愛について 4
                               2024年9月22日 寺岡克哉


第2部 愛のさまざまな側面(愛の雑観的な考察)


15章 愛の増減法則
 愛は、求めれば求めるほど失い、与えれば与えるほど得られます。これが愛の増減法則
です。
(しかし、この法則が成り立つのは、「人間同士の愛」に限った場合です。人間が神を一
心に求める「神への愛」。または、真理、善、美などを求める愛などについては、この法
則が成り立ちません。)

 つまり愛の増減法則は、お金や物の増減法則と、全く逆になっているのです。そのこと
が、「愛」を難解なものにしている一つの原因であると、私は考えています。
 たとえば、お金や物は、人から奪えば奪うほど増え、人に与えれば与えるほど減って行
きます。
 しかし「愛」の場合は、これとは全く逆になっています。愛は、人から奪おうとすれば
するほど失い、人に与えれば与えるほど増えるのです。
 たとえば世の中では、とても多くの人々が、何とかして愛を得ようと苦心惨憺(くしん
さんたん)し、さまざまな努力をしています。が、しかし、一向に愛を得られないどころ
か、返って愛を失っている場合が多々あります。
 それは、愛の増減法則と、お金や物の増減法則が逆になっていることに、多くの人々が
全く気がついていないからです。

 ところで「愛」には、「求める愛(エロス)」と、「与える愛(アガペ)」があります。
しかし日本語では、これらは同じ「愛する」という言葉でくくられていて、一般に混同さ
れています。
 しかし愛の増減法則からすると、これらには大きな違いがあります。なぜなら、愛は求
めれば求めるほど失い、与えれば与えるほど増えるからです。
 だから「愛」を増大させて行くためには、「求める愛」と「与える愛」の違いを知る必
要があります。そこで、「求める愛」と「与える愛」の違いを、以下で少し確認してみた
いと思います。

 「求める愛」とは例えば、
 「私がこんなに愛しているのに、なぜ私を愛してくれないのだ!」と、いうような心情
です。これが典型的な「求める愛」です。
 これを、もう少し厳密に表現すれば、「私はあなたの愛を求めて渇望しているのに、な
ぜ、あなたは私に愛を与えてくれないのだ!」と、言っているのです。
 また、
 「誰か俺に愛をくれ!」
 「私をもっと愛して!」
 「他の誰よりも、一番に私を愛して!」
 「誰も私を愛してくれない!」
 等々の心情も、「求める愛」を表しています。
 子供が、母親や父親の関心を得ようとするのも、「求める愛」の一種です。

 一方、「与える愛」とは例えば、
 「あなたがどんな状況になろうとも、私は決してあなたを嫌いにならないし、絶対に見
捨てたりしない!」と、いうような愛です。
 「もしもあなたが・・・ 障害を持って生まれてきても、学校の成績が落ちようとも、
大学受験に失敗しようとも、会社に就職できなくても、リストラをされようとも、破産し
ようとも、いちど結婚に失敗していても、不治の病にかかろうとも、手足を失うような大
怪我をしようとも、年老いて身動きがとれなくなっても・・・ 私はあなたを決して嫌い
にはならないし、絶対に見捨てはしない!」というのが、「与える愛」の典型的なもので
す。

 また、
 「あなたが何かで困っていたら、何とかして力になってあげたい!」
 「あなたを元気づけてあげたい。」
 「あなたが元気で幸せならば、それで私も幸せだ!」
 と、いうような心情も、「与える愛」を表しています。
 母親の子供に対する愛や、父親の家族に対する愛も、「与える愛」の一種です。

 ところで、「与える愛」について、ここで少し注意を促(うなが)したいと思います。
 「与える愛」とは、たとえば「俺はおまえに愛を与えてやっているのだ!」と、いうよ
うな、自分勝手で不遜なものではありません。
 「与える愛」とは、相手のことを第一に考える愛です。相手の気持ちや、相手の人格を
思いやる愛です。相手のことを本当に理解しようとする愛です。

