愛について 2
2024年9月8日 寺岡克哉
5章 恋愛について
「愛」といえば、大多数の人が「恋愛」を連想するのではないでしょうか。
恋愛は、ものすごく強い感情を伴(ともな)います。
いちど恋愛に取りつかれると、もう大変です。冷静さが完全に吹き飛んでしまいます。
たとえ火の中、水の中。相手のためなら何でもしたくなります。
二人だけの世界に入り込み、相手のこと以外は何も考えられなくなります。目と目を見
つめ合うだけでお互いの全てが分かり、二人が完全に一つになったように感じます。
相手のために、自分の人生も自分の命も、その全てを捧げたくなります。世の中の全て
がバラ色に見え、毎日が熱にうかされているようになります。
実際、人生において恋愛ほど強い幸福を感じさせるものは、そう、ざらにはないと思い
ます。まるで麻薬のようです。恋愛中毒という言葉さえあります。
このため、多くの人達によって、恋愛の価値は大きく取り上げられて来ました。詩、小
説、演劇、映画、テレビドラマ、コミック、アニメ。どれを取っても、恋愛をテーマにし
ていないものはありません。
さらに恋愛は、お金にもなります。よく売れる小説や、興行収益の高い映画などには、
恋愛をテーマにしたものが少なくありません。
また、化粧品がよく売れたり、ダイエットや美容形成、ファッションなどが流行するの
も、「男性の心を惹(ひ)きつけたい!」という女性の本能が、深層心理に刻み込まれて
いるからだと思います。
また男性も、女性の気を惹くために車を買ったり、高価な品物を女性に贈ったりします。
そして、そのために、一生懸命に金を稼ごうとする男性も少なくありません。
このように恋愛は、人間が求める幸福感と、経済活動とが密接に結びついています。こ
の理由から、コマーシャリズムによって恋愛は過剰に煽(あお)り立てられて来たように
思います。
その結果、恋愛の本来の意味は見失われ、歪(ゆが)められてしまいました。恋愛の幸
福感だけを求めるような、恋愛のための恋愛といえるものが蔓延(まんえん)しているよ
うに思います。
恋愛の相手を次々と替えたり、結婚後に不倫の恋をしたり・・・・・
そんなことに、あまり罪悪感を持たない世の中になって来たように思います。そして、
不倫による離婚や家庭崩壊、三角関係のもつれによる傷害や殺人、周囲から認められない
恋愛による自殺や心中・・・などのトラブルを招いています。
「家庭を壊してなにが愛か!」
「人を殺してなにが愛か!」
「自殺や心中をしてなにが愛か!」
・・・という思いが、私の心を駆け巡(めぐ)ります。
そもそも恋愛の本来の目的は、異性同士を結びつけて、子供を作らせることにあります。
そのために、男性と女性は惹(ひ)かれあうように作られているのです。
これは、何億年も続いてきた生命のシステムです。男性と女性が惹かれあう感情は、明
らかに個人の自由意志を超えています。自分の意志とは関わり無く、惹かれる異性には惹
かれてしまうのです。
そして結婚して子供が出来れば、恋愛感情は消失します。恋愛の本来の目的が達成され
たからです。これも本人の自由意志とは関係なく、恋愛感情は消失してしまいます。
このような意味では、恋愛感情も、食欲や性欲とそう変わりません。恋愛は生理的な欲
求なのです。食欲や性欲は、目的が達成されれば消失します。それは恋愛も同様です。
「結婚は人生の墓場」などという言葉も、そのことを示しているのだと思います。
恋愛は、子孫を残すために自然から与えられた感情です。有性生殖を行うために、生物
が生命進化で獲得した感情です。ゆえに恋愛は、生命の成長と発展のためにあります。そ
れが生命の摂理であり、生命の法則です。
ところが、快楽や幸福感を貪(むさぼ)るだけの恋愛は、この生命の摂理に背いていま
す。だから、いくら恋愛をもてはやそうとも、生命の摂理に背くならば、それを認める訳
にはいきません。
不倫による家庭崩壊、三角関係による傷害や殺人、自殺、心中・・・
こんなことを起こすような恋愛は、いくら恋愛の価値を崇高に持ち上げようとも、それ
を認める訳にはいかないのです。
しかし、その一方で、恋愛は自然から与えられた人生の恵みです。この恵みを自然から
受け取ることに私は反対しません。
しかし恋愛を貪ってはいけないのです。恋愛の幸福感だけを貪ろうとするのは、人間の
自分勝手な思惑です。自然は、そんなことを許していません。
