愛について 7
2024年10月13日 寺岡克哉
30章 愛すれば幸福!
愛すれば幸福!
これが幸福の本質であることに、私が58歳になった頃、やっと気がつきました。
愛すれば幸福!
これは、それまで私の人生で発見した、最大で最高の真理です。
愛すれば幸福!
この真理にたいして、「外的な状況」は、いっさい関係がありません。
つまり、お金が無くて貧乏(びんぼう)でも、病気を患(わずら)っていても、身体に
障害があっても、家族や友人がいなくて一人ぼっちでも、さらには自分の死に直面してい
るときでさえ、「愛すれば幸福!」という真理は、まったく揺らぐことがないのです。
その逆に、何億円もの金を持っていても、健康で五体満足であっても、家族や友人たち
に囲まれて賑(にぎ)やかに暮らしていても、身の安全が保障されて死の危険がなくも・
・・ そのような理想的な生活環境であっても、怒りや憎しみ、妬(ねた)みなどの感情
につよく駆られていれば、それは「不幸」以外の何ものでもないのです。
* * * * *
ところで、58歳になる頃までの私は、「愛さなければならない!」と、つよく思って
きました。
つまり、
隣人を愛さなければならない!
嫌な人間であっても、愛さなければならない!
さらには、罪を犯した人や、敵でさえも愛さなければならない!
と、つよく思い込もうとしていたのです。
そのような自分なりの努力を、20歳代の頃に新約聖書に出会ってから、30年以上も
続けていました。
ところが、「愛さなければならない!」と、自分に義務を課して言い聞かせ、いくら強
く思い込もうとしても、見ず知らずの人間や、大嫌いな人間や、犯罪者や、あまつさえ自
分に危害を加える恐れがある人間なんか、とてもじゃないけれど、愛せるものではありま
せん。
それで、
「憎い人間は、やはり憎いのだ!」
「悪い人間には、どうしても怒りが込み上げてくるのだ!」
「それが人として、自然な心の在り方なのだ!」
「無理をして善人を演じたとしても、自分勝手な悪人の餌食(えじき)になるだけだ!」
と、いうように思い直し、「愛さなければならない!」という考えを捨てて、怒りや憎し
みの感情を抑えるのを、止めてみることにしました。
そうしたら私は、ちょっとした事でも他人を赦すことが出来ずに、どんどん狭量(きょ
うりょう)な人間になって行ったのです。
そして例えば、外を歩いているときなどに、他人が自分の前に割り込んできたり、他人
のグループが大声で話をしているなど、そのような、ちょっとしたことでも、怒りや不満
をつよく感じるようになりました。
そしてついには、毎日のように、何らかの怒りや不満に悩まされるように、なってしまっ
たのです。
つまり私は、どんどん不幸になって行ったわけです。
* * * * *
ところが、そんな不幸な状況の中にあっても、外を歩いているときなどに、可愛(かわ
い)らしい子供が笑顔で私に近寄ってきたり、愛情にあふれた話(小説や漫画、アニメな
どのフィクションも含む)などを見聞きしたりして、ふと、「愛の感情」で自分の心が満
たされると、怒りや不満がスッと消えて、大きな幸福を感じることが分かりました。
そして、そのような体験を繰りかえしているうちに、とつぜんの閃(ひらめ)きが、私
の心の中に起こったのです。
「愛さなければならない!」のではなく、「愛すれば幸福!」なのだと。
私には、この発見が、天の啓示にも感じられました。つまり、「愛さなければならな
い!」と、自分自身をがんじがらめに縛(しば)りつけるのではなく、幸福になるため、
幸福を得るために「愛する」のです。自分の幸福を最大限に追求するために「愛する」の
です。
愛すれば幸福であり、愛することが出来なければ、幸福ではありません。そして、怒り
や憎しみ、妬みなどに駆られていれば、それは不幸なのです。
ところで上でも述べましたが、「愛すれば幸福!」という、この真理にたいして、「外
的な状況」は、いっさい関係がありません。
お金が有っても無くても、体が健康であってもなくても、五体満足であってもなくても、
死の危険があってもなくても、それらのことには関係なく、愛すれば幸福なのです。
* * * * *
「愛すれば幸福!」
これは正(まさ)しく、幸福の本質であり、最高の真理です。
しかも最初で述べたように、「愛すれば幸福!」という真理は、外的な状況によって、
まったく揺らぐことがありません。なので、どんな状況の人でも、愛すれば幸福になるこ
とができます。
つまり、「愛すれば幸福!」という真理は、原理的に、どんな人でも幸福になれる真理
であり、どんな人でも救われる真理なのです。
ところが!
