生命について 2
2024年7月28日 寺岡克哉
5章 文章に宿る生命
私は、文章には「生命」が宿っていると感じています。
つまり文章は、ある意味で「生命」を持っているように感じるのです。
もちろん、マニュアルや法律などの文章のように、無機的で機械的な文章もたくさんあ
ります。しかし文章によっては、「生命が宿っている!」と思えるものがたくさんあるの
です。
それを初めて感じたのは、私が大学院の研究室に所属していたころでした。
そのころ私は、自分と同じような実験を行った外国の研究者の論文を、数年にわたって
何十回となく読みました。英語で書かれた同じ一つの論文を、目を皿のようにして何十回
も読み込んだのです。
いつも失敗続きの自分の実験と比べながら、
この研究者は、どうしてそのような実験のやり方をしたのか?
この研究者は、どうしてそのような材料や薬品をつかったのか?
この研究者はいったい何を考え、何に悩みながら実験を行ったのか?
というようなことを、一字一句読み逃すまいとして必死でした。こんなに真剣に文章を読
み続けたのは、そのときが生まれて初めてでした。
ところで、そんなことを続けているうちに、「文章には書く人の生命が宿っている!」
と、実感するようになりました。
何と言いますか、その論文の文章に、書いた人の「人格」みたいなものを感じるのです。
その研究者が今ここにいて、私にアドバイスをしてくれているような感じです。その研究
者が私を温かく見守り、励ましてくれているような感じもしました。その文章の中に、そ
の研究者の「生命」を感じるのです。
その文章は学術論文なので、一見すると無機的で機械的な文章です。しかしそれでも、
文章の中に「生命の存在」を感じました。私は研究活動を通して、文章の中に生命を感じ
取るトレーニングを、知らず知らずのうちに、やっていたのかもしれません。
そのときの体験は、新約聖書や原始仏教の経典を読むときにも、たいへん役に立ちまし
た。それは大学での研究生活のすべてが、キリストや釈迦と出会うための修行だったと思
えてしまうほどです。
新約聖書には「キリストの生命」が宿っており、原始仏教の経典には「釈迦の生命」が
宿っているのです。
それらの書物は、キリストや釈迦が今ここに生きて存在しているかのように、私に語り
かけて来ます。キリストや釈迦が、「すでに死んでしまった人」であるとは、とても思え
ないのです。
しかしそれは、キリストや釈迦だけに限らず、トルストイや武者小路実篤や、その他の
作家や思想家についてもまったく同じです。
まさしく文章には、その人の「生命」が宿っているのです!
* * * * *
ところで私は、文章ほど「私の生命」をよく表現できるものは、他にないと思っていま
す。
事実、たとえば私の意思や思考、心情、意志など、これら「私の生命」を、文章ほど良
く表現できるものは他にないのです。
たとえば口でしゃべる「会話」は、私の心(私の生命)を十分に表現することが出来ま
せん。なぜなら、そのときの感情にふり回されたり、相手の心情を忖度(そんたく)した
り、自分の心の中を知られてはいけないという打算などが働いて、本当に思っているのと
は反対のことを、言ってしまう場合がよくあるからです。
そして会話は、文章を書くときに比べると、考える時間がほとんどありません。だから
良く考えないでしゃべったり、ひどいときは全く考えないで口が勝手にしゃべることさえ
あります。本当は思ってもいない悪口や暴言などが出てしまい、あとから後悔することも
あります。
また会話だけでなく、顔つきや表情にしても、私の生命を十分に表現することが出来ま
せん。
なぜなら私は、時としてポーカーフェイスになったり、あるいはその逆に、思ったより
も顔に表情が出たりするからです。
たとえば私が悲しいときや落ち込んでいるときに、ゆったりとくつろいでいるように周
りから思われることがあります。また、そんなに怒っている訳ではないのに、ものすごく
怒っているように周りから思われることもあります。
このように顔つきや表情も、私の生命を十分に表現することが出来ないのです。
ところでまた、「会話」は私の話したいことがなかなか話せません。
私はそもそも、人の心、愛、生命、宗教、神、真理などについて思ったことや感じたこ
とを、他人との会話で意見交換をしたいと思っています。しかし実際は、そんな会話など
