神の顕現 7
2024年6月23日 寺岡克哉
35章 神に守られていること
前の34章で述べた「生かされる強制力」と話が似ていますが、神は、私たちを様々な
危機から守ってくれます。それは例えば、私の人生を振り返ってみても、随分そのような
ことがありました。
ここでは、「神に守られている!」と私が強く実感したときの、体験談を紹介してみま
しょう。
まず最初に、これは母から聞いた話ですが、私は生まれたときに産声を上げなかったそ
うです。すこし未熟児だったらしく、ぐったりとした状態で生まれ、病院の人たちに心配
されましたが、その後、幸運にも息を吹き返したそうです。
これも私の記憶になく、母から聞いた話ですが、私が2歳ぐらいのときに、タバコの吸
い殻を口に入れたそうです。みるみる顔が青くなり、ぐったりとなったそうですが、母が
すぐ病院に駆け込んで、急いで胃洗浄をした結果、なんとか私の命が助かったみたいです。
もしも母の対応が少しでも遅れていたら、私は死んでいたでしょう。
これは、いちばん古い記憶にある私の危機ですが、私が4歳ぐらいのとき、冬に凍った
川の上で一人遊びをしていて、氷を踏み抜いてしまいました。まず「ガボッ」という音が
して右足を踏み抜き、とっさに左足で踏ん張りましたが、それも踏み抜いてしまいました。
私はすごく焦りましたが、氷の上に手と膝をついて四つんばいになり、そろりそろりと川
岸に移動することで、何とか助かりました。
私が小学校2年生のとき、なかなか熱が下がらなくて、精密検査を受けるために入院し
ました。しかし検査の結果「白血病」と診断され、「もう長くないので覚悟してください」
と、両親が医者から言われたそうです。ところが入院して薬(抗生物質)を飲んでいるう
ちに、熱が下がって、白血球の数も正常になり、2週間ほどで退院することが出来ました。
治った原因は、医者にも分からなかったそうです。
(しかしその後、私は虫垂炎になって手術をしたので、白血球が増えたのは虫垂炎が原因
だったと仮定すれば、抗生物質で一時的に改善したのも理解できます。)
私が小学校6年生のとき、公園で野球をしていて、打たれた球を拾おうとしたら、「ガ
ツッ」という音がして、目の前が真っ暗になりました。球を拾おうとした先に、ブランコ
の立ち乗りをしていた子供がいて、そこに私が突っ込んで行き、ブランコの板に額をもろ
にぶつけたのです。みるみる額が腫れていき、目が開けられなくなりました。ぶつけた場
所は、額の「眉毛の高さ」でしたが、もう少し下の「目の高さ」だったら、死んでいたか
もしれません。
同じく小学校6年生のとき、ラジオのアンテナがわりに、太いピアノ線をラジオに取り
付けて、感度が良くなるか試していたのですが、ふとした拍子に、そのピアノ線を「下ま
ぶた」に突き刺してしまいました。刺した場所が、もう少し上の「目」だったら、まちが
いなく失明していました。
時は流れて、大学2年生の夏。山岳部に所属していた私は、岩登りで、北アルプスの
「丸山東壁」という岩壁に挑戦しました。ところが失敗して夜になり、真っ暗になった岩
壁からの撤退を、余儀なくされたのです。精も魂も尽き果てて、意識が「ボーッ」として
いる中での撤退でしたので、よく生還できたものだと今でも思っています。
同じく大学2年生の冬。青森県にある岩木山の単独登山に挑戦しました。しかし吹雪で
視界がまったく無く(ホワイトアウト)、自分の現在位置さえも分からなくなってしまい
ました。地図によれば、山小屋に着いているはずの位置だったのですが、小屋がどこにも