当然ながら、「愛すること」ができなければ、幸福になることはできません。
だから、「愛すれば幸福!」というのが、いくら最高の真理であっても、すべての人を
救うことはできないのです。なぜなら、この真理によっては、愛することができない人を、
救うことができないからです。
しかし、だからと言って、「愛すれば幸福!」という真理が誤(あやま)りであること
には、決してなりません。なぜなら、「愛すれば」という、この真理の前提条件が満たさ
れている限り、幸福であることは絶対に間違いないからです。
「愛すれば幸福!」という真理は、幸福になるための方法、救われるための方法を、明
確に示している点で、ものすごく重要です。
つまり、この真理は、「幸福になるためには、どうすれば良いのか?」、「救われるた
めには、どうすれば良いのか?」という問題に対して、「愛すれば良い!」という、明確
な答えを与えるのです。
しかしながら正直に言うと、「愛すること」がなかなか難しいのも、否定できない事実
です。とくに、困難な状況に陥(おちい)っている人には、愛することが、とても難しい
でしょう。たとえば失業、貧困、いじめ、差別、虐待、病気、怪我などに苦しんでいる人
は、愛することが本当に難しいと思います。しかしそれでも、幸福になるためには、愛す
ることが、どうしても必要なのです。
「愛すれば幸福!」という真理は、幸福になるための「努力の方向」を、明確に示しま
す。つまり、「幸福になる努力」とは「愛する努力」なのです。
たとえば一例として、いくら努力して金持ちになっても、愛することが一切できなけれ
ば、虚(むな)しさや退屈を感じるだけで、幸福を感じることはできません。
さらには、いくら努力して金持ちになっても、愛さないどころか、憎んだり怒ったりし
ていれば、それは不幸以外の、何ものでもないのです。だから、お金持ちになる努力は、
幸福になるための努力ではありません。
一方、お金があろうと、無かろうと、「愛すれば幸福!」です。ゆえに、「幸福になる
努力」とは「愛する努力」なのです。
「愛すれば幸福!」というのは、幸福の本質です。
この真理を、心から認めて納得すれば、「幸福を得るための努力とは、愛する努力であ
る」という結論に、疑問をはさむ余地がなくなります。
そして、必要以上の金を得ようとするとか、血で血を洗う権力争いに始終するとか、そ
のような「不幸をまねく愚かしい努力」から自分を遠ざけ、自分の人生を、不幸から守る
ことができるのです。
31章 敵を愛するのは難しい
キリスト教では「敵を愛しなさい!」と教えていますが、それは新約聖書の以下の記述
によるものです。
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あなたがたも聞いているとおり、「隣人を愛し、敵を憎め」と命じられている。
しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あな
たがたの天の父の子となるためである。
父は悪人にも善人にも太陽を昇(のぼ)らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を
降(ふ)らせてくださるからである。
自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報(むく)いがあろうか。
徴税人(ちょうぜいにん)でも、同じことをしているではないか。
自分の兄弟にだけ挨拶(あいさつ)したところで、どんな優れたことをしたことになろ
うか。異邦人でさえ、同じことをしているではないか。
だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりな
さい。 (新約聖書 マタイによる福音書 5章43~48節)
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ところで私は、ほんとうに敵を愛することが出来るのかどうか、ものすごく疑問に思っ
ています。
たとえば、自分をバカにした人間、自分を非難した人間、自分を騙(だま)した人間、
自分を陥(おとしい)れた人間、自分をいじめた人間、自分に暴行を加えた人間、自分を
殺そうとした人間・・・ そんな人間を、ほんとうに心から愛することなど出来るのか?
あるいは、自分の家族をいじめた人間、自分の家族に暴行を加えた人間、自分の家族を
殺そうとした、あるいは殺した人間・・・ そんな人間を、ほんとうに心から愛すること
など出来るのか?
