神の顕現 5
2024年6月9日 寺岡克哉
25章 神は愛の根源
「愛」は、どのようにして生じるのでしょう?
「愛」は、どこからやって来るのでしょう?
ここでは、そのことについて考えてみたいと思います。
まず、自分の心に愛が生じたり、相手からの愛を感じ取ったりする、ごく普通の場合を
考えてみましょう。
そうすると、愛する異性、愛する子供、愛する親、愛する兄弟、愛する友人、愛する動
物などを、見たり触れたりしたときに、自分の心に愛が生じたり、相手からの愛を感じ取っ
たりするのが分かります。
つまりこの場合は、「具体的に存在するもの」に対して、愛が生じたり、愛を感じ取っ
たりしています。
一方、以前に20章と21章で述べた「神の実感」を体験すると、神を実感することに
よって、自分の心に愛が生じるようになります。そして、「神の無限の愛」を感じ取るこ
とが出来るようになります。
つまりこの場合は、「具体的に存在しないもの」に対しても、愛が生じたり、愛を感じ
取ったりするのです。
このような体験を通して、愛を生じさせるものが「神」であること。
そして、神は「愛の根源」であることを、心の底から実感して、納得できるようになる
のです。
* * * * *
いま上で述べたことについて、以下に順を追い、すこし詳しく説明しましょう。
まず人間は、具体的な対象が目の前になくても、それに対して愛の感情が生じたり、そ
の対象からの愛を感じ取ったりします。それは例えば、「恋愛」の場合を考えてみれば納
得できると思います。
「恋愛」をすると、目の前に恋人がいなくても、その恋人のことを考えただけで幸せな
気持ちになり、愛の感情が生じます。また、恋人のことを思い浮かべただけで、その恋人
の愛を感じることもできます。まるで、その恋人が今ここにいて、自分を優しく愛してく
れているかのようにです。
また、とても強く愛し合った人と、不幸にして死に別れてしまった場合も同じです。
確かにしばらくの間は、大きな悲しみに打ちひしがれるでしょう。しかし何十年もの月
日が経てば、「良い思い出」だけが残るようになります。そして、その人のことを思い出
すたびに「愛の感情」が生じて、優しい「愛の思い出」に包まれるのです。
そしてさらには、釈迦やキリストのような、実際には見たこともない人物・・・
そのような人物であっても、その言動や生きざまを思い浮かべるたびに、愛の感情が生
じます。そして釈迦やキリストの「大いなる愛」に、自分が優しく包み込まれている感じ
がするのです。
このように人間は、その場に存在しない人や、さらには、この世に存在しない人に対し
てさえ、愛の感情が生じたり、その人の愛を感じ取ったり出来るのです。
ところで、「恋人」は現実に存在する人間であり、「死に別れた人」は過去に存在した
人間です。だからそこには、「具体的に存在するもの」とか、あるいは「具体的に存在し
たもの」という、いわゆる「具体的なイメ-ジ」があります。
ところが「神」の場合は、「具体的なもの」として存在しないので、具体的なイメ-ジ
がありません。しかし人間は、そのような対象にさえ、愛の感情が生じたり、その対象か
らの愛を感じ取ったり出来るのです。
実際に私も、「神」に対する具体的なイメ-ジを持っていません。
私が持っている「神のイメージ」は、「宇宙のすべてを、無限の愛で包み込んでいるも
の」とか、「暖かで柔らかな、愛の光や波動」というような、とても抽象的で漠然とした
ものです。
しかしそれでも、以前に20章や21章で述べたように、「神を実感すること」ができ
るのです。そして神を実感すれば、私の心の奥底から無意識に理由もなく、愛の感情がと
めどなく湧き起こってきます。
そして、愛を生じさせるものが「神」であることを、心の底から実感して、納得できる
のです。
さらにまた、神を実感すると、「神の無限の愛」に私の全身が包まれているように、確
かに感じることができます。
何と言いますか、宇宙の中心に、無限大の愛の塊(つまり神)が存在し、そこから愛の
光と波動が無限に湧き出して、それが宇宙全体に広がり、私を含めた宇宙の全てを、愛の
光で照らし、愛の波動で包み込むような・・・ そのような「神の無限の愛」を、確かに
感じることが出来るのです。
この「神の無限の愛」を、いつも感じることが出来るようになると、「神は愛の根源そ
のもの」であることが、心の底から実感して納得できるのです。
26章 神は生命の根源
以前に20章で述べた「神の実感」を体験すると、「神は生命の根源」であることが、