見あたりません。しかしそのとき、風が一瞬止んで視界が少し良くなり、ふと後ろを振り
返ったら、およそ10メートル先(つまり目と鼻の先)に小屋があり、私は助かったので
す。そのとき、もし風が一瞬でも止んでいなかったら、私はどうなっていたか分かりませ
ん。
大学3年生の春。青森県の白神山地で沢歩きをしたとき、滝を登っている最中に落下し
ました。「フワッ」と体が軽くなったと思ったら、「ドスン」と音がして、滝の途中にあ
る岩のくぼみに身体が引っかかって止まりました。もしも滝の下まで落下していたら、10
メートルぐらいの高さがあったので、体のどこかが骨折していたかもしれません。
大学3年生の夏。北アルプス剱岳(つるぎだけ)の長次郎雪渓を登っていて、大規模な
落石に遭いました。すぐ逃げようとしましたが、足がスリップして四つんばいになり、そ
のまま動けなくなりました。その瞬間、人の頭ほどの大きさの石が10個ぐらい、雪渓の
上の方から勢いよくバウンドしながら、私の方に向かって落ちてきたのです。私は四つん
ばいで動けないまま、それらの石をスローモーションのように見ていました。幸いにも、
すべての石が私の手前でバウンドし、私の体の上を通り過ぎて行きました。もしも体に当
たっていたら大怪我をする所でしたし、頭に当たっていたら死んだでしょう。
大学3年生のときの3月。北海道の大雪山を縦走して最終日に下山するとき、ルートを
間違って崖を降りてしまいました。登り返そうとしましたが、雪のついた急な崖でズルズ
ルと滑り、無理に動けば崖から落ちそうでした。それでリュックサックを崖の下に落とし、
身軽になって崖から飛び降りることにしたのです。崖の高さは5メートルぐらいありまし
たが、下に雪が積もっていたので助かりました。崖の下に落としたリュックサックは見失
いましたが、春になって雪が融けると、現地の人が見つけて警察に届けてくれたので、
ちょっとした遭難騒ぎになりました。
時が流れて、38歳ぐらいのとき。サイクリングをしていたら、暴走している対向車が
私の方に突っ込んできました。運よく、私にはぶつかりませんでしたが、その直後に「ド
ン」という音がして、その暴走車がカーブの土壁に激突していました。もどって様子を見
に行ったら、他の車の人が助けていたので、そのまま私はサイクリングの目的地に向かい
ました。
43歳ぐらいの冬。買い物のために歩道を歩いていたら、スリップした自動車が私の方
に突っ込んできました。幸運にも、自動車は私のわずか30センチ手前で止まり、ぶつか
ることはありませんでした。歩道と車道の間に、除雪でできた「雪の壁」があったので、
それにぶつかって自動車が止まったのです。もしも雪の壁が無かったら、まちがいなく私
は自動車に轢(ひ)かれていました。
以上、「神に守られている!」と私が強く実感したときの、体験談を紹介しました。昔
を思い出し、こうして書き並べてみると、これまでの人生で、たくさんの危機に直面して
いたことが分かりました。今にして思えば、それら全ての危機を回避できたのは奇跡的な
ことであり、やはり「神に守られていた!」としか考えられないのです。
36章 神に救われること1
誰でも人生で一度ぐらいは、長年の苦労や努力がまったく認められず、自暴自棄になり
たくなる時が、あるのではないでしょうか?
例えば、いじめや引きこもりで苦しんでいる人々・・・。
彼らや彼女たちは、孤独の中で苦しみと戦っている努力が、世間の人たちになかなか理
解してもらえないのではないでしょうか?