 反対に、「求める愛」は、本当は自分のことしか考えていません。自分の気持ちが一番
大切で、相手の気持ちや相手の人格は二の次なのです。
 たとえばストーカー行為なども、「相手を非常に愛している」ことには変わりありませ
ん。しかし相手の気持ちと人格を無視した、このような愛の貪(むさぼ)りによって、相
手から愛を与えられることなど絶対にありません。
 いま述べたストーカーの例は極端だとしても、一般的に、自分から愛を貪り取ろうとす
る人間に対しては、警戒心や嫌悪感が起こるのは当然です。
 また逆に、自分を助けてくれた人や、自分に愛や勇気を与えてくれた人、自分をなぐさ
めて元気づけてくれた人に対しては、安心してその人を信頼し、「自分もその人の力にな
りたい!」と思うのが、人間として自然な気持ちです。
 だから「愛」は、貪欲に求めれば求めるほど失い、与えれば与えるほど、逆に与えられ
て増えるのです。

 従って当然のことですが、相手に対して際限なく愛を求めてはなりません!
 なぜなら、その相手の、ものすごく大きな負担になってしまうからです。そんなことを
すれば、確実に愛を失ってしまいます。
 たとえば逆に、あなたは相手に対して、無限に愛を与えることが出来るでしょうか? 
とても出来ないと思います。私もそうです。人間は、それが当たり前です。無限に愛を与
えることが出来る人間など、この世にいるはずがありません。
 たとえば、釈迦やキリストなどのように、地球全体で千年に一人くらいは、そのような
人物が現れるかも知れません。しかし釈迦やキリストといえども、歴史上に実在した彼ら、
つまり死後に神格化される前の、人間として実在した彼らには、無限に愛を与えることな
ど、不可能だったと私は思います。なぜなら、彼らも「人間」だったからです。
 このように、愛を無限に与えることが出来る人間など、この世に存在するはずがないの
です。そのような人物を無理に探し求めようとすれば、怪しげな「偽教祖」に騙(だま)
されてしまうのが落(お)ちでしょう。

 だから、相手から何がなんでも愛を得ようとするのではなく、むしろ逆に、相手に愛を
与えるように心がけるのです。
 相手を思いやり、相手の気持ちを理解し、相手の人格を尊重するのです。そうすれば、
相手も自然に心を開いてくれます。
 相手に好かれようと躍起(やっき)になり、自分の容姿や性格などを悶々(もんもん)
と悩むよりは、相手のことを心から好きになり、相手のことを理解しようと努めるのです。
相手に対して、優しさや安らぎ、元気、勇気を与えられるような存在に、自分からなって
行くのです。そうすれば、相手から信頼と愛情を寄せられること間違いありません。

 以上、述べたように、
 「愛」を増大させるためには、人から愛を貪り取ろうとしてはならず、人に愛を与える
ようにしなければなりません。
 なぜなら、愛は求めれば求めるほど失い、与えれば与えるほど増えるからです。それが
「愛の増減法則」だからです。


16章 愛を与えることが、愛を増大させる本質である
 前の15章で述べたように、「愛は求めれば求めるほど失い、与えれば与えるほど増え
る」という法則がありました。
 ところで、この「愛の増減法則」をさらに探求して行くと、「愛を与えることそのもの
が、愛を増大させる本質である」ということが分かります。

 つまり、前の15章で述べた「愛の増減法則」を理解すると、初めのうちしばらくは、
相手から愛を与えられることを期待して、相手に愛を与えようとします。言うなればギブ
アンドテイクの精神です。
 しかし、その内にだんだんと、「愛の見返りを期待していること」そのものが、愛の増
大を邪魔(じゃま)していることに気がついてきます。
 たとえば、相手から愛の見返りを期待すると、どれくらいの見返りが期待できるのかを
胸算用(むなざんよう)してしまいます。そして、「これくらいの見返りしか期待できな
いのだから、これくらいの愛しか与えないでおこう」などという、打算をしてしまいます。
 また、期待したほどの見返りが得られなかったりすると、失望したり、怒りがこみ上げ
たりします。「私がこれだけ愛を与えているのに、なぜあなたは、それに見合うだけの愛
を与えてくれないのだ!」という、気持ちになってしまいます。
 そうなるともう、「愛を与えることは損だ!」としか、感じられなくなってしまいます。
 だから、愛の見返りを求めて愛を与えようとすれば、結果として「愛」を失ってしまう
のです。
 このようにして、愛の見返りを期待することそのものが、愛の増大を邪魔していること
に気がつくのです。

