神の顕現 6
2024年6月16日 寺岡克哉
第3部 神と人生
30章 神は、なぜ苦しみを与えたのか
神は、なぜ人間に「苦しみ」を与えたのでしょう?
つまり神は、生命進化によって、なぜ「苦しみ」を感じるように、人間を作ったので
しょう?
この疑問にたいして私は、人間を「生かすため」に、神が「苦しみ」を与えたのだと考
えています。
つまり、
人間が自分の生命を守るため。
人類という種族を絶やさないため。
人間がより良く生きるため。
人間の可能性をできる限り引き出すため。
そのために神は、人間に「苦しみ」を与えたのです。
たとえば、飢えや渇き、暑さ、寒さの苦しみは、「人間が自分の生命を守るために」に、
神が人間に与えました。なぜなら、もしもこれらの苦しみがなかったら、食べようとせず、
飲もうとせず、体を適した温度に保とうとしないからです。そして、すぐに死んでしまう
ことでしょう。
また、怪我や病気の苦しみを、神が人間に与えたのも同じ理由です。もしも怪我や病気
をしているのに、痛くも苦しくもなかったら、それを直そうとせずに死んでしまうでしょ
う。
恋人ができなかったり、失恋したり、結婚しても子供が出来なかったり、あるいは、愛
する子供を失ったときにも苦しみますが、これは「人類という種族を絶やさないため」に、
神が人間に与えました。
もし恋人ができなくても苦しみを感じなければ、異性を求めて子孫を残そうとしないで
しょう。また、自分の子供が死んでも何も感じなければ、わざわざ苦労をして子供を守り
育てようとしないでしょう。
そして、暴力、虐待、差別、殺人、テロ、戦争・・・ これらに苦しみを感じなかった
ら、隣人愛や慈悲の心を人々に広めようとしたり、平和や平等を実現しようとしないでしょ
う。だからこの苦しみは、「人間がより良く生きるため」に神から与えられたのです。
また、「生きる目的」や「生きる意味」が見い出せなかったり、「自分は社会の役立た
ずだ!」などと感じてしまうと苦しみますが、これは「人間の可能性をできる限り引き出
すため」に、神が人間に与えたのです。
人それぞれが、自分の可能性をできる限り発揮させるために、このような苦しみが神か
ら与えられたのです。もしも、そのような苦しみを全く感じなかったら、だれ一人として、
自分を鍛えたり切磋琢磨しないでしょう。
以上から、
人間が自分の生命を守るため。
人類という種族を絶やさないため。
人間がより良く生きるため。
人間の可能性をできる限り引き出すため。
そのために神は、人間に「苦しみ」を与えたことが分かるのです。
ちなみに、もしも「苦しみ」というものが全く存在しなかったら、たとえば「死への恐
怖」という苦しみさえも無かったら、人間は生きようとさえしないでしょう。
「苦しむこと」は、人間としてより良く生き、人間の可能性をより追求するために、神
から与えられた「人間の能力」だと言えます。
なぜなら人間は、「苦しむ能力」や「苦悩する能力」が与えられたお陰で、これまで進
歩発展できたのであり、これからも、さらに進歩発展しようとするからです。
31章 神は、なぜ死を与えたのか
なぜ神は、人間だけにかぎらず、すべての生物に「死」を与えたのでしょう?
神は、すべての生物に「苦しみ」を与え、それぞれの生物が一生懸命に生き抜くように
しています。
それなのに、神は「死」を与えたため、すべての生物は、けっきょく最後に必ず死なな
ければなりません。生命には、そのような不条理がどうしても存在します。
一体どうして神は、そんな不条理を生命に与えたのでしょう?
