大いなるもの 7
2024年4月21日 寺岡克哉
20章 大いなるものの力
私は、「大いなるものの力」というものが、たしかに存在すると思っています。
しかし私の考えている「大いなるものの力」とは、病気を一瞬で治したり、死者を生き
返らせるような、いわゆる「超自然的な奇跡の力」ではありません。
そうではなく、
人間の心の奥底に働きかける力。
愛の感情や、利他の精神、自己犠牲の勇気などを生じさせる力。
そして実際に、利他や自己犠牲の行為を人間に行わせる力。
つまり、「愛」を生じさせる力です。
あるいは人間に、
生きる理由や、生きる目的を生じさせる力。
生きる意味や、生きる価値を生じさせる力。
そのことにより、生きる意欲や、生きる勇気や、生きるエネルギーを生じさせる力。
つまり、「生命」を生じさせる力です。
以上のように、ここで言う「大いなるものの力」とは、人間に「愛と生命」を生じさせ
る力のことです。
ところで、「大いなるもの」の存在をまったく認めない思想・・・つまり機械的な唯物
論では、「生命現象とは、物質どうしの複雑な相互作用の結果にすぎない!」と言うでしょ
う。だから「大いなるものの力」も、「脳内化学物質の変化による、脳の状態の変化にす
ぎない!」と説明するでしょう。
しかし、それはむしろ、「大いなるもの」の存在を確信することにより、それがきっか
けとなって、脳内化学物質の変化が起こったと考えるべきです。そしてそれが、愛の感情
や、利他の行為や、生きる意欲などを人間に生じさせたのです。
つまり「大いなるものの力」が実際に働いて、それらを現実の世界に生じさせているの
です。
このような意味では、たしかに「大いなるものの力」が存在すると言えます。
「大いなるものの力」が働くと、ふつうでは出すことのできない勇気や行動力が、出る
ようになります。「大いなるもの」と共に在ると、自分一人だけでは出せない力が、出せ
るようになるのです。
それは例えば、「恋の力」とたいへんよく似ています。はげしく恋に取りつかれると、
相手のためなら、たとえ火の中水の中、ふつうなら絶対に出せない勇気や行動力が、出せ
るようになります。
恋人と一緒にいたり、恋人のことを思うと、たいへんな幸福と満足を感じます。そして、
生きる希望や生きるエネルギ-が、心と体に満ち満ちてきます。
さらには、
「あなたのためなら何でもしてあげたい!」
「あなたに、私の身も心もすべてを捧げたい!」
「あなたに、私の命と、私の生涯のすべてを捧げたい!」
というような、自己犠牲の気持ちも起こってきます。このように、「大いなるものの力」
と「恋の力」は、たいへんよく似ているのです。
しかし、「大いなるものの力」と「恋の力」では、まったく違う所もあります。それは
「恋は盲目」と言われるほど、恋の力は「感情的」ですが、大いなるものの力は「理性的」
だという所です。
ところで「理性」という言葉を辞書で引くと、「概念的思考の能力」とか、「真偽、善
悪を識別する能力」という意味のほかに、「絶対者を直感的に認識する能力」というのが
あります。(岩波書店 広辞苑)
そして「絶対者」とは、「宇宙の根底として無条件・無制約・純粋・完全で、自ら独立
に存在する唯一の最高存在。」とあります。
つまり「理性」という言葉には、「大いなるものを認識する能力」という意味もあるの
です。だから「大いなるもの」と「理性」とは、切っても切れない関係にあります。
今お話したように、「大いなるものの力」は理性的なので、「人類の良識」に反するこ
とがありません。
その上で、愛の感情や、利他の精神、自己犠牲、生きる目的、生きる価値、生きるエネ
ルギーなど、つまり「愛と生命」を人間に生じさせるのです。そして、ふつうでは考えら
れないほどの行動力や勇気を、人間に発揮させます。
たとえば、釈迦やキリストのような偉大な人物が歴史上に現れたのも、人間にそのよう
な行動を起こさせる力、つまり「大いなるものの力」が、彼らに働いていたからに違いあ
りません。
また、時代が下って例えば、ナイチンゲール、ガンジー、キング牧師、マザ-テレサ、
ヨハネパウロ二2世、ダライラマ14世など、これらとても素晴らしい人たちが現れたの
も、「大いなるものの力」が彼らに働いていたからに違いないのです。
私は、彼らの「尊い生きざま」に触れるたびに、「大いなるものの力」が本当に存在す
ることを、ますます確信するのです。
21章 心の共通基盤
人間は、「孤独」をたいへんに嫌う生きものです。
「恋人が欲しい!」
「結婚したい!」
「子供が欲しい!」
「友達や仲間が欲しい!」
「みんなと常につながっていたい!」
「世間や社会と、常につながっていたい!」
などなど、人間にはこのような、とても強い欲求があります。
ところで、人間関係によるストレスが多い現代社会では、「ゴタゴタした人間関係なん
か、わずらわしいだけだ!」と、思う人も多いかもしれません。(じつは私も、そのよう
なタイプの人間です。)
しかし、いくら人間関係がわずらわしくても、「自分が世間から切り離されたくない!」
と、多くの人が思っているはずです。その証拠に、みんながテレビをよく見たり、新聞や
雑誌を読んだりするのも、最新の流行や話題から取り残されないためでしょう。
また、携帯電話やインタ-ネットが世界的に普及するのも、
「孤独は嫌だ!」
「出来るだけたくさんの人間とつながっていたい!」
という、人類に共通の欲求が、その根底にあるからだと思います。
しかし現代社会では、最新の流行や話題がコロコロと変わるので、それについて行くの
に必死ではないでしょうか?
