神の顕現 10
                               2024年7月14日 寺岡克哉


48章 「生命の意義」は生命である
 以前に45章で述べたように、「生命の意義」は波及拡大します。
 その、「生命の意義」が波及拡大したものは、「波及拡大した生命の意義」だから、も
ちろんそれも「生命の意義」です。

 一方、以前に44章で、「生命の意義」を「生命活動が与えた影響の全て」と、定義し
ました。つまり「生命の意義」とは、「生命活動が与えた影響」のことです。

 だから「波及拡大した生命の意義」は、もちろん「生命の意義」なので、それは「生命
活動が与えた影響」です。
 そして一方、「波及拡大した生命の意義」は、波及拡大する前の「生命の意義」が与え
た影響です。

 上の二つを整理すると、
●「波及拡大した生命の意義」は、「生命活動」が与えた影響である。
●「波及拡大した生命の意義」は、「生命の意義」が与えた影響である。
 と、なります。

 ここで両者を比べると、「生命の意義」=「生命活動」であることが分かります。
 つまり「生命の意義」とは、「生命活動が与えた影響」ですが、それと同時に「生命活
動そのもの」でもあるのです。
 そして、「生命の意義」が「生命活動」ならば、当然ですが「生命の意義」は生命活動
をします。
 そしてさらに、「生命の意義」が生命活動をするならば、それは「生命」であると言っ
ても、まったく差し支えありません。

 ゆえに、「生命の意義」は生命なのです。


49章 生命は、肉体が死んでも生き続ける
 前の48章で述べたように、「生命の意義」は生命です。
 そして以前に47章で述べたように、「生命の意義」は肉体が死んでも生き続けます。
 ゆえに生命は、肉体が死んでも生き続けることになります。
 その生命は、「肉体の生命」ではないけれど、確かに生命活動が可能な「生命」として、
肉体が死んでも生き続けるのです。

 その典型的な例として、釈迦やキリストの肉体は2000年以上も前に死んでいますが、
釈迦やキリストの生命が、現在も生き続けていることについて述べたいと思います。

 広く世の人々を愛し、苦しみから救おうとした、釈迦やキリスト・・・。
 その釈迦やキリストの、「思い」や「意志」や「願い」・・・。
 つまり、「釈迦の慈悲」や「キリストの愛」は、この世に彼らが残した、彼らの「生命
の意義」です。
 そして、前の48章で述べたように、釈迦やキリストの「生命の意義」は、彼らの生命
です。
 ゆえに、「釈迦の慈悲」や「キリストの愛」は、釈迦やキリストの「生命」なのです。

 ところで、「釈迦の慈悲」や「キリストの愛」は、2000年以上にもわたって、世界
中の人々に波及拡大して行きました。
 つまり、釈迦やキリストの生命は、2000年以上にわたって生命活動を続け、波及拡
大し、現在も生き続けているのです。

 ちなみに、「釈迦の慈悲」や「キリストの愛」は、現代においても実感できます。
 というのは、仏教経典や新約聖書で「釈迦の慈悲」や「キリストの愛」に触れると、苦
しみから救われて、「生きる希望」や「生きる勇気」や「生きる意欲」など、つまり「生
命力」が、現代に生きる私たちにも生じるからです。

 そして、「釈迦の慈悲」や「キリストの愛」に触れると、私たちに「生命力」が生じる
のは、それに触れることよって、釈迦やキリストの「生命」が、私たちに与えられるから
です。
 つまり、「釈迦の慈悲」や「キリストの愛」は、彼らが私たちに与えてくれる「生命」
であり、釈迦やキリストの「生命そのもの」なのです。

 釈迦やキリストの肉体は死んでしまったけれど、彼らは現在も生き続けています。
 実際に私も、釈迦やキリストが死んでしまったとは、どうしても思えません。


50章 永遠の生命
 以前に1章で定義したように、神とは、「この世を、この様にしているもの」でした。

 そして以前に8章で述べたように、ごくごくごくごく小さなものではありますが、あな
たや私も、「この世を、この様にしているもの」の一部です。つまり、あなたや私は、神
の一部なのでした。

 また、あなたや私の「生命の意義」も、ごくごくごくごく小さなものではありますが、
「この世を、この様にしているもの」の一部です。だから「あなたや私の生命の意義」も、
神の一部です。