恋愛感情は、その役目が終了すると消えてなくなります。それが生命の摂理なのです。
そして恋愛を卒業したら、責任のある落ち着いた愛に成長しなければなりません。
もはや恋愛感情が消失し、相手の嫌な所が目についても、人生に対する考え方が異なっ
ていても、我慢するところは我慢して、お互いの人格を尊重しなければなりません。つま
り恋愛は、相手に対して思いやりと責任を持った「理性的な愛」へと、成長しなければな
らないのです。
「死ぬほど好きなあなたを、命を懸けて愛します!」
このような恋愛感情は、非常に強い愛の感情ではあります。しかし、一時の本能的な感
情にすぎません。理性が伴わない動物的な感情です。お互いの人格を思いやらない、自己
中心的で幼い感情です。だからこの強い愛の感情は、壊れやすくて脆弱(ぜいじゃく)な
のです。
盲目的な恋愛は、ちょっとした何かのきっかけで、すぐに怒りや憎しみ、嫉妬(しっと)
に転化してしまいます。そして暴力や殺傷事件、あてつけの自殺などを引き起こしてしま
います。これらのことが起きるのは、相手の人格を思いやっていない証拠です。「好きだ
から殺したんだ!」などという言葉も、その典型的な例です。
このように恋愛は、お互いの人格を尊重し、お互いに思いやりと責任を持った「理性的
な愛」へと成長させなければ、大変な不幸と苦しみを招いてしまう場合が多々あるのです。
6章 性愛について
性愛(セックス)も、たいへん強い感情を伴(ともな)います。
性愛は、直接の生殖行為です。性愛は、子孫を残し、種族を維持するためにあります。
すべての人間は、性愛によって生まれました。性愛がなければ、人類は絶滅してしまい
ます。
性愛によって人が生まれなければ、文明、文化、歴史、政治、経済、学術、芸術、芸能、
スポーツなど、これら人類の営みの全てが成り立たなくなってしまいます。過去の偉大な
人物も、全て性愛によって生まれました。それほどまでに、性愛は大切なものです。
しかしながら、性愛は大きな快楽を伴い、また、お金にもなります。そのため、性愛は
コマーシャリズムによって過剰に煽(あお)り立てられています。その異常に煽り立てら
れた性欲に振り回されて、無責任な性愛に走る人間も少なくありません。そして色々なト
ラブルを招いています。
不倫による家庭崩壊、望まない妊娠による中絶・・・。
最悪の場合は、情死、妊娠を苦にしての自殺、生まれてしまった赤ちゃんを殺してしま
うこと・・・などが挙げられます。
また、異常に駆り立てられた性欲によって、少女買春や婦女暴行、強姦殺人などの犯罪
も起こっています。
今の世は、
ドブ川のヘドロのような汚いものを、
「愛だ!愛だ!」と、騒いでいる。
家庭を壊して何が愛か!
胎児を殺して何が愛か!
性愛は、恋愛の末に到達するのが本来の姿です。性愛は恋愛以上のものです。
妻あるいは夫、さらには生まれて来るであろう子供のために、自分の人生を捧げようと
決意する愛です。ものすごく大きな責任を伴う愛です。
恋愛は、性愛に比べるとまだ無責任で良いのです。「生涯を捧げるのにふさわしくない
相手だ」と、お互いに了解したならば、恋愛の場合は相手を替えてもまだ許されるのです。
なぜなら、生殖行為という「生命の契約」が、まだなされていないからです。性愛は、
相手との生命の契約を通して、一生の責任を担う愛なのです。
しかしながら、恋愛以下の性愛もたくさんあります。ただ快楽を貪(むさぼ)るだけの
性愛や、金を得るための性愛です。このような性愛には、恋愛感情がなく、相手の人格を
尊重することもなく、子供を生み育てる意志もありません。
そんなものは、動物の交尾以下の行為です。なぜなら動物の交尾は、子を生み、種を保
存するために行われるからです。動物の交尾の方が、生命の正しい目的のために行われて
いるからです。
生きて行くため、自分の子供を飢えさせないために、仕方がなく性愛によって金を得る
女性の場合があります。本当に飢え死にしてしまい、それしか生きる方法が無いのならば、
この場合の性愛は生命の目的に適っていると、まだ言うことが出来ます。しかしながら、
太平洋戦争の敗戦直後のような貧しい時代ならいざ知らず、飽食の時代といわれる現代に
おいて、そのような理由はもはや通用しません。
ところで、「快楽や金を得るための性愛がなぜ悪い!」とか、「他人に迷惑はかけてい
ない!」などと、言う人がいるかも知れません。しかしそれは間違っています。
快楽や金を得るための性愛は、悪いのです!