心の底から確信できます。
たとえば神を実感すると、胸が暖かくなり、心が喜びに満ちます。そして全身にも、ジ
ンジンと感じる「生命のエネルギー」が満ちてきます。神を実感すると、心の底と体の芯
から湧き起こってくる「生命力」を感じるのです。
そして、とにかく理由もなく嬉しくなり、「自分が今ここに生きて存在している」とい
うだけで、心が嬉しさでいっぱいになります。全身が生きる喜びに満ち、「生命の根源的
な喜び」と言えるようなものを感じるのです。
それは、「自分の脳の構造が変わってしまったのではないか?」と、疑いたくなるほど
の幸福感です。
このように、20章で述べた「神の実感」を体験すると、生命力というか、生命のエネ
ルギーが、心にも体にも満ち満ちてきます。
そして、「神の実感を体験する前の私には、生命が存在していなかったのではないか?」
と、疑いたくなるほどの心境の変化が起こります。
そのような体験を通して、
神は、生きる力の根源であり、
神は、生きるエネルギーの根源であり、
神は、生きる喜びの根源であり、
神は、私に生命を与えてくれる根源であること。
つまり、「神は生命の根源」であることが、心の底から確信できるようになるのです。
ちなみに、衣食住に不自由せず、物質的に豊かになった現代社会において、生きる意欲
を失い、生きる力を失い、生きるエネルギーを失い、生きる喜びが感じられなくなり、生
きることを辛く感じている人々が多いのは、「生命の根源」を失っているからです。
つまりそれは、神を失っているからに他ならないのです。
27章 神のイメージ
以前の25章で触れましたが、神は「具体的に存在しないもの」です。だから神に対す
る「具体的なイメージ」は存在しません。しかしながら、「抽象的なイメージ」というの
は確かに存在します。
ここでは、私が持っている「神のイメージ」について、抽象的ではありますが、出来る
かぎり詳しく述べてみたいと思います。
まず最初に、私は神にたいして、一体どんなイメージを持っているのか、思い起こして
みることにしました。そうすると、「感覚的なイメージ」と、「感情的なイメージ」があ
ることに気がついたのです。以下、それらについて、述べて行きたいと思います。
●神の感覚的なイメージ
さて、神にたいする「感覚的なイメージ」についてですが、これにはさらに、
「視覚的なイメージ」、
「温度感覚的なイメージ」、
「接触感覚的なイメージ」
の、三つがあることに気がつきました。
神の「視覚的なイメージ」は、なんと言っても「光のイメージ」です。
光の色は、清らかな白色で、ギラギラと照りつけるような眩しい光ではなく、優しく穏
やかで柔らかな光です。宇宙の中心に光源があって、この世のすべて(つまり宇宙全体)
を照らしている光です。
神の「温度感覚的なイメージ」は、「春の日差しの暖かさ」とか、「気持ちの良い布団
の温もり」のようなイメージです。暑くなく、寒くもなく、ほんのりとした暖かさを感じ
るぐらいの、とても快適な温度というイメージです。
神の「接触感覚的なイメージ」は、子供の頃に、父親に優しく抱かれているようなイメー
ジです。あるいは、柔らかくて肌ざわりが良く、とても気持ちが良いモフモフで、全身が
包まれているようなイメージです。そのモフモフに包まれると、優しさと、暖かさと、自
分が守られているような安心と、嬉しさを感じられるようなイメージです。
また、「無限の愛の “波動” に包まれる」という、神の感覚的なイメージがありますが、
この「波動」のイメージは、ほんのりと暖かな波動という温度感覚的なイメージと、優し
くて柔らかな波動という接触感覚的なイメージを、混ぜ合わせたような感じです。
強いて言えば、生まれる前の胎児が、母親の子宮に包まれて、優しく暖かに守られてい
るようなイメージに似ています。が、しかし、そのスケール(つまり母親の子宮の大きさ)
を、宇宙全体にまで大きくしたようなイメージです。
●神の感情的なイメージ
つぎに、神にたいする「感情的なイメージ」についてですが、これにはさらに、
「神から私に」向けられている感情的なイメージ。
「私から神に」向けている感情的なイメージ。
「私と神が向き合う」ことで、私の中に生じる感情。
の、三つがあります。
まず、「神から私に」向けられている感情的なイメージは、優しさ、穏やかさ、慈しみ、
暖かさ、愛されている、守られている、自分の存在が赦されている、自分の存在が認めら
