大いなるもの 9
2024年5月5日 寺岡克哉
28章 失恋したとき
前章で触れた「自暴自棄」といえば、「失恋」をしたときも、ものすごく自暴自棄にな
ります。
私の経験(黒歴史)を恥ずかしながら紹介すると、いちばん酷い失恋をしたのは30歳
代のときでしたが、その頃の様子は、だいたい以下のようでした。
結婚を考えるほど好きだった相手の女性から、私の告白を断られてから、
その後3時間ぐらいは、頭が真っ白になって、自室で茫然と立ち尽くしていました。
その後半日ぐらいは、何も考えることが出来なくなり、
その後3日ぐらいは、食べ物が喉を通りませんでした。
その後3ヵ月ぐらいは、ものすごく落ち込んだ気分が続き、
その後3年ぐらいになってやっと、失恋のことが気にならなくなりました。
しかし、その失恋の後10年ぐらいは、新しい恋をしようとは全く思いませんでした。
いま思い出してみると、ずいぶんと拗(こじ)らせたものです。
ところで、私が失恋をした日、茫然(ぼうぜん)と立ち尽くしていた自室の中で、「相
手を殺して自分も死のう!」という思いが、一瞬よぎったこともありました。
しかし、そのとき、頭の中が真っ白になっていて、なにも良く考えられないけれど、そ
のギリギリに追いつめられた状態の中で、「それは絶対にダメだ!」と、言葉ではない声
で強く命令され、ぐっと思い止まったのです。
その、(言葉ではないけれど)「ものすごく強い命令」は、頭の上から差してくる白い
光によって与えられたという、そんなイメージでした。
絶望に追いつめられ、何も考えられないギリギリの状態の中で、「相手を殺して自分も
死のう!」という黒い感情よりも、「それは絶対にダメだ!」という理性の光が勝ったの
です。
今にして思うと、それは「大いなるもの」の、声ならぬ声だったのでしょう。
「大いなるもの」から照らされた「理性の光」が、自暴自棄になって犯罪を犯してしま
う間違いから、私を救ってくれたのです。
ちなみに、昔から現在においても、交際を断られた相手の女性を殺してしまう事件が後
を絶ちません。そして私も、上でお話した体験から、そのような気持ちが分からなくもあ
りません。
が、しかし、もしも「大いなるもの」による「理性の光」が犯人にも照らされていたら、
残虐な犯罪を犯さずに、本人も被害者も救われていたかもしれないのです。それを思うと、
すごく残念でなりません。
ところで後日談ですが、あのとき私は失恋して良かったと、今では思っています。
なぜなら、もしも結婚して家族を築いていたら、定職につかず自由に書き物をしている
今の生活など、絶対に望めなかったからです。
そして文章を書くことで、「大いなるもの」を顕現することも、不可能になっていたで
しょう。
だから、あのとき失恋して、現在も独身でいるのは、「大いなるものの導き」だったの
ではないかと、今では思えてなりません。
29章 すべてを「大いなるもの」に任せるとき
人生においては、「もはや、自分の力ではどうにもならない!」と、心の底から思い知
らされるときがあります。
そのようなとき私は、体のよけいな力が抜け、焦りや不安がすべて消えさり、なにか暖
かな空気に全身が包まれて、心も体もたいへんリラックスした状態になりました。
そして、
「もはや、私にはどうすることも出来ません。」
「すべてを、大いなるものにお任せします。」
という気持ちになったのです。
私は今までに、そのような体験を何回かしたことがありますが、その一つを以下に紹介
しましょう。
以前に19章で少し触れましたが、それは1983年の夏。私が大学2年生のときで、
山岳部に入って2年目になっていました。ロッククライミングや冬山登山などを一通り経
験し、山登りに対して自信を持ちはじめるころでした。まだ大きな失敗を経験したことが
なく、恐いもの知らずで、功名心がとても旺盛(おうせい)になる時期です。
その年の夏山合宿で、「むずかしい岩壁に挑戦しよう!」という話になりました。その
岩壁とは、北アルプスの立山にある「丸山東壁」です。600メ-トルの垂直な壁がそび
え立つ、ロッククライミングではとても有名な場所です。
丸山東壁には、先輩と私と、私の同輩との、3人のパーティで挑戦しました。しかし登
り始めてから15時間たっても、150メ-トル(岩壁全体の4分の1)しか登ることが
出来ませんでした。それで仕方がなく、途中で撤退するはめになったのです。
じつを言うと、撤退の原因を作ったのは私でした。
