私とは何か 3
                              2024年11月24日 寺岡克哉


9章 私の自我意識は二度と生じない
 私の自我意識は、もう二度と生じることが無いと、私は考えています。つまり、「生ま
れ変わり」は存在しないと、私は考えているのです。なぜなら、私に「前世の記憶」とい
うものが、まったく存在しないからです。

 しかしながら、「じつは多くの人が生まれ変わっているけれど、前世の記憶が消え去っ
ているのだ」という反論があるかも知れません。
 が、しかし、そのような反論にたいして私は、「前世の記憶が完全に消え去って、まっ
たく残っていないのならば、それは生まれ変わりが存在しないのと同じだ」と主張します。

              * * * * *

 ところで・・・ 
 現生人類(ホモ・サピエンス)は、今から約20万年前に誕生したと言われています。
 しかし私は、人類としての前世の記憶を持っていません。だから、過去20万年におい
て、私の自我意識は生じていなかったと考えられます。

 また、地球に最初の生命が誕生したのは、今から約40億年前だと言われています。
 しかし私は、人類以外の生物としても、前世の記憶を持っていません。だから、過去
40億年において、私の自我意識は生じていなかったと考えられます。

 さらに、この宇宙が誕生したのは、今から約138億年前だと言われています。
 そして、その長い時間の中においては、宇宙のどこかで、地球以外の生命体が存在して
いたかも知れません。しかし私は、地球以外の生命としても、前世の記憶を持っていませ
ん。だから、過去138億年において、私の自我意識は生じていなかったと考えられるの
です。

 そして蛇足(だそく)ですが、近年では「異世界転生」をテーマにした小説や漫画、ア
ニメが流行(はや)っているので、ちょっと注意しておきたいと思います。
 たとえば、もしも、この宇宙とは次元の異なる別の宇宙(つまり異世界)が存在してお
り、そこに異世界人が住んでいたとしても、私は、異世界人としての前世の記憶を持って
いません。だから、異世界にも私の自我意識は生じていなかったと考えられます。
(じつは、私は「異世界転生もの」が大好きです。それで、小・中学生ぐらいの子供たち
が、「生まれ変わり」を信じてしまうのではないかと、すごく心配になっています。)

            * * * * *

 いま上で述べたように、
 この世に私の自我意識が生じたことは、138億年の宇宙の歴史の中で、たった1回だ
け起こった、奇跡中の奇跡です。
 それを考えれば、私が死んだ後、さらに何100億年の時間が経とうとも、私の自我意
識が再(ふたた)び生じることは絶対に無いでしょう。
 そして、これは私だけでなく、前世の記憶を持っていない世界中のほとんど全ての人に
対しても、まったく同じことが言えます。

 だから、もしも「生まれ変わり」を信じている人が本書を読んでいたら、私は申し上げ
たいのですが、「死んで生まれ変わり、もういちど人生をやり直そう!」などと、軽い気
持ちで行動に移すようなことは絶対にしないでください。


10章 自我意識のパラドックス
 ここでは、ずいぶん昔(1980年頃の私が高校生だったとき)に思いついた、自我意
識に関するパラドックス(矛盾)について、紹介したいと思います。

 まず最初に断っておきますが、このパラドックスは、「空想による思考実験」の上での
話になります。

 さて、たとえば・・・ 
 人間の脳を、機械(電子回路など)に置き換えることが出来るような、そんな「人工脳」
が発明されたとします。
 そして、その前提の下、私の脳のごく一部分、たとえば私の脳の1%ぐらいを、この
「人工脳」に置き換えたとします。
 しかし、その置き換えた分、つまり私の生身(なまみ)の脳の1%は、切り取られて
「失う」ものとします。
 ところが、そのような状態でも、99%残った生身(なまみ)の脳と、置き換えた1%
の人工脳とのリンクが完全にされており、私の記憶や感情などは、100%生身の脳だっ
たときと、何も変わらないとします。