れている。と、いうようなイメージです。
それは、例えば子供が、とても優しい父親や母親から、心からの慈しみを受け、暖かく
見守られているようなイメージです。
「私から神に」向けている感情的なイメージは、無上の有難さ、感謝、崇高さ、敬愛の
念などです。それは例えば、ものすごく尊敬している人に対する気持ちを、もっともっと
大きくしたようなイメージです。
また他に、「神と共に在る」というような、神に対する「親しみ」を感じる場合もあり
ます。
「私と神が向き合う」ことで私の中に生じる感情は、幸福や喜び、満足というような感
情です。
そして、それと同時に、「世界に対する愛しさ」というのも感じます。それは例えば、
小さな子供をギューッと抱きしめたくなるような愛しさを、この世界全体にたいして感じ
るのです。
以上、私が持っている「神のイメージ」を、あえて分析的に述べてみました。
しかし実際には、上で述べた感覚的なイメージも、感情的なイメージも、それらすべて
が同時に生じて、混然一体となったものが、神のイメージとなります。
ところで、ここまで読んで頂ければ分かると思いますが、私が持っている「神のイメー
ジ」は、罪人に厳格な裁きを下したり、悪人に神罰を与えたり、不道徳で不浄な都市や国
を、天変地異で滅ぼしたりするような、いわゆる「厳しくて恐ろしい」という神のイメー
ジなどではありません。
そうではなく、私が持っている「神のイメージ」は、暖かな光に満ちていて、優しく、
穏やかで、愛情深く、大きな喜びと幸福を私に与えてくれるというイメージなのです。
28章 神を感じさせるもの
人は誰でも、雄大な自然を見たりすると、「神々しさ」を感じるのではないでしょうか。
ここでは、そのような「神を感じさせるもの」について、述べたいと思います。
まず私は、「神を感じさせるもの」について、いろいろと思い出してみました。そうす
ると私の場合は、「音」と「景色」があることに気がつきました。以下、そのような音や
景色について、述べて行きたいと思います。
●神を感じさせる音
まず、私に神を感じさせる音は、なんと言っても、雅楽(ががく)に使われる笙(しょ
う)という楽器の音色です。私は、笙の音色を聞くと、天にいる神から私に向けて、暖か
な光を注がれているように感じるのです。
また、パイプオルガンの音色も、私に神を感じさせてくれます。パイプオルガンは、教
会の音楽に使われているので、その音色を聞けば、誰でも神々しさを感じるのではないで
しょうか。
さらさらと木々が風に揺れる音も、私に神を感じさせてくれます。天気の穏やかな日に、
そよ風に揺れる木々の音を聞いていると、自分が大自然に愛され、木々から優しく語りか
けられているような、安らぎと幸福を感じます。
海で聞く「波の音」も、私に神を感じさせてくれます。私は、小学生から中学生のころ
にかけて、よく海釣りをしていましたが、日がな一日、何も考えずに波の音を聞いている
と、海と自分が一つになったような感じがしていました。
たとえ魚が一匹も釣れなくても、日がな一日、波の音を聞いているだけで、私は満足し
て幸せな気分になったものです。
川のせせらぎの音も、私に神を感じさせてくれます。たとえば渓流釣りをしていて、川
に神経を集中させていると、せせらぎの音で、頭の中がいっぱいになります。そして、川
と自分が一つになったように感じるのです。
また、山岳部の活動で沢登りをしていて、川辺にテントを張って寝ているとき、夜通し
でせせらぎの音を聞いていると、そんなときも、川と自分が一つになったような感じがし
ていました。
一晩中、せせらぎの音を聞いていると、なにか自分の体が無くなって、川に溶け込んで
しまったような、とても不思議な感じがするのです。
●神を感じさせる景色
つぎに、私に神を感じさせる景色についてですが、まず最初に挙げたいのは、夜の星空
です。しかも登山をしたときに、街の明かりのない、全天に広がる星空を見ていると、ま
るで自分が宇宙に漂っているような、そして、自分と宇宙が一つになったような、そのよ
うな感覚になるのです。
朝の日の出も、私に神を感じさせてくれる景色です。東の空が、だんだんと明るくなっ
て来て、いよいよ太陽が顔を出し、暖かい日光が大地に射し始めると、何となく生命のエ
ネルギーが注がれているように感じます。
また、雨上がりの時などに、雲の隙間から太陽の光が漏れて、放射状に光が降りそそい
で見える現象、つまり光芒(こうぼう)も、私に神を感じさせてくれる景色です。