たとえば、テレビや新聞を1週間ぐらい見なかっただけで、「世間から取り残されるの
ではないか」という、恐れや不安に駆られはしないでしょうか?
そして、あまりにも狭い同胞意識・・・
性別が違ったり、年齢や世代が違ったり、仕事や会社が違ったり、趣味や考え方が違う
だけで、「もう、この人とは話が合わない!」などと、すぐに決めつけていないでしょう
か?
また、「家族でも知り合いでもない人間なんか、自分とはまったく関係がない!」など
と、世間に対して「心の壁」を作っていないでしょうか?
さらには同じ身内であっても、「親には私の話がまったく通じないから、何を言っても
ムダだ!」とか、「子供は私の言うことを聞かないから、何を話して聞かせてもムダだ!」
というような、心の壁はないでしょうか?
現代社会で不安が絶えないのは、恐らく、そのような理由によるものだと思います。つ
まり、現代人の多くが「心の不安」を抱えているのは、「孤独に対する恐怖」というのが
根底にあるのではないでしょうか。
そしてまた、不登校やひきこもり、リストラなどで、耐えられないほどの苦しみを感じ
るのも、「自分はもう、みんなと同じ人間でなくなってしまった!」とか、「親や家族や、
世間に対して顔向けができない!」というような、みんなと切り離されたことによる「孤
独」が、その本当の原因ではないでしょうか?
私は何かもっとこう、
世代や、考え方が違っても・・・
人生の境遇や、ライフスタイルが違っても・・・
そしてさらには、住む国が異なっていても・・・
しかしそれでも、「同じ人間どうし!」として、心の底から通じ合えるような「心の共
通基盤」が、現代社会では必要になっていると思います。
そして、その「心の共通基盤」は、テレビの話題や流行のように、コロコロと変わるも
のではいけません。
また、大学を出ているとか、定職についているとか、結婚しているとか、車や家を持っ
ているとか、そのような「規格化されたライフスタイル」であってもいけません。
少なくても数世代の百年以上にわたって、さらにできれば千年以上にわたって「人間の
根本は、みな同じなのだ!」と納得できるような、どっしりと安定して信頼のできる「心
の共通基盤」が必要なのです。
祖父母、父母、兄弟、子供、孫・・・ これら世代の違いや、あるいは人生の境遇や、
さらには住む国が異なっても、「人間の根本は、みな同じなのだ!」という安心感を与え
るもの。世界のすべての人間を孤独から救うもの。そのような「心の共通基盤」が、どう
しても必要なのです。
そこで私は、そのような「心の共通基盤」として、「大いなるもの」を提唱したいと考
えています。
宗教、思想、国家、民族、そして時代を超え、すべての人類が共有できるもの。世界中
のすべての人を「心の根っこ」でつなぐもの。さらに言えば、全人類で共有可能な「本当
の神」。そのような「心の共通基盤」として、「大いなるもの」を提唱したいのです。
世界中の人々が、「大いなるもの」を「心の共通基盤」として認め、心を一つにするこ
と。もしも、そのような世界が実現できたら、
「私は、決して一人ではない!」
「私と心を一つにした人々が、世界中に何億人もいるのだ!」
「そして、そのような人々は何千年も前からいたし、何千年の後にもいるのだ!」
と、どんな人でも感じることができて、「現代社会の孤独や不安」から解放されること
でしょう。
現代ではグロ-バル化が進み、さまざまな価値観が世界中で衝突しています。だからこ
そ、全人類が共有できる「心の共通基盤」、つまり「大いなるもの」が必要な時代になっ
たと言えるのです。
22章 「大いなるもの」にすがること
人間がこの世を生き抜くためには、「大いなるもの」にすがることも、時には必要だと
私は考えています。
しかしながら、「大いなるもの」にすがるなど、弱い人間のすることだ! と、このよ
うに思う人も少なからずいることでしょう。
が、しかし、「大いなるもの」にすがって生きるのは、本当に弱いことでしょうか?