ほとんど出来ません。テレビや新聞の話題、スポーツ、芸能、音楽、食べ物、衣服、お金
などの、世間一般の会話がほとんどです。
一人ひとりが心の奥底に持っている「生命」。その生命を、お互いに交わし合って「共
鳴」させることなど、ふつうの会話ではほとんど不可能なのです。
私は、「私の生命」と「他者の生命」が共鳴して一つになるとき、自分の生命がじつに
良く実感できます。つまり「私は生きている!」という、たいへん大きな喜びと、感謝の
気持ちが生じるのです。その「生命と生命の共鳴」を、いちばん可能にすることが出来る
のが文章なのです。
たとえば聖書を読めば、「キリストの生命」と「私の生命」が共鳴して一つになります。
また、原始仏教の経典を読めば、「釈迦の生命」と「私の生命」が共鳴して一つになる
のです。
その他の、作家や思想家の著作にしても全く同様です。
それらの文章を読むことにより、「他者の生命と、私の生命が共鳴して一つになる」と
いう強い実感を、私は何度も体験しています。
以上、ここまで述べたように、文章には生命が宿っています。そして、そのような「生
命が宿る文章」も、「生命の一つ」であると私は考えています。つまり「生命が宿る文章」
は、以前に3章で述べた「生命のソフトウエア」の一つなのです。
6章 釈迦やキリストの生命
前の5章で、新約聖書を読めば「キリストの生命」と「私の生命」が共鳴して一つにな
り、原始仏教の経典を読めば「釈迦の生命」と「私の生命」が共鳴して一つになることを
述べました。
そして私は、「私の生命」と「他者の生命」が共鳴して一つになるとき、自分の生命が
じつに良く実感でき、「私は生きている!」という、たいへん大きな喜びと感謝の気持ち
が生じることも述べました。
ここでは、そのことについて、もう少し詳しく述べたいと思います。
原始仏教の経典や、新約聖書を読むことによって知ることができる、
生きとし生きるもの全てを愛した、「釈迦の慈悲」。
罪人や異邦人、そして敵をも愛した、「キリストの愛」。
この「釈迦の慈悲」や「キリストの愛」は、釈迦やキリストの「生命」です。
なぜ、「釈迦の慈悲」や「キリストの愛」が、釈迦やキリストの「生命」なのかと言え
ば、「釈迦の慈悲」や「キリストの愛」を全身に浴び、それを心と体の全体で感じ取ると、
「釈迦やキリストの生命が、自分にも与えられた!」という実感が、心の底から湧き起こっ
てくるからです。
ところで、釈迦の慈悲やキリストの愛を「全身に浴びる」という表現をしたのは、釈迦
やキリストが、慈悲や愛のまなざしを「光のシャワー」のように自分にそそいでくれる感
じがするからです。
その「釈迦の慈悲」や「キリストの愛」を全身に浴びると、心が喜びに満ちて、「生命」
というものが新しく吹きこまれたような感じがするのです。つまり、自分が「新しく生ま
れ変わった」ような感じがするのです。
そして、
「いま、自分は本当に生きている!」
「いま、自分は本当の生命を得たのだ!」
という感じが、どうしてもするのです。
それまでの自分が、まるで機械か人形のごとく「死んでいた」かのように感じてしまい
ます。たぶんそれは、「釈迦の慈悲」や「キリストの愛」を全身に浴びることで、生き生
きとした「生命のエネルギー」が、自分の中に湧き起こってくるからです。
この感覚は、「恋愛」の場合と比べてみるのが、いちばん分かりやすいと思います。
熱烈な恋愛をすると、恋人が「自分の生命の源」であるとか、「自分の生命の全て」で
あるかのように感じてしまいます。心が喜びに満ち、恋人から「生命のエネルギー」が与
えられたように感じるのです。自分の人生がとても充実し、「自分は本当に生きている!」
という感じがします。それまでの自分が、「本当には生きていなかったのではないか?」
と、感じてしまうほどです。自分が新しく生まれ変わり、新しい人生が始まったように感
じるのです。
そして、そのような「感じ」がするのは、恋人が自分に「生命」を与えてくれるからで
す。
「釈迦の慈悲」や「キリストの愛」を全身に浴びると、これと同じようなことが起こる
わけです。
また、その感覚は、芸能界やスポーツなどの、あこがれの「スーパースター」に会うこ
とにも似ています。
スーパースターに会うことができて、握手をしたり、会話ができたり、サインをもらっ
たりすれば、とても大きな感激と喜びに心が満たされ、生きる希望や生きる勇気が湧いて
