神の顕現 8
                               2024年6月30日 寺岡克哉


40章 神に感謝すること
 日々「神に感謝すること」は、いつも神を身近に感じるために、とても大切なことです。
 つまり「神に感謝すること」は、自分が神と共に在ることを、つねに確認するために、
とても重要なことなのです。
 だから私も、日々神に感謝するようにしていますが、私が一番よく神に感謝するのは、
「呼吸ができること」に対してです。

 ところで私は、「呼吸」に対して、かなり意識している人間です。
 それは、病気がちだった子供のときの体験が関係しています。私が子供の頃は、よく風
邪をひき、すぐに39度以上の高熱を出して、鼻と咽(のど)を詰まらせ、「呼吸に苦労
した覚え」があります。小学校の2年生や3年生の頃は、毎月のように、このような風邪
に悩まされました。
 そのとき子供ながらに、「体が健康であり、鼻と咽の空気の通りが良ければ、それだけ
で本当に幸せなことなのだ!」と、たいへん強く思っていました。まず私が、「呼吸」に
対して強く意識するようになったのには、この病気がちだった子供のときの体験が影響し
ています。

 それから年月が経って、私は高校と大学で山岳部に所属しましたが、その時にも、随分
と「呼吸に苦労した覚え」があります。
 私は海外での高所登山の経験はないのですが、日本の標高3千メートルほどの山でも、
けっこう空気が薄くて、かなり息苦しいのです。息を吸っても、吸っても、呼吸がぜんぜ
ん楽になりません。歩いている間は、つねに呼吸が荒くなっています。
 そのとき、「呼吸をして体内に酸素を取り込むのも、ずいぶん大変なことだ!」と、心
の底から思い知らされました。
 そして、「呼吸を荒げることなく、普通に静かな呼吸ができるだけで、ものすごく幸せ
なことなのだ!」と思いながら、山を必死に登った覚えがあります。

 いま上で述べたように、子供のときの病気がちだった体験と、高校と大学のときの登山
経験から、「呼吸が無意識にできることは、ものすごく幸せなことなのだ!」と、いうこ
とに気がつきました。そして、「呼吸ができること」について、色々と考えるようになっ
たのです。

 ところで、「呼吸」をことさらに意識しないで済む条件。つまり、「無意識な呼吸」が
できる条件は、「自分の体が正常であること」と「周囲の環境が正常であること」の、大
きく二つが挙げられます。
 自分が病気になっていたり、胸や腹などを強く打ってひどい怪我をしたり、高山などの
空気の薄い場所にいたり、水に溺れかかっていたり、ゼンソクになりそうなくらい空気が
汚れていれば、絶対に「無意識な呼吸」はできません。
 自分の体が正常で、なおかつ周囲の環境が正常でないと、「無意識に呼吸ができる状態」
には決してならないのです。

 ここで、「無意識な呼吸」ができる条件を以下に列挙してみると、
●自分の体が健康であること。(怪我や病気がないこと。)
●身の安全が保障されていること。(空気が薄かったり、酸欠、毒ガス、水に溺れるなど
 の危険がないこと。)
●大気汚染がなく、空気がきれいであること。
●酸素のある大気が、この地球に存在していること。
●その酸素は、植物が作っていること。
●その植物は、「地球の全ての生物を含めた生態系」によって支えられていること。
●地球の生態系は、太陽の光と熱(太陽エネルギー)によって支えられていること。
●その太陽は、宇宙を漂う「星間物質」が集まって出来たこと。
●星間物質は、ビッグバン(宇宙誕生の大爆発)によって生成されたこと。
 等々が挙げられます。

 これら上の条件が全て満たされた時に、「無意識に呼吸ができる状態」になるのです。
 そして、それらの条件が整えられているのは、「この世を、この様にしているもの」つ
まり以前に1章で定義した「神」が、この世を、その様にしているからです。
 ゆえに、「無意識に呼吸ができる」と言うその事実こそが、取りも直さず、神に抱かれ、
神に守られ、神に受け入れられ、神に愛されていることを、明確に証明しているのです。
 従って、「呼吸ができること」を日々神に感謝することにより、つねに自分が神と共に
在ることを、いつでも確認することが出来るのです。


41章 神にすべてを任せるとき
 人生においては、「もはや、自分の力ではどうにもならない!」と、心の底から思い知
らされるときがあります。
 そのようなとき私は、体のよけいな力が抜けて、焦りや不安がすべて消えさり、なにか
暖かな空気に全身が包まれて、心も体もたいへんリラックスした状態になりました。

 そして、
 「もはや、私にはどうすることも出来ません。」
 「すべてを神にお任せします。」
という気持ちになったのです。
 私は今までに、そのような体験を何回かしたことがありますが、その内の一つを以下に
紹介してみましょう。

 以前に35章で少し触れましたが、それは1983年の夏。私が大学の山岳部に入って
2年目のことでした。ロッククライミングや冬山登山などを一通り経験し、山登りに対し
て自信を持ちはじめるころでした。まだ大きな失敗を経験したことがなく、恐いもの知ら
ずで、功名心がとても旺盛(おうせい)になる時期です。

