死について 2
                              2024年10月27日 寺岡克哉


5章 死後の世界について
 以前に1章で述べたように、私は天国や地獄などの「死後の世界」を信じていません。
 しかも私は、天国や地獄の概念に対して、とても強い嫌悪感を持っています。なぜなら、
これまでの宗教があまりにも「デタラメ」をやって来たからです。
 たとえば、「お布施をたくさん出せば、地獄に落ちるのを免(まぬが)れて、天国へ行
ける!」などと一般民衆をそそのかして金を巻き上げたり、「殉教(じゅんきょう:自分
が信仰する宗教のために命を捨てること)をすれば天国へ行ける!」と人々を洗脳して、
テロや戦争に駆り出しているからです。

 つまり天国や地獄の概念が、金儲けや戦争の道具にされているからです。

 しかしながら私は、天国や地獄などの「死後の世界」の概念が、なぜ現代においても人
類社会に根強く残っているのかを、考えてみることがあります。
 たとえば天国や地獄の概念は、ヨーロッパやアメリカなどの西洋であろうと、インドや
中国や日本などの東洋であろうと、そんなことには関係なく、世界中で昔から存在してい
ました。そして現代においても、天国や地獄の存在を信じている人々が、世界中にたくさ
んいます。
 なぜそうなのか、それには、それなりの理由があるはずです。その理由について、私な
りに考えたことを、以下に述べて行きたいと思います。

 まず第一に考えられる理由は、「死」に対する恐怖です。
 「死後の世界」を信じる人々は、死によって自我意識が永遠に消滅してしまうことが、
恐ろしくて耐えられないのだと思います。だから、「自分が死んでも、死後の世界で自我
意識は永遠に存続する!」と、信じたいのだと思います。
 また、たとえ元気なうちは死後の世界を信じなくても、老齢になって体が衰弱したり、
末期ガンなどの助からない病気になった場合に、死後の世界を信じたくなる人がけっこう
多いのかも知れません。

 第二に、天国や地獄の存在は、この世を正しく生きるための動機づけになります。
 つまり、「死後に天国へ行きたい!」とか、「死後に地獄へ落ちたくない!」という気
持ちが、この世で善を為し、悪を為さないことの動機になるのです。
 死後に天国へ行きたいから、多少は嫌なことや損になっても、この世で善い行いや正し
い行いをするのです。また、死後に地獄へ落ちるのが嫌なので、犯罪などの悪い行いをし
ないのです。
 天国や地獄は、永遠に続く世界です。天国へ行けるか地獄へ落ちるかは、永遠に続く幸
福か、永遠に続く苦しみかという、ものすごく大きな違いがあります。だから、それに比
べれば、人生における50年や100年ぐらいは、すこし我慢して正しく生きようという
気持ちになるのだと思います。
 天国も地獄もなく、死ねば皆同じになってしまうのならば、無理をして善い行いや正し
い行いをする必要もなく、「生きている間に、悪いことでも何でもやりたい放題にやれば
よい!」と、言うことにもなりかねません。
 昔の時代は、法律や警察が現代ほど整備されていなかったので、社会秩序を保つために
も、天国や地獄の概念を民衆に浸透させる必要があったのかも知れません。

