神の顕現 4
                                2024年6月2日 寺岡克哉


第2部 感性による神の顕現


20章 神の実感1
 私が40歳ぐらいになった時のことです。
 静かな部屋で瞑想をすると、「愛の感覚」が生じるようになりました。しかも、その
「愛の感覚」を、どんどん高めて行くことも出来るようになったのです。
 この「愛の感覚」というのは、私の中に「愛」が生じたときに感じる、「心の感覚」と
「体の感覚」の両方のことです。
 その「愛の感覚」を、どんどん高めて行くと、ついに「愛の感覚が最高に高まった状態」
になりますが、それが「神の実感」です。

 以下、私が体験した「神の実感」について、具体的に述べてみましょう。

 まず私が瞑想に入って、最初に訪れる「愛の感覚」は、最愛の異性と「ギューッ」と抱
きしめ合って、「身も心もひとつに溶け合ってしまいたい!」と、いうような感覚です。
あるいは、「愛する異性に、自分の身も心も全てを捧げたい!」と、いうような感覚です。
 この「愛の感覚」は、異性に対する愛ですが、単なる「肉体的な性欲」をすでに超越し
た愛です。なぜなら、心は大変に高揚しているのですが、官能的な肉体の反応(男性で言
えばペニスの勃起)が起こらないからです。
 しかしながら、胸が「キュン」としたり、「ジーン」としたり、「ドキドキ」したり、
「ワクワク」したりして、めくるめくような、とろけるような幸福感があります。
 また、全身に生命のエネルギーが満ちて、手や足が「ジンジン」とします。体の全体が
ほんわかと温かくなり、少し頭に血が上って「ポーッ」とします。
 そして全身が、温かくて優しい愛の雰囲気(愛の光や波動)に包まれている感じがする
のです。

 このように私の場合、「愛の感覚」が生じる最初のきっかけは、「異性への愛」から始
まります。
 しかし、この「愛の感覚」は、異性への愛ではあるけれども、単なる肉体的な性愛を超
越した、「高い次元の愛」であるのは間違いありません。なぜなら、このような精神状態
のときに、異性との性行為などの「肉欲的な連想」をすると、返って「愛の感覚」が消滅
し、心がしらけてしまうからです。
 ところで、いま述べたような「愛の感覚」をつかむためには、多少の「性的な禁欲」が
必要です。なぜなら、性欲を少しも我慢せずに、「性的なエネルギー」を直ぐに放出して
しまうと、「愛の感覚」を高めるためのエネルギーが無くなってしまうからです。
 しかし「禁欲」とは言っても、性欲を頭ごなしに抑えつけるのではありません。性的な
エネルギーを、心を上昇させるためのパワーに転化するのです。つまり、自分の心を抑え
つけるのではなく、性欲のパワーで、心をどんどん上に押し上げるようにするのです。だ
からこの「禁欲」には、心を抑圧したときに生じる、胸や喉(のど)や息のつまるような
「鬱屈(うっくつ)感」がありません。
 「愛の感覚」の正体は、じつは「性欲を昇華したもの」ではないかと私は考えています。

 さて、「愛の感覚」をさらに高めると、上で述べた「異性とひとつに溶け合いたい!」
という感覚が、赤ん坊や子供に対しても感じるようになります。
 「異性が愛しい!」というのと同じような感覚が、赤ん坊や子供に対しても起こるので
す。赤ん坊や子供を、「ギューッ」と抱きしめたくなってしまいます。私に子供はいない
のですが、「目の中に入れても痛くない!」というのは、このような気持ちなのだと思い
ます。

 さらに「愛の感覚」を高めると、大人や老人に対しても、親密な感情が起こって来ます。
そして、病人や怪我人、体の不自由な人、精神的に苦しんでいる人、戦争や飢えに苦しん
でいる人たちに対して、
 「何とか元気づけてあげたい!」
 「苦しみを取り除いてあげたい!」
 「自分が持っている愛のエネルギーを、注いであげたい!」
と、いうような感情が起こって来るのです。もちろん、それら全ての人を救うのは絶対に
不可能ですし、自分が実際に出来ることは非常に限られています。しかし、心の底から湧
き出るエネルギーによって、そのような感情が引き起こされるのです。

