心の宝物 2
2024年12月15日 寺岡克哉
5章 教育は楽しむ能力の訓練
「教育とは、(人生を)楽しむ能力を、訓練することである。」
この言葉は、ラッセル(注1)という人物が残したものですが、その言葉を初めて知っ
たとき、「まさに、その通りだ!」と、私は心の底から感銘(かんめい)をうけました。
そして私の「教育観」というものが、この言葉によって、はっきりと決定づけられたよ
うに思います。そのため、この言葉は、私の「心の宝物」になっています。
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注1 ラッセル:
バーランド・ラッセル(1872年-1970年)は、イギリスを代表する思想家であ
り、20世紀最高の知性を持つ一人です。
厳密な数理哲学者、理性の情熱的な提唱者、独断的・情緒的な思想の批判者、活動的な
平和主義者として、生涯にわたり活躍(かつやく)しつづけた人です。
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さて、ラッセルは上で紹介した言葉を、「幸福論」という著作の中で残しているので
すが、その部分を抜粋(ばっすい)すると以下のようになります。
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ラッセル幸福論 第3章からの抜粋
アメリカの少年たちは、ごく幼いころから経済的な成功のみが重要だと感じているので、
金銭的な価値のない教育にわずらわされることを望まない。
教育は以前、多分に楽しむ能力を訓練することだと考えられていた――つまり、てんで
教養のない人たちには縁のない繊細な楽しみである。
18世紀には、文学や絵画や音楽に見識のある喜びを見いだせるのが「紳士」のしるし
の一つであった。今日、私たちは、こんな趣味に共感しないかもしれないが、少なくとも
それは本物であった。
(参考文献 ラッセル幸福論 安藤貞雄 訳 岩波文庫 p56)
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上で抜粋したラッセルの幸福論は、1930年に書かれたものですが、当時のアメリカ
の少年たちがそうであったように、現在の日本における多くの若者や、その親たちも、
「教育とは、良い大学に進学して、良い会社に就職するためのもの」というように、つま
り「教育とは、経済的な成功を得るためのもの」と、考えているのではないでしょうか。
しかしそれは、教育の本来の目的とは少し違うように、私には感じられるのです。
ところで実は私も、大学院の博士課程という、かなり高等な教育を受けた経験がありま
す。が、しかし、それは決して、経済的な成功を得るためではありませんでした。
もしも、経済的な成功を得るためなら(つまり、良い会社に就職するためなら)、修士
課程までの進学で止(や)めておくべきで、博士課程に進学してしまうと、企業への就職
にとっては、まったく不利になってしまうのです。
しかも私のように、博士課程まで進んだのに、博士号を取ることができず、大学などの
研究職に就(つ)けなかった人間は、まさに「人生が詰(つ)んだ!」としか、言いよう
がありません。
ところが、いま現在の私は、定期的な収入がなく、遊ぶための金が無いにもかかわらず、
けっこう楽しく人生を過ごしており、自分の人生にとても満足しています。
つまり、様々なことに興味をもち、いろいろと調べて、自分の思いや考えをまとめ、そ
れを文章に書いて発表することが、たとえば高級レストランで食事をしたり、海外旅行な
どをするよりも、ずっと楽しく感じるのです。
やはり私は、高等教育を受けたことよって、思考能力や調査能力や分析能力が自分なり
にですが向上し、(お金を、そんなに使わなくても)人生を楽しむ能力が、身についたよ
うに実感しています。
* * * * *
ちなみに、もしも例えば、
テレビを見るか、酒を飲むか、パチンコをするぐらいしか、人生の楽しみが無かったら、
あまりにも(精神的に)貧困な人生だと、私には思わざるを得ません。
これは、とくに若い人たちに申し上げたいのですが、人生はたった一度しか無いのです
から、出来るかぎり最大限に楽しむべきです。
そのためには、それぞれの人にとって可能なかぎり高等な教育を受ける方が良いと、私
は心の底から確信をもって、皆さんにお伝えしたいと思います。
6章 好きこそ物の上手なれ
2017年6月26日。将棋の最年少プロ棋士である、藤井聡太4段(当時14歳)が、
東京都の渋谷区にある将棋会館で指された竜王戦の決勝トーナメントで、増田康宏4段
(当時19歳)を破り、公式戦における連勝の新記録となる「29連勝」を達成しました。
これによって、1987年に神谷広志8段が樹立した28連勝が、30年ぶりに塗り替
えられたのです。ちなみに「28連勝」というのは、将棋界で「不滅の大記録」とされて
おり、当時の藤井4段は、14歳の中学生であるにもかかわらず、前人未到の偉業を成し
遂げたことになります。
何とも、すごい人が現われたものです!