 第三に、天国や地獄の概念は、「愛する人を失った苦しみ」を和らげることが出来ます。
 たとえば、愛する人が事故や病気などで死んでしまったら、大変な苦しみに見舞われま
す。その理不尽さと居たたまれなさに、気が狂いそうになっても不思議ではありません。
そんな時に、「死んだあの人は、今は天国で幸せに暮らしている」と、心の底から思うこ
とが出来れば、正常な精神状態を保つことが出来るでしょう。
 また、たとえば自分の子供や家族が、「何となくムカついたから殺した」とか、「人を
殺してみたかったから殺した」などの、訳の分からない理由でひどい目に合わされて殺さ
れた場合。その、やるせなさと理不尽さには、本当に想像を絶するものがあると思います。
 そんな時に、「死んだあの人は、天国で優しい人達に囲まれて安らかに暮らしている」
と、心の底から思うことが出来れば、悲しみや、やるせなさなどの苦しみが、多少は緩和
されると思うのです。そして、悲しみから早く立ち直れる可能性も出て来ると思うのです。
 また逆に、極悪な殺人犯などに対しては、たとえ死刑にならなかったとしても、「死ん
でから後、永遠に地獄で苦しみを受ける!」と、心の底から思えば、犯人に対するやり場
の無い怒りや憎しみが、少しは緩和されると思うのです。
 「悪い人間は、死んでから後、永遠に地獄で責め苦を受ける!」
 「悪人は、たとえ死んでも(たとえ死刑になっても)、罪を免(まぬが)れることは絶
対に出来ない!」
 と、このように思うことにより、犯人に対する怒りや憎悪の苦しみが、多少は和らぐと
思うのです。(大変に強い怒りや憎しみは、それを感じるだけで、ものすごく大きな苦し
みとなります。)
 愛する人を殺された者の苦しみは、本当に理不尽です。自分に何の過失もないのに苦し
められるのです。そして殺された当の本人よりもずっと長い年月を、苦しみに耐え続けて
行かなければなりません。
 たとえ犯人が捕(つか)まって死刑になったとしても、殺された人は戻って来ません。
このような絶対に解決不可能な苦しみを、何とか和らげようと考え出した苦肉の策が、天
国や地獄の概念だと思います。

 この世には、論理的、理性的、合理的には絶対に解決が不可能な、苦しみ、矛盾、理不
尽、やるせなさが、どうしても存在します。
 だから現代においても、やり場の無い理不尽さに対して自分の心を整理し、心の安定を
保つために、天国や地獄の概念が必要な人々がいるのだと思います。
 天国や地獄の概念は、過度の怒りや憎しみや悲しみを軽減し、平和に暮らすための「人
類の智恵」なのだろうと私は思います。
 そしてまた、愛と善と美と真理の理想郷(天国)に、いつしか自分も行けるのだという
希望が、この世における矛盾に満ちた苦しみを乗り越え、正しく懸命に生きるための原動
力として働くのだと思います。(しかし、自殺をして手っ取り早く天国へ行こうとするの
を防止するために、西洋では古来より自殺を固く禁止していたのかも知れません。)

 以上の理由から、東洋や西洋を問わず、世界中で天国や地獄の概念が形成され、現代で
もそれを信じる人が多くいるのだと思います。


6章 「生まれ変わり」について
 2023年5月18日・・・ 歌舞伎俳優と、その両親による、一家心中事件が起こり
ました。
 この事件で、ちょっと私が気になったのは、生き残った歌舞伎俳優(両親は死亡)が、
警察の調べにたいして、「家族会議をして、死んで生まれ変わろうと話し合い、両親が睡
眠薬を飲んだ」という趣旨(しゅし)を話していたことです。
 つまり私は、この事件の報道を見て、「大昔(おおむかし)の時代ならいざ知らず、現
代のいい大人が、生まれ変わりなどを信じているのか」と、すこし驚(おどろ)いたわけ
です。

 そう言えば・・・ 
 近年では、小説や漫画やアニメなどで、「異世界転生もの」というジャンルが流行(は
や)っています。だから、もしかしたら小学生や中学生、さらには高校生や成人であって
も、「生まれ変わり」を信じている人が、増えているのではないかという気がして来まし
た。

 それで、ちょっとネットで調べてみたら、
 国際社会調査プログラム (International Social Survey Programme、ISSP)による
2008年のデータによれば、日本人の42.6%が、「生まれ変わりを信じている」と、
回答していたみたいです。

 なんと、日本人の4割以上が、生まれ変わりを信じているというのです!

 これには、ものすごく驚きました。そして、「生まれ変わり」にたいする私の考えを、
ここで書いておくべきだと強く思いました。

             * * * * *

 さて、まず結論から言ってしまえば、「生まれ変わりは存在しない」と私は考えていま
す。なぜなら、私に「前世の記憶」というものが、まったく存在しないからです。

 しかしながら、「じつは多くの人が生まれ変わっているけれど、前世の記憶が消え去っ
ているだけだ」というような、反論があるかも知れません。

 が、しかし、そのような反論には、「前世の記憶が完全に消えてしまい、まったく残っ
ていなければ、それは、生まれ変わりが存在しないのと同じだ」と、私は主張します。

             * * * * *

 ところで・・・ 
 現生人類(ホモ・サピエンス)は、今から約20万年前に誕生したと言われています。
 しかし私は、人類としての前世の記憶を持っていません。だから、過去20万年におい
て、生まれ変わりは存在しなかったと考えられます。