 ところで、上のような愛の感覚、つまり「隣人愛」や「人類愛」は、「異性への愛」よ
りも、高い次元の愛であるのは間違いありません。
 なぜなら、このような精神状態の時に、「一人の異性だけを、命を懸けて愛する!」と
いう思いを起こしてみると、二人だけの狭い世界に閉じこもっている「窮屈(きゅうくつ)
さ」を感じるからです。そして、「異性への愛」だけに閉じこもるのは、所詮(しょせん)
はエゴイズムの延長に過ぎないような気がして、「愛の感覚」が消え去ってしまうからで
す。

 さて、上で述べたよりも、さらに「愛の感覚」を高めると、動物や植物を含めた地球の
すべての生命と一つにつながり、「地球の生命全体と一つになりたい!」という感覚にな
ります。
 鳥も獣も魚も草も花も木も、全ての生命が愛しく感じられます。そして全ての生命と、
愛を分かち合いたくなります。
 自分が生きていることと、この地球に生命が存在することが、嬉しくて嬉しくて仕方が
なくなります。そしてそれが、涙がでるほど有難く感じてきます。

 ところで・・・ 生命には、怒り、憎しみ、悲しみ、苦しみ、怪我、病気、老化、暴力、
虐待、差別、闘争、殺人、テロ、戦争などの「好ましくない性質」が存在します。しかし、
それら「生命が持つ好ましくない性質」をも含めて、「生命」というものの存在を、認め
ることが出来るようになります。
 もちろん、「生命が持つ好ましくない性質」を、無批判に容認する訳ではありません。
それらの「好ましくない性質」は、できる限り改善するべきだと分かっています。
 しかし、それを理由にして、つまり生命が好ましくない性質を持つからと言って、「生
命なんか、この世に存在しい方が良いのだ!」というような、生命の存在を否定する気持
ちが起こらなくなるのです。
 とにかく、ただひたすら、全ての生命の平和と幸福が、自分の望みの全てになるのです。

 そしてついに、上で述べたよりも「愛の感覚」をさらに高めた状態が、「神の実感」で
す。
 神を実感する状態になると、精神が非常に高いレベルの一点に「ギューッ」と集中して、
何も考えられなくなります。つまり思考が停止して、「頭の中が真っ白」になるのです。
 思考が停止するので、感情も静まります。だから、心がとても安定して来ます。もう、
「ドキドキ」も、「ワクワク」もしません。
 しかし精神の状態は、非常に高いレベルに高揚し、一点に集中しています。そして体の
全体に、「ジンジン」とした生命のエネルギーが満ち溢(あふ)れます。さらには、優し
く温かな愛の雰囲気(愛の光や波動)に全身が包まれます。
 そして、「これで良し!」、「すべて良し!」、「あるがままで良し!」という、感じ
がするのです。

 ところで、言語による思考が生じたり、何かの映像や音楽が思い浮かんだりすると、上
で述べた「神を実感している状態」から脱落してしまいます。
 だから、言語によらない感覚として、「これで良し!」という感じがするのです。つま
り、心が求める最大の欲求と、心の状態がぴったりと一致し、大変な幸福と満足を感じる
のです。
 また、自分自身に対する執着も消滅してしまい、ことさらに小賢しいことをする気が起
きなくなります。そして(言語によらない感覚として)、「なるようになる!」とか、
「すべてを神に任せれば良い!」という気持ちになるのです。

 それが、私の体験した「神の実感」です。


21章 神の実感2
 ところで、前の20章で述べたのは、私が40歳ぐらいの若い頃に感じていた「神の実
感」でした。
 それは、精神が非常に高いレベルの一点に「ギューッ」と集中した、一種のハイな精神
状態です。

 しかし60歳になった現在では、「神の実感」が、もっと穏やかなものになっています。
 前の20章で述べたような、体の全体が「ジンジン」とするような感覚もありません。
 それは恐らく、40歳のころに比べて性欲が減少したからだと思います。

