心の宝物 7
                               2025年1月19日 寺岡克哉


26章 般若心経
 私にとって般若心経(はんにゃしんぎょう)は、仏壇(ぶつだん)の前で毎日唱(とな)
えるほど身近なものであり、「心の宝物」となっています。

 さっそくですが、般若心経(般若波羅蜜多心経)と、そのサンスクリット原典からの翻
訳(ほんやく)を、以下に紹介します。

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        般若波羅蜜多心経(はんにゃはらみったしんぎょう)

 觀自在菩薩(かんじざいぼさつ)。行深般若波羅蜜多時(ぎょうじんはんにゃはらみっ
たじ)。照見五蘊皆空(しょうけんごうんかいくう)。度一切苦厄(どいっさいくやく)。
 舎利子(しゃりし)。色不異空(しきふいくう)。空不異色(くうふいしき)。色卽是空
(しきそくぜくう)。空卽是色(くうそくぜしき)。受想行識亦復如是(じゅそうぎょうし
きやくぶにょぜ)。
 舎利子(しゃりし)。是諸法空相(ぜしょほうくうそう)。不生不滅(ふしょうふめつ)。
不垢不浄(ふくふじょう)。不增不減(ふぞうふげん)。
 是故空中(ぜこくうちゅう)。無色(むしき)。無受想行識(むじゅそうぎょうしき)。
無眼耳鼻舌身意(むげんにびぜつしんい)。無色聲香味觸法(むしきしょうこうみそくほ
う)。無眼界(むげんかい)。乃至無意識界(ないしむいしきかい)。無無明(むむみょう)。
亦無無明盡(やくむむみょうじん。乃至無老死(ないしむろうし)。亦無老死盡(やくむろ
うしじん)。無苦集滅道(むくしゅうめつどう)。無智亦無徳(むちやくむとく)。
 以無所得故(いむしょとくこ)。菩提薩埵(ぼだいさった)。依般若波羅蜜多故(えはん
にゃはらみったこ)。心無罣礙(しんむけいげ)。無罣礙故(むけいげこ)。無有恐怖(む
うくふ)。遠離一切顚倒夢想(おんりいっさいてんどうむそう)。究竟涅槃(くきょうねは
ん)。
 三世諸佛(さんぜしょぶつ)。依般若波羅蜜多故(えはんにゃはらみったこ)。得阿耨多
羅三藐三菩提(とくあのくたらさんみゃくさんぼだい)。
 故知般若波羅蜜多(こちはんにゃはらみった)。是大神咒(ぜだいじんしゅ)。是大明咒
(ぜだいみゅうしゅ)。是無上咒(ぜむじょうしゅ)。是無等等咒(ぜむとうどうしゅ)。
能除一切苦(のうじょいっさいく)。眞実不虡故(しんじつふここ)。
 説般若波羅蜜多咒(せつはんにゃはらみったしゅ)。即説咒日(そくせつしゅわつ) 
揭帝(ぎゃてい) 揭帝(ぎゃてい) 般羅揭帝(はらぎゃてい) 般羅僧揭帝(はらそ
うぎゃてい) 菩提僧莎訶(ぼじそわか)
 般若波羅蜜多心経(はんにゃはらみったしんぎょう)