 また、地球に最初の生命が誕生したのは、今から約40億年前だと言われています。
 しかし私は、人類以外の生物としても、前世の記憶を持っていません。だから、過去
40億年において、生まれ変わりは存在しなかったと考えられます。

 さらに、この宇宙が誕生したのは、今から約138億年前だと言われています。
 そして、その長い時間の中においては、宇宙のどこかで、地球以外の生命体が存在して
いたかも知れません。しかし私は、地球以外の生命としても、前世の記憶を持っていませ
ん。だから、過去138億年において、生まれ変わりは存在しなかったと考えられるので
す。

 そして蛇足(だそく)ですが、近年では「異世界転生もの」が流行(はや)っているの
で、ちょっと注意しておきたいと思います。
 たとえば、もしも、この宇宙とは次元の異なる別の宇宙(つまり異世界)が存在してい
て、そこに異世界人が住んでいたとしても、私は、異世界人としての前世の記憶を持って
いません。だから、異世界からの生まれ変わりも、存在しないと考えられます。
(じつは、私は「異世界転生もの」が大好きです。だからこそ、小・中学生ぐらいの子供
たちが、生まれ変わりを信じてしまうことが心配になってしまうのです。)

            * * * * *

 いま上で述べたように、
 この世に私が生まれたのは、つまり、私の自我意識がこの世に存在できたのは、138
億年の宇宙の歴史の中で、たった1回だけ起こった、奇跡中の奇跡です。
 それを考えれば、私が死んだ後、さらに何100億年の時間が経とうとも、私の自我意
識が再(ふたた)び存在すること、つまり、私が生まれ変わることは、おそらく絶対に無
いでしょう。
 そしてこれは、私だけでなく、前世の記憶を持っていない、世界中のほとんど全ての人
に対しても、まったく同じことが言えます。

 だから、もしも「生まれ変わり」を信じている人が本書を読んでいたら、私は申し上げ
たいのですが、「死んで生まれ変わり、もういちど人生をやり直そう!」などと、軽い気
持ちで行動に移すようなことは、絶対にしないでください。


7章 死が存在する理由
 すべての生き物は、苦しみに耐えて一生懸命に生きています。それなのに、最後には必
ず死ななければなりません。生命には、このような不条理がどうしても存在します。
 だから、「どうせいつかは必ず死ぬのに、なぜ苦しみに耐えてまで生きなければならな
いのか?」と、疑問に思ってしまう人がいるのも無理はありません。

 しかし私は、「死にも存在する意味があるのだ!」と考えています。
 それはもちろん、死を正当化したり、あるいは死を美化する訳ではありません。そうで
はなく、「死」にも「生命全体の維持と発展のために必要不可欠なもの」として、積極的
な意味があるのだと捉(とら)えているのです。

 そう言える根拠として、「食物連鎖」と「生命進化」の、二つの例を挙げたいと思いま
す。

 まず前者の「食物連鎖」は、地球の生命全体を維持するために、どうしても必要です。
なぜなら、もし食物連鎖を完全に否定すれば、すべての生物が生きられなくなってしまう
からです。
 食物になり、死んでくれる生物がいるからこそ、地球の全ての生物が生きられるのです。
ゆえに食物連鎖による「死」は、地球の生命全体が生きていくために、どうしても必要不
可欠です。

 そして後者の「生命進化」のためにも、「生物個体の死」がどうしても必要です。なぜ
なら生命が進化するためには、つねに新しい生命が生まれる必要があるからです。そして
そのためには、古い世代の死がどうしても必要だからです。
 たとえば、もしも生物個体が永久に死ななければ、すぐに地球上がその生物でいっぱい
になってしまいます。そうなると、もはや新しい生命の生まれる余地がなくなり、生命の
進化も不可能になってしまうのです。
 無限に生命進化を続けるためには、無限に新しい生命が生まれる必要があります。その
ためには、無限に世代交代を行う必要があり、古い世代の死がどうしても必要になって来
ます。
 つまり地球の生命は、「生物個体の死」という戦略を取ることにより、「無限に進化す
る能力」を獲得したと言えるわけです。

