死について 3
2024年11月3日 寺岡克哉
10章 私が望む死期
近ごろ私は、あと何年ぐらい生きられるのだろうかと、かなり気にするようになって来
ました。
ちなみに、私は現在61歳になっていますが、この年齢になって、けっこう強く確信し
ていることがあります。それは、「あと30年は絶対に生きられないだろう」と言うこと
です。
つまり、心臓病や痛風の病気持ちで、独(ひと)り身であり、体の自由が利(き)かな
くなっても身の回りの世話をしてくれる人がいない私が、あと30年も生きることができ
たら、それこそ奇跡に近いとさえ感じるのです。
それで、まあまあ妥当な所としては、あと20年ぐらい生きられたら、かなり上々かな
と思っています。
しかし、もしかしたら、あと10年でさえ、生きることが出来ないかも知れないと、思っ
てしまうことがあります。
たとえば家の中で、心臓発作や、脳卒中、熱中症、急性肺炎などの急病に襲われたとき、
独り身である私が、自力で救急車を呼ぶことができなければ、それだけで死んでしまうで
しょう。
あるいは、(これは誰にでも言えますが)突然の事故や災害に遭(あ)ってしまう可能
性もあり、私が10年以内に死ぬというのも、そんなに低い確率ではないような気がする
のです。
* * * * *
ところで、私が10代や20代だった若い頃は、自分が高齢になったら、病院のベッド
で生命維持装置に囲まれ、身動きができない状態になったとしても、できる限り、1秒で
も長く生きたいし、そうするべきだと思っていました。
なぜなら、この世に生まれたからには、可能なかぎり、生きられるだけ生き抜くことが、
「命を授(さず)かった者の使命である!」と、そのように強く思っていたからです。
ところが60歳を過(す)ぎた最近では、ずいぶんと心境が変わってきました。
つまり、「何がなんでも、1秒でも長く生きてやる!」とか、「それが、この世に生ま
れた自分の使命なのだ!」と、いうような気持ちが、いつの間にか消えて無くなってしま
ったのです。
そして、「とことん無理をしてまで、長生きする必要など、じつは無いのではないか?」
とか、「無理して長生きしようとせず、死ぬ時がきたら素直に死ぬのが、生命として自然
ではないのか?」と、思うようになって来たわけです。
とにかく今の私は、一人で風呂に入れなくなったり、一人で食事を取ることが出来なく
なったり、一人でトイレに行けなくなったら、「もう、死んでも良いのではないか」と、
感じるようになっています。
それが、私が望んでいる「死期」です。
本当の所は、その時になってみないと、分からないのかも知れません。が、しかし、あ
まりにも他人の手間をかけさせてまで、長く生き続けることには、心理的に大きな抵抗が
あります。
そして、自分の身の回りの面倒が、自分でみれなくなったら、潔(いさぎよ)く死を受
け入れるべきというのが、ものすごく自然な考えであるように感じるのです。
* * * * *
ところで、上のような心境の変化には、前の9章で述べた、癌(がん)で死んだ母の介
護をした経験が、大きく影響しているのかも知れません。
つまり末期の癌で、どんどん痩(や)せ細り、弱っていく母を見ていると、とことん抗
癌剤を使って、無理に長生きさせるのは、まず母本人が望んでいなかったし、私も「それ
は可哀(かわい)そうだなあ」と、思ってしまったのです。
それで、まだ試(ため)せる抗癌剤があったにもかかわらず、「抗癌剤治療を打ち切る」
という選択をしました。
もしも、その抗癌剤を使ったとしても、あと1ヵ月か2ヵ月ぐらいしか、寿命を延(の)
ばすことが出来なかっただろうし、その間、抗癌剤の副作用で、さらに母を苦しませるこ
とにもなってしまいます。
だから、(母と合意した上で)抗癌剤治療を打ち切ったことに対して、私は、それほど
後悔(こうかい)をしていません。
おそらく、そのときの経験が引き金になって、「無理をしてまで長生きするよりは、死
ぬ時がきたら素直に死ぬのが、生命として自然なことなのだ」というように、私の心境が
大きく変わったのだと思います。
11章 私の理想の死に方
じつは・・・ 私には、30歳代の頃から20年以上も、ずっと頭から離れなかった、
ものすごく重要な問題があります。
それは、
「いったい私は、死ぬまでに、なにを成し遂げたいのか?」
「いったい私は、死ぬまでに、どんな人間になりたいのか?」
「私が死ぬまでに達成したい、“人生の完成した状態” とは、一体どんな状態なのか?」
と、いうような問題です。