ところで、あるとき偶然に、「藤井4段の強さの理由」について取り上げているテレビ
番組が目に入りました。それを見ていると藤井少年は、小学生のときから1日も欠かさず
に詰(つめ)将棋のトレーニングを続けてきたという「努力」の話と、将棋に負けたとき
は将棋盤を抱いて泣いていた時もあったという「負けず嫌い」の話が、ずいぶん強調され
ていました。
たしかに、「努力」 と 「負けず嫌い」というのは、将棋だけに限らずスポーツや学問、
あるいはビジネスなど、恐らくどんな分野においても、上達するのに必要な要素です。そ
してそれは、テレビを見ている一般の人々にも、すごく納得しやすい話ですし、テレビ番
組のスポンサーとなっている日本の企業にも、非常に好まれやすい話だと思います。
* * * * *
しかし私は、以前に大学の研究室に所属していたときの体験から、ただ単に「努力」と
「負けず嫌い」なだけでは、「ある一定のレベル」には到達できても、とうてい「超一流
のレベル」には到達できるわけがないという、とても強い確信を持っています。
というのは、大学の研究室の、私の先輩や同輩や後輩のなかで、順調に博士学位を取っ
て、大学の教官として就職できた人。つまり、いわゆる「できる人」は、「死にもの狂い
の努力」をしているようには、ぜんぜん見えなかったからです。
それが私には、ものすごく不思議に思えたので、いわゆる「できる人」を、けっこう良
く観察していたように思います。そして私なりに理解できたのが、「好きこそ物の上手な
れ」と、いうことだったのです。
つまり研究をすることが、心の底から本当に大好きであれば、ものすごく努力をしてい
ても、その努力を、努力とは感じないのです。
たとえば、ある実験が終了して(つまり一仕事が終わって)疲れきったとき、凡人の私
などは、「打ち上げ」などと称して、すぐに酒を飲んでしまいます。
ところが「できる人」は、そのように疲れているときでも、酒なんか飲まずに、英語の
論文などを読みふけっているのです。
もしも私が、そんなマネをしようものなら、精神的な疲労が限界を超えて、おそらく
「ノイローゼ」や「うつ病」になってしまうでしょう。
しかし「できる人」は、研究が大好きで、英語の論文を読むのが面白いのであり、おそ
らく苦痛に感じていないのです。
それに気がついたとき、「私はプロの研究者には、到底(とうてい)なれそうもない」
と、思い知らされたのでした。
また、それと同時に、嫌いなものや苦手なものを克服しようと必死に辛い努力するより
も、好きなものや得意なものを楽しみながら伸ばして行く方が、自分の可能性を最大限に
発揮させることが出来ると悟ったのでした。
それで、「好きこそ物の上手なれ」という諺(ことわざ)が、私の「心の宝物」となっ
たのです。
* * * * *
さて話をもどしまして、
プロ棋士の藤井4段が、公式戦で勝ち進んだときや、29連勝の新記録を樹立したとき
のコメントで、「非常に幸運だった」という言葉を、よく繰り返していました。
そこには、「ものすごく辛くて、苦しい努力を続けてきたので勝てた」とか、「死にも
の狂いの、必死の努力をしたので勝てた」というような素振(そぶ)りは、少なくても表
面上は見られません。
やはり、藤井4段が「超一流」の強い棋士になった根本的な理由は、「好きこそ物の上
手なれ」であり、ふつうの凡人がマネをしようものなら精神が崩壊してしまうほどの、も
のすごい努力を、あまり苦痛を感じることなく、ごく自然に、むしろ楽しみながら、毎日