           サンスクリット原典からの翻訳

 全知者である覚(さと)った人に礼したてまつる。
 求道者にして聖なる観音は、深遠な智慧(ちえ)の完成を実践していたときに、存在す
るものには五つの構成要素があると見きわめた。しかも、かれは、これらの構成要素が、
その本性からいうと、実体のないものであると見抜いたのであった。
 シャーリプトラよ、この世においては、物質的現象には実体がないのであり、実体がな
いからこそ、物質的現象で(あり得るので)ある。実体がないといっても、それは物質的
現象を離れてはいない。また、物質的現象は、実体がないことを離れて物質的現象である
のではない。(このようにして、)およそ物質的現象というものは、すべて、実体がない
ことである。およそ実体がないということは、物質的現象なのである。これと同じように、
感覚も、表象も、意志も、知識も、すべて実体がないのである。
 シャーリプトラよ。この世においては、すべての存在するものには実体がないという特
性がある。生じたということもなく、滅したということもなく、汚れたものでもなく、汚
れを離れたものでもなく、減るということもなく、増すということもない。
 (それゆえに、シャーリプトラよ)、実体がないという立場においては、物質的現象も
なく、感覚もなく、表象もなく、意志もなく、知識もない。眼もなく、耳もなく、鼻もな
く、舌もなく、身体もなく、心もなく、かたちもなく、声もなく、香りもなく、味もなく、
触れられる対象もなく、心の対象もない。眼の領域から意識の領域にいたるまでことごと
くないのである。(さとりもなければ、)迷いもなく、(さとりがなくなることもなけれ
ば、)迷いがなくなることもない。こうして、ついに、老いも死もなく、老いと死がなく
なることもないというにいたるのである。苦しみも、苦しみの原因も、苦しみを制するこ
とも、苦しみを制する道もない。知ることもなく、得るところもない。
 それ故に、得るということがないから、諸(もろもろ)の求道者の智慧の完成に安んじ
て、人は、心を覆(おお)われることなく住(じゅう)している。心を覆うものがないか
ら、恐れがなく、顛倒(てんとう)した心を遠く離れて、永遠の平安に入っているのであ
る。
 過去・現在・未来の三世にいます目ざめた人々は、すべて、智慧の完成に安んじて、こ
の上ない正しい目ざめを覚り得られた。
 それゆえに人は知るべきである。智慧の完成の大いなる真言、大いなるさとりの真言、
無上の真言、無比の真言は、すべての苦しみを鎮(しず)めるものであり、偽りがないか
ら真実であると。
 その真言は、智慧の完成において次のように説かれた。ガテー ガテー パーラガテー 
パーラサンガテー ボーディ スヴァーハー
(往ける者よ、往ける者よ、彼岸に往ける者よ、彼岸に全く往ける者よ、さとりよ、幸あ
れ。)
 ここに、智慧の完成の心が終わった。

         (般若心経・金剛般若経 中村元・紀野一義 訳注 岩波文庫より)
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 上を見て頂ければ分かると思いますが、お経というのは、悪霊(あくりょう)を退散さ
せるための呪文や、死者の霊を成仏させるための呪文などではありません。そうではなく、
仏教の教え(仏教思想)を、「説話」としてまとめたものなのです。
 だから「般若心経」も、死者の霊を慰(なぐさ)めるという心霊的なものとは、一切関
係がありません。

              * * * * *

 さてここで、般若心経が言おうとしている本質的な意味について、私なりの説明をして
みたいと思います。

 まず、般若心経の最初の部分、觀自在菩薩(かんじざいぼさつ) 行深般若波羅蜜多時
(ぎょうじんはんにゃはらみったじ) 照見五蘊皆空(しょうけんごうんかいくう) 度
一切苦厄(どいっさいくやく)の中にある、
 「照見五蘊皆空(しょうけんごうんかいくう) 度一切苦厄(どいっさいくやく)」とい
う二つの語句で、般若心経のすべてが言い表されていると私は考えています。

 この二つの語句にたいして、私なりに、いちばん適切だと思えるように訳してみると、
 「(観自在菩薩は)この世に存在するもの全てが、 “空(くう)” であるということを
発見して、あらゆる苦しみや災厄から、救われる方法を示した。」と、なります。

 従って、般若心経の本質を理解するためには、
 1.「空(くう)」とは何か?
 2.なぜ、この世に存在するもの全てが「空」であるならば、あらゆる苦しみや災厄か
  ら救われるのか?
 という、二つのことを理解する必要があるのです。

              * * * * *

 さて、まず一つ目の「空とは何か?」 についてですが、
 「空」とは、この世に存在する全てのものが、それぞれ独立した「実体」として存在す
るのではなく、この世に存在する全てのものは、無限につづく原因と結果の「因果関係」
によって存在するという考え方です。つまり、「実体」として存在しないから「空」なの
です。

 ところで、この「因果関係」には、「時間的な因果関係」と「構成要素的な因果関係」
の二つがあります。

 前の25章でも述べましたが、前者の「時間的な因果関係」とは、過去の原因が、現在
の結果を存在させているという因果関係です。
 たとえば、今ここに私が存在するのは、過去に親から生まれたからです。そして私の親
が存在するのは、そのまた親から生まれたからです。このようにして「時間的な因果関係」
は、どんどん過去まで遡(さかのぼ)って行きます。
 しかも、私の祖先は人類だけではありません。人類の祖先から猿の祖先へ、哺乳類の祖
先へ、多細胞生物から単細胞生物へ、地球で最初の生命体へと遡るのです。
 が、しかし、「時間的な因果関係」は、そこで終わるわけではありません。なぜなら生
命が誕生する前に「地球」が作られなければならず、地球が作られる前に「太陽系」が作
られなければならず、太陽系が作られる前に「星間物質」が作られなければならず、星間
物質が作られる前に「ビッグバン」が起こらなければ、ならなかったからです。
 そしてさらには、ビッグバンが起こる前の状態でさえも、何かしらの「時間的な因果関
係」が無限に続いていたはずです。
 このように、それら無限につづく「時間的な因果関係」によって、今ここに私は存在し
ているわけです。

