愛について 5
2024年9月29日 寺岡克哉
20章 「高揚した愛」と「落ち着いた愛」
「愛」には、無限の高みに登りつめていくような「高揚した愛」と、どっしりと地に足
をつけたような「落ち着いた愛」があるように思います。
まず前者の「高揚した愛」とは、前の19章で述べた「最高の愛の感覚」です。
これは、高いレベルの一点に「ギューッ」と精神が集中した状態で、「異性への愛」を
極限まで高めたようなものです。
とはいっても、官能的な肉体の反応(男性で言えばペニスの勃起)が存在しないので、
単なる肉体の性欲をはるかに超越した精神状態です。しかしながら「高揚した愛」は、異
性の体を「ギューッ」と抱きしめて「身も心も完全に一つになってしまいたい!」という
ような気持ちを、限りなく高めて行った延長上にある愛なのです。
私は、この「最高の愛の感覚」に対して、はるかな高みで輝いている一点の光に、限り
なく登りつめて行くようなイメージを持っています。
また「高揚した愛」は、「無限の高み」や「無限の理想」を求める愛であるとも感じて
います。「絶対の真理や、究極の美を追求したい!」という動機の根源も、この「高揚し
た愛」のように思います。
しかし一方、これとは全く違った「愛の感覚」もあります。
それは、どっしりと地に足をつけたような、「落ち着いた愛」です。
「落ち着いた愛」は、異性を「ギューッ」と抱きしめたくなるような愛ではなく、生ま
れたばかりの赤ちゃんを、そっと優しく抱きかかえるような愛。安らかに眠っている子供
をそっと優しく見守るような愛です。
はるかな高みを登りつめるのではなく、大地のように広くて大きな愛。そして山のよう
にどっしりとした不動の愛です。
世界の全てを抱きかかえ、下からガッチリと支えている愛。宇宙の全てを根底から支え
るような愛です。
このように「落ち着いた愛」は、「無限の高さ」ではなく、「無限の広さや大きさ」を
持つ愛なのです。
ところで、「高揚した愛」と「落ち着いた愛」の、一体どちらが優れているのかと言え
ば、それぞれに優れた所があり、また欠点もあります。だから、どちらか一方というので
はなく、人間には「高揚した愛」と「落ち着いた愛」の、両方が必要であると私は考えて
います。
まず「落ち着いた愛」は、愛の感情(精神的な高まり)としては、そんなに強いもので
はありません。穏やかでゆったりとした愛です。だから「高揚した愛」に比べると、「愛
のパワー」にはどうしても欠けます。
しかし「落ち着いた愛」は、どっしりと地に足がついた愛であり、心が完全に安定して
います。だから理性がよく働き、論理的な思考や判断力が鈍ることがありません。
また「落ち着いた愛」は、極度の精神的な高ぶりがないので、エネルギーを消耗するこ
とがありません。だから末永(すえなが)く愛し続けることができます。
つまり「落ち着いた愛」は、理性的な愛であり、永遠の愛なのです。
一方「高揚した愛」は、精神が極度に高ぶった状態なので、地に足をつけたような安定
感がありません。
しかしながら「高揚した愛」も、高いレベルの一点に精神が集中し、心が一時的に安定
しています。つまり「ギューッ」と精神が集中して何も考えられなくなり、思考が静止す
るのです。が、しかし時間がたつと、エネルギーを消耗して、その安定状態から落ちてし
まいます。そこが今ひとつ不安定なのです。だから「高揚した愛」は、足が浮いた状態で
の一時的な安定でしかありません。
また、「高揚した愛」は精神が極度に高ぶるので、理性がよく働きません。つまり論理
的な思考や理性的な判断ができにくくなるのです。
だから、高ぶった「愛のパワー」が暴走する恐れがあります。そしてそれが、犯罪やテ
ロや戦争などに発展する可能性も、まったく皆無ではありません。
さらに「高揚した愛」は、精神的なエネルギーを非常に消耗するので、永遠に愛し続け
ることが出来ません。
このように、「高揚した愛」にも欠点があります。
しかしながら、人間には「高揚した愛」がないと寂しいのです。やはり「落ち着いた愛」
だけでは、「愛のパワー」に欠けてしまいます。
