愛について 6
2024年10月6日 寺岡克哉
25章 受け止める愛
前の24章で述べた「受けとる愛」よりも、さらに一歩進んだ愛として、「受け止める
愛」というのがあります。
前章で述べた「受けとる愛」は、相手の愛情や好意を拒絶したりせず、素直に感謝して
受けとるというものでした。
しかし、ここで述べようと思う「受け止める愛」とは、相手の愛情や好意を受けとるだ
けでなく、それよりもさらに一歩進んで、相手の怒り、憎しみ、悲しみなどの「ネガティ
ブな感情」をも含めて、「相手の気持ちを受け止めてあげる」という愛です。
ところで、「相手を受け入れる」ということには、「相手の好意を受けとること」と、
「相手の気持ちを受け止めること」の、二つの要素があるように思います。
つまり一つは、相手の愛情、好意、善意、友好、援助などを、「ウザッタイ!」とか
「ありがた迷惑だ!」などと拒絶したりせず、素直に喜んで受けとってあげること。
そしてもう一つは、相手の怒り、憎しみ、妬み、悲しみ、恐れ、不安などの「ネガティ
ブな感情」をも含めて、相手の気持ちを正面から受け止めてあげること。
この二つがそろってはじめて、「本当に相手を受け入れること」になるような気がしま
す。
ところで、「相手の気持ちを受け止める」とは、たとえば相手が怒りや憎しみを発して
いるのに対し、自分も怒りや憎しみをもって相手にぶつけ返すことではありません。
また、相手の怒りや恨み、愚痴などを、ただひたすら耐え忍んで聞き流すことでもあり
ません。
なんと言いますか、あまりうまく説明できないのですが、「相手の気持ちをしっかりと
理解して受け止め、相手を十分に納得させる形で、相手の怒りや憎しみを鎮(しず)め、
相手の悲しみを癒(いや)し、相手の恐れや不安を解消してあげる」と、いうような感じ
です。
しかしながら、「相手の気持ちを受け止めること」は、「相手の好意を受けとること」
にもまして、とても難しいことです。
なぜなら、心がよく鍛錬され、人格がしっかりとした人でないと、「相手の気持ちを受
け止めること」など、なかなか出来ることではないからです。
広くて奥深い心、寛容さ、忍耐力、相手の気持ちを的確に把握する理解力・・・相手の
気持ちを受け止めるためには、そのような能力がどうしても必要となります。
しかし、たとえそれが非常に難しいからと言って、「私には、相手の気持ちを受け止め
ることなど、とても出来るわけがない!」と、投げ出してしまうわけには行きません。
それぞれ各人が少しずつでも、そのような能力を身につけ、それを向上させて行くこと
は、どうしても必要なのです。なぜなら、それぞれ各人が自分の人格を成長させていくた
めにも、また、住み良い社会を作って行くためにも、それがとても重要だからです。
たとえば、普段おとなしい子供が突然にキレたりして精神が不安定になるのは、親や周
りの大人の、「子供を受け止める愛」や「子供を受け止める能力」が不足しているからで
はないでしょうか?
また、私もあまり人のことは言えないのですが、現代人の一般的な気質として、
「自分の気持ちが、相手に受け止められなくてイライラすること」はよくあっても、
「相手の気持ちを受け止めてあげること」には、ほとんど関心が向いていないのではな
いでしょうか?
そのような、一人ひとりの無意識に行われる言動が、知らず知らずのうちに住みにくい
社会を作り出しているような気がしてなりません。
ところで今の社会には、自己主張の強い人間だけが高く評価され、よく耐え忍ぶ人間を
見下すような風潮はないでしょうか?
つまり、自己主張の強い人間だけが幅(はば)をきかせ、それを耐え忍ぶ人間に対して、
無限にしわ寄せを押しつけるような風潮はないでしょうか?
