神の顕現 3
                               2024年5月26日 寺岡克哉


16章 神は、悪の存在を禁止しないが否定する
 以前に1章で定義したように、神とは、「この世を、この様にしているもの」です。
 だから、この世に「悪」が存在する以上、神は、悪の存在を禁止していません。
 ものすごく嫌な話ですが、いじめ、暴力、盗み、児童虐待、強姦、殺人、戦争、大量虐
殺・・・ これらの悪が、否定できない事実として、この世に存在している以上、神は、
それらの悪が存在することを、禁止してはいないのです。
 なぜなら、以前に12章で述べたように、「神が禁止するもの」とは、「絶対に死なな
い人間」などのように、「この世には、絶対に存在し得ない事物」だからです。

 しかし、神が「悪の存在」を禁止しないと言っても、つまり、この世に悪が存在するか
らと言って、神は「悪の存在」を肯定している訳では、決してありません。

 そうではなく、神は「悪の消滅」を望み、それを願い、神は「悪の存在を否定」してい
ます。そのように神は、この世に対して働きかけています。
 なぜなら神は、この世で悪が行われた場合、苦しみと不幸を人々に与えて、その悪を止
めようとするからです。

 その具体的な例として、たとえば「強盗殺人」という悪が行われた場合を、考えてみま
しょう。
 そうすると、まず殺された被害者が、たいへんな苦しみと不幸に見舞われます。
 しかし、それだけでなく、生き残った被害者の遺族も、たいへんな悲しみと、苦しみと、
不幸に見舞われます。
 そして近隣の住民も、犯人が逮捕されるまでは、恐れや不安に悩まされることになりま
す。
 さらには、テレビなどで事件が報道されれば、日本全国の人々が、怒りや悲しみに襲わ
れ、不幸を感じてしまうでしょう。
 一方、もちろん犯人も、警察に捕まって刑罰に処せられ、ものすごく不幸になるのは言
うまでもありません。

 このように、悪が行われると、たいへんな苦しみと不幸が生じてしまいます。だから法
律によって罪を定め、警察の捜査によって犯人を逮捕し、刑罰の執行によって罪を償いさ
せ、それらのことにより、そう簡単に気安く、悪を行うことが出来ないようにしています。
 また、戸締りをしたり、防犯カメラを設置したり、警備を強化するなど、悪が行われる
のを未然に防ぐ努力もなされます。

 以上のように、さまざまな手段を講じて、この世に悪が蔓延(はびこ)るのを防ごうと
します。
 そして、この世が、この様になっているのは、「この世を、この様にしているもの」つ
まり神が、悪の消滅を望み、悪の消滅を願い、悪の存在を否定しているからです。

 テロや戦争などの悪も同様です。テロや戦争が拡大すれば、不幸になって苦しむ人々が
増え、国際世論の反発が大きくなります。そして結局、テロや戦争は終息します。これも
神が、悪の消滅を望み、悪の消滅を願い、悪の存在を否定しているからです。

 以上、ここまで述べてきたように、たしかに神は、悪の存在を禁止していません。なぜ
なら、この世に悪が存在するのは、否定できない事実だからです。
 が、しかし、神は悪を肯定し、この世に悪が蔓延(はびこ)るのを望んでいる訳では、
決してありません。もしも神が、悪の存在を肯定するならば、この世はすでに、悪で満ち
満ちていることでしょう。
 だから、そうではなく、神は、悪の存在を好ましくないものとして、悪の消滅を望み、
悪の消滅を願い、「悪の存在を否定」しているのです。それが神の意志です。

 「悪は必ず滅びる」とか、「悪が栄えたためしは無い」などの教訓も、それをよく示し
ているのだと思います。


17章 神は、なぜ悪の存在を禁止しないのか
 ところで、なぜ神は、悪の存在を禁止しないのでしょう?
 たとえば「悪」の代表的なものとして、「殺す」という行為がありますが、なぜ神は、
それを禁止しないのでしょう?
 ここでは、そのことについて考えてみたいと思います。

 まず、「殺す」という行為は、たとえば刃物で刺したり、毒を飲ませることなどで実行
可能です。
 つまり「殺す」という行為は、物理学的、化学的、薬学的、生物学的、自然法則的に、
実行可能な行為なのです。そして事実、この世には、「殺す」という行為がたくさん存在
しています。だから神が、「殺す」という行為を禁止していないのは明白です。

 しかし、なぜ神は、「殺す」という行為を禁止しないのでしょう。
 その、いちばん端的な理由は、「食物連鎖」のために必要だからです。獲物を殺して食
べること。これが禁止されたら、どんな生きものも、生きて行くことができません。もち
ろん私たち人類もです。
 もしも神が、「殺す」という行為を禁止してしまったら、食物連鎖が成り立たず、地球
の生命全体が滅んでしまうのです。