私が、オ-バ-ハング(岩がせり出し、天井のように覆い被さっている所)を登ってい
る途中で、ロープ(厳密にはロープで作った「あぶみ」という三段はしご)に足がからま
り、逆さ吊り状態になって、身動きが出来なくなったのです。
私はその状態のまま、40分ぐらい悪戦苦闘をしていました。しかし体力と精神力が消
耗し、精も根も尽きはててしまいました。しかもそのとき、岩壁を登り始めてからすでに
15時間も経過していたのです! それだけでも、体力はずいぶん消耗していました。
そして日も暮れてきました。しかし私たちは、岩場で宿泊する装備を持っていなかった
のです。
先輩の判断で、それ以上登るのをあきらめ、ロープを使って下降(懸垂下降)すること
に決まりました。ところが下降している途中で、完全に日が暮れて、真っ暗になってしまっ
たのです。ヘッドライトを点灯しても、ロ-プで下降した先にテラス(足場)があるのか
ないのか、まったく見えません。その中をロープで下降して行くと、「暗黒の地の底」に
吸いこまれて行くような感じがしました。
そのとき、私は心の中で、
「ああ、私の立ち入ってはならない所に来てしまいました。」
「願わくば、どうか生きて帰らせて下さい。」
と、運命を司っている「何かとても大きな存在」に祈っていました。つまり、今にして思
えば「大いなるもの」に祈っていたのです。
ところで不思議なことに、そのとき私は、「死への恐怖」をまったく感じませんでした。
「生きたい!」という気持ちも、「死にたくない!」という気持ちも、全くありませんで
した。心がパニックになっていた訳でも、茫然自失していた訳でもありません。
妙に心が落ちつき、まったく焦りや不安がなく、よけいな体の力が抜けていました。そ
して全身が、なにか暖かい空気に包まれ、優しい雰囲気に抱かれているような感じがしま
した。とても安らかで、とても充実した気分です。
そのような気持ちになったのは、おそらく、「生死を超越した境地」に到達したからで
しょう。
そのとき私は、「大いなるものが、私の命を持っていかれるのならば、それはそれで仕
方がありません」という気持ちでした。
しかしながら、「願わくば、生きて無事に帰らせて下さい」という気持ちもありました。
しかしやはり、「私が生きるも死ぬも、大いなるものに全てお任せします!」というの
が、そのときの私の気持ちに、ぴったりだったと思います。
幸運にも私たちのパ-ティは、だれも怪我をすることなく、無事に下山することができ
ました。もちろん、先輩が冷静な決断をして、適切な行動をしたこと。そしてみんなが、
細心の注意をはらって下山したことが幸いしたのです。
しかし私としては、「大いなるものに、守られていたから助かったのだ!」という、と
ても大きな感動と、この上ない感謝の気持ちが湧き起こったのも事実でした。
30章 「自我意識」と「大いなるもの」
当然ですが、私には、私の「自我意識」が存在します。
ところで、この自我意識とは、
●「自分が生きていること」や、「自分が存在していること」を認識する意識です。
●自分と外界を区別し、「自分は一人しか存在しない!」と言う、「自己の独自性」を認
識する意識です。
●今日の自分も、昨日の自分も、1週間前の自分も、1年前の自分も、常に同じ自分であ
るという、「自己の同一性」を認識する意識です。
●自分の欲求や希望、目標などを自らの意思で実現させようとする、「能動的な思考や行
動」を生じさせる意識です。
つまり、「自我意識」を簡単に言ってしまえば、「私が、私を、私の意思で、“私”と感
じる意識」だといえるでしょう。
この、私の自我意識は、私だけにしか存在しません。皆さんもそうだと思います。
もしも私の自我意識が、私以外の人間にも存在すれば、私は常に自分の体が二つ以上存
在するように感じるはずだから、すぐに分かります。
だから私の自我意識が、私だけにしか存在しないのは自明の事実です。
しかし、この「自明の事実」が、私にはどうしても理解のできない、とても不思議な現
象なのです。
なぜ、私の自我意識は、私に存在するのでしょう?
なぜ、この時代の、この国の、この場所で、この家族の下に生まれた、この人間に、私
の「自我意識」が存在するのでしょう?
たとえば地球には、(2023年の時点で)80億以上もの人間がいます。それなのに、
なぜ私の自我意識は、80億人の中の1人を選び、この私に存在するのでしょう?
