心の宝物 6
2025年1月12日 寺岡克哉
21章 地球は青いに違いない
1961年に、世界で初めて有人宇宙飛行に成功し、「地球は青かった!」という有名
な言葉を残したのは、旧ソ連のユーリイ・ガガーリンという人物でした。
が、しかし、それよりさらに2300年も昔の時代において、「地球は青いに違いな
い!」と予想した人物がいました。
それが「荘子(そうし 注4)」という人です。
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注4 荘子(そうし 紀元前369年頃~紀元前286年頃):
中国の戦国時代の思想家で、「荘子(そうじ)」という本の著者とされており、また、
道教の始祖の一人とされています。
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さて、以下の文章は、
荘子(そうじ:岩波文庫 金谷修 訳注)の逍遥遊(しょうようゆう)編 第1-1か
ら抜粋し、同書籍の注釈を参考にしながら、私なりに少しアレンジしたものです。
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大鵬(たいほう 注5)が南の果ての海へと天翔(あまか)けるときは、まず海上を滑
走して波立てること1200キロメートル。
はげしいつむじ風に羽ばたきをして空高く舞い上がること、3万6500キロメートル
(注6)。
それから6月の大風に乗って飛び去るのだ。
してみると、大空の青々とした色は、いったい本当の色であろうか。
それとも、遠くへだたって限(かぎ)りがないから、そう見えるのであろうか。
鵬(ほう)もまた下界を見るとき、やはりこのように青々と見えているに違いない。
注5 大鵬(たいほう):
翼(つばさ)の大きさが1000キロメートル以上もあるような、ものすごく大きな鳥
で、太平の世に現れる瑞鳥(ずいちょう 注7)とされています。
注6:
気象衛星ひまわりは、上空3万6000キロメートルにあるので、それと同じぐらいの
高さです。
注7 瑞鳥(ずいちょう):
めでたいことが起こる前兆とされる鳥で、他に鶴(つる)や鳳凰(ほうおう)などがい
ます。
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上の話は、「荘子(そうじ)」を読み始めると、すぐ最初の方に出てくるエピソードで
すが、私が初めて「荘子(そうじ)」を読んだとき、まずこの話に、ものすごく驚きまし
た。
なぜなら、「空が青く見えるのは、太陽光に含まれている青い光が、地球の大気によっ
て散乱されるからだ」という科学知識が無かった時代。そしてもちろん、宇宙飛行を可能
にする科学技術なども、まったく存在しなかった時代。
そんな、キリストが生まれた2000年前よりも、さらに昔の時代において、「宇宙か
ら地球を見たら、青く見えるに違いない!」という予想ができたなんて、ほんとうに驚異
的だからです。
まず、そのことによって私は、荘子(そうし)という人物から、ものすごく大きな衝撃
を受けました。そしてその後、「荘子(そうじ)」という本を読破することになり、それ
が「心の宝物」となったのでした。
ところで余談ですが、
むかしの大相撲で、「大鵬」という、ものすごく有名な横綱いました。そして、この
「大鵬」という四股名(しこな)の意味が、何なのかを知ることができたのも、じつは
「荘子(そうじ)」を読んだからでした。
22章 上善は水のごとし
この章では、「老子(ろうし:注8)」という人の言葉で、いちばん私の印象に残って
いて、「心の宝物」となっているものを紹介しましょう。
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注8 老子(ろうし 紀元前571年頃~紀元前471年頃):
老子は、中国の春秋時代の哲学者で、荘子とならぶ道教の始祖です。
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さて、私が「老子」という本(老子道徳経)を読んで、いちばん印象に残ったのは、以
下に挙げる、「上善(じょうぜん)は水の如(ごと)し」という話です。
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最高のまことの善とは、たとえば水のはたらきのようなものである。
水は万物の成長をりっぱに助けて、しかも競(きそ)い争うことがなく、多くの人がさ
げすむ低い場所にとどまっている。そこで、道(どう:注9)のはたらきにも近いのだ。
住居としては土地の上が善(よ)く、
心のはたらきとしては奥深いのが善く、
人との交わりでは情け深いのが善く、