この疑問にたいして私は、「生命全体の維持と発展のため」に、神が生物個体に死を与
えたのだと考えています。そして、そう言える理由として、「食物連鎖」と「生命進化」
の、二つの例を挙げたいと思います。
一つ目の「食物連鎖」は、地球の生命全体を維持するために、どうしても必要です。な
ぜなら食物連鎖を否定すれば、地球のすべての生命が、生きられなくなってしまうからで
す。
たとえば肉食動物は、草食動物を食べなければ生きられません。そして草食動物は、植
物を食べなければ生きられません。さらに植物も、動物の糞や死骸を肥料にしなければ生
きられないのです。
そして例えば、もしも肉食動物がいなかったら、草食動物が増えすぎて、植物を食べ尽
くしてしまうでしょう。そうなれば、草食動物も食べるものが無くなり、飢えて死んでし
まいます。
そしてこれは、たんなる空想の話ではなく、実際に起こった例があります。たとえば、
ある地域でオオカミを完全に駆除したら、シカが増えすぎて植物を食い荒らし、その地域
の生態系が壊滅的になったそうです。
このように、地球の生態系を維持するためには、どうしても食物連鎖が必要です。食べ
物になり、死んでくれる生命がいるからこそ、すべての生命が生きられるのです。
だから食物連鎖による「死」は、生命全体が生きていくために、どうしても必要なもの
です。
そして二つ目として、「生命進化」のためにも「死」がどうしても必要です。
なぜなら生命が進化するためには、つねに新しい生命が生まれる必要があるからです。
そして、そのためには、古い世代の「死」が、どうしても必要だからです。
もしも、いちど生まれた生物が永久に死ななければ、それらの生物で地球上がいっぱい
になってしまいます。そうなるともう、新しい生命の生まれる余地がなくなり、生命の進
化が不可能になってしまいます。
生命が無限に進化して行くためには、無限に新しい生命が生まれなければなりません。
そして、「地球」という限られた場所でそれを可能にするには、「世代交代」をするしか
ないのです。その「世代交代」をするために、古い世代の「死」が、どうしても必要にな
るわけです。
以上ここまで、「食物連鎖」と「生命進化」の考察により、生命全体の維持と発展のた
めには、「生物個体の死」がどうしても必要なことが分かりました。
神は、生物個体に「死」を与えた代わりに、生命全体が生きられる環境を与え、生命が
無限に進化する能力を与えたのです。そのようにして神は、地球の生命全体の存続と発展
を達成させているのです。
ところで、私は最近、神が死を与えた第三の理由として、「死の存在が救いになる」と
考えるようになりました。その経緯(いきさつ)は、以下の体験に基づくものです。
・・・私が52歳のとき、母が癌(がん)で亡くなりました。
その母が亡くなる少し前、いよいよ癌の末期状態になったとき、まだ試していない抗癌
剤が一種類残っていました。そして、その抗癌剤を使えば、あと数ヵ月ぐらいは長く生き
られるはずでした。
が、しかし、「もう、抗癌剤を使うのは嫌だ!」という母の意向を尊重して、抗癌剤治
療を打ち切ったのです。つまり私の母は、抗癌剤治療によって苦しみが続くことよりも、
死期が早まることを望んだのでした。
私と母が主治医に相談して、抗癌剤治療の中止が決定されたとき、母には悲愴(ひそう)
な感じが見られず、どちからと言えば、すこしホッとして、安心していたように見えまし
た。
そのとき私は、「死の存在」が、死にゆく本人にとって「救いになる」ということを、
目の当たりにしたのです。
この体験を通して私は、神が死を与えることによって、生きられるだけ生き抜いたら、
最後は苦しみから解放される道を用意してくれているのだと、考えるようになったわけで
す。
生きられるだけ精一杯に生き、死ぬときが来たら死ぬのが、生命にとって一番自然なこ
とです。それが、神によって与えられた「生命の摂理」です。
その「生命の摂理」に背(そむ)き、もしも人間が永遠に生き続けるならば、それは多
分、死ぬよりも苦しいことになるでしょう。しかもそれは、死ぬことが出来ないので、永
遠につづく無限の苦しみとなります。
そのような「無限の苦しみ」から、人間を解放するために、神は死を与えたのです。
32章 死は一瞬であり永遠である
前の31章で「死」について触れたので、ここで少し、死後について私の考えを述べた
いと思います。
たとえば、もしも私が死んでしまったら、脳、目、耳、鼻、舌、手足などの「肉体」が
存在しなくなります。だから、思考や感情、視覚、聴覚、臭覚、味覚、触覚などを感じる
「意識」も存在しなくなります。
そして一方、「自分の肉体と意識が存在しない」という意味で、死後というのは、「自
分が生まれる前」と、まったく同じ状態だと言えます。
つまり、本人の実感として(実感が全く存在しないという実感として)、「死後」とい
