愛について 3
2024年9月15日 寺岡克哉
10章 「キリスト教の神」の愛
「キリスト教の神」の愛については、イエス・キリストが説いた以下の言葉として、新
約聖書に記述されています。
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空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あな
たがたの天の父は鳥を養ってくださる。
野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、
言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。
今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださ
る。 (マタイによる福音書 6章26-30)
父(神)は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせ
てくださる。 (マタイによる福音書 5章45)
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上の記述によると、「キリスト教の神」の愛とは、鳥を養ったり草花を育てたりする愛
であること。また、日光や雨の恵みを与えてくれる愛であることが分かります。
つまり、「キリストの神」の愛とは、生命を育む地球環境や、地球の生態系のようなも
のだと言っているのです。
また、上の聖書の言葉は、「キリスト教の神」の愛が、鳥にも、草花にも、善人にも、
悪人にも、生きとし生きるもの全てに対して、分け隔てなく与えられる愛であることを表
しています。
このような意味で「キリスト教の神」の愛は、前の9章で述べた「慈悲」と、たいへん
よく似た概念であるように思います。
ところで「キリスト教の神」の愛は、太陽や雨のようなもの。つまり日光や水のような
もので、ことさらに私たちをどうこうしようというような、「積極的な意志」を持ってい
ないように私は感じています。
つまり「キリスト教の神」の愛を、あえて強引に言語化して表現してみると、
「私は、お前たちを愛しているのだ!」とか、
「私は、お前たちに愛を与えているのだ!」
「私は、植物も動物も人間も差別しないし、善人も悪人も差別しない!」
というような、「積極的な意志」があるのではなく、
「お前たちが生きるために必要なものは全て与えてある。」
「お前たちに、幸福と喜びを感じる能力と、不幸と苦しみを感じる能力も与えてある。」
「あとは、お前たちが有意義に生きようと、無駄に生きようと、それは全てお前たち次
第なのだ!」
と、言っているような気が私にはするのです。
以上のように、
「キリスト教の神」の愛は、私たちに必要なものを与え、あとはそっと見守るだけです。
「キリスト教の神」の愛を、生かすも殺すも、その全ては私たちにかかっているのです!
11章 愛と慈悲
ここでは、キリスト教が説く「愛」と、仏教が説く「慈悲」について、比較検討したい
と思います。
まず、キリスト教が説く愛は、自分の死をも恐れないような「強くて激しい愛」という
イメージを私は持っています。それはたぶん、イエス・キリストが「愛のために十字架に
つけられて死んだ!」という印象が強いからだと思います。
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「イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わ
たしたちは愛を知りました。だから、わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです。」
(ヨハネの手紙1 3章16節)
「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」
(ヨハネによる福音書 15章13節)
「愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します。なぜなら、恐れは罰を伴い、恐
れる者には愛が全うされていないからです。」
(ヨハネの手紙1 4章18節)
「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」
(マタイによる福音書 22章37節)
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これら上の聖書の言葉は、キリスト教の説く愛が「強くて激しい愛」であることを示し
ています。
力の限りをつくして「神」を愛し、「神の無限の愛」と自分がひとつになること。
それによって、死をも恐れないような「愛の無限のパワー」を神からもらうこと。
これが、キリスト教が説く愛の、力の秘密だと思うのです。キリスト教が説く愛は、爆
発的なパワーを発揮する愛なのです。
