心の宝物 5
2025年1月5日 寺岡克哉
17章 隣人愛
私の人生において、「隣人愛」という概念に出会ったことも「心の宝物」です。
「隣人愛」というのはキリストが説いた愛の概念であり、新約聖書によると、以下の言
葉によってキリストは隣人愛を説いています。
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「隣人を自分のように愛しなさい」 (マタイによる福音書22章39節)
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上の言葉から、隣人愛は、まず「自己愛」を前提にしていることが分かります。
それは、自己否定に陥(おちい)っていると、隣人を愛することなど、とても出来ない
ことから分かります。
が、しかし、この場合の自己愛とは、エゴイズムやナルシシズム、自己陶酔、自信過剰、
自意識過剰などと言った、「間違った自己愛」のことではありません。そのような「間違っ
た自己愛」に陥っても、隣人を愛することが出来ないからです。
隣人を愛するためには、「正しい自己愛」を持たなければならないのです。この「正し
い自己愛」とは、自己の欲望を野放しにせず、怒りや憎しみを抑制して暴力をふるわず、
社会の平和と心の平安を望み、しかし周りに迎合(げいごう)することなく、自分の信念
に忠実に生きる・・・と、いうような自己愛です。
このように、自分を正しく愛することが出来てはじめて、隣人を愛することが出来るよ
うになるのです。
* * * * *
ところで、「隣人愛」についての有名な議論に、「隣人とは誰か?」という問題があり
ます。
つまり、
隣人とは、自分の家族や親しい友人のことなのか?
同じ村や、同じ町に住んでいる人たちが隣人なのか?
同じ国の人が隣人なのか?
一体どこまでの人間を、自分の隣人として愛せば良いのか?
という問題です。それについてイエス・キリストは、新約聖書の中で次のように答えてい
ます。
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イエスはお答えになった。「ある人がエルサレムからエリコへ下っていく途中、追いは
ぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去っ
た。ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って
行った。同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側
を通って行った。ところが、旅をしているサマリア人は、そばに来ると、その人を見ると
哀れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に
連れて行って介抱した。そして翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主
人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに
払います。』さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になっ
たと思うか。」 (ルカによる福音書10章30-36節)
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上の話には、追いはぎに合った被害者のほかに、ユダヤ教の祭司、レビ人、サマリア人
という三人の人間が出てきます。そしてこの話を理解するためには、これら三人がどうい
う人間なのか知る必要があるのです。
ユダヤ教の祭司は神に仕える正しい人で、同朋(どうほう)が困っていたら、まっさき
に救いの手を差しのべなければならない人です。
レビ人とは、エルサレムの神殿で門番と聖歌隊を兼ねているような役職の人で、やはり
神に仕える人です。
そしてサマリア人とは、パレスチナのサマリア地方に住む人々のことです。その昔、こ
の地方は外国によって占領され、そのときに移住してきた外国人と、従来から住んでいた