そのような風潮が、「他人の言うことを聞けば自分が損をする!」という考え方を蔓延
(まんえん)させ、ひいては、「相手の気持ちを受け止めてやるなど、以(も)ってのほ
か!」というような考え方を、助長しているのではないでしょうか?
今の社会は、「自己主張」から「相手の気持ちを受け止めること」へと、価値観を変革
する必要に迫られていると思います。
(ただし、引っ込み思案な性格で何もかも人から押しつけられ、すべて自分で抱え込ん
でしまうような人は、自己主張が正しく出来るようにするべきです。)
ところで、「相手の気持ちを受け止めること」とは、自己主張ができない「精神的な弱
さ」の為せる業(わざ)ではありません。
「相手の気持ちを受け止めること」は、自己主張にもまして、強い精神力とエネルギー
が必要なのです。どれだけ多くの人々の「気持ちを受け止めること」が出来るのかによっ
て、「その人間の大きさ」が分かってしまうほどです。
たしかに「相手の気持ちを受け止めること」は、ものすごく難しいことです。
しかしながら、私も含めて各人が、相手の気持ちを少しでも受け止めてあげられるよう
に努力しなければなりません。
なぜなら、私たちが「人間として成長するため」にはそれが必要だし、また、自己主張
ばかりが持て囃(はや)されるような社会の風潮を変えるためにも、これより他に方法が
ないと思うからです。
26章 赦す愛
以下は、イエス・キリストと、その一番弟子であるペトロとのやりとりです。
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そのとき、ペトロがイエスのところに来て言った。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を
犯したなら、何回赦(ゆる)すべきでしょうか。七回までですか。」
イエスは言われた。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさ
い。」 (マタイによる福音書 18章21-22節)
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怒るのをやめて相手を赦すこと。憎むのをやめて相手を赦すこと。
このような「赦す」ということも、「愛」の一つと考えて良いのではないかと、私は思っ
ています。
しかしながら「赦す」という感情には、「親密になりたい!」とか、「いつも一緒に居
たい!」とか、「身も心も一つになりたい!」などのような、いわゆる「愛しい!」とい
う感情が存在しません。
「赦す」とは、どちらかと言えば、「怒りや憎しみを抑えて耐え忍ぶ」という感情が大
部分を占めると思います。「赦す」というのは、とてもじゃないけれど、楽しさや喜びを
感じるような「心地よい状態」ではありません。
そしてまた、相手を「赦す」ということは、非常に難しいことです!
それは前の25章で述べた「相手を受け止めること」よりも、さらに難しいことだと思
います。
それは例えば、「肉親が犯罪に巻き込まれて殺された場合」などを想像してみれば、分
かるかと思います。もしも私がそのような状況になったら、犯人を本当に赦すことが出来
るかどうか、まったく自信がありません。たぶん、一生赦すことが出来ないかも知れませ
ん。
このように「赦す」ということは、場合によっては、とても大きな「精神的な労苦」が
必要なのです。
ちなみに、
「憎しみと暴力の連鎖からは、平和は絶対にやってこない!」
「お互いに赦し、理解し、愛し合うことが大切だ!」
と、よく言われることがありますが、しかしこの言葉の重みと困難さを、今の日本で本当
に心の底から理解しているのは、犯罪被害者の家族の方々ではないでしょうか。
しかし、このような精神的な労苦を必要とする愛、つまり「赦す愛」というものが存在
しなければ、たとえばイスラエルとパレスチナの紛争などは、絶対に解決できないのも確
かなのです。
ところで、相手を「赦すこと」が出来なければ、正にそのことによって、自分自身もま
た大いに苦しめられます。なぜなら激しい怒りや憎しみの感情は、それを感じること自体