たしかに、「神」を力のかぎり誠心誠意に愛すると、心が高揚して元気が出てきます。
生きる力や、生きる勇気が湧いてきます。憂鬱(ゆううつ)になって生きる元気が出ない
人や、絶望のどん底にいるような人に対して、神は「生きるエネルギー」を与えてくれま
す。これが、キリスト教が説く愛の、優れているところだと思います。
しかしキリスト教が説く愛には、弱点というか、弊害(へいがい)もあります。
それは、愛の感情が高まりすぎて暴走すると、理性的な思考や判断ができにくくなって
しまうところです。
その実例として、たとえば魔女狩りや、宗派対立、宗教戦争に走ってしまったのは、キ
リスト教における黒い歴史となっています。
* * * * *
つぎに、仏教が説く「仏の慈悲」について、考えてみたいと思います。
「慈悲」については以前に9章で述べましたが、ここでは、それとは少しニュアンスの
違う「仏の慈悲」について述べます。
しかしその前に、「仏」の意味をちょっと整理したいと思います。というのは、「仏」
にはいろいろな意味があって、そのままでは話が混乱する恐れがあるからです。
まず、「仏」の本来の意味は、インドの言葉で「めざめた人」とか「悟った者」という
意味の「ブッダ」と発音する語に、「仏」の字を当てたものです。だからこの場合の「仏」
とは、実際に生きて存在する人間のことです。
また、死んでしまった人も「仏」と言います。なぜ死んだ人間を「仏」というのか私は
知りませんが、日本では死者のことを「仏」といいます。
そしてまた、観音菩薩(かんのんぼさつ)や、阿弥陀如来(あみだにょらい)も、「仏」
といいます。この場合の「仏」は、天上にいる「神」とほとんど同じ概念です。
しかし上で挙げたものは、ここで述べようとする「仏」とはちょっと違うのです。
私が述べたい「仏」とは、以下に挙げる「座禅和讃(ざぜんわさん)」の冒頭部分にあ
るようなものです。
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衆生(しゅじょう)本来仏なり
水と氷のごとくにて
水をはなれて氷なく
衆生の外(ほか)に仏なし
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上の座禅和讃でいう「仏」とは衆生。つまり、生きとし生きるものすべてを含めた「地
球の生態系」だと言っています。「仏」には、このような意味もあるのです。
「仏」をこの意味でとらえれば、仏の慈悲とは、「生命全体の中に満ちあふれている愛」
というイメージが出てきます。
天から人間を見下ろすような「神の人間に対する愛」ではなく、はるかなる高みを求め
て恋い焦がれるような「人間の神に対する愛」でもない。
地球の全ての生命が、お互いに手と手を取りあって助け合い、みんなが同じ身のたけの
高さで愛し合うこと。あくまでも、「生命どうしの関係」の中に存在する愛。
10章で述べた「神の愛」は、天のはるか高いところで輝いているような感じがします
が、「仏の慈悲」は、自分の周囲のすぐ目の前にあるような感じがします。
私は、「仏の慈悲」に対して、そのようなイメージを持っているのです。
一般に「慈悲」は、キリスト教が説くような強くて激しい愛ではなく、「穏やかで落ち
ついた愛」のように思います。そして広い大地のように、どっしりと地に足がついた愛の
ように思います。
だから「慈悲」は、愛の感情が暴走する恐れがありません。そこが「慈悲」の優れてい
る所です。しかしキリスト教が説く愛に比べると、「慈悲」はパワフルさに欠けるのが弱
点だと言えるでしょう。
* * * * *
生きる元気が出ないときや、絶望のどん底にいるときは、やはり「キリスト教が説く愛」
を求めるのが良いかと思います。それによって心が高揚し、生きる力や、生きる希望や、
生きる勇気が湧いてくるからです。
反対に、心が高揚しすぎて愛の感情が暴走しそうなときは、「仏の慈悲」を求めるのが
良いと思います。そうすると、心が穏やかに安定するからです。
キリスト教と仏教の両方に頼るなんて、無節操な感じがしないでもありません。
しかし人類には、「キリスト教が説く愛」も「仏教が説く慈悲」も、その両方が必要で
あると、私はどうしても思ってしまうのです。
12章 植物の愛
植物は、全ての動物に食物を与えています。たとえ肉食動物といえども、植物に養われ
ています。なぜなら、肉食動物が餌にしている草食動物は、植物を食べて生きているから
です。もちろん虫や鳥も、植物に養われています。
また海の動物も、植物(海草や植物性プランクトン)に養われています。サンゴのよう
なものでさえ、海の植物に養われているのです。ウニやヒトデ、貝、魚類、クジラやイル
カなど、全ての海洋動物も同様です。
そして植物は、動物に食べられても、決して不平や不満を言いません。植物は黙って食
べられるのみです。それでいて、全ての動物に命を与え続けているのです。
そしてまた、地球に81億人(2024年の時点)もの人類が生きられるのも、米や麦