ことばでは信義を守るのが善く、
政治としては平和に治(おさ)まるのが善く、
事業としては有能なのが善く、
行動としては時にかなっているのが善い。
すべて、水を模範(もはん)として争わないでいるのが、善いのだ。そもそも、競い争
うようなことをしないからこそ、まちがいもないのだ。
(老子道徳経 上篇 8章)
注9 道(どう):
老子のいう「道」とは、人としての生きる道という意味だけでなく、宇宙自然をもあわ
せつらぬく、唯一(ゆいいつ)絶対で根源的な究極の原理のことです。
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私は、初めて上の話を読んだとき、ほんとうに心から、ものすごく感動してしまいまし
た。なぜなら水は、すべての生命にとって、絶対に必要不可欠なものであり、もしも水が
無ければ、どんな生命も絶対に生きることが出来ないからです。このように水は、すべて
の生命を根底から支えています。
しかし、それなのに水は、驕(おご)り高ぶることがなく、低い所に留まり、恩着せが
ましくもありません。このような「水の働き」については、ほんとうに私も見習(みなら)
うべきものがあると思っており、「心の宝物」となっているのです。
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しかし老子は触れていませんが、ときとして水は、大雨による洪水や、地震による津波
などの、「大災害」をもたらすことがあります。
このように水は、ひとたび猛威(もうい)を振(ふ)るってしまったら、ものすごく恐
ろしい面も存在するのは、絶対にまちがいないのです。
従って、「上善は水の如し」という上の話は、「水の働き」の一面しか捉(とら)えて
いないと言えるでしょう。しかし、だからと言って私は、老子の「教え」を否定するつも
りは全くありません。
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ちなみに、「上善は水の如し」という言葉を私が初めて知ったのは、「上善如水(じょ
うぜんみずのごとし)」という「日本酒の銘柄」によってでした。この「上善如水」とい
う酒は、私がものすごく大好きな酒で、正月や誕生日のときには必ず飲んでいたほどです。
その後、「上善は水の如し」というのが、老子の言葉であることを知り、それが老子と
いう本(老子道徳経)を読む「きっかけ」になった次第です。
しかし現在の私は、心臓病を患(わずら)ってしまい、まったくお酒が飲めなくなりま
した。「もう、上善如水が飲めない!」と思うと、すごく残念であり、何となく寂(さみ)
しさを感じてしまうのが正直なところです。
23章 真理
「真理」というと、一生をかけた研究や修行をして、やっと見つけることができるよう
な、何かとても難しくて、深遠(しんえん)なもののように感じます。
以前の私も、「真理」というのは一生をかけて探求するものであり、しかも大多数の人
は、一生をかけたとしても、真理にたどり着くことが出来ないと思っていました。
しかし現在の私は、「真理」というものの多くが、たとえば「1+1=2」のような、
ごくごく「当たり前」なことの中に、存在していると考えています。つまり、ごくごく
「当たり前」であるからこそ、万人が認める「真理」になり得るのだと、私は思うわけで
す。
「真理」だからこそ、難しい説明や考察や議論なんか必要なく、「そんなのは当たり前
だ!」と、ほとんど全ての人が何の疑問も感じることなく、それが本当に正しいことだと、
心の底から納得するわけです。
たとえば・・・
水は、高い所から低い所に向かって流れる。
物は、上から下に落ちる。
時間は、過去から未来に流れる。
「結果」が存在すれば、その「原因」が必ず存在する。
何事も「始まり」があれば、必ず「終わり」がある。
(肉体としての)人間は、生まれたからには必ず死ぬ。
永遠に生きる(肉体としての)人間はいない。
飲み食いをしなければ、(肉体としての)人間は死んでしまう。
時間が経てば、(肉体としての)人間は老いる。
(「肉体としての」人間と断っているのは、たとえば釈迦やキリストなどのように、肉体
が死んでも「精神として」ならば、後世の人類に受け継がれて永遠に生きる場合があるか
らです。)
等々、これら上の例のように、誰が聞いたって、「そんなのは当たり前だ!」と思える
ことだからこそ、それが「真理」であると万人が認めるのです。
「真理とは、ものすごく当たり前のことを指して言うのである。」
「また逆に、ものすごく当たり前のことだからこそ、それが真理だと言えるのである。」
私は、このことを悟ったとき、「真理」というものに対する強い拘(こだわ)りという