難民の子どもに生まれ、すぐに餓死する人間に、私の自我意識が存在した可能性もあり
ました。妊娠中絶や流産で、自我意識を持ち得る前に死んでしまった可能性もありました。
あるいは、お金持ちや上流階級の家庭に生まれた人間に、私の自我意識が存在した可能性
もあったはずです。
さらには、100年前や、1000年前、1万年前の人間に、私の自我意識が存在した
可能性もあったのです。
しかしなぜ、今のこの私なのか? これが、どうにも理解できない謎です。
* * * * *
ところで私が生まれるとき、父親の何億もの精子の内、1つ隣の別の精子が受精したな
らば、私の自我意識は存在しませんでした。だから、違う日に行われた交接によって受精
しても、私の自我意識は存在できなかったのです。それは兄弟の場合を考えれば分かりま
す。
さらには、もしも私が一卵性の双生児(同じ受精卵から生まれた双子で、全く同じDN
Aを持つ)であっても、私の双子の兄弟には、私の「自我意識」は存在しません。彼に存
在するのは、彼の「自我意識」です。
だからもし、私のクローン人間を作ることが出来たとしても、そのクローン人間には、
私の「自我意識」は存在しません。彼に存在するのは、彼の「自我意識」なのです。
このように、私の両親が存在したとしても、さらにその両親から、私と全く同じDNA
を持つ子供が生まれたとしても、その子供が、私の自我意識を持ちうる保障は、どこにも
無かったわけです。
* * * * *
そして今後、この地球に何百億もの人間が生まれたとしても、私の自我意識が生じるこ
とは二度とないでしょう。
なぜなら私には、生まれる前の過去に自我意識が存在した記憶がないからです。過去数
万年の人類史の中で、私の自我意識が存在していた記憶など、私には全くないのです。
だから今後、何万年の時間が経とうとも、私の自我意識が生じることは無いと考えるの
が妥当です。
それどころか、今後「ビッグバン(宇宙の誕生)」を何万回くり返そうとも、私の自我
意識が生じることは二度とないと思います。
なぜなら、過去に何回のビッグバンが起こったのか知りませんが(過去には無限の時間
が存在するから、無限回のビッグバンが起こっても不思議ではない)、もしも、そのどれ
かの宇宙に、私の自我意識が存在していたならば、今の私がそれを記憶しているはずだか
らです。しかし私には、そのような記憶が一切ありません。
だから無限の未来においても、私の自我意識は二度と生じることが無いと考えるのが妥
当です。
以上から、なぜ、無限の過去から無限の未来の中で、この宇宙の、この地球の、この国
の、この時代の、この人間に、私の自我意識が存在するのかは、いくら考えても全く分か
らないのです。
強いて言うなら、以前に5章で、「大いなるもの」とは「この世を、この様にしている
もの」と定義しました。だから、この世に私の自我意識が存在する以上は、「大いなるも
の」がその様にしたからだと、そう納得するしかないと思っています。
つまり「大いなるもの」が、私の自我意識を、私に与えてくれたのです!
そしてまた、「私の自我意識が、この世に存在する」という、正にその事実こそ、「大
いなるもの」が本当に存在することを、明白に証明しているのです。
このように理解することで、長年にわたる私の疑問が解消して、心の底から納得できる
ようになったのでした。
31章 「大いなるもの」と私
それにしても、いったい私は、なぜ存在するのでしょう?
たとえば・・・
無限の過去から数えて、何回のビッグバン(宇宙の誕生)が起こったのか分かりません
が、いちばん最近に起こった140億年前のビッグバンによって、「この宇宙」が誕生し
なかったら、私は存在しませんでした。
そのビックバンの膨大なエネルギーによって、電子や陽子などの素粒子や、水素やヘリ
ウムなどの原子、つまり「物質」が作られなかったら、私は存在しませんでした。
それらの星間物質から、銀河系や太陽系、そして地球が作られなかったら、私は存在し
ませんでした。
そして40億年前の地球に、生命が誕生して、それが人類まで進化しなかったら、私は
存在しませんでした。
その人類が世界中に広がって命をつなげ、20世紀の日本に、私の両親が誕生しなかっ
たら、私は存在しませんでした。
そして前の30章でお話したように、私の両親が存在したとしても、私が生まれる保障
はありませんでした(兄弟の例)。
さらには、その両親から、私と全く同じDNAを持つ子供が生まれたとしても、その子供
が私であるという保障は、どこにも無かったのです(一卵性双生児の例)。
このように考えてくると、なぜ私が存在するのか、まったく不可解です!