 その年の夏山合宿で、「むずかしい岩壁に挑戦しよう!」という話になりました。その
岩壁とは、北アルプスの立山にある「丸山東壁」です。600メ-トルの垂直な壁がそび
え立つ、ロッククライミングではとても有名な場所です。
 丸山東壁には、先輩と私と、私の同輩との、3人のパーティで挑戦しました。しかし登
り始めてから15時間たっても、150メ-トル(岩壁全体の4分の1)しか登ることが
出来ませんでした。それで仕方がなく、途中で撤退するはめになったのです。

 じつを言うと、撤退の原因を作ったのは私でした。
 私が、オ-バ-ハング(岩がせり出し、天井のように覆い被さっている所)を登ってい
る途中で、ロープ(厳密にはロープで作った「あぶみ」という三段はしご)に足がからま
り、逆さ吊り状態になって、身動きが出来なくなったのです。
 私はその状態のまま、40分ぐらい悪戦苦闘をしていました。しかし体力と精神力が消
耗し、精も根も尽きはててしまいました。しかもそのとき、岩壁を登り始めてからすでに
15時間も経過していたのです! それだけでも、体力はずいぶん消耗していました。
 そして日も暮れてきました。しかし私たちは、岩場で宿泊する装備を持っていなかった
のです。

 先輩の判断で、それ以上登るのをあきらめ、ロープを使って下降(懸垂下降:けんすい
かこう)することに決まりました。ところが下降している途中で、完全に日が暮れて、真っ
暗になってしまったのです。ヘッドライトを点灯しても、ロ-プで下降した先にテラス
(足場)があるのかないのか、まったく見えません。その中をロープで下降して行くと、
「暗黒の地の底」に吸いこまれて行くような感じがしました。

 そのとき、私は心の中で、
 「ああ、私の立ち入ってはならない所に来てしまいました。」
 「願わくば、どうか生きて帰らせて下さい。」
と、運命を司っている「何かとても大きな存在」に祈っていました。つまり、今にして思
えば「神」に祈っていたのです。

 しかし不思議なことに、そのとき私は、「死への恐怖」をまったく感じませんでした。
「生きたい!」という気持ちも、「死にたくない!」という気持ちも、全くありませんで
した。心がパニックになっていた訳でも、茫然自失(ぼうぜんじしつ)していた訳でもあ
りません。
 妙に心が落ちつき、まったく焦りや不安がなく、よけいな体の力が抜けていました。そ
して全身が、なにか暖かい空気に包まれ、優しい雰囲気に抱かれているような感じがしま
した。とても安らかで、とても充実した気分です。
 そのような気持ちになったのは、おそらく、「生死を超越した境地」に到達したからだ
と思います。

 そのとき私は、「神が、私の命を持っていかれるのならば、それはそれで仕方がありま
せん」という気持ちでした。
 しかしながら、「願わくば、生きて無事に帰らせて下さい」という気持ちもありました。
 しかしやはり、「私が生きるも死ぬも、すべて神にお任せします!」というのが、その
ときの私の気持ちに、ぴったりだったと思います。

 幸運にも私たちのパ-ティは、だれも怪我をすることなく、無事に下山することができ
ました。もちろん、先輩が冷静な決断をして、適切な行動をしたこと。そしてみんなが、
細心の注意をはらって下山したことが幸いしたのです。
 しかし私としては、「神が助けてくださったのだ!」という思いが込み上げて、とても
大きな感動と、この上ない感謝の気持ちが湧き起こったのも事実でした。


42章 自我意識と神
 当たり前のことですが、私には、私の「自我意識」が存在します。
 そして、この「自我意識」を具体的に説明すると、以下の四つの意識が統合されたもの
と言えます。

●「自分が生きていること」や、「自分が存在していること」を認識する意識。
●自分と外界を区別し、「自分は一人しか存在しない!」と言う、「自己の独自性」を認
 識する意識。
●今日の自分も、昨日の自分も、1週間前の自分も、1年前の自分も、つねに同じ自分で
 あるという、「自己の同一性」を認識する意識。
●自分の欲求や希望、目標などを自らの意思で実現させようとする、「能動的な思考や行
 動」を生じさせる意識。

 つまり、「自我意識」を簡単に言うと、「自分が、自分の意思で、自分だと認識する意
識」です。

 ところで、私の自我意識は、私だけにしか存在しません。
 もしも私の自我意識が、私以外の人間にも存在すれば、私は常に自分の体が二つ以上存
在するように感じるはずだから、すぐに分かります。
 だから私の自我意識が、私だけにしか存在しないのは、当たり前の事実です。

