心の宝物 3
2024年12月22日 寺岡克哉
9章 失恋
「失恋」をすると、ものすごく心が苦しくなり、自暴自棄(じぼうじき)になってしま
います。
恥ずかしながら、私も何度か失恋の体験をしていますが、その中でも一番ひどい失恋を
したのは30代の頃で、そのときの私の様子はだいたい以下のようでした。
まず、結婚を考えるほど好きだった相手の女性から、私の告白を断られて、
その後3時間ぐらいは、頭が真っ白になって、自室で茫然(ぼうぜん)と立ち尽くして
いました。
その後半日ぐらいは、何も考えることが出来なくなり、
その後3日ぐらいは、食べ物が喉(のど)を通りませんでした。
その後3ヵ月ぐらいは、ものすごく落ち込んだ気分が続き、
その後3年ぐらいになってやっと、失恋のことが気にならなくなりました。
しかし、この失恋の後10年ぐらいは、新しい恋をしようとは全く思いませんでした。
いま思い出してみると、ずいぶんと拗(こじ)らせたものです。
ところで私が失恋をした日、茫然と立ち尽くしていた自室の中で、「相手を殺して自分
も死のう!」という思いが、心をよぎったこともありました。
しかし、そのとき、頭の中が真っ白になっていて、なにも良く考えられないけれど、そ
のギリギリに追いつめられた精神状態の中で、「それは絶対にダメだ!」と、言葉ではな
い声で強く命令され、ぐっと思い止(とど)まったのです。
その、言葉ではない声による「強い命令」は、頭の上から射してくる「白い光」によっ
て与えられた感じがしました。
絶望のどん底に落ち、何も考えられないギリギリの精神状態の中で、「相手を殺して自
分も死のう!」という黒い感情よりも、「それは絶対にダメだ!」という理性の光が勝
(まさ)ったのです。
この、精神的な極限状態の中でも、理性の光が勝ったという体験を経(へ)て、私は理
性の大切さを、心の底から思い知ることになりました。それが理由で、この失恋体験が、
私の「心の宝物」となったのでした。
ちなみに昔から現在においても、交際を断られた男性が、相手の女性を殺してしまう事
件が後を絶ちません。そして私も、上で述べた失恋体験から、そのような気持ちが分から
なくもありません。
が、しかし、そのような事件が起こるたびに、私は理性の大切さを再確認し、あのとき
頭の上から射してきた「理性の光」にたいして、感謝せずにはいられないのです。
10章 生命の絶対価値
生命には、「絶対価値」と「相対価値」というのが存在すると私は考えています。
しかし、いきなり「絶対価値」とか「相対価値」などと言っても、何のことかさっぱり
分からないと思います。そこで、「絶対価値」と「相対価値」について少し説明してみま
しょう。
まず「絶対価値」とは、「その人間にしか出来ない仕事を成し遂(と)げること」によっ
て生じる価値です。つまり「絶対価値」とは、他の人間に取って代わることの出来ない、
その人間の絶対的な価値のことです。
この「絶対価値」の代表的なものには、偉大な思想家や芸術家、科学者などがこの世に
残した仕事が挙げられます。
たとえば釈迦やキリスト、ソクラテス、レオナルド・ダ・ビンチ、シェークスピア、
ベートーベン、アインシュタイン・・・等々。彼らがこの世に残した業績は、彼らがいた
からこそ成し遂げられたものであり、彼ら以外の人間には絶対に出来なかったことです。
ゆえに「絶対価値」は、他の人間が取って代わることの出来ない、その人間の絶対的な
価値なのです。
一方「相対価値」とは、「他人との競争に勝つこと」によって生じる価値です。
たとえば「相対価値」の代表的なものとして、スポーツ競技の「優勝」や、大学受験の
「合格」などが挙げられます。
スポーツ競技や大学受験は、身体に重度の障害がなければ、基本的には誰にでも実行可
能なことです。もちろん、人によって上手下手(じょうずへた)はあります。しかしなが
ら、手足が動かないとか、目が見えないなどの障害がない限り、ごく普通の人間ならば誰
でも実行可能なことです。
だから「相対価値」は、「その人間にしか出来ない仕事を成し遂げること」に価値があ