が、すでに大きな「苦しみ」だからです。
さらには、「赦すこと」が出来ずに、暴行や傷害、殺害などの暴力的な復讐(ふくしゅ
う)に訴えれば、自分の受ける「苦しみ」は、ますます大きくなってしまうでしょう。
以下の新約聖書の言葉は、そのことを言っているように私には思えるのです。
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「もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。
しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならな
い。」 (マタイによる福音書 6章14-15節)
「あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがた
に同じようになさるであろう。」 (マタイによる福音書 18章35節)
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たとえば、もしも自分が永遠に「人を赦すこと」が出来なければ、正にそのことによっ
て、自分自身が永遠に苦しめられます。
また例えば、自分が世の中を恨んで、憎めば憎むほど、自分は世の中から孤立し、自分
自身が大変な孤独に苦しめられます。
だから「赦すこと」は、じつは「自分を救うこと」にもなっています。上の聖書の言葉
は、そのことを言っているように私には思えるのです。
それは、私の経験からも言うことが出来ます。
私の場合などは、もう40年以上も前のことなのに、他人から受けたちょっとした屈辱
を忘れることが出来ずに、それを突然に思い出して、今でも不愉快な気持ちになることが
あります。
私は、自分が受けた屈辱などに対して記憶力が良く、執念深い性格なので、よくそのよ
うなことに悩まされるのです。しかし、その相手を、その場ですぐに「赦すこと」ができ
たならば、その後40年以上にも渡って苦しめられずに済んだわけです。
以上、ここまで述べてきたように、
「赦す」ということは、非常に困難なことです。それには、とても大きな「精神的な労
苦」を必要とします。
なぜなら「赦す」ためには、怒りや憎しみ、あるいは悲しみを抑えて、ひたすら耐え忍
ぶことが必要になるからです。
しかし「赦す愛」は、人類の平和にとって、そして自分自身が救われるためにも、すご
く大切な愛であることは確かなのです。
27章 愛と苦しみ
じつは「愛」と「苦しみ」は、表裏一体の関係になっている場合があります。
それを指摘しているのは、以下の「ダンマパダ(真理の言葉)」という仏教経典の一節
です。
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愛する人と会うな。愛しない人とも会うな。愛する人に会わないのは苦しい。また愛し
ない人に会うのも苦しい。
それ故に愛する人をつくるな。愛する人を失うのはわざわいである。愛する人も憎む人
もいない人には、わずらいの絆(きずな)が存在しない。
愛するものから憂いが生じ、愛するものから恐れが生ずる、愛するものを離れたならば、
憂いは存在しない。どうして恐れることがあろうか?
愛情から憂いが生じ、愛情から恐れが生ずる。愛情を離れたならば憂いが存在しない。
どうして恐れることがあろうか?
(ダンマパダ 第16章 210-213)
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この「ダンマパダ」は、おそらく2000年以上も前から、インドや南アジアの人々に
よって愛唱されていたものです。近代に入ると西洋諸国での翻訳によってよく知られるよ
うになり、もっとも数多く西洋の言語に翻訳された仏教経典です。
その一節である上の言葉は、「愛」というものの一面がよく表されており、現代でもまっ
たく古さを感じません。
じつは私も、上に挙げたダンマパダの一節は、20年以上も前から知っていました。し
