死について 1
2024年10月20日 寺岡克哉
今回から、「死について」という本の原稿を紹介して行きます。
題名 死について
目次
はじめに
1章 死は苦しみでない
2章 父の友人の体験
3章 全身麻酔の体験 1
4章 全身麻酔の体験 2
5章 死後の世界について
6章 「生まれ変わり」について
7章 死が存在する理由
8章 死は「救い」ではない
9章 「死の存在」は救いになりえる
10章 私が望む死期
11章 私の理想の死に方
あとがき
はじめに
私が「死」について考えるようになったのは、私が小学生の頃に、たまたま父と行った
会話がきっかけでした。
その当時、どういう話の流れだったか覚えていませんが、「死んだらどうなるのか?」
というのが話題になりました。
そこで私は、「死んだらどうなるのかは、死んでみたら解かる」と主張しました。が、
しかし父は、「死んでも、死んだらどうなるのか絶対に解からない」と言ったのです。
私は、「どうして死んでも、死んだらどうなるか解からないの?」と、父に質問して食っ
てかかりました。
が、しかし父は、「死んだら意識も何もかも無くなるので、死んでも、どうなるのかは
絶対に解からない」と、答えるのみでした。
その当時の私には、父の言うことが全く理解できませんでした。なぜなら、「死んでみ
ることさえ出来れば、死後の世界があるのかどうかや、死んだらどうなるのかが解かるは
ずだ」としか、考えられなかったからです。
それから後(のち)、その当時のことがずっと頭の中に残っていて、私は機会があるご
とに、死について色々と考えるようになって行きました。
その過程で、「死んでも、死んだらどうなるのか絶対に解からない」という父の言葉は、
私の死に対する考察に、ものすごく大きな影響を与えてきたように思います。
そして60歳も過ぎた現在、これまで死について考えたことを、文章の量は少ないなが
らも、一冊の本にまとめておきたいと思いました。それが本書になります。
1章 死は苦しみでない
私は、「死は苦しみではない」と考えています。
たしかに、私が自分の死に直面すれば、大変な苦しみと恐怖を感じると思います。しか
し、完全に死んでしまったならば、「死そのものは苦しみではない!」という確信を私は
持っています。
なぜなら、死後には一切(いっさい)の認識が存在しないからです。そして、死後に認
識が存在しないのは、「死とは自分が存在しない状態」だからです。
このように、「自分が存在しない状態」という意味では、「死は生まれる前と全く同じ
状態だ!」とも言えます。だから、死後の状態を考えるには(つまり認識が存在しない状
態、自分が存在しない状態を考えるには)、生まれる前のことを考えてみれば良いのです。
ところで「生まれる前の状態」とは、時間さえも感じることの出来ない状態です。
たとえば私が生まれる前には、何億年もの時間が存在していたはずです。が、しかし私
は、そのような長い時間を、一秒にも感じることが出来ませんでした。
それと同じように、私の死後に何億年の時間が経っても、私はそれを、一秒にも感じる
ことが出来ないと思います。死んでしまったら、永遠の時間でさえ、一瞬にも感じないの
です。
* * * * *
しかしながら、次のような主張をする人がいるかも知れません。
「生まれる前の世界(前世)は存在する。しかし、前世の記憶は生まれた時に消滅する
のだ。だから前世の記憶が無いからといって、前世が存在しないという証明にはならない。
従って、死後の世界が存在しないという証明にもならない!」・・・と。
さらには、「私は前世の記憶を持っている」とか、「私は死後の世界を見てきた!」な
どど言う人が、いるかも知れません。
私は、それらを否定することが出来ません。なぜなら、それを明確に否定できる根拠を、
私は持っていないからです。
しかし私は、それらを信じることは出来ません。なぜなら、私にはそのような経験が無
いからです。そして大多数の人々も、そのような経験をしていないからです。
たとえば、「死後の世界の存在」が科学的に証明されたなら、私もそれを信じない訳に
はいきません。「科学的に証明される」とは、実験によって、「誰もがその経験を再現で
きる」ことを意味するからです。
しかし、死後の世界の存在は、まだ科学的に証明されていません。
科学的に証明されず、生まれる前の記憶も、死後の世界の経験もないのに、「死後の世
界を信じろ!」と言うのは不自然で非合理です。