るのではなく、「他人との競争に勝つこと」に価値があるのです。
この「相対価値」は、「競争」をしないと価値が生まれません。なぜなら、「相対価値
そのもの」には価値が存在しないからです。
たとえば、スポーツ競技の参加者全員を優勝にし、大学の受験者全員を合格にすれば、
「優勝」や「合格」の価値は消滅してしまいます。これは、「優勝」や「合格」そのもの
に価値が存在する訳ではないからです。
ここで誤解のないように断りますと、「スポーツを行うこと」や「大学教育を受けるこ
と」には、もちろん価値が存在します。なぜならスポーツや学問における心身の鍛錬(た
んれん)、人的コミュニケーションの拡大、知識の増大、知性の練磨(れんま)など、こ
れらには「競争」を行わなくても価値がちゃんと存在しているからです。
一方「絶対価値」は、競争を行わなくても価値が存在します。「絶対価値」には、その
ものの価値がちゃんと存在しているからです。そして、そもそも「絶対価値」は競争をす
ることが不可能です。なぜなら「絶対価値」は、その人間にしか出来ない仕事の価値だか
らです。
釈迦やキリスト、その他諸々(もろもろ)の偉人が行った仕事は、他の人間との競争に
勝ったから価値があるのではありません。彼らの人生観や世界観、あるいは彼らの行動そ
のものに価値があるのです。
そして、彼らと競争をすることは絶対に不可能です。なぜなら彼らの行った仕事は、彼
らにしか成し遂げられなかったことだからです。
ところで「相対価値」は、「その人間である必要」がありません。誰でも良いのです。
たとえばスポーツ競技の「優勝」は、競技に勝った者ならば誰でもかまいません。大学
受験の「合格」は、試験の成績が良い者ならば誰でもかまわないのです。
それは、「相対価値」がその人間に備(そな)わった絶対的な価値ではないからです。
だから「相対価値」は、いつでも誰にでも、取って代わることが出来ます。また、いつ誰
が取って代わっても、べつに何の支障も起こりません。
一方「絶対価値」は、他人が取って代わることは不可能です。それは前述したように、
「その人間にしか出来ない」仕事の価値だからです。
ところで!
受験競争や出世競争などの相対価値ばかりを追い求めると、「苦しみ」に取り憑(つ)
かれてしまいます。
なぜなら、相対価値には競争や闘争がつねに付きまとい、不安や焦燥が絶えないからで
す。つまり相対価値を獲得するためには、競争や闘争に勝たなければなりません。さらに
相対価値を維持するためには、つねに勝ち続けなければなりません。このため、相対価値
には「競争や闘争の苦しみ」が常につきまとうのです。
そして相対価値には、不安や焦燥が尽きません。なぜなら相対価値は、競争や闘争に負
ければ誰にでも取って代わられるからです。しかも、永久に勝ち続けることは絶対に不可
能なので、相対価値はいつか必ず失ってしまうからです。
これら、競争や闘争による苦しみ、不安や焦燥の増大・・・相対価値を追い求めると、
それらの「苦しみ」に取り憑かれてしまうのです。
一方「絶対価値」は、競争や闘争をする必要がありません。また、他の人間に取って代
わられることもありません。だから「絶対価値」を追求しても、苦しみや不安や焦燥は生
じないのです。
ところで「絶対価値」は、歴史に残る人物のような特別なことをしなくても、得ること
が出来ます。
なぜなら、すべての人間が「絶対価値」をすでに持っているからです。
と、いうのは、ある人間と全く同じ時代に生き、全く同じ場所で生活し、全く同じ言動
をし、他の人間や生物や世界に対して、その人間と全く同じ影響を与えることなど、その
人間以外には絶対に不可能だからです。
つまり、その人間の人生は、その人だけのものであり、他の人間が取って代わることは
絶対にできないからです。
しかも「絶対価値」は、人間だけでなく全ての生物が持っています。
なぜなら全ての生物が、その生物にしか行うことが出来ない、独自の影響を世界にたい
して与えているからです。
