愛について 1
                                2024年9月1日 寺岡克哉


 今回から、「愛について」という本の原稿を紹介していきます。


 
題名  愛について

 
目次

 はじめに

 第1部 自己愛から神の愛へ(愛の概念の拡張)
  1章 全ての愛は自己愛から始まる
  2章 自己愛を持つためには
  3章 本能的な自己愛と理性的な自己愛
  4章 自己愛の落とし穴
  5章 恋愛について
  6章 性愛について
  7章 本能的な愛と理性的な愛
  8章 隣人愛について
  9章 慈悲について
 10章 「キリスト教の神」の愛
 11章 愛と慈悲
 12章 植物の愛
 13章 大生命の愛
 14章 「私が定義した神」の愛

 第2部 愛のさまざまな側面(愛の雑観的な考察)
 15章 愛の増減法則
 16章 愛を与えることが、愛を増大させる本質である
 17章 「与える愛」について
 18章 「求める愛」を満たしてくれるもの
 19章 「最高の愛」の感覚
 20章 「高揚した愛」と「落ち着いた愛」
 21章 愛と執着
 22章 愛の暴走
 23章 無欲の愛
 24章 受けとる愛
 25章 受け止める愛
 26章 赦す愛
 27章 愛と苦しみ
 28章 愛と哀しみ
 29章 不幸を招く間違った愛
 30章 愛すれば幸福!
 31章 敵を愛するのは難しい
 32章 よく人を愛し、よく人を憎む
 33章 愛の完成

 あとがき




はじめに

 本書は、「愛」というものについて、私なりの色々な考察をまとめたものです。

 第1部では、「自己愛」から「神の愛」へと、愛の概念を拡張して行く過程について述
べました。

 また第2部では、「愛」の様々な側面について、私の気がついたことを、思いのまま
(雑観的)に述べています。

 本書によって、「愛」というものには、恋愛や性愛などの「男女の愛」だけでなく、そ
の他にも色々な愛が存在していることを知って頂ければ幸いです。




第1部 自己愛から神の愛へ(愛の概念の拡張)

1章 全ての愛は自己愛から始まる
 すべての愛は、自己愛から始まります。
 なぜなら、まず最初に自分を愛することが出来てはじめて、異性を愛したり、隣人を愛
したり、さらには他の生命を愛することが出来るようになるからです。
 それは、自分で自分を嫌い、自分で自分を憎んでいる人間。つまり自己否定に取りつか
れた人間には、異性を愛することも、隣人を愛することも、他の生命を愛することも、まっ
たく出来ないことから分かります。

 ところで!
 私が若い頃は、自己否定に取りつかれて苦しんでいました。
 自己否定に取りつかれると、異性を愛することも、隣人を愛することも、他の生命を愛
することも出来ません。それは、自分の昔の体験から、たいへん良く分かるのです。
 たとえば私が自己否定に取りつかれていたときは、「自分は不幸な人間だ!」と、いつ
も思い込んでいました。だから私は、自分の周りに幸福そうな人間がいるのを、絶対に許
すことが出来ませんでした。「自分は不幸で苦しんでいるのに、周りの人間が幸福なのは
許せない!」という気持ちが、たいへん強かったのです。
 このように自己否定に取りつかれると、どうしても他人の幸福をうらやみ、妬(ねた)
み、憎んでしまいます。そして、他人が苦しんだり不幸になるのを、自分の喜びとしてし
まいます。だから、自己否定に取りつかれていては、異性を愛することも、隣人を愛する
ことも、他の生命を愛することも、まったく不可能になってしまうのです。
 ゆえに、自己否定をやめて自分自身を愛すること。つまり自己愛を持つことから、すべ
ての愛が始まるのです。

 いま上で述べたように、すべての愛は、自己愛から始まります。
 自己愛をもてば、「生きることは素晴らしい!」、「この世に生まれて良かった!」と、
本当に心の底から実感できるようになります。
 そして自己愛がさらに、「隣人愛」や「すべての生命への愛」に発展すると、隣人やす
べての生命が、この地球で自分と同じように生きているのが、嬉しくて嬉しくて仕方がな
くなります。
 「生命」というものの存在が、とても素晴らしく思えて来ます。そしてそれが、涙が出
るほどありがたく感じます。すべての人間と、すべての生命の幸福を、心から望むように
なり、それを少しでも実現させて行くことが、自分の幸福のすべてになるのです。

 とても大切なことなので何度も言いますが、すべての愛は、自己愛から始まります。
 キリストは、「隣人を自分のように愛しなさい」と言いました。しかしこの言葉におい
ても、まずはじめに自己愛を持っていることが、すでに前提となっているのです。


2章 自己愛を持つためには
 前の1章で述べたように、すべての愛は、自己愛から始まります。
 しかし、一体どうやったら、自己愛を持つことが出来るのでしょう?