そのような問題の答えを、私は長い間ずっと探し求め、考え続けて来たわけですが、よ
うやく最近になって、その答えが少し見えてきたような気がしましたので、本書の最終章
で書いてみたいと思います。
* * * * *
まず最初に、結論を言ってしまうと、「私の人生が完成した状態」というのは、「この
世界に対する 慈(いつく)しみで、心の中が満ちあふれている状態」です。
それがどんな状態なのか、もうすこし具体的に説明してみましょう。
つまり、なんと言いますか、この世界に対する、素晴らしさというか、有難さというか、
嬉(うれ)しさというか、愛おしさというか、そのような気持ちで心の中がいっぱいにな
り、この世界に対して、まるで小さな幼子(おさなご)を優しく抱いて、温かく包み込み、
大切に守ってあげたくなるような、そのような気持ちで、自分の心が満ちあふれている状
態です。
さらには、すこし大げさに聞こえるかも知れませんが、もっと率直に言うと、たとえば
「慈愛の神」というものが存在するとして、その神の、無限の愛で世界を慈しんでいる心
と、自分の心が一体となり、そのような「無限の慈しみ」で、自分の心の中が満ちあふれ
ている状態。
つまり、誤解を恐れずに言えば、まるで神と自分が一体になったように感じる状態が、
「私の人生が完成した状態」なのです。
* * * * *
ところが、
「私の人生が完成した状態」というのは、ほんの一時(いっとき)だけ現れたと思った
ら、すぐに消えてしまいます。
つまり、「私の人生が完成し、私は人生の最終目的を達成したのだ!」と、実感できる
のは、ほんの一時だけなのです。
というのは、はたと我に返って意識が現実世界にもどり、お金(生活費)や体の健康な
どの心配が少しでも心をよぎったり、事故や犯罪、災害、戦争などの悲惨なニュースが目
に入ったりすると、不安や恐れ、怒り、憎しみなどの感情が生じて、「この世界に対する
慈しみで、心の中が満ちあふれている状態」というのが、すぐに吹き飛んでしまうからで
す。
そのときの気持ちを、誤解を恐れずに言えば、まるで天上界から地の底へと、引きずり
落とされたような気分になります。
* * * * *
そのため私は、「人生が完成した状態」ができるだけ長く持続するように、つね日頃か
ら意識をしているのです。が、しかし、なかなか思うように行かないのも、正直なところ
です。
もしも「人生が完成した状態」が、ずっと死ぬまで続くようになったら、その時こそ本
当に、「私の人生は完成したのだ!」と、自信を持って断言することが出来るのでしょう。
しかしながら、それは私が死ぬまでに達成できないかもしれませんし、本音(ほんね)
を言えば、達成できない可能性の方が大きいとさえ感じています。
しかし、それでも、自分が死ぬ直前ぐらいは、「この世界に対する慈しみで、心が満ち
あふれている状態」を保ちながら、死んで行きたいと思っています。
つまり、「私の人生が完成し、人生の最終目的は達成されたのだ!」と、心から確信を
持つことができ、十二分に満足した状態。そのような状態の中で、最後には死んで行きた
いものだと、私はつよく願望しています。
それが、私の理想の死に方なのです。
おわり
あとがき
「死」については、いろいろな考え方があると思いますが、本書では私の思うことを遠
慮なく述べさせて頂きました。
ところで、本書で述べた「死後の世界は存在しない」という私の考え方は、天国や地獄、
あるいは「生まれ変わり」を信じている人々にとって、絶対に受け入れ難(がた)いもの
でしょう。
たとえば、もしも未来の時代において、人類のほとんどが、天国や地獄や生まれ変わり
を否定するようになって行くとすれば、それまでに今からあと数百年か、もしかしたら数
千年の年月が必要になるのかもしれません。
それほどまでに「死後の世界」は、人類の心に深く浸透していると思います。
しかしながら本書で述べたように、生まれる前や、熟睡、全身麻酔などの「客観的な事
実」を素直に認めれば、「死後の世界は存在しない」というのが、どうしても正しいとし
か私には考えられません。
やはり、とても長い年月がかかるかも知れませんが、そして(とくに宗教関係者から)
多くの批判があると思いますが、「死後の世界が存在する」という迷信から卒業して行く
ことこそ、これからの人類が進んで行くべき方向だと私は確信しています。
2024年11月3日 寺岡克哉
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