生命について 1
                               2024年7月21日 寺岡克哉


 今回から、「生命について」という本の原稿を紹介して行きたいと思います。
 本書は、「生命」というものに対して、さまざまな視点から私の考えを述べたものです。



 題名 生命について

 目次


 はじめに

第1部 さまざまな生命概念
 1章 自我意識としての生命
 2章 肉体としての生命
 3章 生命のハードウエアとソフトウエア
 4章 動物的生命と理性的生命
 5章 文章に宿る生命
 6章 釈迦やキリストの生命
 7章 肉体が死んでも、生き続ける生命
 8章 生命の実感
 9章 私の生命の始まり

第2部 人類の集合意識と生命
10章 人類の集合意識とは
11章 自我意識の「波及効果」は、肉体が死んでも消滅しない
12章 自我意識の波及効果は「生命」である

第3部 大生命
13章 大生命の定義
14章 大生命は一つの生命維持システム
15章 大生命は一つの生命
16章 大生命の意思
17章 生命の仕事
18章 生命の仕事は波及拡大し、肉体が死んでも消滅しない
19章 波及拡大する生命の仕事は「生命」である
20章 大生命の木
21章 大生命と大生命の木
22章 私の生命の本体

第4部 神と生命
23章 神の定義
24章 神の意志
25章 神は生命である
26章 永遠の生命

 あとがき




 はじめに

 これまで私は、「生命」というものについて、いろいろと考察してきました。それでこ
のたび、その考察を一冊の本として、まとめておきたいと思いました。

 ところで「生命」といえば、一般的に「生物」を思い浮かべる人が多いでしょう。たと
えば生物学における「生物の定義」とは、
(1)外界と膜で仕切られている。
(2)代謝(生命の維持や活動に必要なエネルギーを得たり、成長に必要な有機物質を合
   成するための、生体内で起るすべての生化学反応)を行う。
(3)自己複製する。
 の、3つだとされています。ちなみに、目に見えないほど小さな「細菌」でも、この3
つの条件をすべて満たしているので、細菌は「最小の生物」だと言えます。

 しかし本書で取り扱う「生命」とは、そのような生物学上の生命だけに留(とど)まら
ず、精神的な生命や、地球の生態系を生命とみなしたり、神を生命と考えるなど、もっと
もっと広い概念を持つものです。

 本書では、そのような「生命」の、さまざまな側面について述べて行きたいと思います。




 第1部 さまざまな生命概念

1章 自我意識としての生命
 私たちは、「生命」というものを、一体どのようにして認識するのでしょう?
(ある事物を「認識する」とは、その事物を知ったり、理解したりすることです。)

 それについて考えてみると、生命を認識するには、まず第一に、「自分は生きている!」
と自分自身が認識することから、すべてが始まるように思います。
 自分が生きていることを、自分で認識しているから、「おそらく他の人や、他の生物も、
自分と同じように生きているのだろう」と認識することができ、「生命」という概念が認
識できるようになるのです。
 つまり、「生命」を認識する最初の第一歩は、「自我意識」の存在を認識することから
始まるのです。

 それで次に、この「自我意識」について、すこし具体的に説明してみましょう。

●自我意識とは、「自分が生きていること」や、「自分が存在していること」を認識する
 意識です。
●自我意識とは、自分と外界を区別し、「自分は一人しか存在しない!」と言う、「自己
 の独自性」を認識する意識です。
●自我意識とは、今日の自分も、昨日の自分も、1週間前の自分も、1年前の自分も、10
 年前の自分も、つねに同じ自分であるという、「自己の同一性」を認識する意識です。
●自我意識とは、自分の欲求や希望、目標などを自らの意思で実現させようとする、「能
 動的な思考や行動」を生じさせる意識です。

 この自我意識が働いている間は、一時も休むことなく、自分が生きていることを認識し
続けます。自我意識が存在している間は、自分が生きているという認識を、一時たりとも
止めることができません。
 自我意識によって、考えたり、思ったり、悩んだり、喜んだり、楽しんだり、愛したり、
怒ったり、憎んだり、悲しんだり、苦しんだり、見たり、聞いたり、味わったり、匂った
り、話したり、触ったり、歩いたり、走ったり、その他さまざまな行動をするから、「自
分は生きている!」と認識できるのです。