ユダヤ人との混血がサマリア人なのです。排他的で選民思想の強いユダヤ人は、サマリア
人を「混血児」として忌(い)み嫌い、軽蔑してつき合いませんでした。
ところで、追いはぎに襲われたのはユダヤ人です。だから、この人を隣人として一番に
助けなければならないのはユダヤ教の祭司で、その次がレビ人です。
そしてサマリア人にとって、この追いはぎに襲われたユダヤ人は、もはや隣人ではなく、
助ける義務もありません。
しかし結局、追いはぎに襲われた人を助け、その人の隣人となったのはサマリア人でし
た。
このことから、上の新約聖書の話は、次のことを示唆(しさ)しています。
つまり、たとえ見ず知らずの人でも、さらにはお互いに忌み嫌い、敵対する人間であっ
ても、その人が困っていたら、自ら進んで隣人となり、助けてあげること。
すなわち、「誰が自分の隣人なのか?」が問題なのではなく、「自ら進んで隣人となる
こと」が、隣人愛の本質なのです。
そして、このことから、「隣人愛とは、誰をも区別することなく、自分以外の全ての人
に対する愛である」と、言うことができるのです。
* * * * *
ところで私は、「隣人愛とは、他人の命を救うような仰々(ぎょうぎょう)しいことだ
けではない」と考えています。
たとえば、
自分の人生に色々と嫌なことがあっても、周囲の人間や社会に対して、怒りや憎しみの
感情をぶつけないこと。
怒りが込み上げてムカついても、他人を罵(ののし)ったり、暴力をふるったりしない
こと。
弱い立場の人間に対して、いじめや差別を行わないこと。
そして出来れば、優しさや微笑(ほほえみ)をいつも絶やさないように心がけること。
このように、周囲に対する「ほんの少しの思いやり」を持つだけでも、それは立派な隣
人愛だと私は思っています。
18章 最高の愛
私が40歳ぐらいになった時のことです。
静かな部屋で瞑想(めいそう)をすると、「愛の感覚」が生じるようになりました。し
かも、その「愛の感覚」を、どんどん高めて行くことも出来るようになったのです。
この「愛の感覚」とは、私の中に「愛」が生じたときに感じる、「心の感覚」と「体の
感覚」の両方を言います。
その「愛の感覚」を、どんどん高めて行くと、ついに「愛の感覚が最高に高まった状態」
になりますが、それが「最高の愛」の感覚です。
ところで私は、盲目的で理性の伴(ともな)わない「感覚だけの愛」は、大変に危険だ
と考えています。それは、狂信的な神への愛による異教徒の弾圧や、狂信的な国家への愛
による侵略戦争など、世界の歴史を見れば明らかです。
しかしながら私は、
「愛の感覚」というのは、どこまで高めることが出来るのか?
「最高の愛」の感覚とは、一体どのようなものなのか?
ということを、無性に探求したくなるのです。この欲求に駆(か)られるとき、自分が何
か「見えない力」に導(みちび)かれているような気さえします。たぶんこれは、食欲や
性欲と同じような、「生命の根源的な欲求」なのかも知れません。
* * * * *
さて、
瞑想に入り、まず最初に訪(おとず)れる「愛の感覚」は、最愛の異性と「ギューッ」
と抱きしめ合って、「身も心もひとつに溶け合ってしまいたい!」と、いうような感覚で
す。あるいは、「愛する異性に、自分の身も心も全てを捧(ささ)げたい!」と、いうよ
うな感覚です。
この「愛の感覚」は「男女の愛」ですが、しかし、単なる「肉体的な性欲」をすでに超
越した愛です。なぜなら、心はすごく高揚しているのですが、官能的な肉体の反応(男性
で言えばペニスの勃起)が生じないからです。
しかしながら、胸が「キュン」としたり、「ジーン」としたり、「ドキドキ」したり、
「ワクワク」したりして、めくるめくような、とろけるような幸福感があります。
また、全身に生命のエネルギーが満ちあふれて、手や足が「ジンジン」とします。体の
全体がほんわかと温かくなり、少し頭に血が上って「ポーッ」とします。
そして全身が、温かくて優しい愛の雰囲気(愛の光や波動)に包まれている感じがする
のです。
このように私の場合、「愛の感覚」が生じる最初のキッカケは、「異性に対する愛」か
ら始まります。