 このような状態なら、
 生身の脳の1%を、人工脳に置き換えても、「私の自我意識」は存在していると言える
でしょう。

 そして、その後、
 人工脳に置き換える割合を2%に増やし、生身の脳が98%の状態になっても、生身の
脳と、人工脳とのリンクが完全にされており、記憶や感情が全く変わらなければ、やはり、
私の自我意識は存在しているでしょう。

 さらに、その後、
 人工脳に置き換える割合を3%、4%、5%・・・と、徐々に増やして行き、生身の脳
の50%が、人工脳に置き換わったとしても、つまり生身の脳の半分が失われたとしても、
生身の脳と、人工脳とのリンクが完全にされており、記憶や感情が全く変わらなければ、
やはり私の自我意識は存在していると思います。

 そしてついに、
 人工脳に置き換える割合を98%、99%、100%と、徐々に増やして行ったら・・・
 しかしそれでも、自分の記憶や感情が、まったく変わらないとすれば・・・
 もしも、そんな状態が実現したら、たとえ生身の脳の100%が人工脳に置き換わった
としても、つまり私の「生身の脳のすべてが失われた」としても、やはり「私の自我意識
は存在する!」と私は思うわけです。

(ところで3章で述べたように、私の体を作っている原子は、1年も経てば同じ種類のべ
つの原子にすべて置き換わっています。それは脳にも言えることで、私の脳は1年も経て
ば、同じ種類ですが全て別の原子、つまり「別の物質」に置き換わっています。しかし、
それなのに、私の自我意識は存在しつづけています。この事実から、上の思考実験の結論
は正しいと私は確信しています。)

             * * * * *

 ところが一方、
 私の生身の脳を、徐々に切り取るのではなく、まったく切り取らずに、最初から私の記
憶や感情を、人工脳に100%コピーした場合。

 その場合は、とうぜん私の生身の脳には「私の自我意識」が存在します。しかし人工脳
には(私と記憶や感情がよく似た)「人工脳の自我意識」は存在するかも知れませんが、
「私の自我意識」は存在しないでしょう。

             * * * * *

 つまり、
 私の生身の脳を、徐々に切り取って行った場合は、人工脳の中に「私の自我意識」が存
在するのに、私の脳を切り取らないでコピーした場合は、人工脳の中に「私の自我意識」
は存在しないのです。

 すこし見方を変えれば、
 私の生身の脳を徐々に切り取って、人工脳に置き換えて行った場合は、生身の脳をすべ
て失っても、私の自我意識消滅、つまり「死」という現象が起こらないと言えるでしょう。

 ところが、
 私の脳を切り取らないで、人工脳に記憶や感情をコピーした場合は、生身の脳を失えば、
とうぜん私は死ぬことになります。

 以上が、むかしに私が思いついた「自我意識のパラドックス」です。

             * * * * *

 いま考えてみても、すごく不思議でなりませんが、この話を思い出したついでに、もう
すこし考察を進めてみました。

 たとえば、私の生身の脳を、徐々に切り取るのではなく、まったく切り取らずに、最初
から私の記憶や感情を、人工脳に100%コピーする場合を考えてみます。

 この場合、私の記憶や感情を人工脳に「コピーするとき」は、生身の脳と、人工脳とが
完全にリンクしており、生身の脳と、人工脳とで、いわゆる「感覚共有」をしている状態
であるとします。

 この「感覚共有」の状態において私は、生身の脳と、人工脳の、2つの脳を持っている
にもかかわらず、「私の自我意識は1つ」として感じるでしょう。

 たとえば「感覚共有」の状態で、生身の脳と、人工脳との間で、「対話」を試(こころ)
みたとしても、自分一人だけで自問自答しているのと、なんら感覚は変わらないと思いま
す。

 しかしリンクを切り離して、「感覚共有」の状態を解消すれば、その瞬間から、私の生
身の脳には、私の自我意識が存在しますが、しかし人工脳には、人工脳の自我意識が存在
するのみで、もはや私の自我意識は存在しなくなります。