私は、そのような疑問を根強く持っています。それで、私はこれまで、ほんとうに敵を
愛することが出来るのかどうか、心の中で思考実験を繰りかえして来ました。
つまり私は、テレビの報道で、殺人事件や児童虐待、いじめの報道などがされるたびに、
その加害者を愛そうとする試(こころ)みをして来たのです。
上に挙げた新約聖書の一節を知ってから、私はもう何十年も、そのような「敵を愛する
試み」というか、「敵を愛する訓練」というか、「敵を愛する努力」を繰りかえしてきま
した。
しかし、その結果、どんなに努力しても、私には、どうしても敵を愛することが出来ま
せんでした。そして、「敵を愛することなど、絶対に不可能だ!」、「もしも、敵を心か
ら愛することが出来たなら、それはもはや、精神が異常なのに違いない!」という結論に
至(いた)ったのです。
* * * * *
しかしながら、怒りや憎しみの感情に駆られるのは「不幸そのもの」ですし、前の30
章で述べたように、愛すれば幸福です。
だから、いくら敵であっても、怒ったり憎んだりするのを止めれば、不幸ではなくなり、
さらに敵を愛することが出来れば、幸福になることさえ可能でしょう。
が、しかし、それを頭では理解できるのですが、敵を愛することには、心がどうしても
拒否反応を起こしてしまいます。
でも、それは、人間として至らないのではなく、人間として当然のことだと思うのです。
おそらく、敵にたいする怒りや憎しみの感情は、自分たちを害する敵を倒して、自分や
家族や仲間を守って生き残るという、「生存本能」に根ざした感情です。だからそれは、
人間がもつ感情の中でも、いちばん本能的で、もっとも強い感情なのだと思います。
そのため「敵を愛する」というのは、ふつうの人間の場合、ほとんど不可能になってい
るのでしょう。
私は、いじめの被害に遭(あ)った人や、犯罪被害者の人、あるいは戦争の被害に遭っ
た人々に対して、「敵を愛しなさい!」などとは、とてもじゃないけれど言うことができ
ません。なぜなら「敵を愛しなさい!」というのは、おそらく人間にとって、到達不可能
な境地だと思うからです。
しかしながら、それを念頭に置くことによって、敵を憎むのを止(や)められないまで
も、あるいは、敵を赦(ゆる)すことができないまでも、敵に対する復讐を思いとどまり、
復讐の連鎖を止めることが出来たなら、それこそが、ものすごく素晴らしいことなのだと
私は考えます。
* * * * *
ところで、敵を愛するとまでは行かなくても、敵に対する怒りや憎しみを克服したとい
う実例が、とても身近な所にあると私は気がつきました。
それは、私たち日本人が、アメリカ人に対して、怒りや憎しみの感情を、とくに持って
いないということです。
つまり、かつてアメリカは日本にたいして、東京大空襲や、広島・長崎への原爆投下な
ど、とても人間の為せる業(わざ)ではなく、悪魔の所業(しょぎょう)としか言えない
ような大残虐を行いました。
(東京大空襲で確認された遺体は約10万5400人、負傷者は約15万人、罹災者は約
300万人。原爆による死者数は、2019年8月時点で、広島31万9186人、長崎
18万2601人。)
アメリカの空襲による被害者の方々や、その遺族の方々、そして原子爆弾の被ばく者や、
被ばく者二世の方々ならば、アメリカ合衆国や、アメリカ人にたいして、ものすごく大き
な怒りや憎しみの感情を持ったとしても、まったく不思議ではありません。
それなのに、日本国内でアメリカ人を狙ったテロが起こったり、日本人がアメリカに渡っ
てテロを起こしたという話を、私は聞いたことがないのです。
日本人には、敵を愛するとまでは行かなくても、敵への怒りや憎しみを克服したという
実績がある!