 ところでまた、過去に私が自己否定に取りつかれていた経験から、「憎むことそのもの
が、苦しみと苦痛である」というのが分かっています。つまり、自分が周囲の人間に対し
て憎しみを向ければ、それがそのまま自分の苦しみと苦痛になるのです。
 たとえば、自分が周囲の人間に憎しみをぶつければ、それだけで、イライラや不安、恐
れ、焦燥などの不愉快な気分が襲って来ます。つまり、「苦しみ」が生じるのです。
 そして、そのような「精神的な苦しみ」が長く続けば、胃腸の調子が悪くなり、よく眠
れなくなって食欲も落ち、体の具合がだんだん悪くなって行きます。精神的な苦しみは、
それだけに止まらず、身体に影響して肉体的な苦痛をも生じさせます。
 このように、「憎むこと」それ自体が、苦悩であり苦痛となるのです。

 ところが、その逆に、自分が周囲の人間を愛せば(愛を与えれば)、それがそのまま自
分の喜びであり、自分の楽しみであり、自分の幸福となります。
 だから自分が、周囲の人間から愛されても、愛されていなくても、そんなことには関係
なく、自分から周囲に愛を与えていくことが、愛を増大させる本質なのです。

 愛は、与えれば与えるほど増えます。
 しかしそれは、「自分が相手に愛を与えることにより、自分も相手から愛を与えられる」
という、ギブアンドテイクの原理が、愛の増大の本質だからではありません。そうではな
く、「愛を与えること」そのものが、愛を増大させる本質だからです。
 一見すると矛盾しているように思えますが、「無償の愛」、「見返りを求めない愛」とい
うのが、最も愛を増大させるのです。


17章 「与える愛」について
 前の16章で述べたように、相手に愛されるかどうかに関わりなく、自分から相手に愛
を与えて行くことが、愛を増大させる本質でした。ここでは、この「与える愛」について、
もう少し詳しく考えたいと思います。

 まず「与える愛」は、相手の思わくに左右されません。
 なぜなら、相手の愛が得られるかどうか、そんなことは全く気にしないで、自分から相
手に愛を与えることが可能だからです。
 「与える愛」を実践すれば、相手の気を引こうと躍起(やっき)になったり、相手の愛
を得ようと必死になって、ビクビクすることがなくなります。つまり、相手の思わくの奴
隷にならないで済むのです。
 相手の考えがすごく気になったり、相手の言うがままになってしまうのは、「愛の見返
り」を求めているからです。愛の見返りを求めると、どうしても、相手に依存してしまい
ます。
 しかし「与える愛」は、見返りを求めません。だから「与える愛」を実践すれば、自己
の精神的な独立を守ることが出来るのです。

 つぎに「与える愛」は、裏切られることがありません。
 なぜなら「裏切り」は、愛の見返りの契約を破ることによって生じるからです。つまり
裏切りは、ギブアンドテイクの約束を守らないことによって生じるからです。
 たとえば、「私がこんなに愛しているのに、あなたは少しも愛してくれない!」とか、
「あなたは、私よりも他の人を愛している!」というのが、「裏切られた!」と感じる時
の心情でしょう。しかしこれは、自分が与えた愛に見合うだけの、愛の見返りが無かった
ので、このように思ってしまうのです。
 せっかく自分が苦労して愛を与えたのに、それがペイしなかったので、怒りや憎悪が込
み上げるのです。しかし、始めから「愛の見返り」を求めなければ、このような感情は起
こりません。ゆえに、「与える愛」に対する裏切りは、原理的にあり得ないのです。