 ゆえに神は、「殺すこと」を禁止しないのです。

 また、食物連鎖とは別の例として、「殺人」の場合を考えてみましょう。
 一般的に「殺人」は、たしかに「悪」以外の、何ものでもありません。
 しかし、正当防衛で人を殺してしまうのは、はたして「悪」なのでしょうか?
 強盗が家に侵入して、いま正に、自分の家族が殺されようとしているのに、それを阻止
するために犯人を殺してしまうのは「悪」なのでしょうか?
 国と家族を守るために、戦争で敵を殺してしまうのは「悪」なのでしょうか?
 有罪になった凶悪殺人犯を、死刑の執行で殺してしまうのは「悪」なのでしょうか?

 また、上の例について、すこし角度を変えて見ると、
 凶悪犯罪者に、大切な家族が次々と殺されているのに、それを黙って見ていて、最後に
自分も殺されることが、はたして良いことなのでしょうか?
 戦争が起こって、目の前で家族や仲間が殺されているのに、戦うことをせずに自分も殺
されることが、はたして良いことなのでしょうか?

 一般的に「殺人」は、たしかに「悪」の代表的なものです。
 が、しかし、上の例から明らかなように、正当防衛や死刑執行など、「殺人が悪とは言
えない場合」や、「どうしても必要な殺人」というのが存在します。

 だから神は、殺人を禁止しないのです。

 以上、
 「殺す」という行為は、食物連鎖のために、絶対に必要です。
 だから神は、「殺す」という行為を、禁止する訳にはいきません。
 そのため、「殺人」という悪も、生じてしまいます。
 しかし殺人は、場合によって、悪になったり、ならなかったりします。

 だから神は、「悪の存在を禁止しない」というよりは、むしろ人間に、悪を認識する能
力を与えたのだと思います。
 神は、人間に「何が悪なのか」を判断する能力を持たせ、人間が悪を否定して(悪を憎
んで)退け、人間がより善い存在になるようにと導いているのです。


18章 神による「無限の愛」の例外
 以前に16章で述べたように、神は、悪の存在を禁止しないが、悪の「存在を否定」し
ます。
 そして、以前に4章で述べたように、「存在の否定」とは「憎むこと」だから、神は、
悪を憎んでいることになります。
 ところが一方、私は5章において、神は「無限の愛」で、この宇宙に存在する全てのも
のを、愛していると述べました。

 このように、
 悪は、一時的といえども、たしかに「存在」します。
 しかし神は、悪を憎んでいます。
 そうすると、「神が、この宇宙に存在する全てのものを愛している」ことと矛盾します。
 だから、「悪の存在」については、神による「無限の愛」の、例外だとするしかありま
せん。

 しかし悪というのは、宇宙全体から見れば、ごくごくごくごく小さな事象です。
 なぜなら、この宇宙には2兆個の銀河があり、その一つの銀河には平均3000億個の
恒星があり、その一つの恒星には平均10個の惑星を持つと予想されているからです。

 つまり、この宇宙には、
 2兆=2000000000000個の銀河が存在し、
 2兆×3000億=600000000000000000000000個の恒星が存在し、
 2兆×3000億×10=6000000000000000000000000個の惑星が存在します。
 しかも、それだけ膨大な数に上る惑星のうちの、たった一つである地球には、3000
万種を超える生物が存在し、その中の1種である人類だけに、「悪」が存在するのです。
しかもさらに、すべての人類のうち、ごく一部の人間だけが「悪」を行うのです。

 このように「悪」というのは、宇宙全体から見れば、ごくごくごくごく小さな事象なの
です。
 だから、神は無限の愛で、この宇宙に存在する、ほとんど全てのものを愛していると言っ
ても、まったく差し支えありません。
 従って、ごくごくごくごく小さな例外がありましたが、本書では今後も、「神は無限の
愛で、この宇宙に存在する、全てのものを愛している」という立場をとります。

 そしてまた、神が悪を憎むのは、人間がより善い存在になるようにと、人間を愛してい
るからに他ならないのです。


19章 神罰について
 私は、神罰(天罰に同じ)というものが、ほんとうに存在すると考えています。
 じつは私は、神罰を恐れている人間です。平気で悪いことをする人間は、神罰を恐れて
いないとしか思えません。