そのことに気がついたとき、私は日本人を、ちょっと誇らしく思いました。そして私も、
多少のことであれば、怒りや憎しみの感情を抱かないようにしようと、気持ちを新たにし
たのです。
32章 よく人を愛し、よく人を憎む
前の31章では、キリストの「敵を愛しなさい」という言葉に対する、私の考えを述べ
ましたが、その言葉と並行して私は、孔子の以下の言葉も、ずっと心にとめています。
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子曰わく、惟仁者のみ能く人を好み、能く人を悪む。
(上の文は、以下のように読みます。)
子(し)曰(のたま)わく、惟(ただ)仁者(じんしゃ)のみ能(よ)く人を好み、能
く人を悪(にく)む。
(また、口語訳は以下のようになります。)
孔子(こうし)先生がおっしゃった、ただ思いやりの心を持った人だけが、先入観なく
正しく人を愛し、正しく人を憎むことができる。
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上の孔子の言葉にある、仁者の「仁(じん)」とは、キリストが説いた愛、釈迦が説い
た慈悲にならぶ、孔子が説いた愛の概念であり、
「自他のへだてをおかず、一切のものに対して、親しみ、いつくしみ、なさけぶかくあ
る、思いやりの心」のことを言います。
ところで私は当初、キリストの「敵を愛しなさい」という教えに傾倒(けいとう)して
おり、そのように努力もしていたので、
孔子の「惟仁者のみ能く人を好み、能く人を悪む」という言葉にたいして、すこし反感
を持っていました。
というのは、本当の仁者ならば、つまり本当に、自他のへだてをおかず、一切のものに
対して、親しみ、いつくしみ、なさけぶかくあり、思いやりの心がある人ならば、すべて
の人間を愛するのみで、人を憎む訳がないと、私は考えていたからです。
しかし現在の私は、キリストが言うような「敵を愛すること」は、おそらく人間にとっ
て、到達不可能な境地だと思えてならず、
孔子の「惟仁者のみ能く人を好み、能く人を悪む」という方が、人間にとって実現可能
な境地であり、人間に対して思いやりのある、優しい言葉のように感じています。
たとえ、どんなに優しい人間でも、人を憎んでしまうことが、どうしてもあるでしょう。
しかしそれは、人間として生きているならば当然であり、否定することの出来ない「人間
の現実」です。
孔子は、そのような人間性を認めた上で、「どうしても人を憎んでしまうのなら、私心
のない公平な心で、正しく人を憎むべきであり、それが出来れば人間として十分に優れて
いるのだ」と、説いているように私には思えるのでした。
33章 愛の完成
本書の最終章として、「愛の完成」とは、どういうものかについて述べたいと思います。
ところで以前に19章で、「最高の愛の感覚」について述べました。しかし私は、それ
が「愛の完成」であるとは考えていません。
確かに、「最高の愛の感覚」は大変に素晴らしいものです! しかしながら、「愛の感
覚」が最高に高められた状態とは、心が安定しているとはいえ、精神が極度に高揚した状
態です。つまり、「精神に無理が伴(ともな)う不自然な状態」です。
私は、精神に無理の伴う状態が、「愛の完成」であるはずがないと考えています。なぜ
なら、一般に「完成された状態」とは、無理がなく自然で、ずっと長続きできる状態のは
ずだからです。
従って「愛の完成」とは、むしろ無意識的な、ごくごく自然な状態であると私は考えま
す。以下に、私が考えている「完成された愛」について述べてみましょう。
* * * * *
「愛の完成」とは、一体どのようなものでしょう?