などの穀物のおかげです。たとえ食肉用の牛や豚といえども、結局は植物によって育てら
れているから、人類が生きていけるのも、全て植物のおかげなのです。
また、植物は光合成によって酸素を作っています。動物が呼吸できるのは、植物が酸素
を作ってくれるからです。魚類は水中でエラ呼吸をしますが、これは水に酸素が溶けてい
るからで、その酸素も植物が作っています。
さらに酸素はまた、大気の上空でオゾン層を作り、太陽の紫外線をさえぎっています。
太陽の紫外線は、生物にとって非常に有害なものです。たとえば洗濯物を野外で乾すと紫
外線殺菌ができますし、日焼けも度を越すと皮膚ガンを誘発します。それでも何とか動物
が陸上に住めるのは、オゾン層が紫外線の大部分をさえぎってくれるからです。オゾン層
が作られる前は、生物は水中だけにしか住めませんでした。水は紫外線をさえぎるからで
す。つまりオゾン層がなければ、生物は陸上に進出することが出来なかったわけです。当
然、人類の出現も不可能でした。
以上のように、すべての動物に食料と酸素を与え、地上の生物を太陽の紫外線から守っ
ているのが「植物の愛」です。
「植物の愛」は、とても大きなものであり、私たち人類も、この愛に頼って生きていま
す。もしも地球から植物がなくなれば、人類は、食事はおろか、呼吸一つさえも出来なく
なってしまいます。私は、このことに感謝し、つねに「植物の愛」を忘れないようにした
いと思っています。
13章 大生命の愛
大生命とは、「地球のすべての生命を含む、地球の生態系」です。
「大生命」は、細菌、プランクトン、昆虫、植物、動物、人間を含めた、地球のすべて
の生命から出来ています。
そして、これらすべての生命は、いろいろな関係で一つにつながり、「一つの生命維持
システム」を作っています。その生命維持システムが「大生命」です。
たとえば植物は、二酸化炭素から酸素を作ります。逆に動物は、酸素を吸って二酸化炭
素を出します。そして動物の出した二酸化炭素は、ふたたび植物に使われます。このよう
に、植物と動物はつながっています。
また「食物連鎖」では、植物が草食動物に食べられ、草食動物が肉食動物に食べられま
す。また逆に、動物のフンや死体は、虫や細菌によって分解され、植物の肥料になります。
このように食物連鎖は、すべての生命を一つに結びつけています。
以上のように、地球のすべての生命がつながり、「一つの生命維持システム」を作って
います。それが「大生命」なのです。
いま述べたように大生命は、「地球の生態系」であり、「地球の生命維持システム」な
ので、地球の全ての生命を、生きられるだけ生かそうとします。また大生命は、地球上に
出来るだけ多種多様な生命を育もうとします。さらに大生命は、新しい生命を生み育て、
世代交代をすることによって、地球の生命を永遠に存続させようとします。
つまり大生命は、生命の存在を望み、生命の存在を願い、生命の「存在を肯定」してい
ます。そして事実、大生命が、生命の「存在を肯定」しているから、地球の生命は40億
年もの長い間、存在し続けてきたのです。
ところで「存在の肯定」とは、じつは「愛すること」です。
なぜなら、たとえば愛する人、愛する家族、愛する国、愛する自然、愛する地球など、
これら「愛するもの」はみな、その存在を望み、その存在を願い、その「存在を肯定」す
るからです。
その逆に、「存在の否定」とは「憎むこと」です。
なぜなら、たとえば憎い人間、憎い組織、憎い国、憎い伝染病など、これら「憎いもの」
はみな、その消滅を望み、その消滅を願い、その「存在を否定」するからです。
このように、「存在の否定」が「憎むこと」であるのを考えれば、「存在の肯定」が
「愛すること」であるのが、納得できるかと思います。
ゆえに、「存在の肯定」とは「愛」なのです。
さて、上で述べたように、大生命は、地球に生きる全ての生命の存在を肯定します。そ
して「存在の肯定」とは愛なので、大生命は「地球の全ての生命を愛している」といえま
す。これが「大生命の愛」です。
たとえば、
地球の全ての生命を生かそうとする、大生命の働き。
出来るだけ多種多様な生命を育もうとする、大生命の働き。
生命を永遠に存続させようとする、大生命の働き。
これら「大生命の働き」の全てが、「大生命の愛」なのです。
酸素や食料の供給も、すべて「大生命」の働き、つまり「大生命の愛」によるものです。
だから大生命の愛が存在しなければ、私たち全ての生命は、絶対に生きることが出来ませ
ん。
「大生命の愛」が全く存在しない場所とは、たとえば「宇宙空間」です。宇宙空間には
酸素がなく、もちろん食料もありません。だから、生身の体で宇宙空間に放り出されれば、
私たちは直ぐに死んでしまいます。
このように、「大生命の愛」が存在しなければ、私たちは10分たりとも生きてはいら
れないのです。
* * * * *
ところで大生命とは、「地球のすべての生命を含む、地球の生態系」でした。だから当
然ながら、自分も大生命に含まれます。つまり大生命は、その一部として、自分を受け入
れています。