なぜならそれは、生命の尊厳を蔑(ないがし)ろにしているからです。生命を弄(もて
あそ)んでいるからです。生命の摂理に背いているからです。生命をバカにしているから
です。
性愛は、「生殖行為」という、生命の生まれる根源的な営みです。
快楽や金を得るための性愛は、「繁殖」という生命にとって大切な目的を、完全に愚弄
(ぐろう)しています。生命の根源的な営みを、蔑ろにし、踏みにじり、貶(おとし)め
ているのです。
生命の根源的な営みを貶めれば、それは生命の価値も貶めることになります。ひいては、
自分の存在価値や、自分の存在意義も貶めることになるのです。
だから、このようなことを長く続ければ、生きる意義を失い、生きていても面白くなく
なります。生きる意欲が喪失し、生きているのが辛くなって行きます。生きることの意味
が、だんだんと分からなくなって行きます。つまり「生命が暗くなる」のです。
快楽や金を得るための性愛は、生命の根源的な営みを踏みにじることによって、生命の
存在意義も、生きる意味も、踏みにじる行為です。
この「生命の踏みにじり」は、たぶん無意識のうちに、深層心理に徐々に焼きつけられ
て行くのだろうと思います。
顕在(けんざい)意識では、性愛による快楽を思う存分に楽しんでいるはずです。しか
し快楽や金のための性愛を長く続けていれば、生きていても面白くなくなって行きます。
生き生きとしなくなって行きます。目の輝きが失われ、生命が暗くなって行きます。
これは、無意識の深層心理の中に、生命の踏みにじり、生命に対する愚弄が、徐々にで
はありますが、しかし深く刻み込まれて行くからではないかと、私は考えています。
だから、快楽や金を得るための性愛は悪いのです。自由気ままな性愛は、生命の尊厳を
踏みにじり、生きる意欲を失わせる行為なのです。
性愛が、男女のコミュニケーションの一種だとか、健康やストレスの解消に良いとか、
スポーツのようなものだとか、性ホルモンの分泌が多くなって美容に良いとか、ダイエッ
トに有効だとか、等々、そのような無責任な言論を耳にすることがあります。
しかし、それらは全て間違いです。これらは、「生命の摂理」を理解しない者のいう言
葉です。生命の摂理を蔑ろにし、生命の尊厳を踏みにじる行為を長く続ければ、だんだん
と生命が暗くなり、生きる意欲を喪失して行くのは目に見えています。
ところで・・・
さみしくて、孤独で、生きている意味も理由も分からず、生きるための最後の抵抗とし
て、やみくもに不特定多数との性愛に走ってしまう人がいるかも知れません。
そのような人には、是非、もっと高度な愛を目指して欲しいと願ってやみません。
高度な愛とは、後に8章で述べる「隣人愛」や、9章で述べる「慈悲(生きとし生きる
もの全てに対する愛)」などといったものです。
生きるための抵抗を試(こころ)みる人にとっては、その方が確実に有益です。やみく
もな不特定多数に対する性愛よりも、隣人愛や慈悲の方が、はるかに優れています。その
ことは、慈悲を説いた釈迦や、隣人愛を説いたキリストが現われて以来、2000年以上
もの歳月をかけて、世界中の多くの人達によって証明されて来ました。
「不特定多数に対する性愛よりも、隣人愛や慈悲の方が優れている!」という主張に、
正当な根拠を持って反論できる人は、まず居ないでしょう。
ところでまた、性愛を生きる拠り所にすれば、年をとって性交の能力が無くなれば、生
きる拠り所をも喪失してしまいます。すでに夫婦の間に子供がいるのに、ED(勃起不全症)
やセックスレスを問題にするのは、性愛を生きる拠り所にしているからです。性愛は、年
をとれば必ず消失します。人によって多少早いか遅いかだけの違いです。
しかし隣人愛や慈悲は、一生持ち続けることが出来ます。それどころか、心の修養を重
ねることにより、年を取れば取るほど、これらの愛は大きく深くなって行くのです。