私は、つぎに挙げる新約聖書の一節に、そのヒントを見つけることが出来ました。
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「父(神)は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降ら
せてくださる・・・。」 (新約聖書 マタイによる福音書 5-45)
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上の言葉は、「神の愛(つまり完成された愛)」とは、善人も悪人も差別せず、万人(全
ての生命と考えても良いと思います)に対して、別け隔てをしない愛であることを示して
います。
そしてまた、「完成された愛」とは太陽や雨のようなもの、つまり日光や水(空気も含
めて良いと思います)のようなものだと言っています。
日光や水や空気は、それらが十分に満たされていると、その重要性にあまり気がつきま
せん。しかしこれらは、生命にとって非常に重要なものであり、これらが欠ければ、生命
は絶対に生きることが出来ません。日光や水や空気が少しでも不足すると、生命は大変な
苦しみに見舞われてしまいます。
これと同じように、「完成された愛」が十分に満たされているときは、その存在にあま
り気がつきません。しかし、その愛が少しでも不足すれば、生きていられない程の不安や
孤独が襲って来るのです。
また、日光や水や空気は、「全ての生命に愛を与えてやっている!」などというような、
「ことさらな、わざとらしい意識」を全く持っていません。日光や水や空気は、無意識に
全ての生命を育んでいるのです。
そして日光や水や空気は、「あの生き物は気に入らないから、少ししか与えないでおこ
う!」というような、「別け隔て(わけへだて)」をしません。日光や水や空気は、全て
の生き物にたいして、平等に分け与えられるのです。
つまり「完成された愛」とは、
全ての生命に、平等に与えられる愛。
ことさらな、わざとらしい意識のない、無意識的な愛。
そして、生命が生きるために絶対に欠くことの出来ない愛です。
このように、日光や水や空気が生命に与える働きは、「愛の完成」を実に良く表してい
ます。また逆に、人類が日光や水や空気の働きを長年にわたって観察することにより、
「愛の完成(神)」の概念を見い出したのだと思います。
* * * * *
ところでまた、以前に12章で述べた「植物の愛」も、「完成された愛」にたいへん近
いものです。
12章でも触れましたが、植物は光合成により、日光と水と空気中の二酸化炭素から、
炭水化物と酸素を作ります。つまり植物は、地球の全ての動物に、食料と酸素を供給して
います。だから植物が存在しなければ、全ての動物は生きることが出来ません。このよう
に植物は、地球の全ての動物の命を支え、育んでいるのです。
ところで植物は、動物に食べられても、不平や不満を何ひとつ言いません。植物は、た
だ黙って動物に食べられるのみです。しかし、動物に対して怒ったり、憎んだり、恐れを
いだいたりしません。そして、「自分を犠牲にして動物を養っているのだ!」という、こ
とさらな、わざとらしい意識も持っていません。
植物は、無意識的に、ただ「あるがまま」に、自然に生きているだけです。それでいて
地球の全ての動物に、食料と酸素を与え続けているのです。このように「植物の愛」は、
「愛の完成」にたいへん近いものだと言えます。
* * * * *
以上、ここまで述べたことを参考にして、「愛を完成させた人」とはどんな人かを考え
てみると、次のようになるでしょう。
「愛を完成させた人」とは、一見すると空気や水のように目立たない人です。しかし、
その人がいなくなれば、周囲の人々は空気や水を失ったかのように苦しみます。
また、「愛を完成させた人」は、温かな日ざしのような愛の光(愛の雰囲気)を周囲に
放ちます。そして、どんな人間も差別することなく、全ての人(全ての生命)に愛を与え
るのです。
「愛を完成させた人」は、とくに目立ったことをする訳ではありません。普段はその存
在すら、周囲の人々に気づかれないかも知れません。しかし、その人がいなくなれば、そ
の途端に都合の悪いことが次々と生じ、周囲の人々は大変な苦しみに見舞われるのです。
「いなくなってはじめて、その人の大切さが分かる!」と、いうような人です。
「愛を完成させた人」は、「愛そう!」とか、「愛を与えよう!」とか、「他人の役に
立とう!」などという、小ざかしい了見を持ちません。ただ無心に、あるがままに生きて
いるだけです。しかしそれでいて、多くの人々の心を愛で満たし、人類にとってかけがえ
のない存在になっているのです。
「愛を完成させた人」とは、そのような人だと私は思います。
* * * * *
最後にですが、
「愛の完成」とは、大変な努力を強いられたり、自分の命を犠牲にするようなものでは
ないと、私は考えています。
人や動物や植物など、地球の全ての生命の、あるがまま自然に生きている状態。
その中に、「愛の完成」が存在するのだと思います。
終わり
あとがき
本書では、愛について私なりの考えを、思うがままに述べさせて頂きました。
ところで本書で見て来ましたように、愛には様々な要素が存在し、矛盾していると感じ
る側面があります。たとえば、とても強く愛しているがために、怒りや憎しみ、嫉妬(しっ
と)、暴力、殺人、戦争などが起こる場合のあることが、その典型的な例でしょう。
このように、どうしても愛には矛盾する点が存在します。しかしながら、それもまた愛
の性質の一つなのです。
が、しかし、それを野放しにせず、そのような「愛の矛盾」を理性によって克服してい
く所に、「正しい愛の実践」が存在するのだと私は考えています。
2024年10月13日 寺岡克哉
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