やはり、「死後の世界は存在しない!」と考えるのが、いちばん合理的だと私は思いま
す。
* * * * *
私は、大多数の人々が経験できることを根拠にして、「死」についての考察を行うこと
にします。なぜなら、そうしないと、多くの人々が納得できる考察にならないからです。
そこで、私が「死」の考察に使う前提は、以下の3つとします。
1、「生まれる前」という状態は、すべての人間がすでに経験した事実である。
2、「生まれる前の状態」と「死後の状態」は、「一切の認識が存在しない状態」とい
うことで、まったく同じ状態である。
3、「生まれる前の状態」については、「実感」を信じることにする。
以上の3つを認めると、「すべての人間が、すでに死を実感として経験済みなのだ!」
と、言うことができます。
その、すべての人間が経験済みの「死の実感」とは、次のようなものです。
●死後の世界は存在しません。また、「死後の世界が存在しない」ということも、実は感
じることが出来ません。
●死後に苦しみは存在しません。また、「死後に苦しみが存在しない」ということも、感
じることが出来ません。
●死んでしまったら、何百億年という長い時間でさえ、千分の一秒にも感じることが出来
ません。死んだら、苦しみなど感じている暇も時間も、まったく無いのです。
●天国も地獄もありません。また、「一人ぼっちの暗黒の世界」なども感じることは出来
ません。
以上が、「死」に対する私の考察の結論です。
* * * * *
ところで、すべての人が経験する「熟睡」の状態も、実感としては、死と全く同じ状態
だといえます。なぜなら、熟睡中は時間を一瞬にも感じないからです。
たとえば、もしも私が熟睡中に爆弾で吹き飛ばされるか何かして、即死させられたとし
ましょう。ところが、私の実感としては、やはり何の変化も感じることが出来ないと思い
ます。だから「死の状態」と「熟睡の状態」も、人間の感じる実感としては、まったく同
じ状態だと言えます。
ところで、「死」の場合は肉体が死んでおり、「熟睡」の場合は肉体が生きています。
両者には、この違いがあります。しかしながら、私たちが実際に経験する「実感」として
は、両者は全く同じ状態です。だから、私たちは毎日のように「死」を経験していると言
えるのです。
* * * * *
さらに少しややこしくなりますが、最後のダメ押しとして、「死を実感としては全く感
じることが出来ない」という実感を、「熟睡」などをしなくても意識のある状態(目覚め
て起きている状態)で実感できる方法を紹介しましょう。
さて、今あなたは、この文章を読んでいるのだから、目覚めて意識のある状態です。
そして、この意識のある状態のまま、自分は一秒間に何億回もの「死」と「生」をくり
返していると想定するのです。
どうでしょう? 今あなたは、一秒間に何億回もの「死」を、意識のある状態のままで
経験しているはずです。しかしそれを実感することは、まったく出来ないでしょう。
「実感が全く無い」とか「認識が存在しない」という状態、すなわち「死の状態」とい
うのは、そのようなものであると私は考えています。
だから、もしも私が避けられない死に直面したとき、死ぬまでは大変な苦しみや恐怖を
感じるでしょうが、完全に死んでしまったならば、私は恐怖も苦しみも、天国も地獄も、
暗黒の中の不安や孤独も、全く感じることが出来ないと思います。
* * * * *
以上の考察から、やはり「死」は苦しみではあり得ません。
だから私は、死を必要以上に怖がることはないと思います。なぜなら、死への恐怖に取
りつかれて、生きる喜びを台無しにすのは、賢明でないと考えるからです。
また、誤解の無いように注意しますと、「死は苦しみではない」からといって、自殺や
殺人を、やりたい放題にやって良いはずがありません。それは良識と常識から言って当然
です。
私が死に対する考察を行うのは、良識や常識をくつがえすためではないのです。
2章 父の友人の体験
現代では医療技術が進んでおり、「心肺停止の状態」から意識を取りもどした人が、数
多くいます。
ところで、私が以前に父から聞いた話ですが、父の友人も心肺停止の状態になり、病院
の集中治療室で意識を取りもどしたそうです。
その、父の友人の話によると、自宅でとつぜん意識が朦朧(もうろう)となり、家族に
助けを求めようとしましたが、呼吸が出来なくなって声を出すことができず、気がついた