7章 本能的な愛と理性的な愛
世間で一般に「愛」といえば、恋愛や性愛などの、男女の愛を指す場合が多いと思いま
す。しかし「愛」には、そのほかにも、自己愛、母性愛、父性愛、家族愛、隣人愛、人類
愛、慈悲(生きとし生きるもの全てを愛する愛)など、実に多種多様なものがあります。
そして、これらの愛は、「本能的な愛」と「理性的な愛」に分けることが出来ます。本
能的な愛とは、たとえば生存本能による自己愛や、性本能による性愛、母性本能による母
性愛などです。そして理性的な愛の代表格は、隣人愛、人類愛、慈悲です。恋愛や父性愛
や家族愛は、その中間ぐらいに位置すると思います。
もう少し厳密に言うと、人間の愛には、「本能的な部分」と「理性的な部分」があるの
です。
たとえば同じ恋愛でも、一目見ただけで異性に惹かれるという本能的な部分と、相手の
人格を尊重し、思いやるという理性的な部分があります。
そして「性愛」は、ほとんど本能的な部分を占め、「隣人愛」や「慈悲」は、ほとんど
理性的な部分を占めます。
しかし話を分かりやすくするために、ここでは「本能的な愛」と「理性的な愛」に、単
純に分けて考えることにします。
本能的な愛は、自分の命を守ったり、種族を維持するために、とても大切なものです。
たとえば、生存本能による自己愛がなかったら、自分の命が危険にさらされても、それ
を避けようとせずに死んでしまいます。また、性愛や母性愛がなかったら、子供を作った
り、育てたりしようとせず、種が絶滅してしまいます。
それほどまでに、本能的な愛は大切なものです。しかしながら、これらの愛は動物にも
備わっている愛なのです。
一方、理性的な愛は、人間だけが持っている愛です。なぜなら、理性を持つのは人間だ
けだからです。動物には理性がありません。だから動物は、理性的な愛を持つことが不可
能です。
ところで「理性的」という言葉には、なんとなく、物質的、機械的、非人間的で冷たい
イメージを持ってしまいます。しかしそれは、ここ150年間の物質文明の影響により、
歪(ゆが)められてしまった理性のイメージです。
古来より、「理性は人間と動物を区別するもの」と言われて来ました。だから理性とは、
じつは非常に「人間的なもの」であり、「人間らしさ」や「人間性」を表す言葉なのです。
逆に理性を持たない人間は、人間とは言えません。「霊長目ヒト科の動物」とは言える
かも知れないけれど、「人間」とは言えないのです。「人でなし」や「人非人(にんぴに
ん)」、「けだもの」などの言葉は、それを的確に表現しています。
ゆえに理性的な愛は、非常に人間的な愛であり、人間性を特徴づける愛です。つまり理
性的な愛は、人間を人間足らしめている愛なのです。
ところで本能的な愛は、大変に強い感情ではあります。しかしながら、理性の伴わない
本能的な愛には、いろいろな問題をはらんでいます。
たとえば本能的な愛は、「好きなもの」しか愛することが出来ません。「嫌いなもの」
に対しては、容赦のない生理的な嫌悪感をぶつけてしまいます。そして差別や偏見の原因
となる場合があります。
また本能的な愛は、ちょっとしたことで、怒りや憎しみ、妬み、嫉妬などに、すぐに変
わってしまいます。「可愛(かわい)さあまって憎さ百倍」という諺(ことわざ)は、そ
のことを良く表しています。
そしてまた、理性の伴わない本能的な愛には、「愛しているから殺したんだ!」などと
いう、非理性的な現象も起こりえます。
一方、理性的な愛は、「感情の強さ」としては弱いものです。感情の強さでは、本能的
な愛にとうてい及びません。それは、理性は「感情ではない」ので当然のことです。
しかし理性的な愛は、大変に強いのです。理性的な愛は、本能的な愛を凌駕(りょうが)
します。なぜなら、理性は本能を凌駕するからです。
人間は、理性によって本能を乗り越えることで進歩して来ました。たとえば動物は、火
