心の宝物 4
                              2024年12月29日 寺岡克哉


13章 「食」について
 これは、かつて私がラーメン店で働いていたときに、調理指導の先生から聞いた話です。

 その先生は日本料理が専門で、かつては高級料亭で腕(うで)を揮(ふる)っていたこ
ともあるそうです。それなのに、なぜラーメンという「大衆料理」に関(かか)わるよう
になったのか、私はすこし疑問に感じました。それで、そのことについて質問してみたの
です。

 そうすると、その調理指導の先生が言うには、あるとき、ある病院からの要請があって、
入院患者の食事をつくる調理場を点検し、改善の必要がある所をチェックしてほしいと頼
まれたそうです。

 それで調理指導の先生は、その病院での仕事を始めるにあたり、まず年老いた入院患者
さんたちが、一体どんなものを食べているのか見て回りました。そうしたら、なんと驚い
たことに、どんな食材でもミキサーにかけて、すべて「流動食」にして食べさせていたそ
うです。

 「これでは、あまりにも可哀(かわい)そうだ!」と思った調理指導の先生は、病院の
栄養士さんと相談して、いつもの流動食と栄養の成分が同じになるように食材(ネタ)を
選び、「寿司」を握(にぎ)って、患者さんたちに食べさせたそうです。

 そうしたら、年老いた患者さんたちは、「こんな美味しい物は食べたことがない!」と
言って、涙をポロポロ流しながら寿司を食べたそうです。

 そのとき調理指導の先生は、「”食” というのは一体なんだろう」と、改めて考えさせ
られたと言います。
 そんなことがあって、「これからは大衆料理にも、目を向けて行かなければならない」
と、思うようになったと言うのです。

            * * * * *

 年老いた患者さんたちが、「こんな美味しい物は食べたことがない!」と言って、涙を
ポロポロ流しながら寿司を食べた・・・ 私は、この話を聞いてとても感動し、一生涯に
わたって忘れられないものとなりました。

 そして「食」というものの大切さを考えさせられ、しかも心が温まるこのエピソードは、
私の「心の宝物」となったのです。


14章 銀河鉄道999
 2023年2月13日。
 漫画家の松本零士(まつもと・れいじ)さんが、急性心不全のため、東京都内の病院で
亡くなりました。享年85歳(満年齢)でした。

 ところで私は、松本零士さんの漫画やアニメに、とても大きな影響を受けました。その
中でも、いちばん大きな影響を受けたのは「銀河鉄道999(スリーナイン)」という作
品です。

 「銀河鉄道999」は松本零士さんの代表作で、たしか「少年キング」という漫画雑誌
に連載されていたと思います。
 その当時、まだ私は中学生でしたが、少年キングの漫画で銀河鉄道999しか読みたく
なかったので、雑誌を買うことはせず、じっと単行本が出るのを待ってから、読んでいた
のを記憶しています。
 新しい単行本が出るのが、待ち遠しくて、待ち遠しくて、毎日のように書店に通ってい
たことは、今でも「楽しい思い出」となっています。

            * * * * *

 ところで、この「銀河鉄道999」という漫画作品のメインテーマは、「機械の体をタ
ダでくれる星に行って、永遠の命を得る」と、いうものです。
 そのために主人公の少年は、銀河超特急999号に乗り、いろいろな星を旅して、さま
ざまな人と出会い、あるいは戦いを生きぬいて行きます。
 が、しかし、主人公の少年は、けっきょく終着駅で最後の最後に、機械の体にはならず、
限りある命しかない「生身(なまみ)の体」であり続けることを選択したのです。

 私は、銀河鉄道999を読むことによって、「永遠に生き続けることが、幸福であると
は限らない!」という人生観に、生まれて初めて触れることになりました。
 そして、ものすごく大きな衝撃を受け、その後の私の生命観に、とても大きな影響を与
えたのです。

 その証拠に、たとえば私の拙書「生命の肯定」の210ページに、「もしも個の生命が
永遠に生き続けるならば、それはたぶん死ぬこと以上の苦しみとなるであろう。しかもそ
れは永遠に続く無限の苦しみになる。」という件(くだり)があるのですが、この私の生
命観は、まちがいなく「銀河鉄道999」の影響を受けています。