 さて、私が60歳になって感じるようになった「神の実感」とは、次のようなものです。

 まず、寝る時に布団に入って目をつぶり、あれこれと考えるのをやめて思考を止めると、
目の前に「光の世界」が現れます。しかし、実際に光が見えるわけではありません。目の
前に、光の世界が広がっているような、そんな感じがするのです。
 そして、優しくて暖かな「愛の光と波動」に全身が包まれます。また、全身から余計な
力が抜けてリラックスした状態になり、とても安らかで、気持ちが良く、幸福な気分にな
ります。
 さらには、「神の無限の愛」に抱かれている感じがして、私が生きて存在することに感
謝の気持ちが起こり、世の中のすべてが愛しく感じるのです。

 そしてまた、言葉ではなく、言語によらない感覚として、「これで全く良いのだ!」、
「すべては神の意志のままに」、「すべてを神にお任せします」という気持ちになるので
す。

 これが、私が60歳になって感じるようになった、「神の実感」です。

 ちなみに、この「神の実感」は、朝に目が覚めて、布団の中でボーッとして目をつぶっ
ているときにも、ふと現れます。
 おそらく「神の実感」は、視覚や聴覚を遮断し、思考が止まっている状態のときに現れ
るのだと思います。そう言えば、何かを見たり、聞いたり、話したり、考えたり、想像し
たり、体を動かしているときには、「神の実感」は絶対に現れません。

 ところで、いま上で述べた「神の実感」と、よく似たような感覚は、ずっと昔、まだ私
が小学生だった頃にも、よく感じていたことを思い出します。
 私は、子供のころ体が弱くて、頻繁(ひんぱん)に高熱を出して学校を休んでいました。
そんなとき私は、熱で頭がボーッとして何も考えることが出来ず、布団の中に身を任せて、
ただひたすら熱が下がるようにと、(言葉で唱えるのではなく)無心に願っていました。
 そうすると、なにか暖かくて優しい雰囲気に包まれるような感じがして、気分が少し楽
になるのでした。

 今にして思えば、私は子供の頃から無意識のうちに、神を実感していたのだと思います。
 そして、そのときの体験が、60歳になった現在の「神の実感」にも、繋がっているよ
うな気がしてならないのです。


22章 神を求めること
 「神を求める」とは、一体どういうことでしょう?

 「神を求める」というのは、たとえば、
 「神と交わりたい!」
 「神とつながりたい!」
 「神と一つになりたい!」
と、大変に強く望むことです。

 この感情は、たとえば「愛する異性と一つになりたい!」という気持ちと、よく似てい
るように思います。しかしそれは、ただ単に異性と唇や体を重ね合わせるだけではなく、
「お互いに全てを捧げ尽くし、身も心も完全に一つに溶け合ってしまいたい!」というよ
うな気持ちです。
 そのように「神と一つになりたい!」と、心の限りを尽くして誠心誠意に強く願うので
す。自分のすべてが、「神の無限の愛」と完全に融合したいと強く望むのです。

 それが、私が40歳ぐらいのときの、「神を求めること」でした。

 しかし、私が60歳になった現在では、上のような「神と一つになる」というのとは、
すこし違う感覚になってきました。
 いま現在の私にとって「神を求める」とは、「いつも神と共にあるように心がけ、神の
無限の愛に抱かれて、自分も優しい気持ちになり、自身の安らぎを得る」と、いうものに
変わって来ています。


23章 神を愛すること
 「神を愛する」とは、一体どういうことでしょう?

 神を愛するとは、前の22章で述べたように、「神を一心に求めること」です。
 それは例えば、「愛する異性と、お互いに全てを捧げ尽くし、身も心も完全に一つに溶
け合ってしまいたい!」というのと同じような気持ちで、「神と一つになりたい!」と、
心の限りを尽くして誠心誠意に強く願うのです。自分のすべてが、「神の無限の愛」と完
全に融合したいと強く望むのです。

 まずこれが、「神を愛すること」の一つであり、私が40歳ぐらいのときに行っていた
神の愛し方です。

 ところで、「神を愛すること」と「異性を愛すること」は似ているのですが、しかし、
ちがう所もあります。それは、「神への愛」は「異性への愛」よりも、強くて大きなもの
だという所です。
 というのは、たとえば異性との愛は、最初のうちは「お互いに身も心も全てを捧げたい
!」と、強く思う時期が確かにあります。しかし時間が経つと、お互いの仕事の予定や、
ライフスタイルの違いなどが衝突し、どうしてもエゴイズムがぶつかり合ってしまいます。
 また、「相手の気持ちを一人占めにしたい!」とか、「相手の全てを自分のものにした
い!」というような独占欲も起こって来ますが、この独占欲もエゴイズムに他なりません。
 そして、それらのエゴイズムが、さらなる愛の増大を阻(はば)んでしまい、その時点
で愛の増大が止まってしまいます。だから異性への愛は、無限に愛が大きくなることがあ
りません。