しかしそれでも、この世はこの様になっており、その結果として、この世に私が存在し
ているわけです。
だから、これはもう、この世をこの様にしている「大いなるもの」が、私を存在させて
いるとしか、ほかに考えようがありません。
ちなみに「我思う、ゆえに我あり」という有名な言葉がありますが、この場合は「大い
なるものあり、ゆえに我あり」と言ったところでしょうか。
* * * * *
いま上でお話したように、「大いなるもの」は、私を存在させています。
だから「大いなるもの」は、私の存在を肯定しています。
なぜなら私を存在させるためには、いま上でお話したように、無限の時間と、無限の作
用や働き、そして無限の偶然の積み重ねが必要だったからです。
もしも「大いなるもの」が、私の存在を肯定しなかったら、これほど困難なことが成就
されるわけがありません。
ゆえに「大いなるもの」は、私の存在を肯定しているのです。
そして以前に8章でお話したように、「存在の肯定」とは「愛」でした。だから「大い
なるもの」は、私を愛してくれています。
ちなみに「大いなるもの」は、この宇宙に存在する全てのものを、存在させています。
だから「大いなるもの」は、宇宙に存在するもの全てを愛しています。それを「大いなる
無限の愛」といいました。
つまり私は、「大いなる無限の愛」で、大いなるものに愛されているのです。
* * * * *
以前に5章で定義したように、「大いなるもの」とは「この世を、この様にしているも
の」でした。
そして、ごくごくごくごく小さな一部分にすぎませんが、私自身も、「この世を、この
様にしているもの」の一部です。つまり私は、すでに「大いなるもの」の一部なのです。
だから私は、大いなるものの一部として、大いなるものに「完全に受け入れられている」
と言えます。
* * * * *
ところで、私が行った何らかの行動は、どんな行動でも、「大いなるもの」の中で永遠
に作用し続けます。
なぜなら、原因と結果の因果関係が、無限に続いて行くからです。
つまり、私の何らかの行動が原因となって、何らかの結果が生じ、その結果が新たな原
因となって、さらに新たな結果が生じる・・・ と、それが無限に続いていくからです。
そして一方、「私の行動によって生じた何らかの原因」というのは、ごくごくごくごく
小さなものではありますが、まちがいなく「この世を、この様にしているもの」の一部で
す。つまり「大いなるもの」の一部なのです。
そしてまた、「私の行動で生じた何らかの原因」というのは、私が生きて存在したこと
を証明するものであり、「私の生命の証(あかし)」であると言えます。
つまり「私の生命の証」は、大いなるものの一部であり、私が死んだ後も、大いなるも
のの中で永遠に生き続ける(永遠に作用し続ける)ことになります。
そしてこれが、いわゆる「永遠の生命」の正体ではないかと、私は考えています。
* * * * *
以上から、
「大いなるもの」は、この世に私を存在させ、大いなる無限の愛で私を愛し、大いなる
ものの一部として私を完全に受け入れ、永遠の生命を私に与えてくれます。
それが、「大いなるもの」と私の関係です。
そしてこれは、もちろん私だけでなく、この本を読んでいる「あなた」についても、まっ
たく同様に言えることなのです。
終わり
あとがき
最後になりましたが、本書の題名は「大いなるもの(私が求める本当の神)」でした。
だから「大いなるもの」というのは、私が求める本当の「神」だったわけです。
そうすると、31章(最終章)の結論は、
「神は、この世にあなたや私を存在させ、神の無限の愛であなたや私を愛し、神の一部
としてあなたや私を完全に受け入れ、永遠の生命をあなたや私に与えてくれる」と、なり
ます。
それは神の全体から見れば、ごくごくごくごく小さな一部にしか過ぎませんが、しかし
あなたも私も、たしかに神の一部を担い、神の一部として永遠に生きることになります。
しかしながら、「私が神の一部である」というのは、ものすごく不遜な感じがしました。
が、しかし、そうではありますが、本書の結論を踏襲(とうしゅう)すれば、それを認
めざるを得なくなったのです。
ところで、上の話を一般化すると、「この宇宙に存在する、すべての個々のものは、
“この世を、この様にしているもの” の一部であるから、大いなるものの一部であり、し
たがって神の一部である」と、なります。
それを、ちょっと宗教的な表現にすれば、「この宇宙に存在するものは、すべて神が生
み出した神の子であり、神の一部である」と、言うこともできるでしょう。
そのように解釈すれば、「私は神の一部である」ということに対する不遜さが、すこし
和らいだ気がしました。
しかしとにかく、「大いなるもの」つまり「私が求める本当の神」とは、そのようなも
のであると、いま現在の私は結論づけている次第です。
2024年5月5日 寺岡克哉
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