 このように「銀河鉄道999」という漫画作品は、私の人生にたいして、とてつもなく
大きな影響を与えており、「心の宝物」となっています。


15章 愛すれば幸福
 愛すれば幸福!
 これは、今まで私の人生で発見した、最大で最高の真理であり、私のいちばんの「心の
宝物」です。

 愛すれば幸福!
 この真理にたいして、「外的な状況」は、いっさい関係がありません。つまり、お金が
無くて貧乏であっても、病気を患(わずら)っていても、身体障害があって五体満足でな
くても、家族や友人がいなくて一人ぼっちであっても、さらには自分の死に直面している
ときでさえ、「愛すれば幸福!」という真理は、まったく揺(ゆ)らぐことがないのです。

 その逆に、
 何億円もの金を持っていても、健康で五体満足であっても、家族や友人たちに囲まれて、
賑(にぎ)やかに暮らしていても、安全が保障されて全く死の危険がなくても・・・そん
な理想的な状況にあっても、怒りや憎しみ、妬(ねた)みなどの感情につよく駆られてい
れば、それは「不幸」以外の何ものでもないのです。

            * * * * *

 ところで・・・ 
 以前の私は、「愛さなければならない!」と、つよく思ってきました。

 つまり、
 隣人を愛さなければならない!
 嫌な人間であっても、愛さなければならない!
 さらには、罪を犯した人や、敵でさえも愛さなければならない!
 と、つよく思い込もうとするというか、念じていたわけです。

 そのような自分なりの努力を、20歳代のときに新約聖書に出会ってから、30年ぐら
い続けていました。
 ところが、「愛さなければならない!」と、自分に義務を課して言い聞かせ、いくら強
く思いを込めて念じてみたところで、見ず知らずの人間や、大嫌いな人間や、犯罪者や、
あまつさえ自分に危害を加える恐れがある人間など、とてもじゃないけれど、愛せるもの
ではありません。

 それで50歳代のときに、
 「憎い人間は、やはり憎いのだ!」
 「悪い人間には、どうしても怒りが込み上げてくるのだ!」
 「それが人として、自然な心の在り方なのだ!」
 「無理をして善人を演じたとしても、自分勝手な悪人の餌食(えじき)になるだけだ!」
などと思い直し、「愛さなければならない!」という考えを捨てて、怒りや憎しみの感情
を抑えなくなりました。

 そうしたら私の、他人を受け入れる心が、だんだん狭(せま)くなって行きました。つ
まり私が、狭量(きょうりょう)な人間になったわけです。
 そして、外を歩いているときなどに、他人が自分の前に割り込んできたり、他人のグルー
プが大声で話をしているなど、そのような、ちょっとしたことでも、怒りや不満をつよく
感じるようになりました。
 そしてついには、毎日のように、何らかの怒りや不満に悩まされるように、なってしまっ
たのです。つまり私は、どんどん不幸になったわけです。

            * * * * *

 ところが、そのような不幸な状況の中にあっても、
 外を歩いているときなどに、可愛(かわい)らしい子供が笑顔で私に近寄ってきたり、
 愛情にあふれた話(小説や漫画、アニメなどのフィクションも含む)などを、見聞きし
たりして、
 ふと、「愛の感情」で自分の心が満たされると、怒りや不満がスッと消えて、大きな幸
福を感じることが分かりました。

 そして、そのような体験を繰りかえしているうちに、58歳のころ、私の中にとつぜん
の閃(ひらめ)きが起こったのです。

 「愛さなければならない!」のではなく、「愛すれば幸福!」なのだと。

 私には、この発見が、天の啓示にも感じられました。
 つまり、「愛さなければならない!」と、自分自身をがんじがらめに縛(しば)りつけ
るのではなく、幸福になるため、幸福を得るために、「愛する」のです。自分の幸福を最
大限に追求するために「愛する」のです。

 愛すれば幸福であり、愛することが出来なければ、幸福ではありません。そして、怒り
や憎しみ、妬(ねた)みなどに駆(か)られていれば、それは「不幸」な状態なのです。

             * * * * *

 ところで上でも述べましたが、「愛すれば幸福!」という真理にたいして、「外的な状
況」は、いっさい関係がありません。
 お金が有っても無くても、体が健康であってもなくても、五体満足であってもなくても、
死の危険があってもなくても、愛すれば幸福なのです。

 ゆえに、どんな状況の人でも、愛すれば幸福になることができます。

 つまり「愛すれば幸福!」という真理は、原理的に、どんな人でも幸福になれる真理で
あり、どんな人でも救われる真理なのです。

             * * * * *

 ところが!
 当然ながら、愛することができなければ、幸福になることはできません。だから、「愛
すれば幸福!」というのが、いくら最高の真理であっても、すべての人を救うことはでき
ないのです。なぜなら、この真理によって、愛することができない人を、救うことはでき
ないからです。