私は、そうは思いません。なぜなら、ちょっとした苦難や挫折ですぐに自殺をしてしま
うよりは、「大いなるもの」にすがってでも生きぬく方が、「強い人間」だと私は思うか
らです。
ところで、私が「大いなるものにすがる」と言っているのは、自分は何もしないで、た
だひたすら「大いなるもの」に助けを請うものではありません。
また、金儲けのような御利益を願うことでもなく、病気や怪我を一瞬にして直してもらっ
たり、死者を蘇らせたりするような「奇跡」を願うのでもありません。
私が「大いなるものにすがる」と言っているのは、すべてを「大いなるもの」にやって
もらうことではありません。そうではなく、自分が行動を起こす勇気や力を、「大いなる
もの」から頂くということです。
例えば・・・
自分の信念をつらぬく力。
誘惑や迷いにうち勝つ力。
良いことや正しいことを、周りの目を恐れずに実行できる勇気。
大きな苦難に会っても、絶望したり自暴自棄にならずに、転機が訪れるまでじっと耐え
ぬく力。
そのような力を、「大いなるもの」からもらうのです。
またあるいは、「大いなるものに全てをまかせる」ことによって、いらぬ心配や不安か
ら逃れることもできます。これも、私が言う「大いなるものにすがること」に入ります。
しかしそれも、自分は何もしないで、ただ「大いなるもの」に全てをまかせるのではあ
りません。自分の出来ることを全てやったら、あとは「大いなるもの」にまかせるという
ことです。
世の中には、いくら考えても絶対に解決できないことや、いくら心配しても何の利益も
ないことがあります。
例えば・・・
大切な人が、大怪我をしたり、重い病気になったりして、生死の境をさまよっていると
き。
子供や家族が、不慮の事故に合わないかどうかという心配。
自分の将来や人生への、漠然とした恐れや不安。
・・・等々。
このようなことは、自分がいくら心配しても、何の利益もありません。そんな時は、自
分のやれることを全てやったら、あとはすべて「大いなるもの」にまかせ、無益な心配や
不安から逃れるのです。
また例えば、
自分の過失で、人を死なせてしまった・・・
愛する子供や家族が、病気や事故、あるいは犯罪に巻き込まれて死んでしまった・・・
戦争や大災害が起こり、身内も、知り合いも、みんな死んでしまった・・・
・・・・・・等々。
もしも、このようなことが起こってしまったら、いくら悔やんでも、いくら悲しんでも、
どうすることも出来ません。そんなとき、自分のやるべきことを全てやった後は、「大い
なるもの」にすがって、自分の「心」を救ってもらうのです。
世の中には、「大いなるもの」にでもすがらなければ、どうにもやりきれないことが、
どうしても存在します。そんなとき、自暴自棄になって殺傷事件を起こしたり、自殺をし
てしまうよりは、「大いなるものにすがってでも正しく生きぬく」ことの方が、人間とし
て立派だと私は思います。
「大いなるものにすがること」は、決して恥ずかしいことではありません。それは、こ
の生きにくい世の中を、なんとかして生き抜いて行くための知恵なのです。
23章 祈るということ
私は、「祈ること」が大好きです!
祈っていると、心が喜びに満ち満ちてきます。
そして、悩みや不安なんか、吹き飛んでしまいます。
私は祈っているとき、「生きて存在すること」の幸福を、とても強く感じます。
しかし、私が行う「祈り」とは、「お金が儲かりますように」とか、「恋人が出来ます
ように」というようなことを、「大いなるもの」にお願いするのではありません。
また、「世界が平和でありますように」とか、「すべての人が苦しみから救われますよ
うに」と祈るのとも、ちょっと違うのです。
もちろん、そのように祈ることもあるのですが、ここでお話したいのは、それとは少し
ちがう「祈り」なのです。
私が行う「祈り」は、心の中で言葉を唱えません。だから「祈り」というよりは、むし
ろ「瞑想」に近いのかも知れません。祈る対象も、「大いなるものに祈っている」ことに
なるのでしょうが、とくに具体的な「祈りの対象」というのがありません。
私が行う「祈り」とは、「心を高揚させ、愛の感情を高め、大いなるものの存在を実感
すること」なのです。つまり、ある種の「ハイな気分」になるのです。
そしてそれは、とても素敵な異性や、かわいい子供を「ギューッ」と抱きしめて、「身
も心も一つに溶け合ってしまいたい!」というような気持ちを、限りなく高めて行ったも
のです。
だから、私が祈り(瞑想)に入るときは、まずはじめに、素敵な女性やかわいい子供を
優しく抱き、胸のなかに暖かく包みこむようなイメージをします。そのようにして、「愛
