大いなるもの 8
                               2024年4月28日 寺岡克哉


25章 「大いなるもの」と「人の心」
 大いなるものは、人間に「人の心」を生じさせ、それを育て上げて導き、人間を単なる
動物から「理性的な存在」へと進化させます。
 具体的に言えば、たとえば「大いなるもの」は、釈迦やキリストをこの世に遣わし(こ
の世に誕生させ)、「慈悲」や「隣人愛」を人々に説かせました。
 そして、それらの教えが、人々に良心や良識などの「人の心」を生じさせ、育て上げて
導き、人間を単なる動物から「理性的な存在」へと進化させるわけです。

 以下、私の体験を例にして、「人の心」の誕生と成長について、具体的に追って行きた
いと思います。

 ・・・「人の心」というものは、10年も20年もかけて育て上げることにより、作ら
れるものだと私は思います。なぜそう思うのかいうと、じつは私が、そのような人間だっ
たからです。
 テレビや新聞などでよく報道される、10代の若者が起こす殺人事件・・・ そのこと
にショックを受け、心を痛めている方も多いかと思います。しかし実は、私も10代のと
きは、人を殺すのがそんなに悪いことだと思っていませんでした。

 以前に、10代の若者が、ホ-ムレスを襲って殺す事件がありました。とても痛ましい
事件です。しかし、それよりさらにずっと以前の、私が中学生だったときにも、「浮浪者
狩り」と称して、10代の若者が同じような事件を起こしていたのです。
 「社会のゴミをしまつしてやった・・・」
 以前の事件と、まったく同じような理由でした。そのとき中学生だった私は、テレビの
ニュースを見ながら、「なんで社会のゴミの浮浪者を殺したら悪いのかなあ!」と、率直
な気持ちで言ったのです。そうしたら、「浮浪者でも人間は人間だから、殺したら悪いの
だ!」と、父親にひどく叱られた覚えがあります。しかし、なぜそのとき叱られたのか、
正直に言って私には理解できなかったのです。

 それから、ある疑問が私の心の中に生じました。
 この社会には、「何かとても大切なもの」が欠けているのではないか?
 そして自分も、「何かとても大切なもの」を失っているのではないか?
というような、漠然とした疑問です。
 そんな疑問を、それから10年以上もずっと抱え込むことになりました。しかしいくら
考えても、「社会や自分に欠けているもの」が分からずにいたのです。
 そんなとき(25歳を過ぎたころ)、武者小路実篤やトルストイを通じて、キリストや
釈迦の思想に触れました。それによって、社会や自分に欠けているものが、「隣人愛」や
「慈悲」であること。つまり、「他人への思いやり」とか「人の心」であることが、やっ
と分かったのです。

 このとき私は、はじめて「大いなるもの」の片鱗に触れることができた訳です。

 それから少しずつゆっくりと、私の心が内面から変わって行きました。
 そして、殺人や強姦などの凶悪な犯罪にたいして、吐き気をもよおす嫌悪と、身の毛が
よだつ恐怖を感じるようになったのです。今では、テレビを見ていて悲惨なニュースが目
に入ったり、サスペンスドラマなどで殺人のシ-ンが目に入ったりすると、ものすごく嫌
な気分になります。
 しかし、私がそのような「人の心」を持つようになったのは、恥ずかしながら30代の
中頃になってからです。つまり、釈迦やキリストの思想に出会って10年も経ってからで
す。
 そのような経験から、「人の心」というものは10年も20年もかけて育てなければ、
なかなか身につかないと私は思っている訳です。