 一方、後者の「構成要素的な因果関係」とは、この世に存在するものは、それより下層
(細部)の構成要素から出来ているという因果関係です。
 たとえば、「私」という一個の人間は、脳や内臓、骨、筋肉、皮膚などの色々な部位か
ら出来ています。そして、それら脳や内臓などの各部位は、無数の細胞から出来ており、
それぞれの細胞は、無数の分子から出来ています。さらに分子は、原子から出来ており、
原子は、原子核と電子から出来ており、原子核は、陽子と中性子から出来ており、陽子や
中性子は、クォークとグルーオンから出来ているというように、「構成要素的な因果関係」
が続いていきます。
 そして現代科学では、まだ解明されていませんが、クォークやグルーオンでさえも、さ
らなる下層の構成要素から出来ているはずで、そのように「構成要素的な因果関係」は、
無限に続いていくものと思われます。
 それら、無限につづく「構成要素的な因果関係」によって、今ここに私は存在している
わけです。

 以上のように、
 この世に存在する全てのものは、「実体」として存在しているのではなく、無限につづ
く「因果関係」によって存在しているというのが、「空」という考え方(空の思想)なの
です。

              * * * * *

 そして二つ目の、この世に存在するもの全てが「空」であるならば、なぜ、あらゆる苦
しみや災厄から救われるのでしょう?

 ここで、上の記述をもっと正確に表現すると、「この世に存在するもの全てが “空” で
あるならば、あらゆる苦しみや災厄から救われる方法が必ず存在する」と、なります。

 それは一体、どう言うことなのでしょう?

 たとえば、この世に存在するものが「空」ではなく、あらゆるものが、他との因果関係
をいっさい持たず、それぞれが、それ自身で独立して存在するならば、それらのものは、
(因果関係を持たないから)他からの干渉が不可能で、永遠に不変であり、変化する余地
がありません。
 ところが実際は、この世に存在する全てのものが「空」なので、「時間的な因果関係」
と「構成要素的な因果関係」の、無限につづく原因と結果の「因果関係」によって、あら
ゆるものが存在しています。
 従って、原因から結果が生まれ、その結果がさらに次の原因を生み、その原因がさらに
次の結果を生んでいく・・・ というように、この世に存在する全てのものは、ずっと永
遠に同じ状態でいるのではなく、つねに変化し続けて行くことになります。

 その、具体的な一例として、
 たとえば人が生まれると、生まれたことが原因となって成長し、成長したことが原因と
なって老化が始まり、老化が原因となって死を迎えます。死を迎えると火葬されて肉体は
二酸化炭素になり、二酸化炭素は植物に取り込まれて植物を成長させます。さらに植物は、
他の動物に食べられることにより、さまざまな動物を成長させるのです。

 このように、世の中に存在する全てのものは、つねに変化し続けて行くわけです。


 ところで!
 この世に存在する全てのものが「空」であることにより、さまざまな状況や状態を「変
化させることが出来る」というのが、ものすごく重要なポイントです。
 なぜなら、「良い結果を導く原因」を積み重ねて行けば、状況や状態を、どんどん良く
して行くことができるからです。
 たとえば、もしも怪我をしたり病気になったなら、病院に行って診察を受け、適切な治
療をすれば、怪我や病気を治すことができます。
 お金が無くて困っているなら、浪費をやめて、しっかりと働けば、状況を改善すること
が出来るでしょう。
 いじめや、パワハラに苦しんでいれば、しかるべき機関に訴えたり、あるいは現場から
避難することで、状況を良くすることが出来るでしょう。

 困っている状況や、苦しんでいる状態が、永遠に続くということは絶対にありません。
どんなに悪い状況や状態であっても、良い方向に変化させる方法(良い結果を導く原因)
が、かならず存在します。

 それが、「空」という考え方(空思想)の、もっとも重要なポイントなのです。


 ところが!
 「悪い結果を導く原因」を積み重ねてしまうと、状況や状態がどんどん悪くなってしま
うので、それには注意が必要です。
 たとえば、もしも怪我をしたり病気になっても、治療を怠(おこた)り、不摂生(ふせっ
せい)を続けていれば、怪我や病気が悪化するだけでなく、最悪の場合は命を失ってしま
うでしょう。
 お金が無くて困っているのに、浪費をやめず、働きもしなければ、けっきょく一文無し
(いちもんなし)になってしまうでしょう。
 いじめや、パワハラに苦しんでいるのに、何の手も打たなければ、うつ病になったり、
最悪の場合は自殺してしまうでしょう。