 しかしながら、「恩を仇(あだ)で返される」という場合があるかも知れません。
 せっかく相手に信頼と愛情を寄せていたのに、反対に恨みや憎しみを買ったり、さらに
最悪の場合は、暴行や殺害などの危害を加えられることも、あるかも知れません。しかし
そのような場合でも、「与える愛」に対する裏切りは、原理的に存在しないのです。

 それを明確に証明してみせたのが、キリストです。
 キリストは、貧しい人、病気の人、体の不自由な人、精神を病んでいる人、社会的に差
別を受けている人に対して、愛と癒(いや)しを与え続けました。ところが最後には、
磔(はりつけ)にされて殺されてしまいました。

 周囲の人間に愛を与え続けた結果、その報いが磔による死なのです!

 ところで、十字架につけられた時キリストは、「父(神)よ、彼ら(自分を磔にした人
間たち)をお赦し下さい。自分が何をしているのか知らないのです。」と、言っています。
 そんな状況下にあっても、キリストは決して、「民衆に裏切られた!」というような、
恨みや怒りの感情を持ちませんでした。磔にされた時のキリストは、信頼していた弟子達
には逃げられ、周囲からは罵(ののし)られ、手足を杭で打ち抜かれた激痛に耐えていま
した。しかし、そんな状況でもキリストは、周囲の人間に愛を与え続けていたのです!
 このようにキリストは、「与える愛には裏切りが存在しない!」ということを、自らの
身をもって証明してくれたのです。

           * * * * *

 ここで、「与える愛」について少し整理したいと思います。

 「与える愛」とは、見返りを求めない愛、つまり「無償の愛」です。
 もしも、相手に愛の見返りを求めてしまったら、精神的に相手の奴隷になってしまいま
す。だから「与える愛」は、「精神的な個の自立」を確立する愛だと言えます。

 「相手を無批判に信用すること」と、「愛を与えること」は、別の概念です。
 たとえば、「私を信用しないのは、私を愛していない証拠だ!」などという言葉は、そ
の人間を操(あやつ)ろうとする詭弁です。なぜなら、信用しない相手に対しても、愛を
与えることが可能だからです。
 極端な場合では、敵や、自分を殺すかもしれない相手に対してさえも、愛を与えること
は原理的に可能です。だから「相手を信用すること」と、「愛を与えること」は、別の概
念なのです。
 確かに、「相手を信用してあげること」は、「愛を与えること」の範疇(はんちゅう)
に入ります。しかし「愛を与えること」とは、決して、相手を無批判に信用することでは
ないのです。

 「相手から嫌われないようにすること」と、「愛を与えること」は、別の概念です。
 「愛を与える」とは、相手の機嫌を取ることではないからです。
 また、「相手の考えに自分を無理に合わせること」と、「愛を与えること」も、別の概
念です。これも、「与える愛」とは「ご機嫌取り」のことではないからです。
 自分と違う考え方の人間に対しても、愛を与えることは可能です。そのような人とでも、
お互いの人格を尊重し合うという、「与える愛の関係」は成立するのです。

 なお、「与える愛」とは、「俺は、おまえに愛を与えてやっているんだ!」と、言うよ
うな、自分勝手で不遜なものではありません。「与える愛」とは、相手の人格を思いやり、
相手のことを第一に考える愛だからです。

 「与える愛」は、愛を増大させる本質です。「愛を与えること」は、自分の心の中に愛
を宿し、それを育む行為なのです。


18章 「求める愛」を満たしてくれるもの
 「与える愛」は、愛を最大限に増大させます。
 しかし人間には、「愛を求める欲求」が存在するのも事実です。
 人間には、「限りなく大きな無限の愛で、永遠に愛されたい!」という、ものすごく強
い欲求が確かに存在し、それを否定することは絶対に出来ません。