 ここでは以下、実際に存在する神罰について、いろいろと具体的な例を挙げて行きます。

 まず、最初に挙げる神罰の例として、神の存在を認めないことによる「孤独」や「不安」
という罰があります。
 それはつまり、
 以前に8章で述べたように、神は、あなたや私を完全に受け入れてくれました。
 そして9章で述べたように、神は、あなたや私を根底から認めてくれました。
 さらに10章で述べたように、神は、あなたや私を無限の愛で抱いてくれました。
 だから神の存在を認めないと、自分を完全に受け入れ、自分を根底から認め、自分を無
限に愛してくれるものを、失ってしまいます。そのために、孤独に悩んだり、不安に苦し
んだりするのです。
 これは、「神不在の罰」と言えるものです。


 つぎに挙げる神罰の例として、「悪い原因」を作れば、必ず「悪い結果」が生じるとい
う罰があります。これは、「因果応報の罰」というか、必然的な因果関係によって生じる
神罰です。

 例えば、
 企業や官庁あるいは政治家の、不正や贈収賄、横領などが発覚して大問題になること。
 不倫や援助交際によって、家庭が崩壊したり、職場を追われること。
 避妊をしない性行為による望まない妊娠。
 自動車のスピードの出しすぎや、危険な運転によって起こる交通事故。
 食べすぎや飲みすぎによる、肥満や糖尿病や心臓疾患。
 タバコの吸いすぎによる、ガンや高血圧。
 酒の飲みすぎによる、アルコール依存症や、アルコール中毒。
 賭け事のやりすぎによる、ギャンブル依存症や、金銭トラブル。

 これらは、そのような原因を積み重ねて行けば、いつか必ず起こる神罰です。
 たしかに、1回や2回の過ちでは神罰を受けずに済むかも知れません。しかし、それこ
そが「神のご加護」というべきです。それにたかをくくって悪事をエスカレートさせれば、
ほぼ間違いなく悪い結末がやってきて、必ず神罰を受けるのです。


 ところで、自分にまったく過失がないのに、神罰を受けてしまう場合があります。
 例えば、
 いじめや虐待を受けている被害者。
 犯罪の被害者。
 テロや戦争の被害者。
 交通事故の被害者。
 公害や環境汚染による被害者。

 このように、自分一人だけが正しく生きても、神罰を免(まぬが)れる訳ではないので
す!
 社会の良識やルール、平和、安全、環境などを皆で守って行かなければ、何も悪いこと
をしていない人々が、神罰を受けてしまうのです。それが神罰のたいへん恐ろしいところ
であり、理不尽なところです。
 上で述べたような「人間の過失」が原因で、神罰が起こっているにも拘(かかわ)らず、
自分一人の力ではどうにも出来ないところが、私が神罰を恐れている理由です。そしてこ
れが、皆も神罰を恐れなければならない理由であり、良識ある平和な社会を、皆で作って
行かなければならない所以(ゆえん)なのです。


 ところでまた、自然災害による神罰というのもあります。
 たとえば、地震、津波、台風、洪水、噴火などによる自然災害・・・ これらは、人間
の力ではどうしようも出来ないことです。
 昔の人々は、このようなものを「神罰」として一番恐れていたのだと思います。しかし
私は、この類(たぐ)いの神罰をあまり恐れていません。たしかに、自然災害そのものは
私も恐ろしいのですが、しかし「神罰」としては恐ろしくないのです。
 なぜなら、それは人間の側に過失がある訳ではないからです。昔の人々は、このような
自然災害までも「人間に過失があったからだ!」と思い込み、神に赦しを請うために「祈
とう」を行ったり、「生贄(いけにえ)」を捧げたりしたのでしょう。しかし、そんなこ
とは全くナンセンスだと私は思っています。

 ところが!
 人類が排出する二酸化炭素によって地球が温暖化し、異常気象が発生して、豪雨による
洪水、土砂崩れ、土石流などが起こったり、あるいは熱波による熱中症や、日照りによる
干ばつが起こること。
 また、無計画な自然開発や、大規模な森林の伐採などにより、自然環境を壊滅的に破壊
してしまうこと。そしてそれにより、地球の砂漠化を進めたり、多くの野生動物を絶滅に
追いやること。
 またあるいは、魚の獲りすぎによって水産資源を枯渇させてしまうこと。
 そして、これら上に挙げたことにより、ついに生態系のバランスが壊れて、地球の生命
全体に壊滅的な被害を及ぼしてしまうこと。

 これは、とても恐ろしい「神罰」です。
 それは人類の過失によって起こるだけでなく、その被害が回復するのに、下手をすれば
何百年も、さらには何千年も何万年もかかるかも知れないからです。
 このような神罰こそが、人類が最も恐れなければならない神罰であり、人類が一丸(い
ちがん)となって、その対策に取り組まなければならないのです。



 つづく



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