 しかし、この「当たり前の事実」が、私にはどうしても理解できない、ものすごく不思
議なことなのです。
 なぜ、私の自我意識は、私に存在するのでしょう?
 なぜ、この時代の、この国の、この場所で、この家族の下に生まれた、この人間に、私
の自我意識が存在するのでしょう?
 たとえば地球には、(2023年の時点で)80億以上もの人間がいます。それなのに、
なぜ私の自我意識は、80億人の中の1人を選び、この私に存在するのでしょう?
 難民の子どもに生まれ、すぐに餓死する人間に、私の自我意識が存在した可能性もあり
ました。妊娠中絶や流産で、自我意識を持ち得る前に死んでしまった可能性もありました。
あるいは、お金持ちや上流階級の家庭に生まれた人間に、私の自我意識が存在した可能性
もあったはずです。
 さらには、100年前や、1000年前、1万年前の人間に、私の自我意識が存在した
可能性もありました。
 しかしなぜ、いま現在の、この私なのか? それが、どうしても私には解からない、も
のすごく大きな謎なのです。

             * * * * *

 ところで私が生まれるとき、父親の何億もの精子の内、1つ隣の別の精子が受精したな
らば、私の自我意識は存在しませんでした。だから、違う日に行われた交接によって受精
しても、私の自我意識は存在できなかったのです。それは、兄弟の場合を考えれば分かり
ます。

 さらには、もしも私が一卵性の双生児(同じ受精卵から生まれた双子で、全く同じDN
Aを持つ)であっても、私の双子の兄弟には、私の「自我意識」は存在しません。彼に存
在するのは、彼の「自我意識」です。

 このように、私の両親が存在したとしても、さらにはその両親から、私と全く同じDN
Aを持つ子供が生まれたとしても、その子供が、私の自我意識を持ちうる保障は、どこに
も無かったわけです。

              * * * * *

 そして今後、この地球に何百億もの人間が生まれたとしても、私の自我意識が生じるこ
とは二度とないでしょう。
 なぜなら私には、私が生まれる前の過去に、私の自我意識が存在したという記憶、つま
り「前世の記憶」がないからです。過去数万年の人類史の中において、私の前世の記憶な
ど、私には全くないのです。
 だから今後、何万年の時間が経とうとも、私の自我意識が生じることは、二度と無いと
考えるのが妥当です。

 それどころか、今後ビッグバン(宇宙の誕生)を何万回くり返そうとも、私の自我意識
が生じることは二度と無いでしょう。
 なぜなら、過去に何回のビッグバンが起こったのか知りませんが(過去には無限の時間
が存在するから、無限回のビッグバンが起こったとしても不思議ではない)、もしも、そ
のどれかの宇宙に、私の自我意識が存在したならば、今の私がそれを記憶しているはずだ
からです。しかし私には、そのような記憶が一切ありません。
 だから無限の未来においても、私の自我意識は、二度と生じることが無いと考えるのが
妥当です。

 以上から、なぜ、無限の過去から無限の未来の中で、この宇宙の、この地球の、この国
の、この時代の、この人間に、私の自我意識が存在するのかは、いくら考えても全く解か
りません。
 強いて言うなら、以前に1章で、神とは「この世を、この様にしているもの」と、定義
しました。だから、この世に私の自我意識が存在する以上は、「神が、その様にしたから
だ」と、自分自身を納得させるしかないと思っています。

 と、言うよりは、むしろ神が、私の自我意識を、私に与えてくれたのです!
 また逆に、「私の自我意識が、この世に存在する」という、正にその事実こそが、神の
存在を明白に証明しているのです。もしも神が存在しなければ、私の自我意識は、絶対に
存在できなかったわけです。
 そのように理解することで、長年にわたる私の疑問が解消して、心の底から納得できる
ようになったのでした。


43章 転生は存在しない
 前の42章で述べたように、私が死んでから何千年、何万年の時間が経とうとも、それ
こそ私が死んでから何百億年、何千億年、さらには無限の時間が経とうとも、私の自我意
識は二度と生じることがないでしょう。

 ゆえに、「転生(生まれ変わり)」は存在しません。

 しかしながら、「じつは多くの人が転生しているけれど、前世の記憶が消え去っている
だけだ!」というような、反論があるかも知れません。
 が、しかし、そのような反論にたいして私は、「前世の記憶が完全に消えているのなら
ば、それは、転生が存在しないのと全く同じだ」と主張します。

 ところで、私が「転生を否定」するのは、「自殺して生まれ変わる」などという間違っ
た考えに、陥(おちい)らないでほしいからです。

 また、「あなたの来世は畜生道に落ちる!」などと脅かして、高額な布施を要求したり、
あやしげな商品を高額で売りつけたりする詐欺に、引っかからないでほしいからです。

 そしてまた、近年では漫画やアニメで「異世界転生もの」が流行(はや)っており、小
中学生の子供たちが、安易に転生を信じてしまうことを危惧しているからです。

 重要なことなので繰り返しますが、自分の自我意識が存在できるのは、無限の過去から
無限の未来のなかで、今生の一度かぎりです。もう二度と、自分の自我意識が存在するこ
とはありません。
 その、ものすごく、ものすごく大切なことを、しっかりと心に刻み込んで頂きたいと思
います。



 つづく



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