 ところで「妊娠中絶」も、私が10代や20代のときは、そんなに悪いことだと思って
いませんでした。
 「妊娠したら堕ろせばいいじゃん!」
 「しかし、金がかかるのが問題だ!」
ぐらいにしか思っていなかったのです。
 しかし30代の後半になると、だんだんと「人生の重さ」というか、「生命の尊さ」を
感じ始めるようになりました。そして、もしも私が胎児のときに中絶されて、「私の人生
のすべて」が生まれる前に抹殺されていたかと思うと、背筋が寒くなり、ぞっとするので
す。
 そしてまた、30代の後半にもなると、子供がとてもかわいく感じてきます。生命力に
あふれる子供たちを見ていると、私も元気が出てきます。せっかくそのような子供を授かっ
たのに、堕ろさなければならないなんて、本当に悲しく、また、とても恐ろしいことです。
 自分の体に宿した子供の命を、母親が自らの意志で絶たなければならない・・・
 その精神的な苦しみは、男性の私には想像を絶します。私だったら、ちょっと耐えられ
そうもありません。たとえばそれは、会社の倒産やリストラなんか比べものにならないほ
どの、ものすごく大きな苦しみだと思うのです。
 「望まない妊娠をすれば、傷つくのは女性の方・・・ 」
 この言葉は、私が10代のときから知っていました。しかし、その言葉の重みを心の底
から理解できるようになったのは、やはり30代の後半になってからなのです。

 そして実は「戦争」も、むかしの私は、「退屈しのぎのお祭り騒ぎ」ぐらいにしか思っ
ていませんでした。テレビで報道される派手な爆発や戦闘シ-ンを見て楽しむか、「戦争
で景気が良くなるかも知れないな」というぐらいにしか、思っていなかったのです。
 しかし今では、
 家や仕事を失い、難民になった人々・・・
 怪我の痛みや、飢えや寒さに苦しむ人々・・・
 子供や家族を失い、悲しみに打ちひしがれる人々・・・
 そして、手足を失った人々や子供たち・・・ 彼らは、その不自由な体を抱えて、これ
からの一生を生きなければなりません。
 それらの苦しみが、私の心につき刺さってくるのです。これらの苦しみに比べたら、た
とえば不登校やひきこもり、うつ病、会社の倒産やリストラなどの問題が、問題とは感じ
られなくなってしまうほどの、苦しみと悲惨さです。
 今では、空爆などの映像が目に入ると、その下で何人の人々が傷つき、死に、不自由な
体を一生ひきずらなければならないのか・・・ それらを思うと、底知れぬ恐ろしさとお
ぞましさに、心が打ちのめされてしまいます。

 以上のように私は、武者小路実篤やトルストイを通じて、キリストの説いた「隣人愛」
や、釈迦の説いた「慈悲」を知り、「人の心」が芽生え、育てられ、導かれて行ったので
した。
 そしてそれは、釈迦やキリストが誕生し、その弟子たちが世界中に教えを広め、紙や活
版印刷が発明され、トルストイや武者小路実篤が執筆し、出版会社が本を印刷して、本屋
が書籍を売ったから、可能になったことです。
 そして、それらはみな、「この世をこの様にしているもの」つまり「大いなるもの」に
よって成されたことだから、私は「大いなるもの」のお陰で、「人の心」を持つことが出
来たと言えるのです。


26章 「大いなるもの」による罰
 私は、「大いなるもの」によって人間が受ける罰、つまり、一般的に「天罰」といわれ
るものが、ほんとうに存在すると考えています。じつを言うと私は、「大いなるものによ
る罰」を恐れている人間なのです。

 この「大いなるものによる罰」には、たとえば次のようなものが挙げられます。

 まず、「大いなるものを拒絶したことによる不安や孤独」という罰が挙げられます。
 つまり「大いなるもの」を拒絶したため、「自分を絶対的に受け入れてくれもの」を喪
失したことによる不安。そして「大いなるもの」を拒絶したため、「大いなる無限の愛」
が実感できないことによる孤独。そのような不安や孤独に苦しめられる罰です。ちょっと
宗教的な表現をすれば、「神仏不在の罰」とでも言えるでしょうか。