 まず自己愛を持つためには、その前に、
 「自分は “何かの存在” に受け入れられている」
 「自分は “何かの存在” に認められている」
 「自分は “何かの存在” に愛されている」
と、心の底から思えるような「何かの存在」が、絶対に必要です。

 なぜなら人間は、自分が「何かの存在」に受け入れられ、認められ、愛されて初めて、
自分自身を受け入れ、自分自身を認め、自分自身を愛すること、つまり自己愛が持てるよ
うになるからです。
 それは、もしも逆に、自分が誰からも受け入れられず、認められず、愛されなかったら、
自己愛なんか、とうてい持てるはずがないことから分かります。

 繰り返しますが、この「何かの存在」とは、自分を受け入れ、自分を認め、自分を愛し
てくれるものです。

 それを私は、「自己存在の拠(よ)り所」と呼んでいます。

 この「自己存在の拠り所」は、ふつうの場合、親や家族、友人、恋人であったり、ある
いは学校や会社や世間であったりします。

 と、いうのは、
 親から見捨てられたり・・・
 友人から仲間はずれにされたり・・・
 失恋したり・・・
 たいせつな家族と死に別れたり・・・
 不登校になって学校へ行けなくなったり・・・
 リストラで会社をクビになったり・・・
 世間から「のけ者」にされたり・・・
 等々、このようなことが起これば、「自己存在の拠り所」を失って、自己否定に取りつ
かれてしまい、とても自己愛なんか持てなくなってしまうからです。

 ゆえに自己愛を持つためには、「自己存在の拠り所」が絶対に必要なのです。

 ところで、この「自己存在の拠り所」を、他人(たとえ親といえども、自分以外の人間
はすべて他人です)や会社にしていたのでは、とても不安でたまりません。
 なぜなら他人や会社は、いつでも自分を見捨てる恐れがあるからです。そしてまた、自
分が見捨てられなかった場合でも、死別や会社の倒産などで、「自己存在の拠り所」を失
う恐れがいつもあるからです。

 そのため、さらに絶対で確実な「自己存在の拠り所」が必要になりますが、その候補と
して、本書では「大生命」と「神」を採(と)り上げています。それらについては、後に
13章と14章で述べることにします。


3章 本能的な自己愛と理性的な自己愛
 ところで自己愛には、「本能的な自己愛」と「理性的な自己愛」が存在します。

 「本能的な自己愛」は、自己の生存、自身の安全、食欲や性欲の充足などを求める行動
や感情として現れます。本能的な自己愛は、エゴイズムが丸出しの、実に利己的なもので
す。

 一方、「理性的な自己愛」は、自己の徳性を高める努力、克己(こっき)、利他の精神
の育成、自己犠牲的な行動などとして現れます。
 この理性的な自己愛は、一見すると自己愛ではないように思えます。なぜなら、自己の
徳性を高めるために禁欲や精神修養の苦痛に耐えたり、自分のことよりも他人のことを大
切にしたり、最悪の場合は、他人のために自分の命をも犠牲にすることがあるからです。
 このように理性的な自己愛は、自己の本能的な欲求を抑制するのだから、どちらかと言
えば自己否定のようにも思えます。しかし理性的な自己愛を、自己否定と取るか、自己肯
定と取るかは、自分の自己の本質を、「本能的な自己」とするか、「理性的な自己」とす
るかによるのです。

 ここで「本能的な自己」とは、「霊長目ヒト科の動物」としての自己です。つまり本能
的な動物としての自己です。飲んで、食べて、性欲を満たして、寝るという、単なる動物
としての自己です。
 一方「理性的な自己」とは、「人間」としての自己です。本能的な動物ではなく、
「理性的な存在」としての自己です。人間的な精神つまり、善い人格、良識、徳性、人の
心、思いやり、人格の尊重、隣人愛、人類愛、慈悲などを持った、理性的存在としての自
己です。

 理性的な自己愛は、「本能的な自己」にとっては自己否定になります。しかし「理性的
な自己」にとっては自己肯定になるのです。つまり、「霊長目ヒト科の動物」としては自
己否定ですが、「人間」としては自己肯定なのです。
 理性的な自己愛は、「本能的な自己」を否定し、「理性的な自己」を肯定して育成し、
強化するという自己愛です。理性的な自己を成長させるという自己愛なのです。

 ここで誤解を招かないように注意しますが、「本能的な自己を否定する」などと言うと、
「食欲を否定すれば餓死するではないか」とか、「性欲を否定すれば人類が絶滅するでは
ないか」と、疑問に思う人がいるかも知れません。
 しかし「理性的な自己愛」とは、あくまでも理性的なものです。理性的な自己愛による
「本能的な自己の否定」とは、あくまでも理性的に、「本能的欲求を、必要以上に過度に
求めることを否定する」と言うことです。健康な身体と、種族を維持するために必要な本
能的欲求は、当然認めるものです。
 「理性的な自己」を最大限に成長させるために、「本能的な自己」の欲求を最適に抑制
するという意味での、「本能的な自己の否定」なのです。