うのは「生まれる前」と、まったく同じ状態だと言えるのです。
ところで、「生まれる前の状態」というのは、時間さえも感じることが出来ない状態で
す。
たとえば私が生まれる前には、何億年もの時間が存在していたはずです。が、しかし私
は、そのような長い時間を、1秒にも感じることが出来ませんでした。
それと同じように、私の死後に何億年の時間が経っても、私はそれを1秒にも感じるこ
とが出来ないでしょう。
ところで、「時間を1秒にも感じられない」という意味では、「熟睡」の状態も、死と
同じ状態だといえます。
たとえば、もしも私が熟睡中に爆弾で吹き飛ばされるか何かして、即死させられたとし
ても、私は何の変化も感じることが出来ないと思います。だから「死の状態」と「熟睡の
状態」は、本人の実感として(実感が全く存在しないという実感として)、まったく同じ
状態なのです。
また、「全身麻酔」で意識を失っている状態も、時間を1秒にも感じられないので、死
と全く同じ状態だと言えます。
私は以前に、心臓の手術をしたことがあるのですが、全身麻酔で意識を失う瞬間を、自
覚できるかどうかに、ものすごく興味がありました。
だから麻酔薬を体に注入するとき、絶対に目をつぶらないようにグッと精神を集中して、
手術室の天井にある照明を見つめていました。
そのようにして待ち構えていると、「(麻酔の)薬が右手から入るので、すこし痺れま
すよ」という、担当医の声がしました。すると私は、手術室の照明を見つめながら、たし
かに右手がすこし痛くなるのを感じました。
そして、次の瞬間! とつぜん担当医の顔が目に入り、「寺岡さん、起きていますか」
という、担当医の声が聞こえたのです。手術は5時間ぐらいかかったのですが、しかしそ
の間、私は1秒どころか、ほんとうに一瞬の時間も感じることが出来なかったのです。
以上、「生まれる前」と「熟睡」と「全身麻酔」という、私が実際に体験した事実から、
私の死後に何百億年、何千億年、それこそ無限の時間が経ったとしても、その長い長い時
間を、私は1秒にも感じることが出来ないと結論します。つまり「死」というのは、永遠
の時間を、一瞬で通り過ぎるのです。
死は一瞬であり永遠である。これが、「死」に対する私の結論です。
33章 死後の世界は存在しない
前の32章で述べたように、死んでしまったら、たとえ無限の時間が経とうとも、それ
を1秒にも感じることができません。
ゆえに、死後の世界は存在しません。
つまり死後には、天国も地獄も存在しないのです。
ところで、「このままでは、あなたは地獄に落ちるぞ!」と脅(おど)してから、それ
を救うためと称して、高額の布施や献金を要求したり、怪しげな商品を高額で売りつける
こと。
あるいは、「自爆テロを、やりとげて死ぬと、天国に行ける」と唆(そそのか)して、
テロを煽り立てること。
このように天国や地獄を利用した、組織ぐるみでやっている、ものすごく悪質なウソだ
けは、ここで完全に否定しておきます。
34章 神は、自殺を禁止しないが退ける
人間は、自殺をすることが可能な生物です。
なぜなら事実、「自殺を行う人間」が確かに存在するからです。
神によって、人間はそのように作られているのです。つまり生命進化によって、人間は
「自殺が可能な生物」として作られたのです。ゆえに神は、自殺を禁止していません。
しかしながら神は、自殺をできるだけ少なくしようと退(しりぞ)けています。なぜな
ら神は、「生かされる強制力」というものを、人間に働かせているからです。
たとえば、
●死ぬことが怖くて、なかなか自殺の決意ができない人。
●子供や家族、あるいは恋人のことが心配で、なかなか自殺の実行に踏み切れない人。
●「死にたい!」という気持ちを、他人に打ち明けずにはいられない人。
●自殺を決行したけれども、未遂に終わってしまった人。
●自殺さわぎを起こしたために、周囲の監視がきびしくなり、自殺の実行ができ難くなっ
た人。
●自殺未遂の後遺症で、体の自由が効かなくなり、自殺の実行ができなくなった人。
●自殺未遂を何回もくり返す人・・・。
上に挙げたような人は、神による「生かされる強制力」が、強く働いている人です。
その、「生かされる強制力」を具体的に説明すると、つぎのようになります。
●死ぬことが怖くて、なかなか自殺の決意ができない人の場合。
この「死ぬのが怖い!」という感情が起こるのは、「生存本能」という強制力によって
「生かされている」からです。そして生存本能とは、神によって与えられたもの、すなわ
ち40億年の時間をかけた生命進化によって獲得されたものです。つまり、「死にたくな
い!」という意志が、40億年もの長い間、子々孫々と受け継がれて、私たちがそのよう
に進化して来たわけです。
だから「死ぬのが怖い!」という気持ちは、個人の自由意志ではありません。そうでは