 しかし「神への愛」には、エゴイズムのぶつかり合いが存在しません。
 だから「神」は永遠に愛することができ、「神への愛」は無限に大きくすることが出来
るのです。
 神を長年に渡って愛し続けていると、「神への愛」は「異性への愛」よりも大きくなる
ことは間違いありません。歳を取るにしたがって、私のこの確信は、ますます強くなって
います。

 ところでまた、神への愛は、恋愛の「片思い」にも似ている所があります。
 「片思い」は、相手への思いがつのりにつのって、恋愛感情がどんどん大きくなって行
きます。そして相手を、どんどん理想化して行きます。
 恋に恋して、恋心がどんどん大きくなり、恋の相手が限りなく素晴らしい人に思えて来
るのです。
 しかしながら、実際の片思いの相手はあくまでも「人間」です。だからその相手は、自
分が勝手に作り上げた理想とは程遠いのが現実です。だから、めでたく片思いの相手と交
際することが出来るようになっても、その現実を知って幻滅することが多々あります。そ
れが、「恋の熱が冷めた」という現象です。

 ところが神の場合は、「無限に理想化すること」が可能です。なぜなら神は、自分の最
高の理想の、さらにそれを超える存在だからです。ゆえに「神への愛」は、無限に高めて
行くことが出来るのです。
 これは、「最高の理想をさらに超えるもの」に対する永遠の思いです。この思いは、恋
愛の片思いのように幻滅することがありません。
 神を理想化すればするほど、神への思いはつのり、神への愛は無限に大きくなって行く
のです。

 このような、「無限に理想化した神への、永遠の思い」というのも、「神を愛すること」
の一つです。そして、この神の愛し方は、私が60歳になった現在でも変わっていません。


24章 「神に祈る」ということ
 私は、神に祈ることが大好きです。
 神に祈ると、悩みや不安が吹き飛んでしまいます。
 神に祈ると、大きな幸福と満足が得られます。
 神に祈っている時が、私のいちばん幸せな時間なのです。
 ここでは、私が行っている「神への祈り」について、述べたいと思います。

 まず最初に断っておきますが、私が行う「神への祈り」とは、
 「お金が儲かりますように」とか、
 「恋人が出来ますように」とか、
 「病気が治りますように」とか、
そういうようなことを、神にお願いするのではありません。

 そしてまた、
 「世界が平和でありますように」とか
 「全ての人々が苦しみから救われますように」とか、
そのように神に祈るのとも、ちょっと違うのです。もちろん、そのように祈るときもある
のですが、ここで述べるのは、それとはちょっと違う「神への祈り」なのです。

 私が行う「神への祈り」とは、「神を求め、神を愛し、神を実感すること」です。

 つまり、
 以前の22章で述べたように、神を求め、
 前の23章で述べたように、神を愛し、
 そして20章や21章で述べたように、神を実感すること。
 それが、私の行う「神への祈り」なのです。

 以前に20章から23章で述べたことと重なりますが、私が行う「神への祈り」につい
て、すこし具体的に説明しましょう。
 まず大前提として、私が神に祈るときは、心の中で言葉を唱えません。だから「祈り」
というよりは、むしろ「瞑想」に近いものです。
 そして、神への祈り(瞑想)に入るときは、まず最初に、嬉しかったことや楽しかった
ことを思い出したり、素敵な女性や可愛い子供をイメージしたりします。
 「神への祈り」としては、すこし不純かも知れませんが、私が祈るときの最初は、まず
このようにして「愛の感覚」を心の中に生じさせます。
 このとき私の心は、「キュン」としたり、「ドキドキ」したり、「ワクワク」したりし
ます。

