生命について 3
                                2024年8月4日 寺岡克哉


第2部 人類の集合意識と生命

10章 人類の集合意識とは
 「人類の集合意識」を、「全人類の自我意識の総体」と定義します。

 ここで「自我意識」とは、以前に1章で述べたように、
●「自分が生きていること」や、「自分が存在していること」を認識する意識。
●自分と外界を区別し、「自分は一人しか存在しない!」と言う、「自己の独自性」を認
 識する意識。
●今日の自分も、昨日の自分も、1週間前の自分も、1年前の自分も、10年前の自分も、
 つねに同じ自分であるという、「自己の同一性」を認識する意識。
●自分の欲求や希望、目標などを自らの意思で実現させようとする、「能動的な思考や行
 動」を生じさせる意識。
 以上、それらが渾然一体となって、自分が自分を認識する意識のことです。

 さて、「人類の集合意識」とは、地球の全ての人間の自我意識を、ひとまとめにしたも
のです。
 「人類の集合意識」は、全ての人間の自我意識によって構成されます。だから全ての人
間の自我意識は、「人類の集合意識」の中に含まれます。
 つまり、個々の人間の自我意識は、「人類の集合意識」の細胞のようなものです。だれ
一人の例外もなく、全ての人間の自我意識は、「人類の集合意識」の一部なのです。

 それが、私の考えている「人類の集合意識」です。

 ところで、巷(ちまた)にあふれている世論や風潮、流行などは、「人類の集合意識」
の一部です。しかし、「人類の集合意識そのもの」ではありません。
 さらには、世論の中でいちばん大きな「国際世論」でさえも、人類の集合意識の一部で
あり、人類の集合意識そのものではありません。
 私が考えている「人類の集合意識」とは、国際世論に同意する人も、同意しない人も、
それら全ての人の自我意識を含むものです。だから「人類の集合意識」とは、「人類全体
の合意」のことではありません。
 このように「人類の集合意識」は、全ての人間の自我意識を含む概念です。ゆえに、人
類の集合意識から除外される人間は、だれ一人としていないのです。

 さて、地球に住む全ての人間の自我意識は、必ず何らかの関係で一つにつながっていま
す。
 もちろん、全ての人間の自我意識が直接につながっている訳ではありません。そして必
ずしも、全ての自我意識が友好的な関係でつながっているのでもありません。
 しかしながら、直接的、間接的、友好的、敵対的、等々のさまざまな関係で、全ての人
間の自我意識は一つにつながっているのです。
 たとえば政治、経済、軍事、ジャーナリズム、学術、教育、文学、音楽、芸能、スポー
ツなど、人類の営むあらゆる関係によって、自我意識はつながり合っています。だから国
や言語が異なっていても、それらの人々の自我意識はつながっているのです。

 このように「人類の集合意識」は、全人類の自我意識が一つにつながり合ったものです。
だから一人の例外もなく、全ての人間の自我意識は、「人類の集合意識」と必ず何らかの
関係でつながり、影響を及ぼし合っているのです。

 たとえば百年前の昔ならば、アフリカやアマゾンの奥地などに、人類の集合意識から切
り離された人々が存在したかも知れません。しかし現代では、人類の集合意識から切り離
されている人間は皆無といって良いでしょう。
 なぜなら現代では、テレビやラジオ、新聞、雑誌、書籍、手紙、電話、インターネット、
電子メールなどの情報媒体が、全人類に行き渡っているからです。
 そしてまた、もしもテレビやラジオを持っていない人がいても、人と人とのコミニュ
ケーションにより、それらの情報がいずれ行き渡るからです。
 このように現代では、地球に住む全ての人間の自我意識が、何らかの関係で「人類の集
合意識」とつながっているのです。