を怖がる本能のために、火を使うことが出来ません。しかし人間は、理性によって、火を
怖がる本能を乗り越え、火を使いこなせるようになったのです。
そして人間はまた、自己の本能的な欲求を理性によって適度に抑制し、高度な社会性を
身につけることによって、他の動物にはおよびもつかない進歩と発展を成し遂げました。
このように人間の理性は、本能よりも強いのです。逆に、理性によって本能を適度に抑
制できる人間が、霊長目ヒト科の動物ではなく、「人間である」と言えるのです。
ゆえに理性的な愛は、本能的な愛を凌駕します。そのことは、自己の生存本能を乗り越
えて自分の命を犠牲にし、隣人愛や人類愛を貫き通した、世界中の多くの人達によって既
に証明されています。
たしかに、自分の命をも犠牲にするほどの隣人愛や人類愛は、ものすごく極端な例であ
り、誰でも実行できるものではありません。しかしながら、人間にはそのような可能性ま
でも秘めているのです。人間の理性的な愛は、自己の生存本能をも凌駕することが実際に
あるのです。
ところで理性的な愛は、何も努力しないで得られるものではありません。長い年月をか
けた理性と本能との葛藤(かっとう)により、理性が鍛えられて、理性的な愛は得られる
のです。
しかも理性は、正しく鍛えられなければなりません。「歪(ゆが)んだ理性」ではなく、
「正しい理性」を育成しなければならないのです。
たとえば、「生きることは苦しみでしかなく、生きることに全く意味がない」というよ
うな、「歪んだ理性」に思考が縛(しば)られた場合、最悪の場合は自殺に及んだりしま
す。この自殺という現象も、理性の力が生存本能を凌駕しているために、起こっているの
です。
理性的な愛を獲得するためには、「正しい理性」を育成し、強化していくことが、どう
しても必要です。しかしそれは、とても難しいことであり、大変に時間もかかることです。
しかしそれでも、全ての人間は、これに取り組まなければなりません。なぜなら理性的な
愛の獲得は、霊長目ヒト科の動物から、「人間」に成長するために必要不可欠だからです。
8章 隣人愛について
「隣人愛」というのは、キリストが説いた愛の概念であり、新約聖書によると、キリス
トは以下の言葉によって隣人愛を説いています。
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「隣人を自分のように愛しなさい」 (マタイによる福音書22章39節)
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上の言葉から、隣人愛とは、まず「自己愛」を前提にしていることが分かります。
しかし、この場合の自己愛とは、以前に4章で述べたような、エゴイズムやナルシシズ
ム、自己陶酔、自信過剰、自意識過剰などの、「間違った自己愛」のことではありません。
なぜなら、そのような「間違った自己愛」に陥っていては、隣人を愛することなど出来
るはずがないからです。
だから隣人を愛するためには、同じく4章で述べた「正しい自己愛」を持たなければな
らないのです。この「正しい自己愛」とは、自己の欲望を野放しにせず、怒りや憎悪を抑
制して暴力をふるわず、社会の平和と心の平安を望み、しかし周りに迎合することなく自
分の信念に忠実に生きる・・・と、いうような自己愛です。
このように、自分を正しく愛することが出来てはじめて、隣人を愛することが出来るよ
うになるのです。
* * * * *
ところで、「隣人愛」についての有名な議論に、「隣人とは誰か?」という問題があり
ます。
つまり、
隣人とは、自分の家族や親しい友人のことなのか?
同じ村や、同じ町に住んでいる人たちが隣人なのか?
同じ国の人が隣人なのか?
一体どこまでの人間を、自分の隣人として愛せば良いのか?