ら集中治療室のベッドで寝ていたそうです。
もしも心肺停止のまま、家族の人が気づかずに、救急車で病院へ運ぶのが遅れたら、そ
のまま確実に死んでいたことでしょう。
私は、この話を父から聞いたことによって、前の1章で述べた「死の実感」つまり、死
んだら実感が存在しないということに対して、さらに確信を深めたのでした。
3章 全身麻酔の体験 1
私が56歳のときです。いきなり心臓の具合(ぐあい)が悪くなって、救急車で病院に
運ばれる羽目(はめ)になりました。
それは、2020年6月9日の午前11時30分ごろ・・・
私がトイレに行こうと立ち上がった瞬間に、いきなり心臓が「ドキドキドキ」と高鳴っ
て、「不整脈」になったことを自覚しました。
ちなみに私は、それまで「不整脈」になったことが何十回もありました。しかし、それ
までの場合は、30秒から1分も経てば、脈拍が正常にもどっていました。
しかし、このときの場合は、横になって安静にしていたのに、なんと30分が経っても、
不整脈が一向に収まらなかったのです。
そして、だんだんと胸が苦しくなり、いつ意識を失ってしまうのか分からないような状
態になったので、救急車を呼ぶことにしました。
119番に電話をかけると、10分ほどして救急車がやってきました。
救急車の中に入り、ストレッチャー(台車)の上に寝かせられると、心電図を測定する
ための電極が胸につけられて、血圧計が腕につけられ、体温も測定されました。
そうして救急車が動き出し、15分ぐらいすると病院に到着しました。
私はストレッチャー(台車)に寝かせられたまま、病院の救急用の入口から入ると、す
ぐに処置ができる部屋になっていました。そこには、医師や看護師の人たちが4~5人ほ
ど待機していたように思います。
さっそく私は、心電図を測定するための電極が胸のあちこちにつけられ、脈拍を安定さ
せる薬を点滴されて、酸素吸入もしました。そして医師から、「心房細動(注1)」だと
言われたのです。
----------------------------------------
注1 心房細動(しんぼうさいどう):
心房細動とは、心房(心臓の上半部にある部屋)の内部に流れる電気信号が、乱れるこ
とによって起こる「不整脈」の一種です。
心房が痙攣(けいれん)したように細かく震え、血液をうまく全身に送り出せなくなり
ます。また、それによって心房に血栓(けっせん)ができやすくなり、その血栓が脳に運
ばれて、脳の血管が詰まるリスクが高まります。
----------------------------------------
ところが、点滴を開始してから10分ほどしても、脈拍を安定させる薬では、不整脈が
治まりませんでした。それで、全身麻酔をして私を一時的に眠らせ、胸に電気ショックを
与えることになりました。
これは例えば、パソコンが暴走したときに「リセット」をするようなものです。心臓が
暴走して不整脈になったのを、電気ショックを与えることで「リセット」し、心臓を安定
した状態(つまり正常な脈拍)にもどすのです。
麻酔薬を注入する指示が出されると、(私の自覚では)その一瞬後に、脈拍が正常になっ
ていました。医師の話によると、麻酔が効いて私が眠り、電気ショックをかけようとする
前に、点滴していた薬が効いて脈拍が正常にもどったそうです。だから私は、けっきょく
電気ショックを受けないで済みました。
* * * * *
ところで、以前に1章で述べたように、
死とは「生まれる前」と同じ状態であり、永遠の時間でさえ、一瞬にも感じられない状
態だと私は考えています。
そして「熟睡」の状態もまた、時間を一瞬にも感じられないので、実感としては死と同
じ状態だと言えます。
さらにまた、「全身麻酔」で意識を失っている状態も、「死の実感」と同じであると考
えられます。だから私は、全身麻酔を受けることに、ものすごく興味を持っていました。
さて、このたび私は全身麻酔を受けたのですが、それまで私は、ふつうの睡眠以外で、
「自分の意識が無くなる」という経験をしたことがありませんでした。だから麻酔が効い
て来るとき、どのように自分の意識が無くなっていくのか、ものすごく興味があったので
す。
それで、意識が無くなっていく過程を、しっかりと把握(はあく)したいと思い、いざ
麻酔薬が体に注入されるというとき、私は目をカッと見開き、ものすごく意識を集中させ
て、待ち構(かま)えていました。
ところが!