きます。それは、そのスーパースターが自分に「生命」を与えてくれるからです。
「釈迦の慈悲」や「キリストの愛」を全身に浴びると、これと同じようなことが起こる
わけです。
以上のように、
「釈迦の慈悲」や「キリストの愛」は、釈迦やキリストの生命です。
そして、それを全身に浴びることにより、その生命が私にも与えられるのです。
7章 肉体が死んでも、生き続ける生命
世の人々をひろく愛し、苦しみから救おうとした、釈迦やキリスト・・・。
その釈迦やキリストの、「思い」や「意志」・・・。
つまり、「釈迦の慈悲」や「キリストの愛」は、彼らの肉体が死んでも、なお生き続け
ている、彼らの生命です。
なぜなら、釈迦やキリストが死んでから2千年以上も経った現代でも、「釈迦の慈悲」
や「キリストの愛」は、私たちに「生きるエネルギー」を与えてくれるからです。
そして、「釈迦の慈悲」や「キリストの愛」が、私たちに「生きるエネルギー」を与え
てくれるのは、釈迦やキリストの「生命」が、私たちに与えられるからです。
つまり、「釈迦の慈悲」や「キリストの愛」は、釈迦やキリストが私たちに与えてくれ
る「生命」であり、釈迦やキリストの「生命そのもの」なのです。
このように釈迦やキリストの「生命」は、彼らの肉体が死んでもなお、2千年以上にも
わたって確かに生き続けています。
ところで、この「釈迦の慈悲」や「キリストの愛」は、「物質ではないもの」であり、
以前に3章で述べた「生命のソフトウエア」です。
「釈迦の慈悲」や「キリストの愛」という生命のソフトウエアが、「人間の脳」という
生命のハードウエアにインストールされると、その人間に「生きるエネルギー」を生じさ
せるのです。
ところでソフトウエアが同じであれば、ハードウエアが異なっていても、インストール
された「ソフトウエアそのもの」は同じものです。
だから、「釈迦の慈悲」や「キリストの愛」という生命のソフトウエアを、自分の脳に
インストールすれば(自分の心に宿せば)、その慈悲や愛は、釈迦やキリストのそれと同
じものです。
そして上で述べたように、「釈迦の慈悲」や「キリストの愛」は、彼らの生命そのもの
でした。つまり、「釈迦の慈悲」や「キリストの愛」を自分の心に宿せば、釈迦やキリス
トと同じ「生命」を、自分も手に入れたことになるのです。しかもそれは、肉体が死んで
も生き続ける生命です。
つまり、釈迦やキリストが世の人々を愛したのと同じように、私たちも世の人々を愛せ
ば、私たちの生命は、私たちの肉体が死んでも生き続けるというわけです。
8章 生命の実感
「生命」というものを、心の底から実感すると、「生命力」というか、「生命のエネル
ギー」が、心と体に満ち満ちて来ます。
とにかく、以前の私には「生命」というものが存在していなかったのではないか? と
疑いたくなるほどの、心境の変化が起こるのです。
ここでは、そのような「生命の実感」について述べたいと思います。
ところで私は、自分の心と向き合うために、よく瞑想(めいそう)をします。
そして、私が30代後半ぐらいの頃は、心を下へ下へと、押し下げるような意識で瞑想
を行っていました。そうすると、たしかに心が安定して「安らぎ」を得ることができまし
た。しかし、その「安らぎ」は、精神状態が地の底に沈んでしまったような、何か生命の
エネルギーを失った、生きているのか死んでいるのか分からない、虚(うつ)ろな「安ら
ぎ」だったのです。
しかし40歳ぐらいになって、それに気がついた私は、心を下に押し下げるのではなく、
心を上に上にと持ち上げるように、瞑想の方法を変えました。そうすると、「心を高揚さ
せる瞑想」ができるようになり、精神状態が天に向かって昇るような「ハイな状態」へと、
高めることが出来るようになったのです。
そのような「心を高揚させる瞑想」を行うと、何か理由の分からない「活発なエネルギ
ー」に、心と体が満たされる感じがしてきます。
頭に心地の良い「うずき」を感じ、胸が暖かくなり、心が喜びに満ちるのです。そして
体中にも、ジンジンとした感じの「生命のエネルギー」が満ちてきます。心がドキドキし
たり、ワクワクしたりします。
とにかく理由もなく嬉しくなり、「自分が今ここに、あるがままに存在している」とい
うだけで、心の中が喜びでいっぱいになるのです。
さらに瞑想を深めると、ことさらに意識して精神を集中させなくても、自動的に精神が