たとえばプランクトンのような小さな生物でさえ、地球の生態系を根底から支えている
という影響を、この世界に対して与えているのです。
ゆえに、すべての生物が「絶対価値」を持っており、それを私は「生命の絶対価値」と
呼んでいます。
すべての生物は、「生命の絶対価値」を持っています。
だから「無意味な生命」などと言うものは、この世に一つも存在しません。
ゆえに、全ての生命は尊重されなければならないのです。
私は「生命の絶対価値」に初めて気がついたとき、「私も含めて、無意味な生命など存
在しない」という確信を持つことができて、とても嬉しくなりました。そして、そのこと
が、自分の人生を歩(あゆ)んでいく上での「心の宝物」となったのです。
11章 呼吸
むかし私は、生きるのが嫌(いや)になって、ものすごく無気力な状態になったことが
あります。何もやる気が起きなくなり、呼吸をするのさえも面倒になったのです。
そのとき私は、「息を吐いたまま呼吸が止まり、そのまま静かで安楽な世界に行けたら
いいだろうなあ」と、心の底から思いました。それで、呼吸を止めてみることにしたので
す。静かに息を吐き、肺の中の空気を全部出しきったところで、呼吸を止めてみました。
すると、ほんの数秒間だけ、静かで何も聞こえず、安楽で何もしなくて良い世界が現れ
ました。本当に「何もしなくて良い世界」です。それは、「呼吸」さえもしなくて良い世
界なのです。
とにかくそれは、とても安楽な世界でした。たぶんこの安楽な感じは、「何もしなくて
良いこと」から来ているのだと思います。「何かをしなければならない!」という追いつ
められた思いが、頭の中から完全に消え去ったので、とても安らいだ気分になれたのだと
思います。
しかし、その安楽な世界は、ほんの数秒間だけの出来事でした。なぜなら、息を吐き切っ
た状態で呼吸を止めると、数秒も経てば「窒息(ちっそく)の苦しみ」が起こり始めるか
らです。
窒息の苦しみが起こると、もう、あの安楽な世界は完全に吹き飛んでしまいます。頭で
はどんなに安楽な世界を切望しても、その意思とは関わりなく、窒息の苦しみがどんどん
と大きくなって行くのです。
私の意思は、息を止め続けようとします。しかし、いくら自分の意思で息を止め続けよ
うとしても、窒息の苦しみが大きくなって耐えられなくなり、どうしても呼吸が始まって
しまうのです。
それは、体がそのように反応するからです。自分の意思とは関わりなく、自分の体が無
意識に反応してしまうのです。これは、自分の意思とは全く別のところから、「呼吸をせ
よ!」という命令が下されているのだと、そのとき私は気がつきました。自分の意思とは
関係のない、「体の反応」という無意識の世界から、「生きよ!」という命令が下されて
いるのです。しかも、この命令は大変につよく、完全に強制的なものです。
つまり、自分の意思とは全く関係なく、自分の体は「生きようとしている」のです。
このとき私は、自分の意思を超えたところに存在する意志。「体の反応」という、意識
の存在しないところに存在する意志。そのような「意志」の存在を実感したのでした。
* * * * *
ところで私は、「呼吸」についてかなり意識している(つまり、こだわっている)人間
だと、自分で思っています。
私がそのような人間になったのは、まず第一に、病気がちだった子供の頃の体験が関係
しています。というのは、私が子供の頃はとても病気がちで、ちょっとした風邪(かぜ)
をひくと39度以上の高熱を出し、鼻と咽(のど)を詰まらせて「呼吸に苦労した覚え」
があるからです。小学校の2年生や3年生ぐらいの頃は、毎月のようにこのような風邪に
悩まされました。
そのとき子供ながらに、「体が健康で鼻と咽の空気の通りが良いことは、本当にありが
たいことだ!」と、強く感じていたものです。
私が「呼吸」について意識しはじめたのは、この病気がちだった頃の経験が関係してい
るのは間違いありません。
それから年月を経て、私は高校と大学で山岳部に所属しましたが、その時にも、随分
(ずいぶん)と「呼吸に苦労した覚え」があります。