のように行っているからではないかと、そのように私には思えてならないのです。
その後、藤井聡太・棋士は2023年11月10日に、竜王・名人・王位・王座・棋王・
王将・棋聖・叡王(えいおう)のタイトルを獲得して八冠を達成し、歴史的な超一流の棋
士となりました。
7章 「人の心」の形成
私は、「人間の良心」とか「人の心」というのは、10年も20年もかけて育てること
により、やっと形作られるものだと考えています。なぜ、そう考えるのかと言うと、じつ
は私が、そのような人間だったからです。たとえば私が10代の頃は、人を殺すことが、
そんなに悪いことだと思っていなかったのです。
それは、まだ私が中学生の頃でした。
おなじ年頃の若者が、「浮浪者狩り」と称してホームレスの人を殺害する事件が起こり
ました。犯行の理由として、「社会のゴミをしまつしてやった!」と供述していたように
思います。
そのとき中学生だった私は、テレビのニュースを父と見ながら、「なんで社会のゴミの
浮浪者を殺したら悪いのかなあ」と、率直な気持ちで言いました。そうしたら、「浮浪者
でも人間は人間だから、殺したら悪いのだ!」と、父にひどく叱(しか)られた覚えがあ
ります。しかし、なぜ叱られたのか、そのときの私には理解できませんでした。
そんなことがあった後、ある疑問が私の中に生じました。つまり、
現代社会では、「何かとても大切なもの」が、すっぽりと抜け落ちているのではないか?
そして自分にも、「何かとても大切なもの」が欠けているのではないか?
と、いうような、漠然とした疑問です。
そんな疑問を、その後10年以上もずっと抱え込んでいました。しかしいくら自分で考
えても、「現代社会や自分に欠けているもの」が分からずにいたのです。
そんなとき(25歳を過ぎたころ)、武者小路実篤(むしゃのこうじさねあつ)やトル
ストイを通じて、釈迦やキリストの思想に出会いました。そして、そのことにより、現代
社会や自分に欠けているものが、「隣人愛」や「慈悲」であること。つまり、「他人への
思いやり」とか「人間としての心」であることが、やっと分かったのです。
それから少しずつゆっくりと、私の心が内面から変わっていきました。
自分の心の中に、「他人を思いやる気持ち」とか、「優しさを大切にする気持ち」が芽
ばえ、それが少しずつ大きくなって行ったのです。
なんというか、自分の中に「もう一人の新しい自分」が生まれ、それが少しずつ育って
いくような感じです。
その「新しい自分」に「古い自分」が逆らうと、すごく心が苦しくなるのです。そして
だんだんと、「新しい自分」の意志に逆らうことが出来なくなって行きました。
さらには、殺人や強姦などの凶悪な犯罪に、吐き気をもよおすほどの嫌悪と、身の毛が
よだつような恐怖を感じるようになりました。
しかし、私がそのような心境になったのは、恥ずかしながら30代になってからです。
その頃になると、悲惨な事件のテレビニュースが目に入ったり、サスペンスドラマなどで
殺人のシーンが目に入るのも嫌になりました。
このような経験から、「人間の良心」とか「人の心」というのは、10年も20年もか
けて育てなければ、身につかないと思うようになったわけです。
* * * * *
ところで「妊娠中絶」も、私が10代や20代のころは、そんなに悪いことだと思って
いませんでした。
「妊娠したら堕(お)ろせばいいじゃん!」
「しかし、金がかかるのが問題だ」
と、いう程度にしか思っていなかったのです。
しかし30代になると、だんだんと「人生の重さ」とか、「生命の尊さ」などを感じ始
