしま
うのです。
しかし、そんなとき、「自分の自我意識が存在するのは、決して当たり前ではなく、奇
跡中の奇跡なのだ!」と思い直し、「人生における最大の誤解」を正すようにしています。
そして前章で述べたように、無限の過去から無限の未来のなかで、たった一回だけ存在
できた自分の自我意識だから、悔いのない人生を送ろうと決意を新たにするのです。
そのため、この「人生における最大の誤解」に気づけたことは、私の「心の宝物」となっ
ています。
30章 人生の完成
私には、30歳代の後半ごろから、ずっと頭から離れることがない、とても重要な人生
の課題があります。
それは、
いったい私は、死ぬまでに、なにを成し遂げたいのか?
いったい私は、死ぬまでに、どんな人間になりたいのか?
私が死ぬまでに達成したい、「人生の完成した状態」とは、一体どんな状態なのか?
と、いうような問題です。
このような問題の答えを、私は長い間ずっと探し求め、考え続けてきたわけですが、よ
うやく60歳近くになった頃、やっとその答えが少し見えてきました。
まず先に結論を言ってしまうと、「私の人生が完成した状態」というのは、「この世界
に対する慈(いつく)しみで、心の中が満ち溢(あふ)れている状態」です。
それが、どのような状態なのか、もうすこし具体的に説明してみると、なんと言います
か、この世界に対する素晴らしさというか、有難さというか、嬉(うれ)しさというか、
愛おしさというか、そのような気持ちで心の中がいっぱいになり、この世界に対して、ま
るで小さな幼子(おさなご)を優しく抱いて、温かく包み込み、大切に守ってあげたくな
るような、そのような気持ちで自分の心が満ち溢れている状態です。
さらには、すこし大げさになるかも知れませんが、その時に感じる心の状態をもっと率
直に言うと、たとえば「慈愛の神」というものが存在するとして、その神が無限の愛で世
界を慈しんでいる「神の心」と、自分の心が一体となり、そのような「無限の慈しみ」で、
自分の心の中が満ち溢(あふ)れている状態。
つまり誤解を恐れずに言えば、まるで神と自分が一体になったように感じる状態が、
「私の人生が完成した状態」なのです。
ところが・・・「私の人生が完成した状態」というのは、ほんの一時(いっとき)だけ
現れたと思ったら、すぐに消えてしまいます。つまり、「私の人生が完成し、私は人生の
最終目的を達成したのだ!」と実感できるのは、ほんの一時だけなのです。
というのは、はたと我に返って意識が現実世界にもどり、お金(生活費)や体の健康な
どの心配が少しでも心をよぎったり、あるいは事故や災害、凶悪犯罪や戦争などの悲惨な
ニュースが少しでも目に入ったりすると、不安や恐れ、怒り、憎しみなどの感情が生じて、
「この世界に対する慈しみで、心の中が満ち溢れている状態」というのが、すぐに吹き飛
ばされてしまうからです。
そのときの気持ちを、誤解を恐れずに言えば、まるで天上界から、地の底へと、引きず
り落とされたような気分になります。だから私は、「人生が完成した状態」が出来るかぎ
り長く持続するように、つね日頃から意識をしているのですが、しかし、なかなか思うよ
うに出来ないのが正直なところです。
もしも「人生が完成した状態」が、ずっと死ぬまで続くようになったら、その時こそ本
当に「私の人生は完成したのだ!」と、自信を持って断言することが出来るのでしょう。
しかしながら、それは私が死ぬまでに達成できないかもしれないし、本音(ほんね)を言
えば、達成できない可能性の方が大きいとさえ感じています。
しかしそれでも、自分が死ぬ直前ぐらいは、「この世界に対する慈しみで、心が満ち溢
れている状態」を保ちながら、死んで行きたいと思っています。つまり、「私の人生が完
成し、人生の最終目的は達成されたのだ!」と心から確信を持つことができて、十二分に
満足した状態の中で、最後には死んで行きたいものだと強く切望している次第です。
この章で述べた「人生の完成」は、死ぬまで尽きない私の目標であり、夢であり、とて
も大切にしている「心の宝物」なのです。
つづく
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