しかし「高揚した愛」は、それが暴走する恐れがあります。それを理性的にくいとめる
ことが、「落ち着いた愛」の役目だと私は考えます。
だから、やはり人間には、「高揚した愛」と「落ち着いた愛」の両方が必要なのです。
21章 愛と執着
愛と執着(しゅうちゃく)は、一見すると全く違う概念のように思えます。しかしこれ
らは、実はたいへん良く似た感情なのです。だから、「執着」のことを「愛」だと誤解し
ている人も、世の中にはたくさん居ると思います。
もちろん、執着の全てが愛である訳はでありません。怒りや憎悪に対する執着、復讐に
対する執着、金や名誉、権力に対する執着なども存在するからです。しかしながら、「執
着を伴った愛」といえるものが、数多く存在することも事実なのです。
この「執着を伴った愛」とは、たとえば相手の気持ちや人格を尊重しないような、自分
勝手な恋愛や性愛などがその典型です。これらの愛は、得てして、怒りや憎しみの原因と
なってしまうことがあります。場合によっては、喧嘩や暴力(言葉の暴力も含む)が起こ
り、最悪の場合には、自殺や殺傷事件に及ぶ場合も皆無ではありません。
だから正しく愛するためには、「執着を伴った愛」ではなく、「執着のない愛」を実践
(じっせん)しなければなりません。そこで次に、「執着を伴った愛」と、「執着のない
愛」の具体的な例をいくつか取り挙げ、それらの違いについて確認したいと思います。
まずはじめに、「執着を伴った愛」の具体例を挙げます。
(1)相手に対して、見返りを求める愛。
これは、相手から愛されることを期待して、相手を愛することです。見返りを求める愛
は、「相手から愛されたい!」という思いに執着しているのです。だから、その思いに反
して、相手が愛を与えてくれなかった場合には、不安や焦燥、怒り、憎悪、嫉妬などの感
情が起こってしまいます。
(2)自分だけを愛させようとすること。
「私だけを愛して!」とか、「俺だけを見ていろ!」と、いうような感情のことです。
これは、「相手の愛を自分だけのものにしたい!」という思いに、執着しているのです。
(3)強引な片思いや、横恋慕。
これも、自分の感情に執着して、相手の気持ちや迷惑を考えていません。
(4)不倫や心中。
この場合は、当人同士の相互理解は存在しています。お互いに強く愛し合っていること
は確かでしょう。しかし、「自分達だけ」の感情に執着し、家族や周囲の人の心配や苦し
みを、全く考えていません。
(5)ストーカー行為
これは、自分勝手な執着以外の何物でもありません。自分では、相手を大変に強く愛し
ているつもりになっているかも知れません。しかし、相手の迷惑を全く考えないどころか、
危害まで加えてしまうという、自分勝手で卑劣な犯罪行為です。
(6)自信過剰、自意識過剰、エゴイズム、ナルシシズムなど。
これらの「間違った自己愛(4章参照)」の根底にも、強い自己執着が存在すると考え
られます。
次に、「執着のない愛」の具体例について挙げます。
(1)見返りを求めない無償の愛。
この愛には、「相手から愛されたい!」という執着がありません。
(2)相手の気持ちや人格を尊重する愛。
この愛には、自分の気持ちや思いを最優先にするという執着がありません。
(3)広く心が開かれ、差別をしない愛。
これは、あの人は好きだけど、この人は嫌いだというような、「特定の自分の好み」に
対する執着がありません。
(4)怒りや憎悪を抑える愛。敵を憎まない愛。
これは、自分の気持ちを強く抑制してまでも、相手を思いやるという愛です。憎みたい
相手をも憎まないという点で、(3)の差別をしない愛を、さらに強力におし進めたもの
と言えます。
ところで「執着を伴った愛」は、ある種の大変に強い興奮や快楽があります。つまり、
エキサイティングなのです。しかしその反面、非常に大きな「執着の苦しみ」と言えるも
のが存在します。
たとえば「執着を伴った愛」には、恐れや不安が常につきまといます。時として、爆発
的な怒りや嫉妬が生じることもあります。最悪の場合には、自殺や殺傷事件が起こること
さえあります。そして、周囲の人に大変な不幸と苦しみをばらまいてしまいます。