 ところで「人類の集合意識」は、最初から人類に存在していた訳ではありません。人類
の進歩とともに、「人類の集合意識」というものが次第に形成されて来たのです。
 たとえば1万年ほど前までは、家族や部族などの「小規模な集合意識」は存在していま
したが、「世界規模の集合意識」など存在していませんでした。
 5千年ほど前になると、メソポタミア、エジプト、インダス、黄河の四大文明が起こり、
「国家規模の集合意識」が生じました。
 その後、それらの文化圏が次第に大きくなり、お互いに接するようになって、「世界規
模の集合意識」が生じたのです。
 家族、部族、村、都市、小さな国、大帝国、国際連合などの全地球的な組織・・・と、
いうように、「集合意識」は次第に大きくなって来たのです。

 さらに現代では、新聞、ラジオ、テレビ、インターネットなどの普及によって、一般の
人々が世界の情報を知るようになりました。(ほんの百年くらい前までは、世界の情報を
知ることが出来たのは、一部の限られた人たちだけでした。)
 人類が進歩するにつれて、「集合意識」は地球規模へと拡大するばかりでなく、一般民
衆へと深く浸透するようになったのです。

 そして一方、民主主義や選挙制度が発達し、言論の自由が保障され、手紙、電話、イン
ターネットや電子メールなどで、自分の意見を投書したり、自分の思いを世論に反映させ
ることが、できるようになってきました。
 つまり、個人の自我意識が、集合意識に対して働きかけが出来るようになって来たので
す。

 以上のように、まだまだ間接的ではあっても、世界中の人間の自我意識が一つにつなが
るようになって来ました。そして、「人類の集合意識」と言えるものが、だんだんと形成
されて来たのです。
 今後、未来に向かって、個々の人間の自我意識は、さらに緊密(きんみつ)につながり
合って行くのだと思います。そして、「人類の集合意識」はさらに顕在化し、より確固と
したものへと成長して行くのだと思います。人類の歴史を眺めてみると、それが人類進化
の進んでいる方向であるように見えます。

 ところで、私たち個々の人間には、「人類の集合意識」を直接に認識することが出来ま
せん。つまり私たちには、自分の自我意識を認識するように、「人類の集合意識」を認識
することが出来ないのです。
 しかしながら、全ての人間の自我意識の総体として、「人類の集合意識」というものが、
確かに存在すると私は思うのです。
 そして「人類の集合意識」は、人類の進歩とともに今後ますます成長し、さらに確固と
したものへと顕在化して行くのだと考えています。


11章 自我意識の波及効果は、肉体が死んでも消滅しない
 ある人間の「自我意識の波及効果」は、その人間の肉体が死んでも、「人類の集合意識」
の中で存在し続けます。
 たとえば、釈迦やキリスト、孔子、老子、荘子、ソクラテス、プラトン、アリストテレ
ス・・・等々、過去に存在した偉人たちの思想。
 さらには、その他諸々の人たちの、生涯をかけた思いや意志。
 それらの人たちの思想や意志は、その人の肉体が死んでも、人から人へと語り伝えられ、
あるいは書物によって後世に伝えられて、消滅することがありません。
 このように、釈迦やキリスト、その他諸々の人たちの「自我意識の波及効果」は、その
人の肉体が死んでも、「人類の集合意識」の中で存在し続けるわけです。

 ところで、一般的にどんな人でも、その人の自我意識は、他の人の自我意識に次々と影
響を及ぼして行き、その波及効果は「人類の集合意識」の中で存在し続けます。
 「意識が意識に作用する」という、「意識を媒体とする波及効果」が、人類の集合意識
の中で存在し続けるわけです。
 これは、地球の生物の中でも、人類にしか存在しない現象です。人類は唯一、「意識を
媒体とする作用や影響力」を、人類集団の中に存在させ続けることが出来る生物なのです。
たとえば、風習やしきたり、文化や伝統と言ったものが、その典型的な例になります。

 一般的に、世界中のあらゆる人間の自我意識が、「人類の集合意識」に影響を与えます。
それによって、人類の集合意識は進歩し、発展して行きます。
 また逆に、「人類の集合意識」もまた、個々の人間の自我意識に影響を与えます。たと
えば、民主主義、世界平和の希求、貧困の撲滅、地球環境の保全、地球温暖化の抑制など
の「人類の集合意識」は、教育を通して個々人の自我意識に影響を与えているのは確かで
す。それによって、個々人の認識する世界は、より広く、深くなって行くのです。