             * * * * *

 以上ここまで述べてきた、「食物連鎖」と「生命進化」の考察により、生命全体の維持
と発展のためには、「生物個体の死」がどうしても必要であることが分かりました。

 食われることによる死・・・。
 寿命が尽きることによる死・・・。
 たしかに、これら「生物個体の死」が、生物界に大きな苦しみを与えているのは事実で
す。しかし、地球の生命全体が永遠に存続し、無限に発展するためには、生物個体の死が
どうしても必要なのです。

 ところで私は、
 「生きられるだけ精一杯に生き、死ぬときが来たら死ぬ」というのが、生命にとって最
も自然なことだと考えています。なぜなら、それが「生命の摂理」だからです。

 この「生命の摂理」に逆らって、もしも生物個体が永遠に生き続けるならば、それは多
分、死ぬこと以上の苦しみになると思います。なぜなら生命は、「生命の摂理」に背(そ
む)いたならば、何かしら無理のある不自然な状態に陥(おちい)って、苦しむように出
来ているからです。
 しかもそれは、死ぬことが出来ないので、永遠につづく「無限の苦しみ」となるでしょ
う。


8章 死は「救い」ではない
 私は以前に1章で、「死は苦しみでない」と述べました。
 しかしながら、そのように言ってしまうと、「死は安らぎである」とか、「死こそが救
いである」などと誤解されるのではないかと、すこし心配もしています。

 そのため、この章では、「死は救いではない」ことについて述べたいと思いました。

 さて、以前に1章で述べたように、「死後」とは認識の存在しない世界であり、従って
時間も存在しない世界です。つまり、何億年という長い時間でさえ、一秒にも感じること
ができない世界です。
 この意味で死とは、「生まれる前」や「熟睡」や「昏睡」と、まったく同じ状態である
と言えます。ゆえに死は、「苦しみ」ではあり得ません。死んでしまったならば、苦しみ
を感じている閑や時間など、まったく存在しないのです。

 しかし本当は、「死は苦しみでない」と言うことさえも、実はまったく感じることが出
来ません。

 だから、
 「死ねば楽になれる!」
 「死ねば苦しみが終わる!」
 「死ねば苦しみが消滅する!」
 「死ねば救われる!」
 などと言うようなことは、「死んでしまった本人」には、絶対に感じることができない
のです。

 「死ねば楽になれる!」と考えている人は、死後の世界に「楽になった状態」が存在し
て、しかもその状態が「死んでしまった本人」に実感できると思っているのでしょう。し
かしそれは、全くの幻想にすぎません。
 そしてこれは、「救い」に関してもまったく同様です。死んでしまったら、「救われた
状態」など存在するはずがないし、「救われた!」などと実感できる訳がありません。

 ゆえに、死が救いになるはずがないのです。

             * * * * *

 ところで・・・
 「安楽死」場合は、「死」が救いになっているではないかと、思う人がいるかも知れま
せん。
 ちなみに、日本では安楽死が認められていませんが、オランダ、ルクセンブルク、ベル
ギー、カナダ、オーストラリアの一部州、ニュージーランド、スペイン、コロンビアの複
数の国々で、安楽死が認められています。

 たとえば、
 病気の治る見込みがまったく無く、とても大きな痛みや苦しみを、ただ受け続けている
だけの人・・・。
 しかも近々、絶対に死ぬことが分かっている人・・・。
 そのような人が「安楽死」を選択することは、一見すると、たしかに「救い」になって
いるように思えます。

 しかし安楽死の場合でも、「これで苦しみが終わる!」と、生きている間に認識するこ
とができるから、死ぬまでのほんの少しの間だけ、一時的に「救いに似た状態」が得られ
るにすぎません。
 安楽死が完了したならば、死んでしまった本人は、「救い」など感じられるはずがない
のです。

 ゆえに「安楽死」そのものは、「本当の救い」には成りえません。

 安楽死とは、「本当の救い」が不可能なため、一時的に「擬似的な救い」を与えること
なのだと、私は考えています。
 病気が完治してこそ、「本当の救い」になるのです。しかし、それがどうしても不可能
なので、せめてもの情けとして「擬似的な救い」を与えられることが、国によって認めら
れているのでしょう。
 それは、もしも病気の治る可能性が残っているならば、いくら病気の苦しみが大きくて
も、「安楽死」など絶対に認められないことから分かります。「本当の救い」は、生きて
こそ得られるのです!