なく、個人の自由意志をはるかに越えた、おそらく何億世代も続いてきた祖先たちから働
きかけてくる、「生かされる強制力」なのです。
●子供や家族、あるいは恋人のことが心配で、なかなか自殺の実行に踏み切れない人の
場合。
これは、その(自殺を望む)本人が、「周りの人たちにとって必要とされている」から
です。だからこの場合は、その本人の周りにいる家族や恋人の存在が、「生かされる強制
力」として働いています。
●「死にたい!」という気持ちを、他人に打ち明けずにはいられない人の場合。
これは、「生かされる強制力」が自分に働くことを、自ら求めている人です。というの
は、他人にそのような気持ちを打ち明ければ、それを聞いた人は、何とかして自殺を止め
ようとするからです。
●自殺を決行したけれども、その意に反して、未遂に終わってしまった人。
この場合は、その人を助けようとした人々の意思や行動、あるいは、さまざまな偶然や
幸運が、「生かされる強制力」として働いたのです。
たとえば、
自殺の現場を発見した人。
それを通報して、救急車を呼んだ人。
救急車で病院に運んだ、救急隊員や救急救命士。
そして、病院の医師や看護師、あるいは薬剤師・・・
これら多くの人々の意思や行動、そして、さまざまな偶然や幸運のすべてが、「生かさ
れる強制力」として働いたのです。
ところで、赤の他人であっても、自殺しようとする人を止めたり、自殺を決行した人を
病院に運んで助けたりするのは、「人間がそのような生物」だからです。
人間は、同胞が死にそうになっているのを見れば、できるだけ助けようとします。なぜ
なら、神によって(生命進化によって)、人間がそのように作られているからです。
●自殺さわぎを起こしたために、周囲の監視がきびしくなり、自殺の実行ができ難くなっ
た人。
●自殺未遂の後遺症で、体の自由が効かなくなり、自殺の実行ができなくなった人。
●自殺未遂を何回もくり返す人。
このような人も、周囲の人々の監視の目や、自殺未遂の後遺症や、その他さまざまなタ
イミングや偶然が、「生かされる強制力」として働いているのです。
ここまで述べてきましたように、
「死にたくない!」という生存本能。
いろいろな人からの救いの手。
さまざまな偶然やタイミング。
これら、自分の意思ではどうにもできない力が、神による「生かされる強制力」なので
す。
ところで以前に、インターネットである自殺防止のサイトを見たのですが、自殺の未遂
(みすい)は、既遂(きすい)の20倍もあるそうです。
そして一般的に、自殺を実行する人の10倍ぐらいは、本気で自殺を考えている人が存
在すると言われています。
つまり、一人の自殺既遂者に対して、その20倍の20人が自殺未遂者で、さらにその
10倍の200人が、いつ自殺を決行してもおかしくない「自殺志願者」なのです。
このことから考えると、「生かされる強制力」を免(まぬが)れて死ぬことができる自
殺志願者は、200人に1人だけです。たったの0.5パ-セントです。あとの99.5
パ-セントの自殺志願者は、「生かされる強制力」が働いて、死ぬことが不可能になって
いるのです。
「生かされる強制力」とは、これほど強いものです。この、「生かされる強制力」が働
いている間は、絶対に死ねません。それなのに無理に死のうとすれば、どうしても死にき
れず、心や体にさらに深い傷を負ってしまうでしょう。
ところが、その一方で、病気や怪我をしたり、事故、犯罪、戦争、災害などに巻き込ま
れて、「生きたいのに生きられない人」というのも、世の中にはたくさんいます。このよ
うな人たちは、「生かされる強制力」が働いていない人たちなのです。
それを考えれば、「死にたいのに死ねない!」というのは、「生かされる強制力」がと
ても強く働いているのが分かります。
以上、ここまで述べてきましたが、
神は自殺を禁止しておらず、人間に「自殺が行える自由」を与えています。人生の最終
的な選択肢として、神はそれを認めています。
なぜなら、以前に12章で述べたように、神が「存在を禁止」するものとは、「絶対に
死なない人間」などのように、「この世には、絶対に存在し得ない事物」だからです。し
かし、それに対して一方、この世に自殺が存在するのは、絶対に否定できない事実だから
です。
ゆえに神は、自殺を禁止していません。
しかしながら、その一方で、
神は、自殺を好ましくないものとして、自殺の減少を望んでいます。なぜなら神は、人
間が容易に自殺できないように、「生かされる強制力」を人間にたいして強く働かせてい
るからです。
つまり神は、自殺の減少を望み、自殺の減少を願い、自殺を退(しりぞ)けようとして
いるのです。
これらのことから、神は自殺を禁止しないが、自殺を退けているのが分かります。それ
が神の意志なのです。
つづく
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