 ところが!
 「感覚共有」の状態から、リンクを切り離すのではなく、「感覚共有」の状態のまま、
私の体を木っ端微塵(こっぱみじん)に爆破して、一瞬で生身の脳を消滅させた場合・・
・その場合は、生身の脳が消滅しても、私の自我意識は、人工脳の中に存在し続けるよう
に、私には思えるのです。
 つまり体の爆破により、手や足や目や耳などの「肉体の感覚」が無くなったように感じ
るだけで、「自我意識そのもの」は消滅しないで存続すると思うわけです。
 (蛇足ですが、人工の手や足や目や耳を、人工脳に接続すれば、それらの感覚も回復可
能でしょう。)

 すこし言い方を変えれば、このような場合、私の肉体が死んでも、私は人工脳の中で生
き続けるのではないかと、いま現在の私は、そのように考えている次第です。



第3部 精神的な情報としての私

11章 精神的な情報としての私
 「精神的な情報としての私」とは、私の理性や良識、あるいは私の人生観や生命観、世
界観としての「私」です。

 ところで、この「精神的な情報としての私」と、第2部で述べた「自我意識としての私」
とは、一体どこが違うのか? という疑問を持たれるかも知れません。
 なぜなら、私の「良識」や「世界観」は、私の「自我意識そのもの」のように思えるか
らです。

 しかし、よく考えてみると、実はそうでないことに気がつきます。
 というのは、私の「良識」や「世界観」、つまり「精神的な情報としての私」は、教育
や文化、あるいは風習などによって作られたものだからです。
 たとえば、何千年もの長い時間を積み重ねてきた人類の歴史、そして世界中の人々の
様々な物の見方や考え方など、それらの影響を受けて「精神的な情報としての私」が作ら
れているからです。

 その証拠に、私の自我意識が存在するというだけでは、「精神的な情報としての私」は
存在しません。
 なぜなら例えば、私が赤ん坊のときから、オオカミなどの動物に育てられた場合を考え
てみれば、そのことが分かります。
 つまり、たとえ私がオオカミに育てられたとしても、「自我意識としての私」は存在し
ます。なぜなら、自分の存在をつねに実感する「自我意識」は、たとえ私がそのような状
況にあったとしても存在するからです。
 しかし、私の人間としての理性や良識。あるいは、素粒子から原子、分子、生命、人間、
そして宇宙や神仏にいたる「私の世界観」。これら「精神的な情報としての私」は、私が
オオカミに育てられた場合は存在しないのです。
 ゆえに、私の「ものの見方」や「考え方」、あるいは「感じ方」は、私が生まれるずっ
と前から存在した、他のたくさんの人々の「精神的な情報」によって作られたと言えるの
です。

 そこが、「自我意識としての私」と「精神的な情報としての私」の違うところです。

             * * * * *

 ところで、第2部で述べた「自我意識としての私」は、私が生まれたときに出現し、私
が死ねば消滅します。
 しかし「精神的な情報としての私」は、私が生まれる何千年も前から存在しています。
そしてそれは、いま生きている私からも放たれて、他の人々の精神的な情報となって行く
のです。

 たとえば私は、2千年以上も前から存在していた釈迦やキリストの思想を、「とてもす
ばらしい!」と感じています。だからそれらを、自分のできる方法で私のなかに取り込み
ました。そしてそれを、私の感性や、現代の科学的な知識などと照らし合わせて、私なり
の理解や解釈をします。
 さらにそれらは、人に話したり文章に書くなりして私から放たれ、他の人々に取り込ま
れて行きます。

 つまり「自我意識としての私」は、自分の中にしか存在しませんが、しかし一方、「精
神的な情報としての私」は、自分の中にも存在するのですが、その大部分は、文章として
残ったり、他の人の自我意識の中に取り込まれていく、「自分の外に存在する私」なので
す。
 もともと私の外に存在していたものが、一時的に私の中に流れ込んできて独自の変化を
遂(と)げ、そして私の外に流れ出していく・・・。