 愛、優しさ、安らぎ、喜び、幸福、そして救い・・・。
 これらは、「生きている間」にしか存在しません。
 死んでしまったら、それらを実感することは絶対にできないのです。
 ゆえに、死は「救い」ではありません。
 生きてこそ、「本当の救い」が存在するのです!


9章 「死の存在」は救いになりえる
 私は前の8章で、「死は救いではない」と述べました。
 それとは矛盾するのですが、しかし私は、「死の存在」が救いになりえるとも考えてい
ます。
 それは何故(なぜ)かと言えば、死にゆく本人や、生きている第三者が、「死んだら苦
しみを感じることが不可能になる」ということを知るからです。

 たしかに死んでしまったら、死んだ本人には、「苦しみを感じることが不可能だ」とい
うことを、知ることも感じることもできません。
 しかしながら、(まだ生きていて)死にゆく人にとっては、「死んだら苦しみを感じる
ことが不可能になる」と知ることが、救いになりえるのです。
 つまり、まだ「生きている人間」だからこそ、救いになりえる訳です。

 以下に、その具体的な例を紹介したいと思います。

           * * * * *

 まず、死にゆく本人が、「死の存在」によって救われた例ですが、それは私の母につい
てのことでした。

 2016年の3月・・・ 私の母が、癌(がん)で亡くなりました。
 その母が亡くなる少し前、いよいよ癌の末期状態になったとき、まだ使っていない抗癌
剤が一種類残っており、それを使えば、あと数ヵ月ぐらいは長く生きられたはずでした。

 が、しかし、「もう、抗癌剤を使うのは嫌(いや)だ!」という母の意向を尊重して、
抗癌剤治療を打ち切ったのでした。
 つまり私の母は、抗癌剤治療によって苦しみが続くことよりも、死期が早まることを望
んだのです。

 私と母が主治医に相談して、抗癌剤治療の中止が決定されたとき、私の母には、悲愴
(ひそう)な感じが見られず、どちからと言えば、すこしホッとして安心していたように
見受けられました。
 そのとき私は、「死の存在」が、死にゆく本人にとって「救いになりえる」ということ
を、目(ま)の当たりにしたのです。

            * * * * *

 つぎに、「死の存在」によって、生きている第三者が救われる例ですが、それは、子供
への虐待による死とか、惨殺事件などの理不尽な死を知ってしまったときの、精神的な救
いです。

 たとえば私は、子供への虐待による死とか、いじめやパワハラによる自殺とか、惨殺事
件などの報道を見てしまうと、怒りや、悲しみ、悔(くや)しさなどの感情が湧き起こっ
てきて、自分の心がとても苦しくなってしまいます。
 しかも、その「やりきれない苦しみ」は、たとえ加害者が有罪になって、刑罰を受けた
としても、治まるものではありません。

 しかし、そんなとき、「すでに亡くなった被害者本人には、もう苦しみが存在していな
いのだ!」と知ることによって、その「やりきれない苦しみ」を、軽減させることが出来
るのです。
 つまり、亡くなった被害者本人は、死後もずっと苦しみを感じ続けている訳では、決し
てありません。そのことを知れば、私の心がすこし軽くなり、「救われた」という気持ち
になれるのです。

 そしてこれは、私だけでなく、ほかの大勢(おおぜい)の第三者にとっても、同じこと
が言えると思うのです。
 ゆえに「死の存在」は、生きている第三者にとって、「救いになりえる」と私は考えて
いる訳です。

            * * * * *

 以上、ここまで述べて来たのですが、最後に注意を促(うなが)したいと思います。

 それは、「死の存在」が救いになりえるからと言っても、前の8章で述べたように、や
はり「死」は救いになりえません。

 だから、末期の癌(がん)などで、近く死ぬことが決まっている訳ではない人。
 とくに、人生の可能性がたくさん残っている若い人は、けっして、簡単に死を選ばない
でください。

 前の8章でも述べましたが、生きているからこそ「救い」があるのですから・・・ 



 つづく



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