しかし、この「愛の感覚」は、単なる肉体的な性欲よりも「高い次元の愛」であるのは
確かです。なぜなら、このような精神状態のときに、異性との性行為などの「肉欲的な想
像」をすると、返って「愛の感覚」が消滅し、心がしらけてしまうからです。
ところで、以上のような「愛の感覚」をつかむためには、多少の「性的な禁欲」が必要
かも知れません。というのは、性欲を少しも我慢せずに、「性的なエネルギー」を直ぐに
放出してしまうと、「愛の感覚」を高めるためのエネルギーが消耗してしまうからです。
しかし「禁欲」とは言っても、性欲を頭ごなしに抑(おさ)えつけるのではありません。
性的なエネルギーを、心を上昇させるためのパワーに転化するのです。つまり、自分の心
を抑えつけるのではなく、性欲のパワーで心をどんどん上に押し上げるようにするのです。
だからこの「禁欲」には、心を抑圧したときに生じる、胸や喉(のど)や息のつまるよう
な「鬱屈(うっくつ)感」がありません。
じつは、「愛の感覚」の正体とは「性欲を昇華したもの」ではないかと、私は考えてい
ます。
さて、「愛の感覚」がさらに高まると、上で述べた「異性とひとつに溶け合いたい!」
という感覚が、赤ん坊や子供に対しても感じるようになります。
「異性が愛しい!」というのと同じような感覚が、赤ん坊や子供に対しても起こるので
す。赤ん坊や子供を、「ギューッ」と抱きしめたくなってしまいます。私に子供はいない
のですが、「目の中に入れても痛くない!」というのは、このような気持ちなのかも知れ
ません。
さらには大人や老人にも、親密な感情が起こって来ます。そして、病人や怪我人、体の
不自由な人、精神的に苦しんでいる人、戦争や飢えに苦しんでいる人々に対して、
「何とか元気づけてあげたい!」
「苦しみを取り除いてあげたい!」
「自分の愛のエネルギーを、注いであげたい!」
と、いうような感情が起こって来るのです。もちろん、それら全ての人を救うのは不可能
ですし、自分が実際にできることは非常に限られています。しかし、心の底から湧き出る
エネルギーによって、そのような感情が自然に引き起こされるのです。
ところで、以上のような愛の感覚、つまり「隣人愛」や「人類愛」は、「異性に対する
愛」よりも高い次元の愛であるのは確かです。
なぜなら、このような精神状態の時に、「一人の異性だけを、命を懸けて愛する!」と
いう思いを起こしてみると、何か二人だけの狭い世界に閉じこもっているだけの「窮屈
(きゅうくつ)さ」を感じるからです。そして、「異性への愛」だけに閉じこもるのは、
所詮(しょせん)はエゴイズムの延長でしかないような気がして、「愛の感覚」が消え去っ
てしまうからです。
さて、「愛の感覚」がさらに高まると、動物や植物を含めた「地球の生命全体」と一つ
につながり、一体になりたいという感覚になります。
鳥も獣(けもの)も魚も草も花も木も、全ての生命が愛しく感じられます。そして全て
の生命と、愛を分かち合いたくなります。
自分が生きていることと、この地球に生命が存在することが、嬉しくて嬉しくて仕方が
なくなります。そしてそれが、涙がでるほど有難く感じてきます。
ところで・・・ 生命には、怒りや憎しみ、エゴイズム、闘争、殺し合いなどの「悪」
の性質が存在します。しかし、それら「生命に存在する悪の性質」をも含めて、「生命」
というものの存在を、認めることが出来るようになります。
もちろん、「生命に存在する悪の性質」を容認する訳ではありません。しかし、それを
理由にして、「生命なんか滅んでしまえば良いのだ!」というような、生命の存在を否定
する気持ちが起こらなくなるのです。とにかく、ただひたすら、全ての生命の平和と幸福
が、自分の望みの全てになるのです。
そしてついに!
「愛の感覚」がさらに高まった状態が、私の体験した「最高の愛」の感覚です。
この状態になると、精神が高いレベルの一点に「ギューッ」と集中して、何も考えられ
なくなります。つまり思考が停止して、「頭が真っ白」になるのです。
そして思考が停止するので、感情も静まります。だから、心が非常に安定してきます。
もう、「ドキドキ」も、「ワクワク」もしません。