かし頭の中の知識としては知っていても、心の底ではこの言葉を否定していたのです。な
ぜなら上の一節は、「愛を否定している」ように思えるからです。
「愛」は、人間に生きる意味を与え、人間の生きる目的となり、人間の生きる原動力と
なります。だから愛を否定してしまったら、人間は何のために生きているのか分からなく
なり、ただ機械的に生きているだけの、無味乾燥な人生になってしまいます。
あるいは愛を否定したら、人間に残されるのは、怒り、憎悪、妬み、欲望、闘争などの、
悪くて嫌なものばかりになってしまいます。
このような理由で、私は「愛を否定すること」には賛成できないのです。
しかし、盲目的で激しすぎる愛は、逆に「大きな苦しみ」を生じさせてしまうのも事実
です。
たとえば「異性への愛」があまりにも激しく強い人は、失恋したり、恋人が死んだりす
れば、自分も生きていられないほど苦しむでしょう。
また例えば、「子供への愛」があまりにも強く激しい人は、子供が死んだら、生きてい
くことに耐えられないほどの苦しみに見舞われるでしょう。
たしかに愛は、「愛するもののため」にならば、自分が苦しむことに耐えられます。
愛する恋人のため、愛する子供のためならば、自分の苦しみや苦労など、ものともしま
せん。
しかし愛は、「愛するものを失う苦しみ」には耐えられないのです。
恋人や子供をあまりにも激しく愛しすぎる人は、それを失うことへの不安や恐怖のあま
り、神経症のようになってしまうでしょう。
だから「失う可能性があるもの」に対しては、あまり激しく愛しすぎない方が無難のよ
うに思えます。この意味では、ダンマパダの上の一節も、真実の一面を語っているように
思えるのです。
以上のように、愛は苦しみの原因でもあります。
しかし、やはり私は、愛をまったく持たないよりは、多少の苦しみがあったとしても愛
を持つべきだと考えます。なぜなら、恋人や子供が死んでもまったく苦しみを感じなけれ
ば、それはもはや「人間」とは呼べないからです。
* * * * *
ところで、いくら強く愛しても、苦しみが生じないものもあります。それは、失うこと
がない「永遠のもの」に対する愛です。
それは例えば、すべての生きとし生きるものへの愛である「慈悲」や、あるいは「神へ
の愛」などです。
なぜなら「地球の生命」や「神」は、永遠に失うことがないからです。(ところで地球
の生命は、数十億年後に消滅しているかもしれません。しかしそれでも、恋人や子供に比
べれば、十分に「永遠のもの」と考えることができます。そして神は、この宇宙が消滅し
ようとも存在し続ける、「絶対に永遠のもの」です。)
「慈悲」や「神への愛」には、愛するものを失う恐れや不安がありません。だからこれ
らの愛は、いくら増大させても、それこそ無限に愛を増大させても、苦しみは生じません。
それどころか「慈悲」や「神への愛」は、増大させればさせるほど、ますます喜びと幸
福が大きくなって行くのです。
28章 愛と哀しみ
人間は、いくら一生懸命に生きても、結局最後には死んでしまいます。
たいていの人生は、
いくら仕事に打ち込んでも、定年がくればお払い箱・・・。
いくら子供や孫ができても、死に行くときは一人きり・・・。
そして、日々の生きる苦しみに耐えきれず、人生の途中で自ら命を絶ってしまう人さえ、
世の中にはたくさんいます。
このように考えると、人間は本当に哀しい生き物だと思ってしまいます。そして歳を取
れば取るほど、そのことが身にしみてきます。しかし、これは人間が、「哀しい生き物」
というよりは「自らの哀しさを知っている生き物」という方が正しいのかも知れません。
なぜなら、人間以外の動物にも「哀しい状況」はたくさんありますが、彼らは「自己存在
の哀しさ」など、たぶん知るよしもないからです。
* * * * *
しかし人類は、その哀しさを何とか克服しようとして、昔から色々な努力をしてきたの
だと思います。
たとえば音楽、詩、文学、彫刻、絵画などの芸術、そして(本当の)宗教や哲学。
これらは、「人間存在の哀しさ」を克服するために行ってきた、人類の努力の賜物(た
まもの)だと言えるでしょう。