「執着を伴った愛」は、エキサイティングであるために、多くの人を惹(ひ)きつけま
す。が、しかし、結局は自分自身を破滅させて、自分を不幸にしてしまうのです。
一方、「執着のない愛」は、どちらかと言えば自分を抑え、耐え忍ぶというニュアンス
があります。少なくとも、「執着を伴った愛」に比べれば、エキサイティングさに欠けま
す。だから、人を惹きつける魅力もあまりありません。
しかし、これこそが、周囲の人々に優しさと安らぎを与える「正しい愛」なのです。そ
して、自分自身を本当に幸福にする愛なのです。
22章 愛の暴走
私が40歳ぐらいになった頃、私は「愛の感情を高める努力」をずっとしていました。
その結果、以前に19章で述べた「最高の愛の感覚」といえるものを、感じることが出来
るようになりました。
前にも述べましたが、この「最高の愛の感覚」とは、「愛する異性とギューッと抱きし
めあって、お互いに身も心も一つに溶け合ってしまいたい!」というような気持ちを、限
りなく高めて行ったものです。
これは、一種の「ハイな精神状態」であり、精神が高いレベルの一点にギューッと集中
して、頭の中が真っ白になり、なにも考えられなくなります。しかしながら、ものすごく
大きな「喜び」を感じます。
このような「最高の愛の感覚」を得ると、自分が今ここに生きているのがとても嬉しく
なり、それが涙の出るほど有りがたく感じます。そして、他人や、他の生命のために、自
分の出来ることなら何でもしてあげたくなります。
さらには、「生きることは素晴らしい!」、「この地球に、生命が存在することは素晴
らしい!」と、心の底から実感するのです。
* * * * *
ところが!
愛の感情も高揚しすぎると、「暴走」してしまうことがあります。
そうなると、「喜び」よりは「苦しみ」を感じるようになってしまいます。
たとえば私が以前に経験したことでは、頭が疲れたときなどに「ボーッ」と何も考えな
いでいると、ただそれだけで、とても大きな愛の感情がとつぜんに押し寄せてくるのです。
それは、理由もなく「愛の感情が襲ってくる」という感じです。
頭がジンジンとして、顔がポーッとし、歯が浮いてきます。そしてクラクラと目まいが
しそうになります。また、訳もなく涙ぐみたくなることもあります。「このままでは気が
狂ってしまうのではないか?」と、恐ろしくなるほどでした。
それは例えば、素敵な異性と出会ったときや、運よく金を儲けたとき、あるいは会議や
講演などで壇上に立った時などに感じる興奮とも似ています。
とにかく、とてもじゃないけど心がぜんぜん休まりません。精神がものすごく疲労し、
胸がキュンキュンと苦しくなってきます。さらには、ドキドキと動悸が激しくなることも
ありました。
* * * * *
ところで、
愛の感情が暴走してしまうと、冷静さを失って、正しい思考や判断ができなくなってし
まう場合があります。
たとえば「恋愛」が暴走してしまうと、「あなたと別れるぐらいなら、あなたを殺して
私も死んでやる!」という激しい思いに取りつかれて、実際に刃傷沙汰(にんじょうざた)
になってしまう場合も少なくありません。
また例えば、「神への愛」が暴走してしまうと、「神の栄光のためならば、自分の死を
も厭(いと)わない!」という激しい思いに取りつかれて、テロや戦争に参加してしまう
事例も、世界的に見れば決して少なくないのです。
「愛の暴走」をいちど体験すると、恋愛感情のもつれで殺傷事件をおこしたり、間違っ
た宗教指導者に扇動されてテロや戦争に走ってしまう人々の気持ちが、実感として分から
なくもないような気がしてきます。
だから私は、「愛の暴走」に対して、とても強い危機感を持っており、広く人々に注意
を促したいと思っています。
23章 無欲の愛
私は、「無欲の愛」というのがあると考えています。
しかし、ここで言う「無欲の愛」とは、以前に17章で述べた「無償の与える愛」とは、
ちょっとニュアンスが違うのです。
「与える愛」の場合は、たとえそれが「無償の愛」であっても、「愛を与えることその