しかし精神の状態は、非常に高いレベルに高揚し、一点に集中しています。そして体の
全体に、「ジンジン」と感じる生命のエネルギーが満ちあふれます。さらには、優しく温
かな愛の雰囲気(愛の光や波動)に全身が包まれます。
このような精神状態になると、もう、「愛している!」とか「愛を与えたい!」という
気持ちが消滅してしまいます。
そして、「これで良し!」、「全て良し!」、「あるがままで良し!」という、感じが
するのです。
ところで、言語による思考が生じると、このような「最高の愛の感覚」から脱落してし
まいます。だから、言語によらない感覚として、「これで良し!」という感じがするので
す。つまり、心が求めている最大の欲求と、心の状態がぴったりと一致し、大変な満足と
幸福を感じるのです。
また、自分自身に対する執着も消滅してしまい、ことさらに小賢(こざか)しいことを、
何もする気が起きなくなります。そして「なるようになる!」とか、「すべて自然に任せ
れば良い!」という気持ちになるのです。
* * * * *
ところで私が60歳を過ぎると、「最高の愛の感覚」を感じることが出来なくなりまし
た。
その理由として、「最高の愛の感覚」とは「性欲を昇華したもの」であると私は考えて
いますが、60歳を過ぎて性欲が著(いちじる)しく減退したからだと思います。
しかしながら、40歳代から50歳代にかけて「最高の愛」の感覚を体験することが出
来たこと。つまり私の生涯の中で、そのような体験を得たことは、現在でも「心の宝物」
となっています。
19章 よく人を愛し、よく人を憎む
以下は、論語(注2)という書物にある孔子(注3)の言葉です。
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子曰わく、惟仁者のみ能く人を好み、能く人を悪む。
(上の文は、以下のように読みます。)
子(し)曰(のたま)わく、惟(ただ)仁者(じんしゃ)のみ能(よ)く人を好み、能
く人を悪(にく)む。
(また、口語訳は以下のようになります。)
孔子(こうし)先生がおっしゃった、ただ思いやりの心を持った人だけが、先入観なく
正しく人を愛し、正しく人を憎むことができる。
注2 論語:
孔子(注3)と、その高弟の言行を、孔子の死後に弟子が記録した書物です。
注3 孔子(紀元前552年~ 紀元前479年):
中国の思想家で、釈迦、キリスト、ソクラテスと並んで、世界の四聖人に数えられてい
ます。
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上の孔子の言葉にある、仁者の「仁(じん)」とは、キリストが説いた愛、釈迦が説い
た慈悲にならぶ、孔子が説いた愛の概念であり、
「自他のへだてをおかず、一切のものに対して、親しみ、いつくしみ、なさけぶかくあ
る、思いやりの心」のことを言います。
ところで私は当初、キリストの「敵を愛しなさい」という教えに傾倒(けいとう)して
おり、そのように努力もしていたので、
孔子の「惟仁者のみ能く人を好み、能く人を悪む」という言葉にたいして、すこし反感
を持っていました。
というのは、本当の仁者ならば、つまり本当に、自他のへだてをおかず、一切のものに
対して、親しみ、いつくしみ、なさけぶかくあり、思いやりの心がある人ならば、すべて
の人間を愛するのみで、人を憎む訳がないと私は考えていたからです。
* * * * *
しかし60歳を過ぎた現在の私には、キリストが言うような「敵を愛すること」は、お
そらく人間にとって到達不可能な境地だと思えてならず、ほんとうに敵を愛することが出
来るのかどうか、ものすごく疑問に思っています。
たとえば、自分をバカにした人間、自分を非難した人間、自分を騙(だま)した人間、
自分を陥(おとしい)れた人間、自分をいじめた人間、自分に暴行を加えた人間、自分を
殺そうとした人間・・・ そんな人間を、ほんとうに心から愛することなど出来るのでしょ
うか?
あるいは、自分の家族をいじめた人間、自分の家族に暴行を加えた人間、自分の家族を
殺そうとした、あるいは殺した人間・・・ そんな人間を、ほんとうに心から愛すること
など出来るのでしょうか?