大きな木、いわゆる大樹も、私に神を感じさせてくれます。大樹を見上げると、生命の
エネルギーに満ち溢(あふ)れているような感じがします。そしてまた、大樹が、その周
りの生き物たちを、暖かく見守っているようにも感じるのです。
縦走登山で、稜線上を歩いているときに見える壮大な山々も、私に神を感じさせてくれ
ます。
また、稜線上や山頂から時々見ることがある「雲海」も、私に神を感じさせてくれます。
雲の絨毯(じゅうたん)を見下ろすと、まるで自分が、神々の世界に迷い込んでしまった
ように感じるのです。
厳冬期の登山でしか見ることができない、新雪の山々の景色も、私に神を感じさせてく
れます。新雪の山は、ほんとうに美しく、とても清浄で、穢(けが)れというものが全く
ありません。
厳冬期の山は、手足が凍傷になるほどの厳しい環境ですが、それにもかかわらず、なに
かスーッと引き込まれるような、とても強い魅力があるのです。
ちょっと危ない感じがするかも知れませんが、厳冬期の登山中に、「このまま倒れて雪
に埋もれてしまってもかまわない」というような、大きな安らぎと満足を感じたこともあ
りました。
ちなみに現在の私が、厳冬期に登山をしたら、確実に死んでしまいます。だから、それ
はもう不可能ですが、若いときに冬山の経験をしたことは、今では人生の宝になっていま
す。
以上、私に「神を感じさせるもの」を、いろいろと思い出してみました。
そうすると、笙やパイプオルガンなどの楽器を除けば、星空、太陽、雲、山、川、海、
大樹などの「雄大な自然」に、「神を感じさせるもの」が多いと分かりました。
それは私だけでなく、たぶん多くの人も、大自然を前にすれば、神々しさを感じるので
はないでしょうか。おそらく人間は、神によって(生命進化によって)、そのような感性
を持つように作られたのだと思います。
29章 神は、理性と感性で認識する
「神」というのは、「理性」と「感性」の両方で認識しなければならないと、私は考え
ています。
ここで、
「理性」とは、「頭」で論理的に理解すること。
「感性」とは、「心と体」で実感することと。
という意味で、両者の言葉を使うことにします。
つまり「神」には、「頭」で論理的に理解する側面と、「心と体」で実感する側面があ
るのです。
本書の第1部を「理性による神の顕現」、そして第2部を「感性による神の顕現」と分
けたのは、それを明確にしたいと思ったからです。
「理性による神の認識」は、「本当の神」を知り、「偽物の神」を退けるためには、絶
対に必要です。
盲目的な信仰を強要したり、金儲けの道具にしたり、テロや戦争を煽り立てるような、
そんな「偽物の神」を排除するためには、「理性による神の認識」がどうしても必要なの
です。
しかし、「理性による神の認識」だけでは、「本当の神」を理解できても、「神を実感
すること」はできません。
たとえば・・・
神の実感。
神との一体感。
神の無限の愛に抱かれること。
神から放たれる、愛の光や波動。
神から与えられる、幸福や安心感。
神から与えられる、生きる希望や、生きる勇気。
神から与えられる、生命力や生命のエネルギー。
これらは、「感性による神の認識」によって得られるもので、「理性による神の認識」
では得られません。
つまり「感性による神の認識」がなければ、神は「絵に描いた餅」というか、「死んだ
もの」になってしまうのです。
しかしながら、「感性による神の認識」だけに偏ってしまうと、「盲目的な信仰」や
「狂信的で間違った信仰」に陥ってしまう危険があります。「偽宗教によるトラブル」の
ほとんどは、これが原因だと言ってよいでしょう。
だからこそ、「理性による神の認識」が絶対に必要なのです!
ところで以前の私は、「理性による神の認識」と、「感性による神の認識」は、お互い
に反発して相容れないものと思っていました。
しかし今は、そうではなく、「理性による神の認識」は、「感性による神の認識」を導
くものだと考えています。
つまり、理性によって「本当に正しい神」を認識し、「狂信的で間違った信仰」や「盲
目的な信仰」に陥るのを防ぎます。その上で、絵にかいた餅のように「死んだ神」ではな
く、愛と生命のエネルギーに満ちた「生きた神」を、感性によって認識するのです。
ゆえに「神」は、「理性」と「感性」の両方で認識しなければならないのです。
つづく
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