 しかし「人間」を相手にして、「無限の愛」を求めてはならないのです。
 なぜなら、その人間の、ものすごく大きな負担になってしまうからです。自分の親や子
供、友人、恋人、あるいは妻や夫といえども、愛を無限に求めてはなりません。そんなこ
とをすれば、返って愛を失うことになり、人間関係が壊れてしまいます。

 たとえば、
 自分の妻や夫に対して、「自分だけを無限に愛してほしい!」と、強く望んでそれを強
要したり、
 自分の親に対して、「自分は子供なので、親から無限に愛されて当然だ!」などという、
思い上がった心を起こしたりすれば、
 夫婦関係や親子関係がギクシャクしてしまうのも当然です。

 それは、自分のことを考えてみれば良く分かります。あなたは他人に対して、無限に愛
を与えることが出来るでしょうか? とても出来ないと思います。私もそうです。普通の
人間であれば、それが当り前です。しかしそれは、少しも悪いことではありません。「現
実に生きている人間」には、愛を無限に与えることは不可能だからです。

             * * * * *

 さて、それでですが、
 「求める愛」を満たしてくれるもの、「愛を無限に与えることが出来るもの」、「愛を
無限に求めて良いもの」とは、一体どんなものでしょう?

 それは例えば、「釈迦の慈悲」や「キリストの愛」などのようなものです。
 これらの愛は、現代においても、多くの人々に生きる指針と生きる希望を与え続けてい
ます。つまり釈迦やキリストは、死してなお2000年以上にもわたって、世界中の人々
に愛を与え続けているのです。「愛を無限に与えられるもの」とは、このようなものです。
 もちろん、「現実に生きた人間、歴史上に実在した人物」としての、釈迦やキリストに
は、愛を無限に与えることは不可能だったでしょう。
 だから、「愛を無限に与えることが出来るもの」、「愛を無限に求めて良いもの」、つ
まり「求める愛」を満たしてくれるものとは、生きて存在する人間ではなく、死んでもな
お愛を与え続けることが出来る、「生きた人間を超越したもの」なのです。

             * * * * *

 ところで、そのような「求める愛」を満たしてくれるものとして、以前に13章で述べ
た「大生命の愛」もあります。

 「大生命の愛」とは、大生命が、地球の生命全体を生かそうとする愛。大生命が、40
億年もの長い間、地球の生命を育(はぐく)んできた愛。生物同士の中に存在する、協力
や助け合い。この生命界に充満している愛の全てでした。

 大生命は、限りなく大きな愛で、私たちを包み込んでくれます。
 大生命は、私たちに愛を無限に与えてくれます。
 だから大生命には、愛を無限に求めて良いのです!

             * * * * *

 さらにまた、「求める愛」を満たしてくれるものとして、以前に14章で述べた「神の
愛」もあります。

 ところで神とは、「この世を、この様にしているもの」でした。
 そして、この宇宙には無限と言えるほど、じつに多くの「事物」が存在しています。こ
の世は、そのようになっています。
 それは神が、それら事物の存在を志向し、それら事物の存在を望み、それら事物の「存
在を肯定している」からです。

 そして以前に13章で述べたように、「存在の肯定」とは「愛すること」でした。だか
ら神は、この宇宙に無限に存在する、全てのものを愛しています。それが「神の愛」でし
た。

 神は、限りなく大きな愛で、私たちを包み込んでくれます。
 神は、私たちに愛を無限に与えてくれます。
 だから神には、愛を無限に求めて良いのです!

             * * * * *

 以上をまとめると、
「求める愛」を満たしてくれる候補として、釈迦の慈悲、キリストの愛、大生命の愛、神
の愛が挙げられます。


19章 「最高の愛」の感覚
 私が40歳ぐらいになった時のことです。
 静かな部屋で瞑想をすると、「愛の感覚」が生じるようになりました。しかも、その
「愛の感覚」を、どんどん高めて行くことも出来るようになったのです。
 この「愛の感覚」とは、私の中に「愛」が生じたときに感じる、「心の感覚」と「体の
感覚」の両方のことです。
 その「愛の感覚」を、どんどん高めて行くと、ついに「愛の感覚が最高に高まった状態」
になりますが、それが「最高の愛」の感覚です。