 そして自我意識により、自分が生きていることを認識しているから、自分の「生命」と
いうものが認識できるわけです。
 さらにまた、自我意識により、自分の生命を認識しているから、他の人間の生命も、他
の生物の生命も、認識することが出来るわけです。

 以上のように、自我意識による自分の生命の認識、つまり「自我意識としての生命」は、
「生命」を認識するための基本中の基本であり、「生命」を認識する出発点だと言えるの
です。


2章 肉体としての生命
 肉体としての生命(以下、「肉体の生命」と略します)とは、「意識を持たない肉体」
だけに概念を限定した生命です。これは主に、医学(精神医学を除く)や生物学などの対
象にされる生命です。

 「肉体の生命」とは、たとえば頭や胴体、手、足、目、鼻、口、耳、皮膚、髪、爪など
の、いわゆる体です。
 また、体の内部にある、脳、骨、筋肉、血管、心臓、肺、胃、腸、その他の内臓なども、
「肉体の生命」です。
 あるいは、体を作っている数多くの小さな「細胞」も、「肉体の生命」になります。

 つまり、生命のうち「物質」で出来ている部分が「肉体の生命」です。

 ところで、「なぜ肉体は生きているのか?」、「なぜ肉体が生命なのか?」と言えば、
それは肉体が「代謝(たいしゃ)」というものを行っているからです。
 この「代謝」とは、生命の維持や活動に必要なエネルギーを食物から得たり、成長に必
要な有機物質を食物から合成する(つまり食べて育つ)ための、体の中で起こるさまざま
な化学反応のことを言います。

 つまり「肉体の生命」とは、「代謝を行う生命」だとも言えるのです。

 ところで「肉体の生命」には、当然ですが「意識」というものがありません。だから肉
体が健康で、何も問題が生じていなければ、ことさら肉体の存在を感じることはありませ
ん。
 ところが! 空腹や渇(かわ)き、暑さ、寒さ、病気の苦しさ、怪我の痛さなどを感じ
れば、肉体の存在を、嫌と言うほど思い知らされます。

 「肉体の生命」は、そのような特徴を持っている「生命」なのです。


3章 生命のハードウエアとソフトウエア
 生命には、「ハードウエア」の部分と「ソフトウエア」の部分が存在すると、私は考え
ています。
 ハードウエアとか、ソフトウエアというのは、コンピューターの概念ですが、これらの
概念を借りれば、生命の概念をたいへん良く表現できるのです。
 しかし、それについて述べる前に、まずコンピューターの、ハードウエアとソフトウエ
アの概念を整理しておきたいと思います。

 コンピューターは、大きく分けてハードウエアとソフトウエアの、二つの部分から成り
立っています。それらを簡単に言えば、ハードウエアは「物質」で、ソフトウエアは「物
質ではないもの」です。

 まず、前者の「ハードウエア」とは、コンピューターの本体や、キーボード、ディスプ
レイ、プリンター、スピーカーなどです。また、コンピューター本体を構成するICチッ
プ(集積回路)や、さまざまな電子部品なども、ハードウエアです。
 ハードウエアというのは、コンピューターの「物質で出来ている部分の全て」を指す概
念です。つまり、コンピューターを構成している全ての物体、コンピューターの見たり触っ
たりできる部分の全てが、ハードウエアです。