 つぎに、「悪い原因」を作れば、必ず「悪い結果」が生じるという罰があります。
 例えば、
 企業や官庁、あるいは政治家の、不正や賄賂が発覚して告発されること。
 不倫や援助交際などによって、家庭が崩壊したり、職場を追われたりすること。
 避妊をしない性行為による、望まない妊娠。
 車のスピ-ドの出し過ぎや、危険な運転による交通事故。
 食べすぎや飲みすぎによる、肥満や糖尿病、心臓疾患。
 タバコの吸いすぎによる、高血圧やガン。
 これらは、そのような原因を積み重ねて行けば、いつかは必然的に生じる結果です。た
しかに、1回や2回の過ちでは罰を受けずに済むかも知れません。しかしそれこそが、
「大いなるものの加護」というべきです。それにたかをくくって悪事をエスカレ-トさせ
れば、かならず悪い結果を招き、ほぼ間違いなく「大いなるものによる罰」を受けてしま
うでしょう。

 しかしながら、自分にまったく過失がないのに、「大いなるものによる罰」を受けてし
まう場合があります。
 例えば、
 いじめや虐待を受けている被害者。
 犯罪の被害者。
 テロや戦争の被害者。
 交通事故の被害者。
 公害や環境汚染による被害者。
 このように、自分だけが正しく生きても、「大いなるものによる罰」を免れるわけでは
ありません。社会的な良識やル-ル、平和、そして生態系や自然環境などを、みんなで守っ
て行かなければ、それが原因となって「何も悪いことをしていない人々」が、「大いなる
ものによる罰」を受けてしまうのです。
 そこが「大いなるものによる罰」のたいへん恐ろしいところであり、理不尽なところで
す。が、しかし、ここにこそ、すべての人が「大いなるものによる罰」を恐れ、良識のあ
る平和な社会を作って行かなければならない理由があるのです。

 ところで!
 二酸化炭素の増加によって地球が温暖化し、異常気象が発生して、豪雨による洪水が起
こったり、日照りによる干ばつが起こること。
 また、無計画な開発や、森林の伐採などによって、自然環境を壊滅的に破壊してしまう
こと。
 そのことによって、地球の砂漠化を促進したり、多くの野性生物を絶滅に追いやること。
 あるいは、魚の取りすぎによって、水産資源を枯渇させてしまうこと。
 そして、これらにより地球の生態系がバランスを崩し、生命全体に悪影響を及ぼすこと。

 これらは、「大いなるものによる罰」の中で、最も恐ろしいものです!
 なぜなら、これらの罰は、それを回復するのに何百年も、下手をすれば何千年も何万年
もかかるからです。そして最悪の場合は、地球の生態系が壊滅して、人類が絶滅するかも
知れないからです。
 ゆえに、これこそが、人類が最も恐れなければならない「大いなるものによる罰」なの
です。


27章 努力が報われないとき
 誰でも人生で一度ぐらいは、長年の苦労や努力がまったく認められず、自暴自棄になり
たくなる時が、あるのではないでしょうか?

 例えば、いじめや引きこもりで苦しんでいる人々・・・。
 彼らや彼女たちは、孤独の中で苦しみと戦っている努力が、周囲の人たちに、なかなか
分かってもらえないのではないでしょうか?

 あるいは、リストラされたり、自分の勤める会社が倒産してしまった人々・・・。
 とくに、40代や50代のサラリーマンでこのような目に遭った人は、たいへん辛い思
いをしているのではないでしょうか。休日出勤やサービス残業を文句も言わずにやり、
20年も30年も努力をしてきた報いがこれなのです。
 しかも、再就職をしたくてもなかなか出来ません。それまでの経験やキャリアがまった
く評価されないどころか、年齢制限にひっかかってしまいます。その上、家族や子供を抱
えていれば、なおさら大変です。このような人たちは、ほんとうに苦労が報われないと思
います。

 苦労や努力が報われない苦しみや、それを分かってもらえない悲しみは、他にもたくさ
んあります。
 例えば、
 いくら不眠不休で働いても、自分の経営する店や工場が赤字になり、借金ばかりが増え
ていく人々・・・。
 不治の病で、長年の闘病生活を続ける人々・・・。
 国籍や民族、血筋によって差別を受けている人々・・・。
 ほんとうに、世の中には理不尽なことが多いと思います。