 しかし、だからと言って、「愛すれば幸福!」という真理が、誤(あやま)りであるこ
とには決してなりません。なぜなら「愛すれば」という、この真理の前提条件が満たされ
ている限り、幸福であるのは絶対に間違いないからです。

             * * * * *

 また、「愛すれば幸福!」という真理は、幸福になるための方法、救われるための方法
を、明確に示している点ですごく重要です。

 つまり、この真理は、
 幸福になるためには、どうすれば良いのか?
 救われるためには、どうすれば良いのか?
 という疑問に対して、「愛すれば良い!」と明確な答えを与えるのです。

             * * * * *

 しかしながら正直に言うと、愛することが、なかなか難しいのも否定できない事実です。

 とくに、困難な状況に陥(おちい)っている人には、愛することがとても難しいでしょ
う。たとえば失業、貧困、差別、いじめ、虐待、病気、怪我などに苦しんでいる人は、愛
することが、本当にものすごく難しいと思います。

 しかしそれでも、幸福になるためには、愛することがどうしても必要なのです。

             * * * * *

 「愛すれば幸福!」という真理は、幸福になるための「努力の方向」を明確に示します。
 つまり「幸福になる努力」とは、「愛する努力」なのです。

 たとえば一例として、いくら努力して金持ちになっても、愛することが一切できなけれ
ば、虚(むな)しさや寂(さみ)しさを感じるだけで、幸福を感じることはできません。
 さらには、いくら努力して金持ちになっても、愛さないどころか、憎んだり怒ったりし
ていれば、それは不幸以外の何ものでもないのです。だから、お金持ちになる努力は、幸
福になるための努力ではありません。

 一方、お金があろうと、無かろうと、愛すれば幸福です。
 ゆえに、「幸福になる努力」とは、「愛する努力」なのです。

 「愛すれば幸福!」というのは、幸福の本質です。
 この真理を、心から認めて納得すれば、「幸福を得るための努力とは、愛する努力であ
る」という結論に、疑問を感じることが無くなるでしょう。
 そして、必要以上の金を得ようとするとか、血で血を洗う権力争いに始終するとか、そ
のような「不幸をまねく愚かしい努力」から自分を遠ざけ、自分の人生を、不幸から守る
ことができるのです。


16章 慈悲
 私の人生において「慈悲」という概念に出会ったことは、「心の宝物」となっています。

 「慈悲」とは、およそ2500年前に古代インドの釈迦(ゴウタマ・シッダルタ)が説
いた「愛の概念」です。
 ちなみに、私が「慈悲」という言葉を使うときは、「生きとし生きるもの全てに対する
愛」という程度の意味で使っています。また世間一般では、「慈悲」の意味を「いつくし
みあわれむこと」としていますが、一応はそのように理解して差し支(つか)えありませ
ん。

 しかしここでは、「慈悲」について、さらに詳しく述べたいと思います。

 さっそくですが、以下は「スッタニパータ」という仏教経典の中で、釈迦が「慈悲」に
ついて説いている部分です。
----------------------------------------
 あたかも、母親が自分の一人子を命を懸(か)けても守るように、そのように一切の生
きとし生きるものどもに対しても、無量の慈(いつく)しみの心を起こしなさい。
 また、全世界に対して無量の慈しみの心を起こしなさい。
 上に、下に、また横に、分け隔てなく恨みなく敵意なき慈しみを行いなさい。
 立っている時も、歩いている時も、座っている時も、寝ている時も、眠らないでいる限
りは、この慈しみの心をしっかりと保ちなさい。
                  (スッタニパータ 第1章8節149~151)
----------------------------------------

 上の詩句が記述されている「スッタニパータ」は、仏教経典の中でも最古のものであり、
釈迦が実際に話した内容にいちばん近いものとされています。
 それによると、「慈悲」とは「全世界と全生命に対する、分け隔てのない無量の慈しみ」
つまり「この世の全てに対する、平等で無限の愛」と理解してよさそうです。

 ところで、慈悲の「慈」と「悲」は、もともと別の言葉なのだそうです。
 パーリ語やサンスクリット語(インドの言語)では、「慈」とは「真実の友情」とか
「純粋の親愛の念」を意味します。そして「悲」は、「哀憐(あいれん:いつくしみあわ
れむこと、なさけ)」や「同情」を意味します。

 また、南方に伝わる伝統的で保守的な仏教では、「慈」とは「人々に利益と安楽をもた
らそうと望むこと」であり、「悲」とは「人々から不利益と苦しみを除去しようと欲する
こと」だそうです。