 一方、後者の「ソフトウエア」とは、プログラムやデータなどの「情報」のことです。
だからソフトウエアというのは、「物質ではないもの」です。
 ところで「ソフトウエア」と言えば、CD-ROMやハードディスク、古くはフロッピー
ディスクや磁気テープなどを思い浮かべるかも知れません。そして、「ソフトウエアも物
質で出来ているではないか!」と、思われるかも知れません。
 しかし、CD-ROMやハードディスクと言ったものは「記憶媒体」であり、「ソフト
ウエアそのもの」ではないのです。
 CD-ROMやハードディスクなどの「記憶媒体」は、たしかに物質で出来ています。
しかしソフトウエアとは、それらの記憶媒体に記憶されている、プログラムやデータなど
の「情報そのもの」のことです。
 だから「ソフトウエアそのもの」は、見ることも触ることもできない、「物質ではない
もの」なのです。

 ところでプログラムやデータでも、画面に表示したり、紙に印刷をすれば、「見ること
が出来るではないか!」と、思われるかも知れません。しかしそれは、「情報を文字で記
述したもの」であって、「情報そのもの」ではありません。
 同じ様な例として、たとえば新聞は「情報媒体」ですが、新聞の実際に見たり触ったり
できるのは、「紙」と、それに書かれた「文字」です。
 しかし、文章の意味する「内容そのもの」、つまり「情報そのもの」は、見ることも触
ることも出来ません。
 同様に、コンピューターのソフトウエアは「情報そのもの」であり、見ることも触るこ
とも出来ない、「物質ではないもの」なのです。

 ところでコンピューターは、ハードウエアだけでは絶対に成り立ちません。
 ソフトウエアが全く存在しなければ、コンピューターは、キーボードをたたいても何ひ
とつ反応しないからです。計算をすることも、画面に絵や文字を表示することも、音を出
すことも、まったく何もできません。
 ちなみに、コンピューターのスイッチを入れるだけで、キーボードをたたくと文字が打
ち込めるのは、「キーボードをたたいた時は文字を入力せよ!」というソフトウエアが、
すでに動いているからです。
 ソフトウエアが存在しなければ、コンピューターは単なる「物質」です。ただの鉄やプ
ラスチックの塊です。
 つまりハードウエアという「物質」に対し、ソフトウエアという「物質ではないもの」
が働きかけることによって、コンピューターは「コンピューターとして」機能するのです。

              * * * * *

 「生命」の場合も、上のコンピューターの話と、まったく同じようになっています。つ
まり生命も、ハードウエアとソフトウエアから成り立っているのです。

 「生命のハードウエア」とは、たとえば人間で言えば「人体」のことです。
 頭や胴体、手、足、目、鼻、口、耳、皮膚、髪、爪などが、生命のハードウエアです。
 人体を内部から見た場合は、脳、骨、筋肉、血管、心臓、肺、胃、腸、その他の内臓な
どが、生命のハードウエアになります。
 人体を微視的に観察した場合は、脳細胞や筋肉細胞などの「細胞」や、さらには、その
細胞を構成する、細胞膜、細胞核、ミトコンドリアなどが、生命のハードウエアです。
 つまり、生命の「物質」で出来ている部分が、「生命のハードウエア」なのです。

 一方、「生命のソフトウエア」とは、本能、感情、思考、意思、心、精神、意志などと
言ったものです。
 それらは、「物質ではないもの」です。だから、見ることも触ることも出来ません。こ
れも、コンピューターのソフトウエアと同様です。

 その「生命のソフトウエア」のうちでも、いちばん単純なものは、「食物を取りたい!」
とか「繁殖をしたい!」などと言った、ある種の「意志」です。つまり、自発的に生命活
動を行おうとする意志です。

 私はこれを、「生命として生きる意志」と呼んでいます。

 「生命として生きる意志」は、脳を持たない、細菌や単細胞生物にさえ存在しています。
また、まったく移動することが出来ない植物でさえも、「背たけを伸ばしたい!」とか、
「花を咲かせて実を結びたい!」というような、「生命として生きる意志」を持っていま
す。

 ところで、コンピューター制御の自動工作機械などは、それがいくら複雑な構造をして
いても、いくら活発に動いていても、いくら大量の製品を生み出しても、それを「生命」
とは言いません。
 自動工作機械には、「自発的に生命活動を行おうとする意志」、つまり「生命として生
きる意志」が存在しないからです。