 ところで、「あなたや私の生命の意義」は、無限に波及拡大を続けて行きます。
 なぜなら、原因と結果の「因果関係」というのが、永遠に続いて行くからです。
 つまり、あなたや私の生命活動が原因となって、何らかの結果が生じ、その結果が新た
な原因となって、さらに新たな結果が生じる・・・ という因果関係。それが、たとえ人
類が滅びようとも、永遠に続いて行くからです。

 そうすると、前の48章で述べたように、「生命の意義」とは生命だから、「あなたや
私の生命」は、無限に波及拡大して、永遠に生き続けることになります。
 また、あなたや私の「生命の意義」は神の一部だから、「あなたや私の生命」も神の一
部なのは言うまでもありません。

 そしてこれが、いわゆる「永遠の生命」ではないかと、私は考えています。
 つまり神は、「あなたや私の生命」を神の一部として受け入れ、あなたや私に「永遠の
生命」を与えてくれるのです。


 ところで一方、以前に32章で述べたように、「(肉体の)死」とは、一瞬であり永遠
でした。

 だから、神が与える永遠の生命は、一瞬にしか感じられないものです。

 あなたや私は、肉体が死んでも、何百億年、何千億年、それこそ無限の時間を生き続け
ることになりますが、しかしそれは、一瞬で過ぎ去ってしまう出来事なのです。だから神
が与える「永遠の生命」は、長くて辛いものでは決してありません。

 一瞬であり永遠、そして神の一部となり、無限に波及拡大して行く生命・・・ 
 神が、あなたや私に与えてくれる「永遠の生命」とは、そのようなものなのです。


51章 真の幸福(結び)
 以前に1章で定義したように、神とは、「この世を、この様にしているもの」でした。
 だから2章で述べたように、「この世が、この様になっている」以上、神は「論理的に
存在しなければならないもの」であり、神を信仰しても信仰しなくても、そんなことには
関係なく、神は厳然と存在します。

 そして、
 8章で述べたように、神は、あなたや私を、神の一部として完全に受け入れてくれます。
 9章で述べたように、神は、あなたや私を根底から認めてくれます。
 10章で述べたように、神は、あなたや私を無限の愛で抱いてくれます。
 50章で述べたように、神は、あなたや私に永遠の生命を与えてくれます。

 そしてまた、
 20章と21章で述べたように、神を実感すること。
 22章で述べたように、神を求めること。
 23章で述べたように、神を愛すること。
 24章で述べたように、神に祈ること。
 40章で述べたように、神に感謝し、いつも神と共に在り続けること。

 以上から、
 神は、疑う余地なく、厳然と存在します。そして確かに、神の存在を実感することもで
きます。だからここに、「神の顕現」が成されたことを宣言します。

 あなたや私は、すでに神の一部であり、神に完全に受け入れられ、神に根底から認めら
れ、神の無限の愛に抱かれ、神から永遠の生命を与えられています。

 そして、あなたや私が、神の存在を実感し、神を求め、神を愛し、神に祈り、神に感謝
し、神と共にあり続けること。

 そのことによって、あなたや私は「真の幸福」が得られるのだと、ここに結論します。


 終わり




あとがき

 ついに、書きたいことを書いてしまいました。
 誰にも遠慮せずに、誰からの批判も恐れずに、神に対して自分の思ったことや考えたこ
とを、自由に書かせて頂きました。

 ところで、まず最初から「神を定義」するなんて、ものすごく不遜な態度だと、批判を
受けるかも知れません。が、しかし、その後の論理展開が、かなりすっきりしたのも確か
です。

 本書は、これまで私の人生の、「集大成」だといっても過言ではありません。私が子供
の時から現在までの体験が、本書には詰め込まれています。

 私は、本書を執筆しているとき、とても幸せでした。
 なぜなら、本書を執筆しているときは、一心に神のことを思い、一心に神のことを考え、
一心に神と向き合っていたからです。本書を執筆しているとき、自分が神と共にあること
が、はっきりと実感できました。

 また、本書を執筆することによって、私が、神から「永遠の生命」を与えられているこ
とを、ますます確信するようになりました。

 本書が完成できて、ほんとうに良かったと思っています。そしてそれを、心から神に感
謝しています。

                         2024年7月14日 寺岡克哉



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