 このような苦しみに比べたら大したことないのですが、私のつたない人生においても、
自暴自棄になりたくなったことが何度かあります。
 例えばその一つに、私が科学者になる道を断念した時のことがあります。じつは私は、
10年間ほど無給の身分で大学の研究室に所属し、物理学の研究にかじりついました。
 そのころは、土日も返上して研究室に通い詰めでした。徹夜になったり、4時間ぐらい
の睡眠しか取れないこともしばしばです。
 実験のスケジュールがとても忙しくなると、3日間のあいだに3時間の仮眠しか取れな
かったこともありました。
 このように、いくら研究の努力を続けていても、世間一般の人から見れば「金を稼ぎも
せず、自分の好きなことをして遊んでいるだけだろう!」としか思われないのです。
 そして最後は結局、自分ではかなり努力したつもりだったのですが、博士学位を取得す
るには至りませんでした。
 そのときの経験から、いじめや引きこもりで「孤独な戦いを続ける苦しみ」や、40代
や50代でリストラされる「経験やキャリアが評価されない苦しみ」が、分かるとまでは
言えませんが多少は想像できるのです。

             * * * * *

 ところで私は、苦労や努力が報われなくて自暴自棄になりそうな時は、イエス・キリス
トのことを思うようにしています。そうすると心が救われて、自暴自棄にならないで済む
のです。
 私は、キリストほど苦労や努力が(生きている間に)報われなかった人は、いないので
はないかと思います。
 キリストは各地を旅しながら、「神と隣人への愛」という、たいへんに素晴らしい「教
え」を説いて回りました。その「教え」の素晴らしさは、その後2000年以上にわたっ
て人類に尊ばれることにより、今では明確に証明されています。
 キリストが行った仕事は、人類のもっとも偉大な業績のひとつです。その証拠に、世界
の歴史を記述するのに使う「西暦」は、キリストの生まれた年を基準にしているのです。

 またキリストは、目の見えない者や、足が不自由で歩けない者、皮膚病を患っている者、
職業や身分で差別を受けている者、精神や心が病んでいる者たちを癒して回りました。こ
のようにキリストは、人々を苦しみから救うために、たいへんな苦労と努力をしたのです。

 しかしその報いは、磔(はりつけ)にされて殺されることでした!

 十字架に磔にされたキリストは、弟子たちには逃げられ、周囲からは罵(ののし)られ、
手足を杭で打ち抜かれた激痛に耐えていました。そんな苦しみと孤独の中でも、キリスト
は最後の最後まで、自分を磔にした人間たちを恨みませんでした。それどころか、神が彼
らを赦して下さるように祈り、神の罰から彼らを守ろうとしたのです。

 つまりキリストは、自分を磔にした人間たちを気遣い、彼らを思いやっていたのです!

 それを思えば、私の苦労や努力など、大したことないように思えて来ます。
 磔にされて死ぬまでの「キリストの生きざま」が私の心に迫り、「どんな時でも隣人を
愛しなさい!」と、力強く語りかけてきます。
 そうすると、どんなに辛くて苦しい時でも、他人を恨んだり世の中を憎んではいけない
と、思い直すことができるのです。

 確かに、世の中には理不尽なことがたくさんあります。
 世の中を憎みたくなる気持ちも、少しは分かる気がします。
 「むしゃくしゃするから人でも殺してやろう!」とか、
 「もしも爆薬が手に入るのだったら、テロでも起こしてやろう!」と、本気で思ってい
る人間が、今の日本に何人いても不思議ではないと思います。

 しかしキリストの愛は、そのような「自暴自棄になって犯罪を犯してしまうこと」から、
私自身を未然に守ってくれるのです。
 そして、そのようなキリストを、この世に誕生させてくれた「大いなるもの」に対して、
「無上の有難さ」を感じずにはいられないのです。



 つづく



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