 その、個々人の成長した自我意識が、さらにまた、人類の集合意識に影響を与えて行き
ます。
 このように、「個々の自我意識」と「人類の集合意識」は、お互いに作用を及ぼし合い
ながら進歩し、発展して行きます。
 また「人類の集合意識」は、新しく生まれた人間の自我意識にも、次々と影響を与えて
行きます。こうして「人類の集合意識」は、新しい世代に受け継がれて行くのです。

 以上のように、「人類の集合意識」と「個々の自我意識」は、作用を及ぼし合うことに
よって進歩発展し、未来の世代へと受け継がれて行きます。だから「人類の集合意識」は、
人類が存続する限り、存在し続けます。
 ゆえに、「人類の集合意識」の中で存在し続ける「自我意識の波及効果」もまた、人類
が存続する限り、存在し続けるわけです。

 ところで、「人類の集合意識」に与える「個々の自我意識の影響力」は、大きな人も、
小さな人もいます。
 過去の偉人たちのように、大きな影響力を発揮できる人は、ごくわずかです。ほとんど
の人は、とても小さな影響しか与えることが出来ないでしょう。
 しかし、全ての人の自我意識の波及効果は、人類の集合意識の中で、人類が存続するか
ぎり作用し続けます。
 だから、始めはどんなに小さな影響でも、波及効果が波及効果を呼び起こして、その影
響力はどんどん大きくなって行きます。
 たとえば「口コミ」などは、その代表的な例でしょう。しかも現代では、インターネッ
トのSNS(ソーシャル・ネットワーク・ワーキング・サービス)の普及によって、「自
我意識の波及効果」は、昔に比べて、ものすごく大きくなりました。

 以上のように、あなたや私の肉体が死んでも、あなたや私の「自我意識の波及効果」
は、人類が存続するかぎり消滅しません。
 そして、あなたや私の「自我意識の波及効果」は、「人類の集合意識」の中で、形を変
えながら、その影響力がどんどん大きくなって行くのです。


12章 自我意識の波及効果は「生命」である
 あなたや私の肉体が死ねば、あなたや私の「自我意識」は消滅してしまいます。しかし、
あなたや私の「自我意識の波及効果」は、人類が存続するかぎり、「人類の集合意識」の
中で存在し続けます。それは前の11章で述べました。

 ところで私は、この「自我意識の波及効果」も、「生命」であると考えています。
 もし、そうであるならば、あなたや私の生命は、あなたや私の肉体が死んでも、人類が
存続するかぎり生き続けることになります。

 しかしながら、「自我意識の波及効果は生命である!」と主張するためには、生命の概
念をすこし拡張しなければなりません。そのことについて、つぎに述べて行きたいと思い
ます。

 まず最初に、「生命が存在する」とか、「生きている」といえる条件を考えてみます。
そうすると、
 (1)肉体が生存していること。
 (2)自我意識が存在すること。
の二つが挙げられます。

 (1)は、肉体が生きていることです。
 呼吸し、心臓が動き、体内を血液が流れ、体温が保たれている状態です。眠っていない
ときは、運動もします。これが、「生命が存在する」とか、「生きている」といえる第一
の条件です。

 (2)は、自我意識が存在している状態。つまり目が覚めていて、意識がある状態のこ
とです。
 この(2)の条件も、ごく当たり前のように感じます。しかし(1)に比べると、少し
考察が必要になって来ます。
 たとえば「眠っているとき」は、自我意識が存在しなくても、「死んでいる」とは言い
ません。しかしこれは、自我意識を喪失している状態が一時的なものなので、そう言って
いるに過ぎません。睡眠を十分にとれば、必ず目が覚めることが分かっているので、眠っ
ている状態を「死」とは言わないのです。
 しかし、自我意識の回復が永久に見込めない場合は、「生きている」とは言えなくなっ
て来ます。その例として、「脳死」の場合が考えられます。
 脳死を、「人の死」とするのかどうかについては、まだ異論があるかも知れません。し
かし少なくとも、「人として生きている」とは言えない状態です。肉体の細胞が生きてい
ても、自我意識を永久に喪失すれば、「生きている」とは言えないのです。