 その「一連につながった全体」が、「精神的な情報としての私」なのです。

 つまり「精神的な情報としての私」は、私が生まれる何千年も前から存在し、私が死ん
だ後も存在し続ける「私」だと言えるのです。



第4部 神としての私

12章 神の定義
 神とは、「この世を、この様にしているもの」と定義します。

 ここで「この世」とは、人間や人類社会、生命、生態系、地球、そして太陽系や銀河系
を含めた、「宇宙全体」のことをいいます。

 そして、「この世を、 “この様に” しているもの」というのには、以下の三つの意味が
含まれています。
 1.この世を、この様な「存在」にしているもの。
 2.この世を、この様な「状態」にしているもの。
 3.この世を、この様な「状況」にしているもの。

 つまり神とは、人間や人類社会、生命、生態系、地球、太陽系や銀河系を含めた宇宙全
体を、この様に存在させ、この様な状態にし、この様な状況にしているものです。

            * * * * *

 つぎに、神について、すこし具体的に表現してみましょう。

 たとえば・・・
 神とは、およそ138億年前に、ビッグバン(宇宙の始まりの大爆発)によって、この
宇宙を誕生させたものです。
 神とは、ビッグバンの莫大なエネルギーから、電子や陽子、中性子などの素粒子を作り
出したものです。
 神とは、それらの素粒子から、水素やヘリウムなどの原子、つまり物質を作り出したも
のです。
 神とは、それらの原子を集めて恒星を作ったものです。
 神とは、恒星の中心部で核融合を起こさせ、水素やヘリウムから、炭素や酸素、窒素、
カルシウム、イオウ、リン、鉄などの様々な原子を作ったものです。
 神とは、宇宙に漂う膨大な星間物質を集めて、さまざまな恒星や銀河、太陽系、そして
地球を作ったものです。
 神とは、地球に空(大気)や大地や海を作ったものです。
 神とは、地球の海の中で、原子を結合させて分子や高分子を作ったものです。
 神とは、高分子を組み合わせて、地球に生命を誕生させたものです。
 神とは、生命を進化させ、単細胞生物から多細胞生物、無脊椎動物、脊椎動物、魚類、
両生類、爬虫類、哺乳類、サルの仲間、そしてヒトを誕生させたものです。
 神とは、細菌や植物や動物など、すべての生物によって、地球の生態系を作り出したも
のです。
 神とは、私たち人間に、自我意識や思考能力や感情を持たせたものです。
 神とは、私たち人間に、村や町、都市、国家、国際社会を作らせたものです。
 神とは、私たち人間に、政治や経済、宗教、その他さまざまな社会活動を行わせるもの
です。
 神とは、私たち人間に、学問や教育、医術、芸術、工芸、スポーツ、芸能、その他さま
ざまな文化活動を行わせるものです。
 神とは、様々な自然法則や、様々な作用や働き、様々な因果関係や、様々な偶然や必然
をふくむ、この宇宙で起こった事象の全てです。
 ・・・等々、具体例を上げれば、まだまだ限がありません。

 さらには、ビッグバンが起こる以前でさえも、無限の過去から何らかの法則や作用が働
き、何らかの因果関係が続き、何らかの偶然や必然が起こって来たはずです。
 その結果として、138億年前にビッグバンが起こり、この宇宙が誕生して、「この世
が、この様になった」わけです。

 だから神は、無限の過去から存在しており、現在まで起こった全ての事象を含みます。

             * * * * *

 ところで、以前に7章で述べたように、
 なぜ、私の自我意識は、私に存在するのか?
 なぜ、この時代に、この場所で、この家族の下に生まれた人間に、私の自我意識が存在
するのか?
 という、ものすごく大きな謎が存在していました。

 しかし、絶対に否定できない事実として、たしかに私の自我意識は私に存在しており、
この世は、そのようになっています。
 ゆえに、私の自我意識が私に存在するのは、この世をこの様にしている「神」が、その
ようにしたからだと言うことができます。

 つまり、神の概念を導入すること(神の存在を認めること)によって、答えることが不
可能だった7章の疑問にたいし、答えることが出来るようになったわけです。

 また逆に、「なぜ、私の自我意識は私に存在するのか?」という疑問にたいしては、
「神が、その様にしたからだ!」としか、答えることが出来ないと私は結論しています。


 つづく



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