か、執着(しゅうちゃく)というか、呪縛(じゅばく)というか、そのようなものから解
放されて心が軽くなり、とても自由な気持ちで人生を過ごせるようになりました。
それで、この「悟り」が、私の「心の宝物」となったのです。
24章 神を悟る
神とは「この世界そのもの」であると、私は悟りました。
ここで、「この世界」とは、時間、空間、エネルギー、物質、生命、人間、意識、情報、
人類社会、生態系、地球、太陽系、銀河系、自然法則、因果関係、偶然や必然などを含め
た、「この宇宙に存在する事物の全て」をいいます。
そうすると、神とは「この宇宙に存在する事物の全て」と言うことになります。
* * * * *
ところで神は、信仰の有無に関係なく存在します。
つまり神は、それを信じようが、信じまいが、そんなことには一切関係なく、厳然(げ
んぜん)と存在するのです。
なぜなら、神とは「この世界そのもの」なので、「この世界が存在している」と言うこ
とは、「神が存在している」と言うことに他ならないからです。そして、「この世界が存
在していること」は、誰にも否定できない「自明の事実」だからです。
ゆえに、この世界が存在している以上は、信仰の有無に関係なく、神は存在しているの
です。
* * * * *
神は、私を受け入れています。
なぜなら、神は「この世界そのもの」であり、私も「この世界の一部」なので、すでに
私は「神の一部」となっているからです。
ゆえに神は、その一部として私を受け入れているのです。
* * * * *
神は、私の存在を肯定しています。
なぜなら、もしも神が私の存在を禁止していれば、つまり「この世界」が私の存在を禁
止していれば、私が存在する訳がないからです。
ところで、神(この世界)が存在を禁止するものとは、たとえば、
永遠に老いない人間。
永遠に死なない人間。
永遠に不変な物体。
時間が、現在から過去に流れること。
・・・・・・等々の事物です。
これら上に挙げたような、生物学的、自然法則的に、絶対に存在し得ない事物が、神に
よって、その存在が禁止されているものです。
しかし一方、私は、この世界に存在しています。
しかも、この宇宙に太陽や地球ができ、その地球に生命が誕生し、その生命が人間に進
化し、そして日本という国に私の祖先が定住したという、数えきれないぐらいの奇跡が起
こって、今ここに私は存在しているのです。
この奇跡的な事実は、私の存在が、神によって禁止されていないだけでなく、むしろ積
極的に肯定されているとしか考えられません。
ゆえに神は、私の存在を肯定しているのです。
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神は、私を愛してくれます。
なぜなら、神は私の存在を肯定しており、そして「存在の肯定」とは愛だからです。
「存在の肯定」が愛であるのは、たとえば愛する人、愛する家族、愛する仲間、愛する
町、愛する国、愛する動物、愛する植物、愛する自然、愛する地球など・・・これら「愛
するもの」はみな、その存在を望み、その存在を願い、その「存在を肯定」するからです。
その逆に、「存在の否定」とは「憎むこと」です。
なぜなら、たとえば憎い人間、憎い組織、憎い制度、憎い民族、憎い国、憎い雑草、憎
い害虫、憎い害獣、憎い病気、憎い戦争など・・・これら「憎いもの」はみな、その消滅
を望み、その消滅を願い、その「存在を否定」するからです。
このように、「存在の否定」が「憎むこと」であるのを考えれば、「存在の肯定」が
「愛すること」であるのが納得できるかと思います。
ゆえに、「存在の肯定」とは「愛」であり、神は私の存在を肯定しているので、神は私
を愛してくれているのです。
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以上、ここまで述べましたように、
神とは「この世界そのもの」です。
だから神は、信仰の有無に関係なく存在します。
また神は、その一部として、私を受け入れてくれます。
そして神は、私の存在を肯定してくれます。
ゆえに神は、私を愛してくれるのです。
以上のように「神を悟ったこと」は、私にとって、とても大きな「心の宝物」となって
います。
25章 存在
「存在する」というのは、じつに不思議なことです。
なぜ、宇宙は存在するのでしょう?
なぜ、物質が存在するのでしょう?
なぜ、太陽や地球が存在するのでしょう?
なぜ、生命は存在するのでしょう?
なぜ、人類は存在するのでしょう?
そして、なぜ自分は存在するのでしょう?
これらのことに思いを馳(は)せると、やはり「存在する」というのは、実に不思議な
ことだと感じるのです。
しかしそれにしても、なぜ「存在するもの」は、存在するのでしょう?