めるようになりました。
そして、もしも私が胎児のときに中絶されて、「私の人生の全て」が生まれる前に抹殺
(まっさつ)されていたかと思うと、ぞっとするのです。
そしてまた、30代にもなると、子供がとても可愛(かわい)く感じてきます。生命力
の旺盛(おうせい)な子供たちを見ていると、自分も楽しくなり元気が出てきます。
せっかくそのような子供を授(さず)かったのに、堕ろしてしまわなければならないな
んて、とても悲しく、たいへん恐ろしいことです。
自分の体に宿した子供の命を、母親が自らの意思で絶たざるをえない・・・。
この精神的な苦しみは、男性の私には想像を絶するのです。私だったら、ちょっと耐え
られる自信がありません。たとえば、自分の努めている会社が倒産したり、リストラに遭
(あ)うショックなんか比べものにならないほどの、たいへんに大きな苦しみだと思うの
です。
「望まない妊娠をすれば、傷つくのは女性の方・・・ 」
この言葉は、私が10代のときから知っていました。しかし、その言葉の重みを、ほん
とう心の底から理解するようになったのは、やはり30代になってからです。
* * * * *
そして実は「戦争」も、昔は「退屈しのぎのお祭り騒ぎ」ぐらいにしか思っていません
でした。
テレビで報道される派手な爆発や戦闘シーンをワクワクしながら見るか、「戦争で少し
は日本の景気も良くなるかな」ぐらいにしか思っていなかったのです。
しかし今では、
家や仕事を失って難民になった人々・・・。
怪我の痛み、飢えや寒さに苦しむ人々・・・。
子供や家族を失い、大きな悲しみに打ちひしがれる人々・・・。
そして、手足を失った人々、とくに子供たち・・・ 彼らは、その不自由な体で一生を
生きなければりません。
これらの苦しみが、私の心に迫ってくるのです。
それらの苦しみに比べたら、たとえば不登校や引きこもり、うつ病、会社の倒産やリス
トラなどの問題が、問題とは感じられなくなってしまうほどの、苦しみと悲惨さです。
今では空爆の映像が目に入ると、その下で何人の人が死に、傷つき、不自由な体を一生
ひきずらなければならないのか・・・。そのようなことが頭をよぎり、底知れぬ恐ろしさ
とおぞましさに、心が苦しくなってしまいます。
* * * * *
戦争やテロ、殺人、強姦、幼児虐待、飲酒運転や危険な運転による交通事故、そして妊
娠中絶・・・。これらに対して心の底から湧き起こる、嫌悪、恐怖、悲しみ、苦しみ、そ
して「人間の罪深さ」というものに対する認識。
そのような「人の心」は、子供を放っておいて自然に身につくものではないと思います。
それは、10年も20年もかけて育て上げて行くものであり、また、それぐらいの教育
期間(人生経験)が、どうしても必要なのだと思います。
なぜなら、人生や生命に対する深い洞察力と理解力が身につかなければ、他人の人格や
生命を尊重しようなどという気持ちが起こらないからです。
中学生の頃に受けた父からの叱責を契機として、武者小路実篤やトルストイを通じ、釈
迦やキリストの思想に出会ったこと。
そして、それらの体験によって私が「人の心」を持てたことは、まさに「心の宝物」と
なっています。
8章 キリストの死
誰でも人生で一度ぐらいは、長年の苦労や努力がまったく認められず、自暴自棄(じぼ
うじき)になりたくなる時が、あるのではないでしょうか?
たとえば、いじめや引きこもりで苦しんでいる人々・・・。
彼らや彼女たちは、孤独の中で苦しみと戦っている努力が、世間の人たちになかなか理
解してもらえないのではないでしょうか?