という問題です。それについてイエス・キリストは、新約聖書の中で次のように答えてい
ます。
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イエスはお答えになった。「ある人がエルサレムからエリコへ下っていく途中、追いは
ぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去っ
た。ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って
行った。同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側
を通って行った。ところが、旅をしているサマリア人は、そばに来ると、その人を見ると
哀れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に
連れて行って介抱した。そして翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主
人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに
払います。』さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になっ
たと思うか。」 (ルカによる福音書10章30-36節)
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この話には、追いはぎに合った被害者のほかに、ユダヤ教の祭司、レビ人、サマリア人
という三人の人間が出てきます。そしてこの話を理解するためには、それら三人がどうい
う人間なのか知る必要があるのです。
ユダヤ教の祭司は神に仕える正しい人で、同朋が困っていたら、まっさきに救いの手を
差しのべなければならない人です。
レビ人とは、エルサレムの神殿で門番と聖歌隊を兼ねているような役職の人で、やはり
神に仕える人です。
そしてサマリア人とは、パレスチナのサマリア地方に住む人々のことです。その昔、こ
の地方は外国によって占領され、そのときに移住してきた外国人と従来から住んでいたユ
ダヤ人との混血がサマリア人なのです。排他的で選民思想の強いユダヤ人は、サマリア人
を「混血児」として忌み嫌い、軽蔑してつき合いませんでした。
ところで、追いはぎに襲われたのはユダヤ人です。だから、この人を隣人として一番に
助けなければならないのはユダヤ教の祭司で、その次がレビ人です。
そしてサマリア人にとって、この追いはぎに襲われたユダヤ人は、もはや隣人ではなく、
助ける義務もありません。
しかし結局、追いはぎに襲われた人を助け、その人の隣人となったのはサマリア人でし
た。
このことから、上の新約聖書の話は、次のことを示唆しています。
つまり、たとえ見ず知らずの人でも、さらにはお互いに忌み嫌い、敵対する人間であっ
ても、その人が困っていたら、自ら進んで隣人となり、助けてあげること。
すなわち、「誰が自分の隣人なのか?」が問題なのではなく、「自ら進んで隣人となる
こと」が、隣人愛の本質なのです。
そして、このことから、「隣人愛とは、誰をも区別することなく、自分以外の全ての人
に対する愛である」と、言うことができるのです。
* * * * *
ところで私は、「隣人愛とは、他人の命を救うような仰々しいことだけではない」と考
えています。
たとえば、
自分の人生に色々と嫌なことがあっても、周囲の人間や社会に対して、怒りや憎しみを
ぶつけないこと。
怒りが込み上げてムカついても、他人を罵(ののし)ったり、暴力をふるったりしない
こと。
弱い人間に対して、いじめや差別を行わないこと。
そして出来れば、優しさや微笑(ほほえみ)をいつも絶やさないように心がけること。
上のように、周囲に対する「ほんの少しの思いやり」を持つだけでも、それは立派な隣
人愛だと私は思うのです。
確かに、これらの行為は大したことではないかも知れません。しかしながら、殺伐とし
てストレスの多い現代社会においては、このような「ほんの少しの隣人愛」を社会全体に
浸透させて行くことが、もっとも重要で大切であると私は考えています。
9章 慈悲について
「慈悲(じひ)」とは、およそ2500年前に古代インドの釈迦(ゴウタマ・シッダル
タ)が説いた「愛の概念」です。
ちなみに、私が「慈悲」という言葉を使うときは、「生きとし生きるもの全てに対する
愛」という程度の意味で使っています。また世間一般では、「慈悲」の意味を「いつくし
みあわれむこと」としていますが、一応はそのように理解して差し支えありません。
しかしここでは、「慈悲」について、さらに詳しく述べたいと思います。
さっそくですが以下は、「スッタニパータ」という仏教経典の中で、釈迦が「慈悲」に
ついて説いている部分です。
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あたかも、母親が自分の一人子を命を懸けても守るように、そのように一切の生きとし
生きるものどもに対しても、無量の慈しみの心を起こしなさい。
また、全世界に対して無量の慈しみの心を起こしなさい。
上に、下に、また横に、分け隔(へだ)てなく恨みなく敵意なき慈しみを行いなさい。
立っている時も、歩いている時も、座っている時も、寝ている時も、眠らないでいる限