人類は、「人間存在の哀しさ」を知るからこそ、芸術や宗教に対する大切さや価値を知っ
ているのです。
同じように、人類は「人間存在の哀しさ」を知るからこそ、「愛」というものに対する
大切さや価値もまた、知っているのです。
* * * * *
ところで・・・ 怒りや憎しみ、あるいは恨みや妬(ねた)みの存在は、「愛」の大切
さを明確に証明しています。
なぜなら、怒りや憎しみに駆られていては、いつまでも平和が訪れないからです。それ
は、世界各地で起こっているテロや紛争を見れば明らかでしょう。怒りと憎しみの連鎖を
続けていては、苦しみと不幸が大きくなるばかりです。
このように怒りや憎しみの存在は、愛の必要性と重要性を、力強く物語っています。
しかし怒りや憎しみは、愛の大切さを人間に思い知らせますが、「愛の感情」は誘発し
ません。なぜなら、怒りや憎しみを完全に捨てさって初めて、「愛」の生じる可能性が出
てくるからです。
心の中に怒りや憎しみが少しでも残っていれば、愛の感情は絶対に生じません。この意
味で、怒りや憎しみと愛の関係は、片方が1なら、もう片方は0という、まったく相反す
る心の状態だと言えましょう。
ところが「哀しみ」は、人間に愛の感情を誘発させます。
つまり「哀しみ」と「愛」は、連動する部分があるのです。そこが怒りや憎しみと、哀
しみの違うところです。
人間は、哀しい生き物だからこそ愛しい・・・。
哀しいからこそ、愛さずにはいられない・・・。
そのような感情が、人間には確かに存在します。だから「哀しみから生じる愛」という
のも存在するのです。
哀れみ、同情、思いやり、いたわり・・・ 他人の哀しみが分かるからこそ、このよう
に他人を愛することが出来るわけです。
* * * * *
ところで、
「哀れみなんかいらない!」
「慰(なぐさ)め合うことなど、単なる傷のなめ合いにすぎない!」
「同情するぐらいなら金をくれ!」
私は、上のような言葉に、たいへん強い憤(いきどお)りと、生理的な嫌悪を感じます。
なぜなら、何か人間の根底に関わる大切なものを、根こそぎに踏みにじっているような
感じがするからです。
上の心ない言葉は、「他人の哀しみを知ろうとする気持ち」とか、「他人に同情するこ
との大切さ」というものを、完全に否定しています。「哀しみを知ること」によって生じ
る「愛の感情の発露」を、まったく塞(ふさ)いでしまっているのです。
私は、社会に蔓延(まんえん)しているそのような価値観こそが、「非人情」を世間に
はびこらせ、現代社会における「生き苦しさ」に拍車をかけている気がしてなりません。
29章 不幸を招く間違った愛
「愛」には、「人間を幸福にする正しい愛」と、「人間を不幸にする間違った愛」が存
在します。
だから、「愛は善である!」とか、「愛は世界と人類を救う!」などと、単純に信じて
しまうのは、ものすごく危険です。
しかし、それでは一体、何が「幸福を招く正しい愛」で、何が「不幸を招く間違った愛」
なのでしょう? ここでは、それについて考えたいと思います。
さて、これまで本書で行ってきた、愛についての考察をふり返ってみると、
「本能的な愛」と「理性的な愛」
「求める愛」と「与える愛」
「執着を伴った愛」と「執着を捨て去った愛」
「激しく強い愛」と「優しく穏やかな愛」
「狭い愛」と「広い愛」
という、カテゴリー分けが出来るように思います。
ところで上のカテゴリー分けで、左側が「不幸を招く要素」の存在する愛で、右側は、
特別な例外を除けば、不幸を招く要素が存在しない愛です。
しかし、左側の愛が不必要だという訳ではありません。左側のものも、人間にとって大
切な愛です。人間が幸福になるためには、左側の愛も絶対に必要なのです。
それでは次に、左側のカテゴリーに属するものについて、もう少し詳しく見て行きたい
と思います。
●本能的な愛
「本能的な愛」には、生存本能による自己愛や、恋愛や性愛、母性愛などがあります。
これらは、生命と種族の維持にたいへん重要な愛です。これらの愛が存在しなかったら、
自分の生命を維持することも、子供を作る相手を選ぶことも、子供を作ることも、子供を
育てることも出来ません。