 人間が人間らしく生きるためには、「理性的な自己愛」によって「理性的な自己」を成
長させて行くことが必要です。なぜなら人間は、理性的な存在であり、単なる動物として
は、生きることが出来ないからです。

 単なる動物ではない「理性的な人間」にとっては、「理性的な自己愛」によって「理性
的な自己」を成長させ、人間的な精神、善い人格、良識、徳性、人の心、思いやり、人格
の尊重、隣人愛、人類愛、慈悲などの、理性的な欲求を満足させて行くことこそが、生き
る目的であり、生きる意義であり、生きる原動力になっているのです。


4章 自己愛の落とし穴
 これまで述べて来た「自己愛」について、ひとつ注意をしなければならないことがあり
ます。それは、自己愛にはエゴイズムなどの「間違った自己愛」と言えるものが、多々存
在することです。

 この「間違った自己愛」には、エゴイズム、自信過剰、自意識過剰、ナルシシズム、自
己陶酔(じことうすい)などがあります。そして、このような「間違った自己愛」を持っ
てしまうと、周囲の人間を不幸にしてしまいます。だから自己愛を持つときは、「正しい
自己愛」を持たなければなりません。
 そこで、「正しい自己愛」と「間違った自己愛」について、つぎに述べて行きたいと思
います。

 さて、「正しい自己愛」と「間違った自己愛」は、ニュアンスの差がとても微妙です。
だから、一般的に混同されやすいので、ものすごく気をつけなければなりません。
 つまり「正しい自己愛」と「間違った自己愛」は、「感情」として非常に良く似ている
のです。だから自己愛には、「理性」が伴わなければなりません。すなわち、前の3章で
述べた「理性的な自己愛」が、「正しい自己愛」なのです。

 その、「正しい自己愛」のニュアンスを述べると、だいたい次のようになります。
●正しい自己愛とは、自分の信念を貫き通すことですが、自分勝手なエゴイズムを押し通
すことではありません。
●正しい自己愛とは、自分の存在を好ましく感じることですが、ナルシシズムや自己陶酔
のことではありません。
●正しい自己愛とは、自分に自信を持つことですが、自信過剰や自意識過剰のことではあ
りません。

 いま上で挙げたように、「正しい自己愛」と「間違った自己愛」は、ニュアンスの差が
とても微妙です。
 しかしながら、「正しい自己愛」は周囲の人々を幸福へと導き、「間違った自己愛」は
周囲の人々を不幸に陥(おとしい)れるという、とても大きな差があるのです。

 たとえば「間違った自己愛」は、「自己否定の人間」にも存在しています。
 むかしの私がそうだったのですが、自己否定の人間は、えてしてプライドが高く(自意
識過剰)、何でも自分の思い通りに行かないと気が済みません(エゴイズム)。しかも、
あらゆることに対して、自分の実力以上のことを出来るのが当たり前だと思い込んでいま
す(自信過剰)。そのために、コンプレックスや挫折感、ストレスを多く抱え込んでしま
うのです。
 そして、自分自身を憎むと同時に、周囲の人間をも憎んでしまいます。自分自身を憎む
のは、自分が理想とは程遠い人間だからです。また、周囲の人間を憎むのは、周囲の人間
の存在が、自分にコンプレックスや挫折感を感じさせるからです。

 また、自己否定に取りつかれていない人間であっても、「他人なんかどうなっても、自
分さえ良ければいい!」と言うような自分勝手なエゴイズムを押し通せば、周囲に不幸を
ばらまいてしまいます。そして、周囲の人間から怒りや憎しみを買ってしまうのです。

              * * * * *

 ところが一方、「正しい自己愛」を持つ人間にも、ある意味でエゴイズムが存在してい
ます。しかもそれは、かなり強烈なものです。このエゴイズムは、周囲の人間からいくら
反対されても、さらには自分の身が危険にさらされても、人類の理想や平和の実現を追い
求めるという、行動や信念として現れます。

 たとえば釈迦は、この世を苦しみから救うための悟りを得ようとして、周囲の反対を振
り切り、妻子を捨ててまで出家をしました。
 またキリストは、自分が磔(はりつけ)にされて殺されると分かっていながら、最後ま
で自分の主張を取り下げませんでした。
 私はそれらを「正しい自己主張」と呼び、自分勝手な単なるエゴイズムとは、区別して
考えています。
 このように、「正しい自己愛」の人間にも、強烈なエゴイズムが存在します。しかしそ
れは、人々を隣人愛や慈悲、つまり幸福へと導くためのものなのです。

 以上のように、「正しい自己愛」は人々を幸福に導き、「間違った自己愛」は人々を不
幸に陥れます。そして、このことにより、「正しい自己愛」と「間違った自己愛」を見極
(みきわ)めることができるのです。



 つづく



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