 だから、「生命として生きる意志」は、「生命の定義」のようなものです。
 そして、この「生命として生きる意志」が、いちばん基本的な「生命のソフトウエア」
なのです。

 さらに一般的に言えば、「生命のソフトウエア」とは、肉体という物質に働きかけて、
何らかの自発的な行動や活動の動機となる、「物質ではないもの」です。
 だから人間の場合は、教育、文化、風習、伝統、思想、宗教なども、「生命のソフトウ
エア」になります。


4章 動物的生命と理性的生命
 「生命」には、「本能的な動物としての生命」と、「理性的な精神としての生命」とい
うのがあります。
 この二つの生命概念は、私が勝手に作ったものではありません。じつは紀元前の昔から
知られていたものです。ギリシャ語では、「本能的な動物としての生命」を「ビオス」、
「理性的な精神としての生命」を「ゾーエー」と言います。
 また、トルストイ(人生論、新潮文庫)の表現によると、前者を「動物的生存」、後者
を「理性的な意識」と言っています。
 ここでは、「本能的な動物としての生命」を「動物的生命」、「理性的な精神としての
生命」を「理性的生命」と略し、これら二つの生命について、もう少し詳しく見て行きた
いと思います。

 さて、「動物的生命」と「理性的生命」の、いちばん明白な違いは、「動物的生命」は
動物でも持っている生命であり、「理性的生命」は人間しか持っていない生命だというこ
とです。なぜなら、「理性」を持つのは人間だけだからです。
 このように、両者の違いは実に明白なのですが、しかし、上の説明では抽象的にすぎま
す。だから以下、それらについて、もう少し具体的に説明して行きましょう。

 まず「動物的生命」とは、生物学的、生理学的、本能的、肉体的な生命です。
 食欲を満たして体を成長させ、性欲を満たして繁殖する生命です。つまり、飲んで、食
べて、寝て、成長して、性欲を満たして、子供を生み育てるという、本能的な動物として
の生命です。

 ところで現代では、科学文明の影響がとても強く、「生命」といえば、DNA、クロー
ン技術、遺伝子組み換え、細胞、生殖、発生など、このようなものを連想します。これら
はみな、「動物的生命」の中に入ります。しかも、動物的生命のうちでも「物質的な部分」
です。それは、前の3章で述べた「生命のハードウエア」に相当します。

 しかし動物的生命には、「本能」という「物質ではない部分」も存在します。本能とは、
「食物を取りたい!」とか「繁殖したい!」というような、ある種の「意志」です。この
「意志」は、脳を持っていないプランクトンや細菌でさえ存在しています。これを前の
3章で「生命として生きる意志」と呼びました。
 動物的生命は、「細胞」や「肉体」などの「物質的な部分」、つまり前の3章で述べた
「生命のハードウエア」と、「本能」や「意志」などの「物質ではない部分」、つまり3章
で述べた「生命のソフトウエア」から出来ているのです。

 一方、「理性的生命」は、「物質ではない」生命です。理性的生命には、物質的な部分
が全くありません。「理性」や「高度な思考」など、高次の精神的な要素のみによる生命
です。
 理性的生命は、動物には存在せず、人間だけに存在する生命です。ただ単に、動物とし
て生きているのではなく、「人として生きている」という意味での「生命」なのです。

 たとえば、「生ける屍(しかばね)」という言葉があります。牢屋(ろうや)などに閉
じ込められ、水と食料だけが与えられ、会話や読書を禁止され、仕事や作業も与えられず、
人格も認められず、思考もせず、ただ肉体だけが生かされている状態。このような状態で
は、「人として生きている」とは、とても言えません。これが「生ける屍」の状態です。
 ところで、この「生ける屍」という言葉は、一見すると矛盾しています。なぜなら、
「屍」が生きているからです。本来は、死んだ肉体のことを屍と言うのであって、屍が生
きている訳がありません。
 だからこの言葉は、肉体としては生きていても、「何ものか」が死んでいることを表し
ています。この「何ものか」に相当するのが、人としての生命、つまり「理性的生命」な
のです。
 「生ける屍」の状態は、肉体は生きていても、「人として生きている」とは言えない状
態のことです。「動物」としては生きていても、「人間」としては死んでいるのです。
「生ける屍」という言葉の「屍」は、動物的生命の屍ではなく、理性的生命の屍なのです。