あるいは、リストラされたり、自分の勤める会社が倒産してしまった人々・・・。
とくに40代や50代のサラリーマンで、このような目に遭(あ)った人は、たいへん
辛い思いをしているのではないでしょうか。休日出勤やサービス残業を文句も言わずにや
り、20年も30年も努力をしてきた報(むく)いがこれなのです。
しかも、再就職をしたくてもなかなか出来ません。それまでの経験やキャリアがまった
く評価されないどころか、年齢制限にひっかかってしまいます。その上、家族を抱えてい
れば、なおさら大変です。このような人たちは、ほんとうに苦労が報われないと思います。
苦労や努力が報われない苦しみや、それを分かってもらえない悲しみは、他にもたくさ
んあります。
たとえば、
いくら不眠不休で働いても、自分の経営する店や工場が赤字になり、借金ばかりが増え
ていく人々・・・。
不治の病で、長年の闘病生活を続ける人々・・・。
国籍や民族、血筋によって差別を受けている人々・・・。
ほんとうに、世の中には理不尽なことが多いと思います。
上のような苦しみに比べたら大したことないのですが、私のつたない人生においても、
自暴自棄になりたくなった時が何度かありました。
例えばその一つに、私が科学者になる道を断念した時のことが挙げられます。じつは私
は、10年間ほど無給の身分で大学の研究室に所属し、物理学の研究にかじりついました。
そのころは、土日も返上して研究室に通い詰めでした。徹夜になったり、4時間ぐらい
の睡眠しか取れないこともしばしばです。
実験のスケジュールがとても忙しくなると、3日間のあいだに3時間の仮眠しか取れな
かったこともありました。
しかし、いくら研究の努力を続けていても、世間一般の人から見れば「お金を稼(かせ)
ぎもせず、自分の好きなことが出来て良い身分だ」としか思われないのです。
そして最後は結局、自分ではかなり努力したつもりでしたが、博士学位を取得するには
至りませんでした。
そのときの経験から、いじめや引きこもりで「孤独な戦いを続ける苦しみ」や、40代
や50代でリストラされる「経験やキャリアが評価されない苦しみ」が、分かるとまでは
言えませんが多少は想像できるのです。
* * * * *
ところで私は、苦労や努力が報われなくて自暴自棄になりそうな時は、イエス・キリス
トが磔(はりつけ)にされた時のことを、思い浮かべるようにしています。そうすると私
の心が救われて、自暴自棄にならないで済むのです。
私は、キリストほど苦労や努力が報われなかった人は、いないのではないかと思います。
たとえばキリストは、各地を旅しながら、目の見えない者や、足が不自由で歩けない者、
皮膚病を患(わずら)っている者、職業や身分で差別を受けている者、精神や心が病んで
いる者たちを癒(いや)して回りました。
またキリストは、「神と隣人への愛」という、たいへん素晴らしい「教え」を説いて回
りました。その「教え」の素晴らしさは、その後2000年以上にもわたって人類に尊(と
うと)ばれることにより、今では明確に証明されています。
キリストが行った仕事は、人類のもっとも偉大な業績のひとつです。その証拠に、世界
の歴史を記述するのに使われる「西暦」は、キリストが生まれた年を基準にしているので
す。
このようにキリストは、人々を苦しみから救うために、たいへんな苦労と努力を惜しみ
ませんでした。が、しかし、その報いは、磔(はりつけ)にされて殺されることだったの
です!
十字架に磔にされたキリストは、弟子たちには逃げられ、周囲からは罵(ののし)られ、
手足を杭(くい)で打ち抜かれた激痛に耐えていました。そんな苦しみと孤独の中でも、
キリストは最後の最後まで、自分を磔にした人間たちを恨みませんでした。
それどころかキリストは、「父(神)よ、彼らをお赦しください。自分が何をしている
のか知らないのです。」と、神に祈っています。これは、自分(キリスト)を磔にした罪
人(つみびと)たちを、神が赦して下さるように執(と)り成しているのです。
つまりキリストは、自分を磔にして殺そうとする人間たちさえも、慈愛の心で思いやっ
ていたのです!
この時のキリストを思い浮かべれば、私の苦労や努力など、大したことではないと思え
てきます。
磔にされて死ぬまでの「キリストの生きざま」が私の心に迫り、「どんな時でも隣人を
愛しなさい!」と、力強く語りかけてきます。
そして、どんなに辛くて苦しい時でも、他人を恨んだり世の中を憎んではいけないと、
考え直すことができるのです。
たしかに、世の中には理不尽なことがたくさんあります。
世の中を憎みたくなる気持ちも、少しは分かる気がします。
「ムシャクシャするから人でも殺してやろう!」とか、
「もしも爆薬が手に入るのだったら、テロでも起こしてやろう!」と、本気で思ってい
る人間が、いまの世の中に何人いても不思議ではないと思います。
しかしキリストの愛は、そのような「自暴自棄になって犯罪を犯してしまうこと」から、
私を未然に救ってくれるのです。
事実、これまで私は「キリストの死」によって何度も救われており、それは本当に「心
の宝物」となっています。
つづく
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