私は海外での高所登山の経験はありませんが、標高3千メートルほどの日本の山でも、
荷物を背負って歩いているとかなり息苦しいものです。息を吸っても、吸っても、呼吸が
ぜんぜん楽になりません。歩いている間はつねに呼吸が荒くなっているのです。
そのとき、「呼吸をして体内に酸素を取り込むのも、ずいぶん大変な仕事なのだ!」と、
心の底から思い知らされました。そして、「呼吸を荒げることなく、普通に静かな呼吸が
できるだけで、なんと幸せなことか!」と思いながら、必死に山を歩いた覚えがあります。
* * * * *
上で述べた、病気がちだった子供の頃の体験と、山登りの体験から、「呼吸が無意識に
できることは、たいへん幸福なことなのだ!」と、私は気がつきました。そして、「呼吸
ができること」について、色々と考えるようになって行きました。
さて、「呼吸」をことさらに意識せず、呼吸が無意識にできる条件は、「自分の体が健
康であること」と「周囲の環境が正常であること」の二つです。
たとえば自分の体が病気にかかっていたり、胸や腹などを強く打ってひどい怪我をした
り、高山などの空気の薄い場所にいたり、水に溺(おぼ)れかかっていたり、ゼンソクに
なりそうなぐらい空気が汚れていれば、楽に呼吸は出来ません。
自分の体と周囲の環境が正常でないと、「呼吸が無意識に出来る状態」には決してなら
ないのです。
ここで以下、「呼吸が無意識にできる条件」を思うがままに列挙してみると、
●自分の体が健康であること。(怪我や病気のないこと。)
●身の安全が保障されていること。(空気が薄かったり、酸欠、毒ガス、水に溺れる
などの危険がないこと。)
●大気汚染がなく、空気がきれいであること。
●酸素のある大気が、この地球に存在していること。
●その地球環境は、「地球の全ての生物を含めた生態系」によって支えられていること。
これらの条件が全て満たされた時に、「呼吸が無意識にできる状態」になるのです。
そのことに思い至った時、
「呼吸が無意識にできる」という、そのこと自体が、ものすごく有難くて幸福な状態で
あることに、私は気がつきました。そして、この「気づき」は、私の人生における「心の
宝物」となったのです。
12章 「弱い」ということ
世の中から虐(しいた)げられるのは、弱いことでしょうか?
精神的な理由で会社に通えなくなるのは、弱いことでしょうか?
不登校になるのは、弱いことでしょうか?
社会に適応できずに引きこもるのは、弱いことでしょうか?
リストラをされるのは、弱いことでしょうか?
ホームレスになるのは、弱いことでしょうか?
そして、
「弱い」ということは、悪いことでしょうか?
「弱い」ということは、本当に弱いのでしょうか?
ところで・・・
「生物の世界は、弱肉強食が鉄則だ!」
「強いものが生き残り、弱いものは滅び去るのみ!」
「それは人間の社会も同じだ!」
と、世の中にはこのように考える人が数多くいます。とくに現代社会では、経済のグロー
バル化にともなって競争原理が声高に主張され、その傾向が強くなっています。このため
「弱肉強食」というのは、「生命の真実」を表しているように思えてしまいます。
しかし、はたしてそれは「生命の真実」なのでしょうか?
話は急に飛びますが・・・
たとえば、4億年前に水から陸に上がった魚たち。
魚は、どうして陸に上がったのでしょう?
魚にとっては、水中の方がはるかに住みやすいはずです。陸上では呼吸もままならず、
体も干からびてしまいます。陸の上は、いつも死の危険がとなりあわせです。それなのに
なぜ、わざわざ危険を犯してまで、魚は陸に上がる気になったのでしょう?
確かな証拠はありませんが、おそらく魚の中でも特に弱いものや不器用なものたちが、
優秀で強い魚たちから陸に追いやられたのではないか? と、私は考えています。
水の中では生存競争がとても激しくて、魚の中でも弱くて不器用な者たちは、陸に逃げ
るしかなかったのではないか?
そして、「陸上」という新しい環境に適応していくしか、生き残る道がなかったのでは
ないか?