「だんだん眠くなる」とか、「だんだん瞼(まぶた)が重くなる」とか、「だんだん目
の前が暗くなる」とか、そのような感覚を、私は一切(いっさい)感じることが出来ませ
んでした。
つまり、麻酔を注入している医師の姿を、目をカッと開いて見ていたら、その一瞬後に、
眠りから覚めたのです。自分が眠っていたことには、まったく気がつくことができません
でした。
麻酔が効いていたのは、15分間ぐらいだったと医師から言われました。
ところで、もしも私が麻酔で眠っている間に、ピストルの弾丸で頭をぶち抜かれて殺さ
れたとしても、やはり私は、自分が死んだことに、まったく気がつくことが出来なかった
と思います。
以上の体験から、
やはり「死の実感」というものは、まったく感じることが出来ない(一瞬にも感じるこ
とが出来ない)という結論に、さらに一層の確信を持つことができたのです。
4章 全身麻酔の体験 2
前の3章で述べた「心房細動の発作」を起こしてから、2年半ぐらい経った頃のことで
す。
私は、ずっと薬を飲み続けることにより、心房細動が再発するのを抑えていました。し
かしながら、いくら薬を飲み続けても、心房細動が起こるのを抑えるだけで、心房細動の
原因そのものを、取り除くわけではありません。
つまり、「薬を飲む」という方法では、病気の症状を抑えるだけであり、けっして病気
が治るわけではないのです。
そのため、医師の勧(すす)めにより、カテーテルアブレーション手術(注2)という
方法によって、心房細動の原因そのものを取り除く治療、つまり病気を治す治療を、行う
ことになりました。
----------------------------------------
注2 カテーテルアブレーション手術:
カテーテルアブレーション手術とは、治療用のカテーテル(注3)を、太ももの付け根
から血管を通じて心臓に挿入(そうにゅう)し、カテーテルの先端から高周波電流を流し
て、焼灼(しょうしゃく:焼くことによる治療)をすることで、不整脈を治します。
例えば「心房細動」という不整脈の場合では、左心房にある肺静脈の血管内や、その周
囲から発生する、異常な電気信号がきっかけとなって発作(ほっさ)が起こることが多い
ため、通常4本の肺静脈を囲むようにして治療(焼灼)を行い、肺静脈からの異常な電気
信号が、心臓全体に伝わらないようにします。
注3 カテーテル:
カテーテルとは、血管の中に挿入していく医療用の管のことで、柔らかく、ストローの
ような中空になっています。太さは2~4mm程度です。
----------------------------------------
さて、手術は2022年の11月11日に行われました。
ストレッチャー(車輪がついた小さなベッド)に寝かされて、手術室に運ばれると、体
のあちらこちらに、心電図を測定するための電極が取りつけられました。
さらに額(ひたい)には、しっかりと麻酔が効いて眠っているかどうかを判断できるよ
うに、脳波を測定するための電極がつけられました。
そしていよいよ、麻酔薬を体に注入する時がきたのです。
私は、意識が失われる瞬間を「自覚」できるかどうかに、ものすごく関心を持っていた
ので、手術室の天井(てんじょう)にある照明を、絶対に目を瞑(つぶ)らないようにし
て、じっと見つめていました。
そうしていると、「(麻酔の)薬が右手から入るので、すこし痺(しび)れますよ」と
いう、担当医の声がしました。すると私は、手術室の照明を見つめながら、たしかに右手
が痛くなるのを感じました。
そして、次の瞬間!
とつぜん担当医の顔が目に入り、「寺岡さん、起きていますか!」という声が聞こえた
のです。
手術は5時間ぐらいかかったと言うことでしたが、しかしその間、私は1秒どころか、
ほんとうに一瞬の時間も感じることが出来ませんでした。
ちなみに3章で述べたように、私が初めて体験した「麻酔」では、15分ぐらいの時間
を一瞬にも感じることが出来なかったのですが、このたびの「麻酔」の体験では、5時間
という長い時間でさえ、一瞬にも感じることが出来ませんでした。
この体験により、「自分の死は、やはり一瞬にも感じることが出来ないのだ!」という
ことに、ますます強い確信をもったのでした。
つづく
目次へ トップページへ