 また例えば、「人はパンだけで生きるのではない」という言葉があります。これは、人
が生きるためには、パン以外の「何か」が必要なことを表しています。
 人は、パンを食べるだけでは生きられないこと。つまり、動物的生命を維持するだけで
は、人は生きられないことを表しているのです。この、人が生きるための、パン以外の
「何か」が、「理性的生命」です。

 また例えば、「食うために生きるな、生きるために食え!」という言葉もあります。こ
れは、前者が「動物的生命」について、後者は「理性的生命」について言っています。
 つまり、この言葉は、「動物的生命を維持するためにだけ生きるな、理性的生命を生か
すために、動物的生命を維持せよ!」と、言っているのです。

 人間は、動物的生命を維持するだけでは、生きて行けません。なぜなら人間は、単なる
動物ではないからです。人が生きて行くためには、「理性的生命」が絶対に必要なのです。
 たとえば、「自殺」という現象がそれを証明しています。人間は、餓死の恐れがなくて
も自殺をします。動物的生命を維持するのに、何の支障がない状態にあっても、人間は自
殺をするのです。
 これは、動物的生命が維持できても、人が生きて行くためには、さらに「何か」が必要
なことを明確に証明しています。「自殺」という現象は、動物的生命の状態が完璧なのに、
この「何か」が不足しているために、生命が維持できずに死んでしまうのです。
 この「何か」が理性的生命です。人間が生命を維持するためには、動物的生命の他に、
理性的生命が必要不可欠なのです。

             * * * * *

 ところで、「理性的生命とは何か?」を把握(はあく)するためには、たとえば次のよ
うなことに、考えを巡らしてみれば良いと思います。

 衣食住が満たされているだけでは足りないもの。
 周囲から無視されたり、ひどい「いじめ」に合えば喪失してしまうもの。
 エゴイズムをむき出しの争いをすれば、返って失ってしまうもの。
 性欲などの本能的な欲求に駆られた生活を長く続ければ、消耗し、枯渇してしまうもの。
 助け合いや、利他の精神を起こさせるもの。
 自分のエゴイズムを適度に抑制するもの。
 自分の本能的欲求を適度に抑制するもの。
 真理、徳、善、美、隣人愛、人類愛、慈悲などを認識するもの。
 他の多くの生命を守ったり、助けたりするために、自分の命をも犠牲にするという選択
をさせるもの。

 これら、動物には存在しない「人間に特有な性質」の中に、「理性的生命」の特徴が現
れています。
 人間は、「理性的生命」が消耗し、枯渇して行けば、生き生きとしなくなります。生命
の輝きを失い、生命が暗くなって行きます。生きていても面白くなくなり、何のために生
きているのか分からなくなります。生きているのが辛くなって行き、そして最悪の場合は、
自殺をして本当に死んでしまいます。
 集団による「いじめ」などは、まさに「理性的生命」を強制的に奪い取り、死に至らし
める行為です。
 傷害や殺害など、「動物的生命」に対する暴行は一般に良く認識されていますが、「理
性的生命」に対する集団暴行などは、まだ一般に良く認識されていないのです。

 人が生きるためには、「理性的生命」を維持し、成長させて行かなければなりません。
維持するだけではなく、「成長」も必要なのは、「生命」は成長が止まれば、生き生きと
しなくなるからです。なぜか、生命はそのような性質を持っています。これは、動物的生
命についても、同じく言えることです。

 以上から、人間の生命には「動物的生命」と「理性的生命」の、二つの要素が存在して
います。
 そして人間が人間らしく、いきいきと生きるためには、「動物的生命」を維持するだけ
ではダメで、「理性的生命」を成長させて行くことが、どうしても必要不可欠になってい
るのです。



 つづく



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