また大生命は、「一つの生命維持システム」でした。だから大生命は、自分に酸素や食
料を供給することにより、自分が生きることを認めています。
そして大生命は、上で述べた「大生命の愛」によって、自分を愛してくれます。
さらに大生命は、地球に生命が誕生して以来、40億年も存続しています。
つまり大生命は、自分を受け入れ、自分を認め、自分を愛してくれます。しかも大生命
は、そう簡単に消滅することはなく、これまで40億年も存在し続けてきました。
ゆえに大生命は、以前に2章で述べたように、他人や会社などより絶対で確実な「自己
存在の拠り所」となるのです。
14章 「私が定義した神」の愛
神とは「この世を、この様にしているもの」と、私は定義しています。
ただし「この世」とは、人間や人類社会、生命、生態系、地球、そして太陽系や銀河系
を含めた、「宇宙全体」のことをいいます。
また、「この様に」しているものというのには、「この様な存在」にしているもの、
「この様な状態」にしているもの、「この様な状況」にしているものの、3つの意味が含
まれています。
つまり神とは、人間や人類社会、生命、生態系、地球、太陽系や銀河系を含めた宇宙全
体を、この様な存在にし、この様な状態にし、この様な状況にしているものです。
この、私が定義した神を、すこし具体的に表現してみましょう。そうすると例えば、
神とは、およそ140億年前に、ビッグバン(宇宙の始まりの大爆発)によって、この
宇宙を誕生させたものです。
神とは、ビッグバンの莫大なエネルギーから、素粒子や原子、つまり物質を作り出した
ものです。
神とは、宇宙の星間物質から、恒星や銀河、太陽系、そして地球を作ったものです。
神とは、地球に生命を誕生させ、それを進化させて、人類を誕生させたものです。
神とは、様々な自然法則や、様々な因果関係や、様々な偶然や必然を司るものです。
ところで、この宇宙に存在するものは、すべて「神の働き」によって存在しています。
この「神の働き」とは、時間や空間、エネルギー、物質、そして生命などを存在させて
いる、大自然の力、大自然の作用、大自然の法則、大自然の摂理などのことです。
つまり「神の働き」とは、この宇宙に存在する、ありとあらゆるものを存在させている
働きです。
具体的には例えば、
太陽の引力によって、地球が太陽に落ちてしまわないこと。
太陽がすぐに燃え尽きないで、100億年も輝き続けること。
原子核の周りの電子が、電気的な引力によって原子核に吸収されなかったり、原子核の
中の陽子と陽子が、電気的な反発力によって飛び散らないこと。
これら、上に挙げた事実は、
地球が地球として存在すること。
太陽が太陽として存在すること。
原子が原子として存在すること(つまり物質が物質として存在すること)。
そのためには、大自然に存在する何らかの力や作用、法則、摂理などが、それら地球や
太陽や物質の「存在を支えていること」を示しています。それが「神の働き」です。
ところで一方、この宇宙には無限と言えるほど、じつに多くの「事物」が存在していま
す。
それは神が、それら事物の存在を志向し、それら事物の存在を望み、それら事物の「存
在を肯定」しているからです。つまり「神の働き」は、「存在を肯定するように働く」の
です。
その反対に、もしも神が「存在を否定」していたら・・・ つまり、大自然の法則や摂
理によって、「存在」という事象が否定されていたら、この宇宙に、こんなに多くの事物
が存在するわけがありませんし、そもそも、この宇宙さえも存在しなかったでしょう。
ゆえに、神が「存在を肯定」しているのは、絶対に否定できない事実です。
ところで前の13章で述べたように、「存在の肯定」とは「愛すること」でした。
だから神は、この宇宙に無限に存在する、全てのものを愛しています。
それが「神の愛」です。
つまり、あなたや私を含めた、宇宙に存在する全てのものは、神に愛されているから存
在できるわけです。
* * * * *
ところで「私が定義した神」とは、「この世を、この様にしているもの」でした。
だから自分も、「この世を、この様にしているもの」の一部であり、神はその一部とし
て、自分を受け入れています。
また神は、この世に自分を存在させることによって、自分が生きることを認めています。
そして神は、自分の存在を肯定しているので、自分を愛しています。
さらに神は、この世に宇宙が誕生して以来、いや、それ以前の無限の過去から、永遠に
存在しています。なぜなら様々な自然法則や、様々な因果関係や、様々な偶然や必然が、
無限の過去から働いてきた結果として、140億年前にビッグバンが起こったはずだから
です。
つまり神は、自分を受け入れ、自分を認め、自分を愛してくれます。しかも神は、消滅
することなく永遠に存在します。
ゆえに神は、以前に2章で述べたように、他人や会社などより絶対で確実な「自己存在
の拠り所」となるのです。
つづく
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