あるいは、リストラされたり、自分の勤める会社が倒産してしまった人々・・・。
とくに40代や50代のサラリーマンで、このような目に遭った人は、たいへん辛い思
いをしているのではないでしょうか。休日出勤やサービス残業を文句も言わずにやり、
20年も30年も努力をしてきた報いがこれなのです。
しかも、再就職をしたくてもなかなか出来ません。それまでの経験やキャリアがまった
く評価されないどころか、年齢制限にひっかかってしまいます。その上、家族を抱えてい
れば、なおさら大変です。このような人たちは、ほんとうに苦労が報われないと思います。
苦労や努力が報われない苦しみや、それを分かってもらえない悲しみは、他にもたくさ
んあります。
例えば、
いくら不眠不休で働いても、自分の経営する店や工場が赤字になり、借金ばかりが増え
ていく人々・・・。
不治の病で、長年の闘病生活を続ける人々・・・。
国籍や民族、血筋によって差別を受けている人々・・・。
ほんとうに、世の中には理不尽なことが多いと思います。
上のような苦しみに比べたら大したことないのですが、私のつたない人生においても、
自暴自棄になりたくなったことが何度かあります。
例えばその一つに、私が科学者になる道を断念した時のことがあります。じつは私は、
10年間ほど無給の身分で大学の研究室に所属し、物理学の研究にかじりついました。
そのころは、土日も返上して研究室に通い詰めでした。徹夜になったり、4時間ぐらい
の睡眠しか取れないこともしばしばです。
実験のスケジュールがとても忙しくなると、3日間のあいだに3時間の仮眠しか取れな
かったこともありました。
しかし、いくら研究の努力を続けていても、世間一般の人から見れば「お金を稼ぎもせ
ず、自分の好きなことが出来て良い身分だ」としか思われないのです。
そして最後は結局、自分ではかなり努力したつもりでしたが、博士学位を取得するには
至りませんでした。
そのときの経験から、いじめや引きこもりで「孤独な戦いを続ける苦しみ」や、40代
や50代でリストラされる「経験やキャリアが評価されない苦しみ」が、分かるとまでは
言えませんが多少は想像できるのです。
* * * * *
ところで私は、苦労や努力が報われなくて自暴自棄になりそうな時は、イエス・キリス
トのことを考えるようにしています。そうすると私の心が救われて、自暴自棄にならない
で済むのです。
私は、キリストほど苦労や努力が報われなかった人は、いないのではないかと思います。
たとえばキリストは、各地を旅しながら、目の見えない者や、足が不自由で歩けない者、
皮膚病を患っている者、職業や身分で差別を受けている者、精神や心が病んでいる者たち
を癒して回りました。
またキリストは、「神と隣人への愛」という、たいへん素晴らしい「教え」を説いて回
りました。その「教え」の素晴らしさは、その後2000年以上にもわたって人類に尊ば
れることにより、今では明確に証明されています。
キリストが行った仕事は、人類のもっとも偉大な業績のひとつです。その証拠に、世界
の歴史を記述するのに使われる「西暦」は、キリストが生まれた年を基準にしているので
す。
このようにキリストは、人々を苦しみから救うために、たいへんな苦労と努力を惜しみ
ませんでした。が、しかし、その報いは、磔(はりつけ)にされて殺されることだったの
です!
十字架に磔にされたキリストは、弟子たちには逃げられ、周囲からは罵(ののし)られ、
手足を杭で打ち抜かれた激痛に耐えていました。そんな苦しみと孤独の中でも、キリスト
は最後の最後まで、自分を磔(はりつけ)にした人間たちを恨みませんでした。
それどころかキリストは、「父(神)よ、彼らをお赦しください。自分が何をしている
のか知らないのです。」と、神に祈っています。これは、自分(キリスト)を磔にした罪
人たちを、神が赦して下さるように執(と)り成しているのです。
つまりキリストは、自分を磔にして殺そうとする人間たちさえも、慈愛の心で思いやっ
ていたのです!