 このように、「悪い結果を導く原因」を積み重ねてしまうと、状況や状態がどんどん悪
くなってしまいます。
 しかしこれも、この世に存在するもの全てが「空」である限りは、当然の結果であり、
どうしようもないことなのです。

              * * * * *

 以上、
 般若心経の最初の部分にある、「照見五蘊皆空(しょうけんごおんかいくう) 度一切
苦厄(どいっさいくやく)」という、二つの語句について説明してきました。

 私は、「空」の思想に出会い、「存在」というものに対する認識が深まったこと。
 そして、良い原因を積み重ねて行けば、良い結果が得られるという確信が持てたこと。
 これらのことは、私の「心の宝物」となっています。


27章 丸山東壁
 それは1983年の夏、私が大学の山岳部に入って2年目のことでした。
 ロッククライミングや冬山登山などを一通り経験し、私は山登りに対して自信を持ちは
じめていました。まだ大きな失敗を経験したことがなく、恐いもの知らずで、功名心(こ
うみょうしん)がとても旺盛(おうせい)になっていたのです。

 そのため、この年の夏山合宿では、「むずかしい岩壁に挑戦しよう!」という話になり
ました。その岩壁とは、北アルプスの立山にある「丸山東壁」です。600メ-トルの垂
直な壁がそびえ立つ、ロッククライミングではとても有名な場所です。
 丸山東壁には、先輩と私と、私の同輩との、3人のパーティで挑戦しました。しかし登
り始めてから15時間たっても、150メ-トル(岩壁全体の4分の1)しか登ることが
出来ませんでした。それで仕方がなく、途中で撤退(てったい)することになったのです。

 じつを言うと、撤退の原因を作ったのは私でした。
 私が、オ-バ-ハング(岩がせり出し、天井(てんじょう)のように覆(おおい)い被
(かぶ)さっている所)を登っている途中で、ロープ(厳密にはロープで作った「あぶみ」
と呼ばれる三段はしご)に足がからまり、逆(さか)さ吊(つ)りの状態になって、身動
きが出来なくなったのです。
 私はその状態のまま、40分ぐらい悪戦苦闘をしていました。しかし体力と精神力が消
耗し、精も根も尽きはててしまいました。しかもそのとき、岩壁を登り始めてからすでに
15時間も経過していたのです! それだけでも、体力はずいぶん消耗していました。
 そして日も暮れてきました。しかし私たちは、岩場で宿泊する装備を持っていなかった
のです。

 そのため先輩の判断で、それ以上登るのをあきらめ、ロープを使って下降(懸垂下降:
けんすいかこう)することに決まりました。ところが下降している途中で、完全に日が暮
れて、真っ暗になってしまったのです。ヘッドライトを点灯しても、ロ-プで下降した先
にテラス(足場)があるのかないのか、まったく見えません。その中をロープで下降して
行くと、「暗黒の地の底」に吸いこまれて行くような感じがしました。

 そのとき、私は心の中で、
 「ああ、私が立ち入ってはならない所に来てしまいました。」
 「願わくば、どうか生きて帰らせて下さい。」
と、運命を司(つかさど)っている「何かとても大きな存在」に祈っていました。つまり、
今にして思えば「神」に祈っていたのでしょう。

 しかし不思議なことに、そのとき私は、「死への恐怖」をまったく感じませんでした。
「生きたい!」という気持ちも、「死にたくない!」という気持ちも、全くありませんで
した。心がパニックになっていた訳でも、茫然自失(ぼうぜんじしつ)していた訳でもあ
りません。
 心が妙(みょう)に落ちつき、まったく焦りや不安がなく、よけいな体の力が抜けてい
ました。そして全身が、なにか暖かい空気に包まれ、優しい雰囲気に抱かれているような
感じがしました。とても安らかで、とても充実した気分です。
 そのような気持ちになったのは、おそらく、死に物狂いで一生懸命に体力の限界まで頑
張(がんば)ったことにより、「生死を超越した境地」に到達したからだと思います。

 この、「一生懸命に限界まで生き抜いたなら、死が怖くなくなり、安らかで充実した気
持ちになれる」という体験は、私の「心の宝物」となりました。
 そして60歳を過ぎた現在。その体験により、だんだんと近づいてくる「自分の死」に
たいして、落ち着いた態度で向き合えるようになっています。

 ちなみに、幸運にも私たちのパ-ティは、だれも怪我をすることなく、無事に下山する
ことができました。もちろん、先輩が冷静な決断をして、適切な行動をしたこと。そして
みんなが、細心の注意をはらって下山したことが幸いしたのでした。


 つづく



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