私は、そのような疑問を根強く持っています。それで私は長い間、ほんとうに敵を愛す
ることが出来るのかどうか、心の中で思考実験を繰りかえして来ました。つまりテレビの
報道番組で、殺人、暴行、いじめ、虐待などの事件が放送されるたびに、その加害者を愛
そうとする試(こころ)みをして来たのです。
私は20歳代の頃に新約聖書に出会ってから、30年以上もそのような「敵を愛する試
み」というか、「敵を愛する訓練」というか、「敵を愛する努力」を続けていました。し
かしその結果、どんなに努力しても、私には、どうしても敵を愛することが出来なかった
のです。
そして58歳になった頃、「敵を愛することなど、絶対に不可能だ!」、「もしも、敵
を心から愛することが出来たなら、それはもはや、精神が異常なのに違いない!」という
結論に至(いた)ったのでした。
* * * * *
現在の私は、キリストの「敵を愛せ!」という言葉よりも、孔子の「惟仁者のみ能く人
を好み、能く人を悪む」という言葉の方が、人間にとって実現可能な境地であり、人間に
対して思いやりのある、優しい言葉のように感じています。
たとえ、どんなに優しい人間でも、人を憎んでしまうことが、どうしてもあるでしょう。
しかしそれは、人間として生きているならば当然であり、否定することが出来ない「人間
の現実」なのです。
孔子は、そのような「人間としての現実」を認めた上で、「どうしても人を憎んでしま
うのなら、私心のない公平な心で、正しく人を憎むべきであり、それが出来れば人間とし
て十分に優れているのだ」と、説いているように私には思えるのです。
以上のように、「惟仁者のみ能く人を好み、能く人を悪む」という孔子の言葉は、「敵
を愛せ!」という長年の呪縛(じゅばく)から私を救ってくれたので、今では「心の宝物」
となっています。
20章 過ぎたるは及ばざるがごとし
過ぎたるは猶(な)お及ばざるがごとし。
これも論語にある言葉で、「ゆきすぎたのは、ゆきたりないのと同じようなものだ」と
いう意味です。
ところで私は、この言葉を、「何事(なにごと)も、やり過ぎは良くない!」と解釈し
ていますが、まさにこれは「生命の真理」であり、私の生きる指針にもなっており、「心
の宝物」となっています。
* * * * *
さて、ここで、
「過ぎたるは猶お及ばざるがごとし」という、この言葉が、なぜ「生命の真理」だと言
えるのか、ちょっと説明してみたいと思います。
まず、たとえば「食べる」ことは、生命を維持して行くうえで、ものすごく大切なこと
です。私たち人間も、食べることが出来なければ、栄養失調になって病気をしたり、最悪
の場合は餓死してしまいます。
ところが「食べ過ぎ」てしまうと、肥満になって心臓に負担をかけたり、あるいは生活
習慣病に罹(かか)ったりして、生命を維持するのに、かえってマイナスになってしまう
のです。
また例えば、「睡眠を取る」ことも、生命を維持して行くうえで、ものすごく大切なこ
とです。が、しかし、「睡眠を取り過ぎ」て寝てばかりいると、運動不足になって体力が
落ち、免疫力も落ちて病気に罹りやすくなり、生命を維持して行くのに、かえってマイナ
スになってしまいます。
そして「運動」も、体力を維持して健康を保つためには、とても重要なものですが、し
かし体を酷使しすぎると体力が消耗してしまい、たとえば無理な登山などを強行した場合
には、疲労死をすることさえあるのです。
このように、こと「生命現象」にとって、「過ぎたるは猶お及ばざるがごとし」という
言葉は、絶対に否定することが出来ない真実であり、「生命の真理」であると言えるので
す。
* * * * *
ところでまた、現代社会における深刻な問題として、「働き過ぎ」という現象がありま
す。
たしかに、働いて金を稼(かせ)ぎ、衣食住を整(ととの)えなければ、人間は生命を
維持するのが難しくなるでしょう。
が、しかし、働き過ぎて体を壊したり、精神を病んだり、最悪の場合は過労死や過労自
殺をしてしまっては、まさに本末転倒だと言わざるを得ません。なぜなら労働の目的は、
自分や家族の生命を、健康に維持することにあるからです。
このように、
「働き過ぎ」という、現代社会における深刻な問題にたいしても、「過ぎたるは猶お及
ばざるがごとし」という言葉が、とても大切な教訓として生きてきます。
* * * * *
ちなみに、現代社会で過労死や過労自殺が起こるのは、仕事をたくさん、長い時間やれ
ばやるほど、偉(えら)いし、すごいし、すばらしいことだという、
あるいは、仕事をたくさん長時間やり続けるのは、まったく当たり前だし、そうしなけ
ればならないという、
そのような「生命の真理」に反する「歪(ゆが)んだ価値観」が、日本の社会に蔓延
(まんえん)しているからです。
「過ぎたるは猶お及ばざるがごとし」という孔子の言葉は、彼の死後2500年経って
も、「現代の歪(ゆが)んだ価値観」を指摘する力をもっており、この事実によって、そ
の言葉が時代によらない「生命の真理」であることが、明確に証明されているのです。
つづく
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