 ところで植物の場合は、自我意識が存在しなくても「生きている」と言えます。しかし
人間の場合は、自我意識が存在しないと「生きている」とは言えません。
 これは、「植物の生命」にくらべて「人間の生命」の方が、生命概念が拡張されている
ことを意味します。

              * * * * *

 次に、「人間の生命」を考える上で大切な「自我意識」について、もう少し考えてみま
しょう。

 まず、自分の自我意識の中身について考えて見ます。そうすると、自分の自我意識の中
には、「他人の自我意識の影響」が多分に存在していることが分かります。
 たとえば私の自我意識は、そのほとんどが、他人の自我意識の影響によって作られたと
言っても過言ではありません。
 親、兄弟、友人、学校教育、テレビ、新聞、書籍、インターネット、等々。これら全て
の影響が、私の自我意識の形成に関わっているからです。

 つまり「人間の自我意識」は、他の人間の自我意識の影響を受けて作られるのです。
 それは、オオカミなどに育てられた人間の例を見れば分かります。赤ん坊の時から人間
と隔離されて育てられれば、「動物の自我意識」は持てるかも知れないけれど、「人間の
自我意識」は育つはずがありません。
 視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚などの感覚器官による認識と、食欲、性欲、睡眠欲、生
存欲などの本能だけでは、「人間の自我意識」は形成されないのです。

 人間は、「人間の自我意識」が存在しなければ、「人間として生きている」とは言えま
せん。ただ単に「動物の自我意識」しか持たず、言語も文字も、人間らしい思考能力も持
たなければ、「人間として生きている」とは言えないのです。
 これは、植物は自我意識が存在しなくても「生きている」と言えるけれど、動物は自我
意識が存在しないと「生きている」とは言えないのに対応します。
 動物は、「人間の自我意識」を持たなくても「生きている」と言えます。しかし人間は、
「人間の自我意識」を持たなければ、「人間として生きている」とは言えません。
 このように、植物、動物、人間という順に、生命の概念が拡張されているのです。

 以上のように、高度な「人間の自我意識」は、人間だけが持っている「人間の生命」で
す。
 そして「人間の自我意識」、つまり「人間の生命」は、他の人間の「自我意識の波及効
果」によって作られます。
 ゆえに、人間の場合においては、「自我意識の波及効果も生命である!」と言えるので
す。なぜなら「自我意識の波及効果」は、「人間の生命」の根幹を成しているからです。

 しかしこれは、とくに変わった考え方ではありません。昔から普通に知られていた生命
の概念です。
 例えば、
 「あの人の精神が、私たちの中に生きている」
 「あの人の意志が、私たちの中に生きている」
 「あの人の魂が、私たちの中に生きている」
 「あの人の思いが、私たちの中に生きている」
 「あの人の願いが、私たちの中に生きている」
 「あの人の希望が、私たちの中に生きている」
 等々、これらの言葉は、他人の自我意識の波及効果を、「自分の生命の一部」だとみな
している言葉です。
 また、「私が死んでも、私はみんなの中で生き続ける」という言葉は、他人の自我意識
の中に存在する「自分の自我意識の波及効果」も、「自分の生命の一部」だとみなしてい
る言葉です。

 「自分の自我意識の中に、他人の自我意識の波及効果が存在すること」を、本当に心か
ら理解すれば、
 「自分の自我意識の波及効果も、他人の自我意識の中に存在し続けること」が、理解で
きます。つまり、
 「自分の生命の中に、他人の生命が生きていること」を、心の底から納得すれば、
 「自分の生命も、他人の生命の中で生き続けること」に、確信が持てるのです。

 「人類の集合意識」の中で存在し続ける、「自我意識の波及効果」は、人間だけが持つ
ことの出来る生命です。
 そして、どんな人の「自我意識の波及効果」であっても、それは、その人の肉体が死ん
でも、人類が存続するかぎり生き続ける生命なのです。



 つづく



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