りは、この慈しみの心をしっかりと保ちなさい。
(スッタニパータ 第1章8節149~151)
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上の詩句が載っている「スッタニパータ」は、仏教経典の中でも最古のものであり、釈
迦が実際に話した内容に一番近いものとされています。
それによると「慈悲」とは、「全世界と全生命に対する、分け隔てのない無量の慈しみ」
つまり、「この世の全てに対する、平等で無限の愛」と理解してよさそうです。
ところで、慈悲の「慈」と「悲」は、もともと別の言葉なのだそうです。
パーリ語やサンスクリット語(インドの言語)では、「慈」とは、真実の友情、純粋の
親愛の念を意味します。そして「悲」は、「哀憐(あいれん:いつくしみあわれむこと、
なさけ)」や「同情」を意味します。
また、南方に伝わる伝統的で保守的な仏教では、「慈」とは「人々に利益と安楽をもた
らそうと望むこと」であり、「悲」とは「人々から不利益と苦とを除去しようと欲するこ
と」だそうです。
また、チベットに伝わった仏教では、「慈」とは「あらゆる命あるものの幸福を真摯に
よろこぶ気持ち」であり、「悲」とは「すべての命あるものを平等に苦しみから救おうと
する心」だそうです。そして「慈」も「悲」も、無限で普遍的で偏見がなく、しかも努力
することなしに湧き起こるものなのだそうです。
これらをまとめると、「慈悲」とは「生きとし生きるものに対する、平等で普遍的な無
限の愛」となります。
その他、「慈悲」について言及されていることとして、「慈悲は、男女の愛を超越する
もの」というのがあります。
つまり慈悲は、男女の愛よりも高い次元の愛なのです。というのは、男女の愛には「執
着(しゅうちゃく)」が必ず存在し、それが原因で容易に怒りや憎悪へと変わってしまう
からです。
たとえば、男と女が全てをなげうち命をかけて深く愛し合っていても、相手に裏切られ
れば、すぐに怒りや憎しみへと変わってしまいます。しかも、その愛が強ければ強いほど、
裏切られたときの怒りと憎しみは激しいものになります。最悪の場合は、暴力や殺傷事件、
自殺、無理心中などの原因にさえなってしまいます。そして実際に、そのような事件がい
くらでも起こっています。
しかし「慈悲」の場合は、絶対にそのようなことが起こりません。慈悲は、執着や怒り
や憎しみを捨て去ること、つまり、それらを乗り越えることによって得られる「高いレベ
ルの愛」だからです。それで、「慈悲」は男女の愛よりも高い次元の愛だとされているの
です。
また「慈悲」には、他者への同情やあわれみの意味もありますが、しかしそれは、他人
に対する優越感から起こる同情やあわれみではないことも言及されています。
たとえば、自分よりも強い者や、金持ち、身分の高い者、そして敵や悪人に対してさえ
も、その者たちが人知れず抱えている苦しみを理解し、同情し、あわれむという「慈悲の
心」は起こりえるのです。
そしてまた、「慈悲」は求めることがない愛、つまり「与える愛」であることも言及さ
れています。
* * * * *
ところで、なぜ「慈悲」は、人間の生命も、人間以外の生命も、平等に扱うのでしょう?
人間は、地球で最も高等な生物であり、その他の生物よりも価値が高いはずです。だか
ら人間の生命と他の生命が、全く平等であるはずがありません。
私は、このような疑問をずっと以前から持ち続けていました。しかし今は、それを次の
ように理解しています。
まず一つは、「食物連鎖」の存在です。
全ての生命は、食物連鎖によって支えられています。だから植物や動物や、さらには細
菌のような微生物でさえ、それらが存在しなければ、人間も存在することが出来ません。
つまり人間の生命は、動物や植物や、細菌のような微生物によっても支えられているので
す。
ところで人間が存在しなくても、植物や動物や細菌は生きられます。しかし植物や動物
や細菌が存在しなければ、人間は絶対に生きられません。このように考えると、植物や動
物や、さらには細菌といえども、それらの生命は尊重されなければならず、軽々しく考え
てはいけないと思えて来るのです。
そしてもう一つは、「生物進化」の存在です。
生物は進化するので、たとえ現在は下等な生物であっても、未来には人間よりも高等な
生物に進化する可能性があります。
たとえば恐竜がいた時代には、私たち人間の祖先はネズミのように小さくて弱い動物で
した。恐竜たちは哺乳類の祖先を、「なんて小さくて弱い生き物だ!」と、バカにしてい
たに違いありません。しかし現在、ネズミのような動物の子孫が「人間」という高等生物
に進化し、大発展を遂げているのです。
これと全く同じように、現在においてはネズミのような小動物であったり、さらにはナ
メクジのような下等な生物であっても、数千万年後から数億年後には、人間よりも高等な
生物に進化している可能性が十分にあるのです。
このように考えると、いくら下等な生物であっても無益に殺してはならず、地球に住む
全ての生命は、尊重されなければならないと思えてきます。
以上のように、「慈悲」という愛の概念は、生命の摂理によく適(かな)っています。
だからこそ、釈迦の時代から2500年経った現在でもなお、十分に通用する概念となっ
ているのです。
つづく
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