と、そのように思うのです。そしてその後、「陸上」という新天地で、両生類や爬虫類、
鳥類、哺乳類として、大繁栄を遂(と)げるという結果になったのでしょう。
また話が飛びますが、2億年前の恐竜の時代・・・。
その当時、恐竜は「最強の生物」でした。しかしその後、恐竜は絶滅してしまいました。
一方、そのときの哺乳類は、ネズミのような「弱い生物」でした。哺乳類は、恐竜たち
から虐(しいた)げられていたのです。ことろが現在、哺乳類は大繁栄をしています。
このように、「強いものが生き残る!」というのは生命の事実ですが、「生命の真実」
ではありません。それは、生命の事実の一つにすぎないのです。
「最強の生物」というのは、一見するとたいへん強く見えます。しかし本当は、とても
脆弱(ぜいじゃく)なのです。なぜなら「いちばん強いもの」は、周囲の環境が一変すれ
ば「いちばん弱いもの」になってしまうからです。
これも生命の事実なのです。「いちばん強いもの」とは、いちばん効率がよく、いちば
ん無駄がなく、その環境に適応しているものです。
だから「いちばん強いもの」には、「遊び」というか「ゆとり」というか、環境の変化
に対する「余裕(よゆう)」が全くありません。それで、ちょっとした環境の変化にも耐
えられずに絶滅してしまうのです。
逆に「弱いもの」は、周囲の環境に完全には適応していません。完全に適応していない
から、色々と効率の悪いところや不器用なところがあり、強くなれないのです。
しかし、それだからこそ逆に、周囲の環境が少しぐらい変化しても、生き残ることがで
きるわけです。つまり周囲の環境が変われば、「弱いもの」は強いものにとって代われる
可能性が十分にあるのです。
あるいは陸に上がった魚のように、「弱いもの」が虐げられ、生きづらい環境に追いや
られても、その新しい環境で生き抜くことができれば、大繁栄を遂げることができるので
す。
そしてこれは、現代の人間社会にも、そのまま当てはまると思うのです。
というのは、たとえば一流大学を出て、一流企業に入ったいわゆる「エリート」たちに
は、ちょっとした挫折にも耐えられないような非常に弱いところがあるからです。
また例えば、自由に身動きがとれなくなった「巨大企業」などは、時代の変化について
行けずに倒産してしまうことがあるからです。
リストラで失業してしまった人々。
不登校や引きこもりになってしまった人々。
ホームレスになってしまった人々。
社会からつまはじきにされ、虐げられている人々・・・。
確かにこれらの人々は、「社会の標準的な生活」ができずに、たいへん苦しんでいます。
精神的な苦悩もたいへん大きく、いつも自殺の危機と隣(となり)あわせの人もいること
でしょう。
しかしこのような人々は、人生の矛盾や社会の矛盾をたいへん強く実感し、日ごろから
色々と深く考えている人々です。だから、普通の人が考えつかないことを考えたり、普通
の人には気がつかないことに気がついているかも知れません。
つまり、このような人々は、「社会の標準」からはずれても生き抜くノウハウをすでに
持っていたり、あるいはそれを構築しつつある人々なのです。だから、ちょっとした挫折
で自殺をしてしまうようなエリートや、過労死や過労自殺をするまで働いてしまうような
人々よりも、生命の「したたかさ」を感じるのです。
私は、「社会に適応できない人間」が本当に弱いとは思っていません。
本当に弱いのは、一見すると非常に強そうなのに、「社会の標準」から少しでもはずれ
るとすぐに生きて行けなくなるような、「社会に適応しすぎた人間」なのです。
一見すると弱々しく見える「社会に適応できない人々」の中から、次の時代を背負って
立つ人間が出てきても、全くおかしくはないのです。
陸の上に追いやられた魚のように・・・。
恐竜の時代に、虐げられていた哺乳類のように・・・。
以上、この章で述べたように、「弱い」ということには、将来への大きな可能性が秘め
られています。ゆえに、弱肉強食が全てではないのです。このことを発見したとき、私は
とても嬉(うれ)しくなって、それが「心の宝物」となったのでした。
つづく
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