この問題に対する根本的な考え方には、「仏教的な考え方」と「キリスト教的な考え方」
の二つがあります。(他の考え方もあるのかも知れませんが、私が知っているのはこの二
つです。)
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まず一つ目の「仏教的な考え方」とは、原因と結果が無限に続いて行く「因果関係」に
よって、あらゆるものが存在しているという考え方です。
そして、この「因果関係」には、「時間的な因果関係」と「構成要素的な因果関係」と
いう、さらに二つの因果関係があります。
前者の「時間的な因果関係」とは、過去の原因が、現在の結果を存在させているという
因果関係です。
たとえば、今ここに私が存在するのは、過去に親から生まれたからです。そして私の親
が存在するのは、そのまた親から生まれたからです。
ところで、このような「時間的な因果関係」は、無限の過去から続いて来ました。なぜな
ら、私の祖先は人類だけではないからです。
私の祖先は、人類の祖先から猿の祖先へとさかのぼり、さらには哺乳類の祖先、多細胞
生物、単細胞生物、そして地球で最初の生命体にまでさかのぼるのです。
しかし「時間的な因果関係」は、そこで止まるわけではありません。生命が誕生する前
には、地球が作られなければなりません。そして、地球が作られる前には太陽系が作られ
なければならないからです。
さらには、太陽系が作られる前には星間物質が作られなければならず、星間物質が作ら
れる前には、ビッグバンが起こらなければなりません。
そしてさらには、ビッグバンが起こる前の状態でさえも、「時間的な因果関係」は無限
に続いて来たはずです。
これら無限に続く「時間的な因果関係」によって、今ここに私は存在しているのです。
一方、後者の「構成要素的な因果関係」とは、あらゆるものが、それより下層の構成要
素によって存在しているという因果関係です。
たとえば「私」という一個の人間は、脳や内臓、骨、筋肉、皮膚などの色々な部位から
成り立っています。そして、それらの各部位は無数の細胞から成り、細胞は無数の分子か
ら成り立っています。
さらには、分子は原子から、原子は原子核と電子から、原子核は陽子と中性子から、陽
子や中性子はクォークとグルーオンから・・・というように、「構成要素的な因果関係」
が続いて行きます。
そして現代科学ではまだ解明されていませんが、さらなる下層の構成要素も、無限に続
いているものと思われます。
それら無限に続く「構成要素的な因果関係」によって、今ここに私は存在しているので
す。
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そして二つ目の、「存在すること」に対する「キリスト教的な考え方」とは、「神が在
らしめている!」というものです。
つまり、この世のあらゆるものは、「神の働き」によって常に支えられているから存在
できるという考え方です。これは、たとえば発電所と電灯のような関係で、発電所が止ま
れば電灯も直ぐに消えてしまうようなものです。
それと同じように、宇宙の全てのものが「神の働き」によって常に支えられており、も
しも「神の働き」が無くなれば、全てが一瞬にして消え去ってしまうという考え方です。
私が今ここに存在できるのも、「神の働き」が常に私を支えてくれているからです。
この考え方は、少し稚拙(ちせつ)な感じがするかも知れません。そして、何でもかん
でも原因を神のせいにして、思考停止に陥(おちい)る心配も拭(ぬぐ)いきれません。
しかしながら、近代自然科学がキリスト教圏で生まれた事実を見逃してはいけません。
つまり、「この世を在らしめている神の働き」を探求しようという動機から、近代自然科
学が生まれたことは否定できないのです。
たとえば、
恒星(こうせい)や惑星(わくせい)が、いつまでも止まることなく運動を続けること。
太陽の引力によって、地球が太陽に落ちてしまわないこと。
太陽を回る地球の遠心力によって、太陽系から地球が飛び出してしまわないこと。
太陽が燃え尽きないで、いつまでも輝き続けていること。
あるいは、「原子」のような小さな世界においても、
原子核の周りの電子が、電気的な引力によって原子核に吸収されないこと。
原子核の陽子と陽子が、電気的な反発力によって飛び散らないこと。
(これらは、原子が原子として安定に存在するためには、つまり物質が物質として存在
するためには、つねに「何かの働き」が支えていることを意味しています。)
このように、世の中のあらゆるものが存在できるのは、何らかの作用がつねに働き続け
ているからです。
上で挙げたような問題の探求に、科学者たちが非常に強い情熱をそそぐのは、「この世
を在らしめている神の働きが必ず存在するはずだから、是非ともそれを発見したい!」と
いう、「キリスト教的な考え方」が強く影響しているのは確かです。
* * * * *
ところで、「存在」にたいする「仏教的な考え方」と「キリスト教的な考え方」の、一
体どちらが正しいのでしょう?
この疑問について、前章で述べた「私が悟った神」の立場からすると、「仏教的な考え
方」も「キリスト教的な考え方」も、その両方が正しいと言うことになります。
なぜなら、「私が悟った神」つまり「この世界そのもの」は、「仏教的な考え方」も
「キリスト教的な考え方」も、その両方を含んでいるからです。
だから人類は、「この世界」を観察し、考察することによって、「存在」にたいする
「仏教的な考え方」や「キリスト教的な考え方」を見い出したのでしょう。
「この世界に存在するもの」は、どのようにして存在しているのか?
この疑問にたいして、「仏教的な考え方」と「キリスト教的な考え方」に出会い、「こ
の世界はその両方を含む」と悟れたことは、私の「心の宝物」となっています。
つづく
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