 また、チベットに伝わった仏教では、「慈」とは「あらゆる命あるものの幸福を真摯
(しんし)によろこぶ気持ち」であり、「悲」とは「すべての命あるものを平等に苦しみ
から救おうとする心」だそうです。そして「慈」も「悲」も、無限で普遍的で偏見がなく、
しかも努力することなしに湧き起こるものなのだそうです。

 以上をまとめると、「慈悲」とは「生きとし生きるものに対する、平等で普遍的な無限
の愛」となります。

 その他、「慈悲」について言及されていることとして、「慈悲は、男女の愛を超越する
もの」というのがあります。
 つまり慈悲は、男女の愛よりも高い次元の愛なのです。というのは、男女の愛には「執
着(しゅうちゃく)」が必ず存在し、それが原因で容易に嫉妬(しっと)や怒り、憎悪へ
と変わってしまうからです。
 たとえば、男と女が全てをなげうち命をかけて深く愛し合っていても、相手に裏切られ
れば、すぐに怒りや憎しみへと変わってしまいます。しかも、その愛が強ければ強いほど、
裏切られたときの怒りと憎しみは激しいものになります。最悪の場合は、暴力や殺傷事件、
自殺、無理心中などの原因にさえなってしまいます。そして実際に、そのような事件がい
くらでも起こっています。
 しかし「慈悲」の場合は、絶対にそのようなことが起こりません。慈悲は、執着や怒り
や憎しみを捨て去ること、つまり、それらを乗り越えることによって得られる「高いレベ
ルの愛」だからです。この意味で、「慈悲」は男女の愛よりも高い次元の愛だとされてい
るのです。

 また「慈悲」には、他者への同情やあわれみの意味もありますが、しかしそれは、他人
に対する優越感から起こる同情やあわれみではないことも言及されています。
 たとえば、自分よりも強い者や、金持ち、身分の高い者、そして敵や悪人に対してさえ
も、その者たちが人知れず抱えている苦しみを理解し、同情し、あわれむという「慈悲の
心」は起こりえるのです。

 そしてまた、「慈悲」は求めることがない愛、つまり「与える愛」であることも言及さ
れています。

              * * * * *

 ところで、なぜ「慈悲」は、人間の生命も、人間以外の生命も、平等に扱うのでしょう?

 人間は、地球で最も高等な生物であり、その他の生物よりも価値が高いはずです。だか
ら人間の生命と、他の生物の生命が、平等であるはずがありません。
 私は、このような疑問をずっと以前から持ち続けていました。しかし今は、それを次の
ように理解しています。

 まず一つは、「食物連鎖」の存在です。
 全ての生命は、食物連鎖によって支えられています。だから植物や動物や、さらには細
菌のような微生物でさえも、それらが存在しなければ人間も存在することが出来ません。
つまり人間の生命は、動物や植物や、細菌のような微生物によっても支えられているので
す。
 ところで人間が存在しなくても、植物や動物や細菌は生きられます。しかし植物や動物
や細菌が存在しなければ、人間は絶対に生きられません。このように考えると、植物や動
物や、さらには細菌といえども、それらの生命は尊重されなければならず、軽々しく考え
てはいけないと思えるのです。

 そしてもう一つは、「生物進化」の存在です。
 生物というものは、長い年月が経てば「進化」をするため、たとえ現在は下等な生物で
あっても、未来には人間よりも高等な生物に進化する可能性があります。
 たとえば恐竜がいた時代では、私たち人類の祖先はネズミのように小さくて弱い動物で
した。恐竜たちは人類の祖先を、「なんて小さくて弱い生き物だ!」と、バカにしていた
に違いありません。しかし現在、ネズミのような動物の子孫が「人間」という高等生物に
進化し、大発展を遂(と)げているのです。
 これと全く同じように、現在においてはネズミのような小動物であったり、さらにはナ
メクジのような下等な生物であっても、数千万年後から数億年後には、人間よりも高等な
生物に進化している可能性が十分にあるのです。
 このように考えると、いくら下等な生物であっても無益に殺してはならず、地球に住む
全ての生命は、尊重されなければならないと思えるのです。

 以上のように、「慈悲」という概念は、生命の摂理によく適(かな)っています。だか
らこそ、釈迦の時代から2500年経ってもなお、十分に通用する概念となっているので
しょう。
 私は、「慈悲」という概念に出会うことができて、本当にありがたい「心の宝物」を得
ることが出来たのです。


 つづく



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