 ところで私は、盲目的で理性の伴わない「感覚だけの愛」は、大変に危険だと考えてい
ます。しかしながら私は、
 「愛の感覚」というのは、どこまで高めることが出来るのか?
 「最高の愛」の感覚とは、一体どんなものなのか?
ということを、無性(むしょう)に探求したくなるのです。この欲求に駆られるとき、自
分が何か「見えない力」に導かれているような気さえします。たぶんこれは、食欲や性欲
と同じような、「生命の根源的な欲求」なのかも知れません。

             * * * * *

 さて、瞑想に入り、まず最初に訪れる「愛の感覚」は、最愛の異性と「ギューッ」と抱
きしめ合って、「身も心もひとつに溶け合ってしまいたい!」と、いうような感覚です。
あるいは、「愛する異性に、自分の身も心も全てを捧げたい!」と、いうような感覚です。
 この「愛の感覚」は男女の愛ですが、しかし、単なる「肉体的な性欲」を既に超越した
愛です。なぜなら、心はすごく高揚しているのですが、官能的な肉体の反応(男性で言え
ばペニスの勃起)が存在しないからです。
 しかしながら、胸が「キュン」としたり、「ジーン」としたり、「ドキドキ」したり、
「ワクワク」したりして、めくるめくような、とろけるような幸福感があります。
 また、全身に生命のエネルギーが満ちあふれて、手や足が「ジンジン」とします。体の
全体がほんわかと温かくなり、少し頭に血が上って「ポーッ」とします。
 そして全身が、温かくて優しい愛の雰囲気(愛の光や波動)に包まれている感じがする
のです。

 このように私の場合、「愛の感覚」が生じる最初の段階は、「異性に対する愛」から始
まります。
 しかし、この「愛の感覚」は、単なる肉体的な性欲よりも「高い次元の愛」であるのは
確かです。なぜなら、このような精神状態のときに、異性との性行為などの「肉欲的な連
想」をすると、返って「愛の感覚」が消滅し、心がしらけてしまうからです。

 ところで、以上のような「愛の感覚」をつかむためには、多少の「性的な禁欲」が必要
かも知れません。というのは、性欲を少しも我慢せずに、「性的なエネルギー」を直ぐに
放出してしまうと、「愛の感覚」を高めるためのエネルギーが消耗してしまうからです。
 しかし「禁欲」とは言っても、性欲を頭ごなしに抑えつけるのではありません。性的な
エネルギーを、心を上昇させるためのパワーに転化するのです。つまり、自分の心を抑え
つけるのではなく、性欲のパワーで心をどんどん上に押し上げるようにするのです。だか
らこの「禁欲」には、心を抑圧したときに生じる、胸や喉や息のつまるような「鬱屈(うっ
くつ)感」がありません。
 「愛の感覚」の正体は、実は「性欲を昇華したもの」ではないかと、私は考えています。

 さて、「愛の感覚」がさらに高まると、上で述べた「異性とひとつに溶け合いたい!」
という感覚が、赤ん坊や子供に対しても感じるようになります。
 「異性が愛しい!」というのと同じような感覚が、赤ん坊や子供に対しても起こるので
す。赤ん坊や子供を、「ギューッ」と抱きしめたくなってしまいます。私に子供はいない
のですが、「目の中に入れても痛くない!」というのは、このような気持ちなのかも知れ
ません。
 さらには大人や老人にも、親密な感情が起こって来ます。そして、病人や怪我人、体の
不自由な人、精神的に苦しんでいる人、戦争や飢えに苦しんでいる人たちに対して、
 「何とか元気づけてあげたい!」
 「苦しみを取り除いてあげたい!」
 「自分の愛のエネルギーを、注いであげたい!」
と、いうような感情が起こって来るのです。もちろん、それら全ての人を救うのは不可能
ですし、自分が実際にできることは非常に限られています。しかし、心の底から湧き出る
エネルギーのようなものが、そのような感情を起こさせるのです。
 ところで、以上のような愛の感覚、つまり「隣人愛」や「人類愛」は、「異性に対する
愛」よりも高い次元の愛であるのは確かです。
 なぜなら、このような精神状態の時に、「一人の異性だけを、命を懸けて愛する!」と
いう思いを起こしてみると、何か二人だけの狭い世界に閉じこもっているだけのような
「窮屈(きゅうくつ)さ」を感じるからです。そして、「異性への愛」だけに閉じこもる
のは、所詮(しょせん)はエゴイズムの延長でしかないような気がして、「愛の感覚」が
消え去ってしまうからです。