「ギューッ」と集中するようになり、精神の状態がどんどんと高まって行きます。
そしてついに、精神が最高の状態にまで高まり、ある種の「絶頂感」を迎(むか)えま
す。しかし性的な快楽の絶頂感とはまったく異なり、心の状態はいたって穏やかであり、
安らかです。
しかしながら、性的な絶頂感とは比べものにならない程の、高いレベルの絶頂感なので
す。しかしそれでいて、性的な快楽が全く存在せず、心が静かに安定しているのです。本
当に不思議な感覚です。
(このような感覚を体験した初めのうちは、その高揚した精神状態に驚き、カーッと頭
に血が上って心臓がドキドキしていたのですが、慣れてくれば、精神の状態が高まっても、
心は落ち着くようになりました。)
この感覚は、それまで私が経験した中で最高の精神状態でした。心にぴったりとした、
心に矛盾のない、完璧で完全な心の状態です。
言葉で表せば、「これで良し!」、「全て良し!」という感じです。とにかく、それま
での自分とは、脳の構造が変わってしまったのではないか? と、疑いたくなるほどの、
まったく新たな心境です
そして私は、「これが “生命” というものに違いない!」という、確信を持つようにな
りました。それ以前の私は、「本当の生命」を持っていなかったのではないか? と、思っ
てしまうほどです。
ここで言う「生命」とは、心の底と体の芯から湧き起こって来る生命力、生きる力の根
源みたいなものです。このような「生命」を実感すると、心と体の全体が生きる喜びに満
ち、「生命の根源的な喜び」を感じるのです。
私が体験した「生命の実感」とは、以上のようなものです。
9章 私の生命の始まり
いったい「私の生命」は、いつ始まったのか?
この疑問に対して、ごく普通に考えれば、「私の生命は、私が生まれたときに始まった」
とするのが、もっとも自然な答えでしょう。
しかし「私の生命」は、本当に「私が生まれたとき」に始まったのでしょうか?
私が生まれる前の「胎児の生命」は、「私の生命」ではなかったのでしょうか?
そんなことはありません。私が胎児だったときの生命も、「私の生命」です。
それならば、精子と卵子が結合して「受精」をしたときに、「私の生命」が始まったの
でしょうか?
受精をする前の精子と卵子は、「私の生命」ではなかったのでしょうか?
この疑問について、私はつぎのように考えます。
たとえば、精子や卵子に「生命」というものがまったく存在せず、精子や卵子が完全に
死んだ「ただの物質」であって、受精のときに「生命」というものが突然に始まったのな
らば、「私の生命は受精のときに始まった」と確かに言えるでしょう。
しかし、そんなことはありません。精子や卵子には、もともと「生命」が存在している
からです。
もしも精子や卵子に「生命」が存在しなければ、お互いに結合して受精するなどという、
「生命活動」を行うはずがありません。だから、精子や卵子に「生命」が存在するのは明
らかです。
ゆえに、受精のときに「私の生命」が始まったのではありません。もともと存在してい
た私の生命が、受精による合体という「変化」をしただけなのです。
つまり精子と卵子の「生命」は、受精によって変化する前の「私の生命」だと言えるの
です。
それならば、精子や卵子が作られたときに、「私の生命」が始まったのでしょうか?
これも、そんなことはありません。精子や卵子が作られたときに、「生命」がとつぜん
に始まった訳ではないからです。精子は、父親の精巣の細胞が変化して作られたものであ
り、卵子は、母親の卵巣の細胞が変化して作られたものです。
つまり精子は、父親の生命が変化したものであり、卵子は、母親の生命が変化したもの
です。だから、精子や卵子を作り出す「親の生命」もまた、変化する前の「私の生命」だ
と言えるのです。
そしてこの関係は、人類の祖先や、哺乳類の祖先、爬虫類、両生類、魚類、軟体動物、
プランクトン、バクテリア、そして、地球で生まれた最初の生命体にまでさかのぼります。
しかし、40億年前に最初の生命体が誕生したときだけは、この話が成り立ちません。
なぜなら、この時だけは、完全に死んだ「ただの物質」から、「生命」というものが突
然に始まったからです。
だから「私の生命の始まり」は、40億年前の、そのときだったと言えるのです。
つづく
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