もの」が自分の幸福になっています。だからこれには、「愛を与えたい!」という、ある
意味で「欲望」が存在します。
私は、それが悪いというのではありません。しかしながら、「無償の与える愛」と異な
る、「無欲の愛」というのが存在するように思うのです。
その「無欲の愛」とは、自分の欲望が皆無になったときに現れる感情です。
たとえば私の場合では、病気になって高熱にうかされたり、冬山登山や徹夜続きの仕事
などで、体が動かなくなるほど疲労困憊(ひろうこんぱい)したときに、そのような感情
になったことがありました。
そんなとき私は、自分の体にまったく力が入らなくなり、
「私はもう、動くことも何もできない・・・。」
「もし、このまま安らかに死んでしまっても、それはそれで良いのではないか」
「私はもう、十分に満足だ!」
と、感じてしまいました。そして食欲も性欲も、物欲も金銭欲も、あるいは名誉欲や権
力欲も、まったく無くなっていました。「自分はもう何も要らないし、何も欲しくない!」
と、本当に心の底から、そう思ってしまったのです。
(しかしながら、そのような状態になることは滅多にありません。私の今までの人生で、
3回ぐらいあった程度です。)
「無欲の愛」は、そのような状態になって、はじめて現れる感情です。
それは、
「他の生命が、元気に幸福に生きてくれれば、ただそれだけでよい!」
「それだけが、私の望みのすべてだ!」
「私のやれることは力の限りやったし、他にはもう何もできない。」
「あとは、全てをよろしく頼む!」
と、いうような感情です。
上のような、
他の生命への希望。
他の生命への全幅の信頼。
他の生命に、未来のすべてを託す気持ち。
地球の生命が、これからも末永く存在することへの絶対的な安心・・・。
自分は「いずれ死んでしまう存在」だからこそ、他の生命に対して、このような感情が
起こるのだと思います。そして「無欲の愛」は、そのような感情に根ざした愛なのです。
* * * * *
ところで、人間がだんだん歳をとり、「自分の死」が近づくにつれて取る態度は、大き
く分けて二つあると思います。
まず一つ目は、「自分の死」を理不尽で不当なものと感じ、自分の運命を恨み、呪い、
幸福そうに生きている他の生命を憎むことです。
「どうせ私は、もうすぐ終わりなのだから、いっそのこと一人でも多くの命を道連れに
してやる!」と、いうような感情です。
そして二つ目は、他の生命の末永い幸福を望み、それを自分の喜びとすることです。
「私の肉体は衰えて死んでしまうけれども、他の生命が幸福に生き続けてくれるならば、
それが私にはとても嬉しいし、それですごく満足だ!」と、いうような感情です。
私の体力は、これからどんどん衰えていきます。
性欲が減退し、いずれ無くなってしまうでしょう。
食欲も小さくなり、美味しく感じる食べ物が無くなっていくでしょう。
体の自由も、きかなくなって行くでしょう。
そして物や金も、だんだんと意味の無いものになって行くでしょう。どうせ死ねば、物
や金は「まったく意味の無いもの」になってしまうのですから・・・。
もしも私が一つ目の態度をとれば、私には、絶望、怒り、憎しみ、妬み、不安、焦燥、
恐怖が待ち受けているだけです。
しかし二つ目の態度をとれば、私の体力が衰えて欲望が小さくなればなるほど、愛、幸
福、優しさ、安らぎ、満足、喜びが増大していくのです。
なぜなら欲望が小さくなり、「自己への執着」が無くなれば無くなるほど、それらの感
情は強く大きくなって行くからです。
「無欲」だからこそ、無限に増大する愛。そういう愛が、たしかに存在すると思います。
40歳代のころに比べて、60歳代になった現在の私には、その確信がますます強くなっ
ています。
24章 受けとる愛
愛には、「求める愛」や「与える愛」の他に、「受けとる愛」というのがあります。
それは、「相手の愛を拒絶しないで、素直に感謝して受けとる」というもので、これも
「愛」の大切な要素の一つです。
たとえば親や友人やパートナーから、親愛の情を寄せられたり、親しく話しかけられた
り、心配してもらったり、手助けをしてもらったとき。