 さて、「愛の感覚」がさらに高まると、動物や植物を含めた「地球の生命全体」と一つ
につながり、それらと一体になりたいという感覚になります。
 鳥も獣も魚も草も花も木も、全ての生命が愛しく感じられます。そして全ての生命と、
愛を分かち合いたくなります。
 自分が生きていることと、この地球に生命が存在することが、嬉しくて嬉しくて仕方が
なくなります。そしてそれが、涙がでるほど有難く感じて来ます。
 ところで・・・ 生命には、怒りや憎しみ、エゴイズム、闘争、殺し合いなどの「悪」
の性質が存在します。しかし、それら「生命に存在する悪の性質」をも含めて、「生命」
というものの存在を、認めることが出来るようになります。
 もちろん、「生命に存在する悪の性質」を容認する訳ではありません。しかし、それを
理由にして、「生命なんか滅んでしまえば良いのだ!」というような、生命を否定する気
持ちが起こらなくなるのです。
 とにかく、ただひたすら、全ての生命の平和と幸福が、自分の望みの全てになるのです。

 そして、「愛の感覚」がさらに高まった状態が、私の体験した「最高の愛の感覚」です。
 この状態になると、精神が高いレベルの一点に「ギューッ」と集中して、何も考えられ
なくなります。つまり思考が停止して、「頭が真っ白」になるのです。
 そして思考が停止するので、感情も静まります。だから、心が非常に安定して来ます。
もう、「ドキドキ」も、「ワクワク」もしません。
 しかし精神の状態は、非常に高いレベルに高揚し、一点に集中しています。そして体の
全体に、「ジンジン」とした生命のエネルギーが満ちあふれます。さらには、優しく温か
な愛の雰囲気(愛の光や波動)に、全身が包まれます。
 このような精神状態になると、もう、「愛している!」とか「愛を与えたい!」という
気持ちが消滅してしまいます。
 そして、「これで良し!」、「全て良し!」、「あるがままで良し!」という、感じが
するのです。
 ところで、言語による思考が生じると、このような「最高の愛の感覚」から脱落してし
まいます。だから、言語によらない感覚として、「これで良し!」という感じがするので
す。つまり、心が求めている最大の欲求と、心の状態がぴったりと一致し、大変な満足と
幸福を感じるのです。
 また、自分自身に対する執着も消滅してしまい、ことさらに小賢(こざか)しいことを、
何もする気が起きなくなります。そして、「なるようになる!」とか、「すべてを神に任
せれば良い!」と、いう気持ちになるのです。

 このように、「最高の愛の感覚」になると、思考が止まり、感情が静まり、心が穏やか
に安定します。
 しかしそれは、生きているのか死んでいるのか分からないような、無気力で虚無的な状
態。つまり、「心が死んでいる状態」とは、まったく異なる状態です。なぜなら、精神と
肉体は高揚し、生命のエネルギーが心身に満ちあふれているからです。そして全身が、優
しく温かな愛の雰囲気(愛の光や波動)に、包まれているような感覚が存在するからです。

 ちなみに、キリスト教でいう「神の国」とか、仏教でいう「涅槃(ねはん:ニルヴァー
ナ)」とか、あるいは「宇宙との一体感」というのは、おそらく、このような「最高の愛
の感覚」になった状態を言うのではないかと、私は思っています。



 つづく



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