この時のキリストを考えれば、私の苦労や努力など、大したことないと思えてきます。
磔にされて死ぬまでの「キリストの生きざま」が私の心に迫り、「どんな時でも隣人を
愛しなさい!」と、力強く語りかけてきます。
そして、どんなに辛くて苦しい時でも、他人を恨んだり世の中を憎んではいけないと、
考え直すことができるのです。
たしかに、世の中には理不尽なことがたくさんあります。
世の中を憎みたくなる気持ちも、少しは分かる気がします。
「ムシャクシャするから人でも殺してやろう!」とか、
「もしも爆薬が手に入るのだったら、テロでも起こしてやろう!」と、本気で思ってい
る人間が、今の日本に何人いても不思議ではないと思います。
しかしキリストの愛は、そのような「自暴自棄になって犯罪を犯してしまうこと」から、
私を未然に救ってくれるのです。
そして、この世にキリストを遣わして、私を救ってくれた神。つまり、この世にキリス
トを誕生させて、愛の教えを説かせ、その教えを2000年以上にもわたって人類の間に
伝えさせ、それを私に届けて救ってくれた神に対して、「無上の有難さ」を感じないでは
いられないのです。
37章 神に救われること2
前の36章で触れた「自暴自棄」といえば、「失恋」をしたときも、ものすごく自暴自
棄になってしまいます。
私の体験(黒歴史)を恥ずかしながら紹介すると、いちばん酷(ひど)い失恋をしたの
は30歳代の頃でしたが、そのときの私の様子は、だいたい以下のようでした。
まず、結婚を考えるほど好きだった相手の女性から、私の告白を断られてから、
その後3時間ぐらいは、頭が真っ白になって、自室で茫然と立ち尽くしていました。
その後半日ぐらいは、何も考えることが出来なくなり、
その後3日ぐらいは、食べ物が喉を通りませんでした。
その後3ヵ月ぐらいは、ものすごく落ち込んだ気分が続き、
その後3年ぐらいになってやっと、失恋のことが気にならなくなりました。
しかし、その失恋の後10年ぐらいは、新しい恋をしようとは全く思いませんでした。
いま思い出してみると、ずいぶんと拗(こじ)らせたものです。
ところで私が失恋をした日、茫然(ぼうぜん)と立ち尽くしていた自室の中で、「相手
を殺して自分も死のう!」という考えが、一瞬よぎったこともありました。
しかし、そのとき、頭の中が真っ白になっていて、なにも良く考えられないけれど、そ
のギリギリに追いつめられた極限状態の中で、「それは絶対にダメだ!」と、言葉ではな
い声で強く命令され、ぐっと思い止まったのです。
その、言葉ではない声による「強い命令」は、頭の上から射してくる白い光によって与
えられた感じがしました。
絶望に追いつめられ、何も考えられないギリギリの極限状態の中で、「相手を殺して自
分も死のう!」という黒い感情よりも、「それは絶対にダメだ!」という理性の光が勝っ
たのです。
今にして思うと、それは「神」による、声ならぬ声だったのでしょう。
神により照らされた「理性の光」が、自暴自棄になって犯罪を犯してしまう間違いから、
私を救ってくれたのです。
ちなみに、ずっと昔から現在においても、交際を断られた相手の女性を殺してしまう事
件が後を絶ちません。そして私も、上で述べた体験から、そのような気持ちが分からなく
もありません。
が、しかし、もしも神による「理性の光」が犯人にも照らされていたら、残虐な犯罪を
犯さずに済み、犯人も被害者も救われたかもしれないのです。それを思うと、ものすごく
残念でなりません。
* * * * *
ところで後日談ですが、あのとき私は失恋して良かったと、今では思っています。
なぜなら、もしも結婚して家族を築いていたら、定職につかず自由に書き物をしている
今の生活など、絶対に望めなかったからです。
また、本書を執筆して「神を顕現」することも、まず間違いなく不可能になっていたで
しょう。
だから、あのとき失恋して、現在も独身でいるのは、「神の導き」だったのではないか
と、今では思えてならないのです。
38章 「神にすがる」ということ
人間が、この世を生き抜くためには、「神にすがること」も時には必要だと思います。
しかしながら、「神にすがるなど、弱い人間のすることだ!」と、考える人もいるので
はないでしょうか。
が、しかし、神にすがって生きるのは、本当に弱いことでしょうか?