そのようなときに、「ありがた迷惑だ!」とか「ウザッタイやつ!」などと思わず、素
直に感謝して、その好意を受けとること。
つまり、自分に向けられた愛を拒絶せずに受け取ってあげるという「受けとる愛」も、
「愛」の一つなのです。
(ただし恋愛や性愛などの「男女の愛」の場合は、誤解を招いてトラブルになる恐れが
あるので注意が必要です。「男女の愛」の場合は、生涯を供にするつもりのない相手に対
しては、無責任にその愛を受け取らずにきちんと断り、友人や隣人としてつき合うのが責
任ある態度です。)
* * * * *
しかしながら、「愛を素直に感謝して受けとる」といっても、なかなかそれが出来ない
場合が多々あります。
たとえば、自分の心が素直になれなかったり、相手や周囲の人々が信用できなくて人間
不信に陥っていたりすると、「愛を受けとること」を拒絶してしまうのです。
このような「愛を拒絶する原因」としては、主に次のようなものが考えられるかと思い
ます。
まず第一に考えられる原因は、「自己否定」に陥って、自分の心が素直になれないこと
です。
たとえば私の場合では、自分が自己否定に取りつかれていた時に、他人から優しくされ
たり親切にされると、
「私は、人から愛されるべき人間ではない!」
「私なんか、人から愛される資格などない!」
「私に優しくしたり親切にする人間など、心の底では私をバカにして笑っているのだ!」
というような、「ひねくれた思い」が生じてしまうのです。
ところでそれは、上に挙げたような「具体的な言語」として、そのように思う訳ではあ
りません。しかし、他人から優しくされたり親切にされると、なぜか心の奥底が不愉快に
なり、「ムッ」としたり「ウザッタイ!」と感じてしまうのです。
そして、相手をにらみつけたり、理由にならない文句をぶつけたりして、相手を不愉快
な気分にさせると、なぜか私の心が「ホッ」と安心するのです。それは、「やはり私は愛
されない人間なのだ!」という自分の確信が、相手の態度によって証明され、それで何と
なく安心するのだと思います。
このように、自己否定に取りつかれていると、「愛されること」を拒絶してしまうので
す。
つぎに、「愛を受けとること」を拒絶する第二の原因として、「他人や世間が信用でき
ない!」というのが考えられます。
たとえば、詐欺、悪徳商法、商品の偽装、商品の欠陥隠し、個人情報の流出、不正、談
合、汚職など・・・。
マスコミ報道を見ると、どんな手を使ってでも人を騙(だま)そうとする人間が、毎日
のよう現れてきます。
こんな状況では、「下手(へた)に他人を信用すると、自分がひどい目に合うぞ!」と
思ってしまい、親切そうに近づいてくる人間を警戒してしまうのも当然です。
「他人など、絶対に信用できない!」
「他人を信用すれば、すぐに騙される!」
こんなことが世間の常識になっているようでは、他人がいくら親愛の情を示しても、そ
れが信用できなくて拒絶してしまうのも無理はありません。
ちなみに私は、「他人がまったく信用できない!」という風潮の蔓延(まんえん)が、
現代人の孤独を助長している、大きな原因の一つのように思っています。
そして第三の原因としては、「自分は強い人間だ!」という思い込みによる、「高慢
(こうまん)」や「傲慢(ごうまん)」が考えられます。
「他人からの愛などいらない!」
「人の情けは受けない!」
「他人の助けなんか必要ない!」
「そんなものが必要なのは、そいつが弱い人間だからだ!」
「私は強い人間だ! だから私は、愛を与えるべき人間であり、愛をうけとる人間では
ないのだ!」
と、いうような高慢や傲慢が、他人からの愛を拒絶させてしまうのです。
以上のように、「相手の愛を拒絶しないで、素直に感謝して受けとる」といっても、な
かなか難しくて、それが出来ない場合があります。
しかしながら「受けとる愛」というのは、たしかに愛の形の一つであり、それが出来る
ようになることは、「与える愛」の実践(じっせん)と同じぐらい大切なことなのです。
つづく
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