信念と自信         2004年5月16日 寺岡克哉


 私は、テレビや新聞などで、戦争、テロ、殺人、暴行、虐待などの悲惨な報道を目
にすると、なんとも言えない恐怖、不安、嫌悪、怒り、苛立ちを感じてしまいます。
 心臓がドキドキして、手にジワーッと汗がにじみ、目まいがしそうになる時さえあり
ます。
 しかし、なぜそこまで心がかき乱されるのか、自分でも良く分からず不思議に思っ
ていました。

 ところが最近、それは「愛」や「慈悲」に対する「私の信念」が揺さぶられることによ
って、私が「自信喪失」に陥るからだということに気がつきました。
 「人間は、愛や慈悲の心を大切にするはずだ!」とか、
 「人間は、良識や良心を尊重するはずだ!」
 「人間には、”人の心”というものが存在するはずだ!」
というような、私の人間観というか、人間に対する「私の信念」。それが根底から打
ち壊されてしまうことへの恐怖。人間に対する懐疑や不信。そのことによる自信喪
失・・・。
 それらが私に、恐れ、不安、怒り、苛立ちなどを感じさせるのではないかと思うの
です。

 たとえば、悲惨な報道がマスコミから流されると、
 「いくら愛や慈悲が大切だと言ってみたところで、そんなものは理想の空論に過ぎ
ない!」
 「所詮人間は、欲望のために人殺しまでしてしまうのだ!」
 「それが人間の本性なのだ!」
 「その人間性を変えることなど、絶対に不可能だ!」
 「それをマスコミの報道は、毎日のように証明して見せているではないか!」
と、このような考えが頭をよぎってしまうのです。

 そしてそれに対し、
 「人間がそんなとをするはずがない!」
 「人間が、そんなものであるはずがない!」
 「そんな事実は認めたくない!」
 「そのような事実の存在を、この世から消し去ってしまいたい!」
 「そんな人間の存在を、許してはおけない!」
と、いうような思いが込み上げて来るのです。それで非常に動揺し、心が不安定に
なるのだと思います。

 たしかに、「愛」や「慈悲」がすべての人類に浸透することなど、現段階では理想の
空論かもしれません。
 しかし、人類はそれを目指すべきであり、それを目指さなければならないのです。
 それが人類の正しい目的であり、人類の正しい在り方なのです。
 いくら悪い人間がはびころうとも、いくらテロや戦争が起ころうとも、それは「愛」や
「慈悲」の正しさを決して否定するものではありません。むしろ、その正しさをますま
す証明するだけです。
 この世にいくら悪が存在しようとも、それによって愛や慈悲の「正しさ」を揺るがす
ことは絶対にできません。そしてまた、すべての人類から「愛」や「慈悲」の心を奪い
取ってしまうことも、絶対に不可能です。
 と、このように強く信じることによって、私は心を安定させることが出来るようになり
ました。

 ところで、「自分に対する自信」や「心の安定」を得るためには、自分が正しいと思
ったことをどこまでも信じきること。つまり「信念」が必要なのだということに、いまさら
ながら気がつきました。
 信念が揺らぐと、自信を失って心が不安定になるのです。それが私の場合では、
「愛」や「慈悲」に対する信念だったのです。

 私は、周りの状況にふり回されることなく、自分の正しいと思ったことを守り、貫き
通せるような「信念と自信」を養いたいと思っています。
 しかしそれは、自信過剰になって、鼻持ちならない不遜な人間になることではあり
ません。決してそうではありません。

 自分に「信念と自信」があるからこそ、心が動揺することなく安定し、温厚、優しさ、
包容力、忍耐、寛容さを決して失うことのない、強い精神力をもつことが出来るのだ
と思います。
 そう簡単になれる訳はありませんが、私はそのような人間を目指したいと思ってい
ます。



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