しかし本能的な愛は、時として、盲目的で非理性的になってしまう場合があります。そ
のため不幸を招いてしまう場合も少なくありません。本能的な愛を幸福へ導くためには、
理性的な要素が必要不可欠です。
●求める愛
「求める愛」も、全く存在しなかったならば、人間の生活が味気のないものになってし
まいます。異性を求める愛、子供が求める親の愛、友人や仲間を求める愛、真理、善、美、
あるいは神を求める愛。これらの愛が人類にうるおいを与えていることは間違いありませ
ん。
しかし、人間を相手に愛を無限に求めてしまうと、問題が起こるのです。なぜなら、愛
を求めた相手の人間の、ものすごく大きな負担になって、その人が疲れはててしまうから
です。ゆえに、人間を相手に愛を無限に求めてはなりません。
「無限の愛」をどうしても求めたければ、以前に18章で述べたように、釈迦の慈悲や、
キリストの愛、大生命の愛、神の愛に、求めなければならないのです。
●執着を伴った愛
「執着を伴った愛」も、完全に否定してしまうことは出来ません。ある程度の「執着を
伴った愛」が無ければ、人間関係が維持できないからです。恋人に対する執着、子供や家
族に対する執着、友人や仲間に対する執着。これらが全く存在しなければ、人類社会が成
り立ちません。
そしてまた、釈迦の慈悲や、キリストの愛にも、「人類を救済したい!」という、ある
意味で大変に強い執着が存在しているのです。
ところで「執着」とは、物事(ものごと)を継続するための原動力でもあります。だか
ら、執着を完全に消し去ることは間違いです。しかしながら、何事も執着しすぎると、逆
に不幸を招いてしまうことが多々あるのも事実なのです。
●激しく強い愛
「激しく強い愛」は、大きな不幸を招く可能性が高いと考えられます。激しすぎる恋愛
や、盲目的な国家への愛や、狂信的な神への愛は、大きな悲劇の元です。
しかしながら時として、「自分の命をかけても大切なものを守る!」という、「激しく
強い愛」が必要な場合もあります。しかし、そのような事態はなるべく起きない方が良い
のは、言うまでもありません。
●狭い愛
「狭い愛」は、愛し合っている人間同士の間では、何の問題もありません。しかし、そ
れ以外の人間に対して、無関心や冷酷になる傾向があるので問題なのです。
「狭い愛」だけに閉じこもってしまうと、「自分達さえ良ければそれでよい!」という
考え方に陥(おちい)り、往々(おうおう)にして、他者を排斥したり対立を招いたりし
ます。
* * * * *
ところで、小説や漫画、テレビドラマ、映画などでは、本能的で激しく強く求めて執着
する、男女の愛というのがテーマになりがちです。つまり上で挙げたカテゴリーの、左側
の要素だけを不自然なほどいびつに強調した愛です。
というのは、そのようにすると、話がエキサイティングになって面白いからです。そし
て、「これが本当の真実の愛だ!」という認識を、無責任に広めているような気がします。
しかし、それこそが、「不幸を招く間違った愛」の典型的なものなのです。そのような
愛は、絶対に長続きできませんし、不幸と悲劇の元です。不倫や離婚、家庭崩壊、妊娠中
絶、暴力、傷害、殺害、自殺、心中などが起きてしまうのは、この類(たぐ)いの愛なの
です。
しかし、それよりもさらに大きな不幸と悲劇を生むのは、盲目的な国家への愛や、狂信
的な神への愛です。最近の切迫した国際情勢をみても、こちらの方がはるかに大きな問題
であることが分かります。
「激しく熱狂的で、世界を二分するほどの中途半端に広い愛(最悪の狭い愛)」という
のが、人類にとって最も危険な愛だと考えられるのです。
以上の考察より、激しく強く熱狂的な愛で、しかも人間集団の規模が大きくなればなる
ほど、危険な愛であることが分かります。
「愛」を幸福へ導くためには、やはり、人間を冷静にさせる「理性的な要素」が、もの
すごく重要になります。しかも、人間集団の規模が大きくなればなるほど、「理性的な要
素」の重要性と責任も大きくなるのです。
つづく
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