私は、そうは思いません。なぜなら、大きな苦難や挫折に遭ったとき、すぐに自殺して
しまうよりは、神にすがってでも生きぬく方が、「強い人間」だと私は思うからです。
ところで、私が「神にすがる」と言っているのは、自分は何もしないで、ただひたすら
神に助けを請い、すべてを神にやってもらうことではありません。
そうではなく、「神にすがる」というのは、自分が行動を起こす勇気や力を、神から頂
くということです。
例えば、
自分の信念をつらぬく力。
誘惑や迷いにうち勝つ力。
良いことや正しいことを、周りの批判を恐れずに実行できる勇気。
大きな苦難に会っても、絶望したり自暴自棄にならずに、転機が訪れるまでじっと耐え
ぬく忍耐力。
そのような力や勇気を、神から頂くのです。
またあるいは、「神に全てをまかせる」ことによって、いらぬ心配や不安から逃れるこ
ともできます。これも、私が言う「神にすがること」の一つです。
しかしそれも、自分は何もしないで、ただ神に全てをまかせるのではありません。自分
が出来ることを全てやったら、あとは神にまかせるということです。
世の中には、いくら考えても絶対に解決できないことや、いくら心配しても何の利益も
ないことがあります。
たとえば・・・
大切な人が、大怪我をしたり、重い病気になったりして、生死の境をさまよっていると
き。
子供や家族が、不慮の事故に合わないかどうかという心配。
自分の将来や人生への、漠然とした恐れや不安。
・・・・・・等々。
このようなことは、自分がいくら心配しても、何の利益もありません。そんな時は、自
分がやれることを全てやったら、あとはすべて神にまかせ、無益な心配や不安から逃れる
のです。
また例えば、
自分の過失で、人を死なせてしまった・・・
愛する子供や家族が、病気や事故、あるいは犯罪に巻き込まれて死んでしまった・・・
戦争や大災害が起こり、身内も、知り合いも、みんな死んでしまった・・・
・・・・・・等々。
もしも、このようなことが起こってしまったら、いくら悔やんでも、いくら悲しんでも、
どうすることも出来ません。そんなとき、自分がやるべきことを全てやった後は、神にす
がって、自分の心を救ってもらうのです。
世の中には、神にでもすがらなければ、どうにもやりきれないことが、どうしても存在
します。そんなとき、自暴自棄になって殺傷事件を起こしたり、自殺をしてしまうよりは、
「神にすがってでも正しく生きぬく」ことの方が、人間として立派だと私は思います。
だから「神にすがる」というのは、決して恥ずかしいことではありません。それは人間
が、この生きにくい世の中を、生き抜いて行くために、神から与えられる力なのです。
39章 「神に願う」ということ
私が、「神に願う」というのは、
「お金が儲かりますように」とか、「宝くじが当たりますように」などの、御利益を願
うことではありません。
また、「試験が合格しますように」とか、「病気や怪我が治りますように」と願うので
なく、死者を蘇(よみがえ)らせたりするような「奇跡」を願うのでもありません。
そうではなく、私が「神に願う」というのは、神に願い続けることによって、「努力を
継続する力」を神から頂くことなのです。
ところで私の人生においても、「願い続けること」によって、本当に叶えたい願いが、
叶えられたことは何度もありました。
たとえば、
大学や、大学院に入学できたこと。
両親を、最後まで介護することが出来たこと。
いま現在、文章を書き続けることが出来ていること。
などが、そうです。
そして、これらの願いが叶えられたのは、「願い続けること」によって、願うたびに自
分の目的が再確認され、知らず知らずのうちに、その方向への努力が継続されたからだと
思っています。
このように、「願い続けること」によって、努力を続ける力を神から頂くこと。
それが、「神に願う」ということだと、私は考えています。
だから「神に願う」というのは、決して、努力を放棄して「神に丸投げ」することでは
ありません。努力を放棄した「願い」など、神は絶対に叶えてくれることは無いでしょう。
つづく
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