 そして次に、その生じた「愛の感覚」を、だんだん高めて行くようにします。
 「愛の感覚」が次の段階に高まると、釈迦やキリストの姿がイメージに浮かんだり、
「天上で輝く光の世界」などがイメージに浮かんだりします。
 このとき私の心は、なんとなく「ジーン」として、「とても有り難い気持ち」になり、
目から涙が出そうになったりします。

 しかし、さらに「愛の感覚」が高まって最高の状態になると、「極度の精神集中」があ
るのみで、具体的なイメージは全て消え去ってしまいます。
 精神が「ギューッ」と一点に集中して何も考えられなくなり、頭の中が真っ白になって
しまうのです。しかしながら、頭の中が「真っ白」とか、「一面に輝く白い光の世界」な
どというイメージはありません。

 これが、以前に20章で述べた「神の実感1」の状態です。

 ところで、このときに何かを無理にイメージしようとすると、「神の実感1」の状態か
ら脱落してしまいます。
 しかしながら、「イメージを持たないようにしよう!」と意識をしてしまっても、「神
の実感1」の状態から脱落してしまうのです。
 むしろ心を少し楽にして、心が求めるまま自由にし、自分の心を無理に型にはめようと
せず、ことさらに自分の意思で心を操作しようとしない方が、「神の実感1」の状態を維
持することができます。
 ただひたすら、「ギューッ」と感じる「すごく愛したい!」という「愛の感覚」を、心
の求めるままに高めて行くのです。

 そしてこれが、私が40歳ぐらいの頃に行っていた「神への祈り」です。

 神に祈ることによって「神の実感1」の状態になると、頭や手足がすこし「ジンジン」
として、全身が「生命のエネルギー」に満ち満ちているような感じがします。
 また、全身が暖かい空気に包まれているような感じもします。そして、「とても大きな
幸福感」で心が満たされるのです。私の心の中に「大いなる無限の喜び」だけが存在し、
心の中がそれでいっぱいになるのです。

 心が憂鬱になって、漠然とした恐れや不安、焦燥、空しさなどを感じるときは、神に祈
ると、「嫌な気分」が吹き飛んでしまいます。そして、心の底から元気が出てきます。
 また、つまらないことで怒りや憎しみの感情が込み上げて来たとき(つまりキレそうに
なったとき)にも、神に祈ると、「我慢ならない気分」が消え去ってしまいます。

 ところで、私が30歳代の前半ぐらいまでは、
 「神に祈ったりするのは、弱い人間のすることだ!」とか、
 「神に祈るのは、普通の人間のやることではない!」と、
心の底から思い込んでいました。

 しかし、私が40歳近くになって以降は、
 「神に祈ることで、積極的に生きられるならば・・・」
 「神に祈ることで、怒りや憎しみに打ち勝ち、心安らかに生きられるならば・・・」
 「神に祈ることで、不幸や悲しみを乗り越え、生き続けることが出来るならば・・・」
 それはそれで、たいへん素晴らしいことだと思うようになったのです。

             * * * * *

 ところで、ここまで述べてきたのは、私が40歳ぐらいの頃に行っていた「神への祈り」
です。
 しかし60歳になった現在の「神への祈り」は、以下のように、すこし穏やかなものに
なっています。

 まず目をつぶって、あれこれと考えるのをやめて思考を止めると、目の前に「光の世界」
が現れます。しかし、実際に光が見えるわけではありません。目の前に、光の世界が広がっ
ているような、そんな感じがするのです。そして、優しくて暖かな、愛の光と波動に、全
身が包まれるような感じがします。
 また、全身から余計な力が抜けてリラックスした状態になり、とても安らかで、気持ち
が良く、幸福な気分になります。そして、「神の無限の愛」に抱かれているような感じが
します。

 そしてまた、言葉ではない、言語によらない感覚として、
 「これで全く良いのだ!」
 「すべては神の意志のままに」
 「すべてを神にお任せします」
 という気持ちになるのです。

 つまり、以前に21章で述べた「神の実感2」の状態になるわけです。

 いま現在の私が行っている「神への祈り」は、そのような穏やかなものです。
 が、しかし、漠然とした恐れや不安、焦燥、空しさなどは払拭(ふっしょく)できます
し、キレそうになったときの「我慢ならない気分」も払拭できるのです。



 つづく



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