の感情」を心の中に生じさせるのです。そうすると、何か「フワーッ」とした暖かい空気
に全身がつつまれ、心が「キュン」としたり、「ドキドキ」したり、「ワクワク」したり
します。
そして次に、その生じさせた「愛の感情」を高めると、釈迦やキリストの姿がイメージ
の中に現れたり、天上で輝く光や、大宇宙のイメ-ジが心の中に現れたりします。そうす
ると、なんとなく心が「ジーン」として、「とてもありがたい気持ち」になります。涙が
出そうになることさえあります。
しかし、さらに愛の感情を高めて、「無限の愛しさ」を感じる状態になると、つまり以
前に10章でお話した「大いなるものを実感する状態」になると、精神が「ギューッ」と
一点に集中して、何も考えられなくなります。そして、頭の中がまっ白になるのです。
しかしながら、「真っ白」とか、「一面に輝く白い光の世界」などと言ったイメージは
ありません。つまり、「極度の精神集中」があるのみで、具体的なイメージはすべて消え
去ってしまうのです。
とにかく、このときに何かをイメージしようとすると、「大いなるものを実感する状態」
から脱落してしまいます。しかしながら、「イメージを持たないようにしよう!」と意識
してしまっても、「大いなるものを実感する状態」から脱落してしまうのです。
だからむしろ、すこし心を楽にして、自分の心を無理に操作しようとせず、心の求める
まま、心のあるがままに任せた方が、愛の感情をどんどん高めることができます。
ただひたすら、「ギュ-ッ」と感じる「とても愛しい!」という気持ちを、心のままに
高めて行くこと。それが私の行う「祈り」なのです。それは、「愛を愛すること」と言っ
ても、良いかも知れません。
「祈り」によって「大いなるものを実感する状態」になると、頭の中から、すべてのイ
メージが消え去ります。釈迦やキリストの姿も、天上で輝く光も、大宇宙も、一面の白い
光の世界も、暗黒の虚空もありません。
しかし、頭と手足が「ジンジン」として、全身が暖かい空気に包まれる感じがします。
そして、なにか訳の分からない、「とても大きな幸福感」に心が満たされるのです。言葉
ではちょっと表現しにくいのですが、心の中に「大いなる無限の喜び」だけが存在し、心
がそれでいっぱいになるのです。
私がユウウツな気分に襲われ、漠然とした恐れ、不安、焦燥、空しさなどを感じたとき
は、「祈る」と嫌な気分が吹き飛んでしまいます。そして、心の底から元気が出てきます。
あるいは、つまらないことで怒りや憎しみの感情が生じたときも、「祈る」と嫌な気分
がスッと消えてなくなります。
むかし私は、「祈ったりするのは、弱い人間のすることだ!」と、頭から決めつけてい
ました。しかし今は、「大いなるものに祈ること」によって積極的に生きられるならば、
それはそれで良いことなのだと思うようになっています。
追記
上でお話したような「祈り」は、私が40歳代~50歳代中頃にかけて行っていたもの
です。
60歳代になった現在では、「大いなるものの愛と光に包まれて、優しく安らいだ境地
になる」と、いうような「祈り」に変わってきました。
24章 理性と信仰
「大いなるもの」は、「理性」と「信仰」という、二つの要素から成り立っているよう
に、私には思われます。
ただしここで、「理性」とは「頭」で論理的に理解すること。「信仰」とは「心」で感
覚的に実感することとします。
つまり「大いなるもの」には、「頭」で理解する「理性的な部分」と、「心」で実感す
る「信仰的な部分」があるのです。
まず、「大いなるもの」の理性的(論理的)な部分とは、つぎのようなところです。
たとえば、この世に「宇宙」が存在するからには、宇宙を誕生させ、それを存在させ続
けている、「何かの原因」があるはずです。
また、この宇宙に「地球」が存在するからには、地球を誕生させ、それを存在させ続け
ている、「何かの原因」があるはずです。
そして、この地球に「生命」が存在するからには、生命を誕生させ、それを存在させ続
けている、「何かの原因」があるはずです。
さらには、地球の生命の一員として「人間」が存在するからには、人間を誕生させ、そ
れを存在させ続けている、「何かの原因」が必ずあるはずなのです。
「何かが存在する」という「結果」が生じるためには、必ずその「原因」があります。
それがどんな原因か分からなくても、「原因そのもの」は、絶対に存在しなければなりま
せん。
それが「論理」というものです。もしも、「原因」が存在せずに「結果」が生じるとす
れば、それは「非論理的」であることに他ならないのです。
だから、「この宇宙が存在している!」という事実を説明するためには、「この宇宙」
を誕生させ、それを存在させ続けている「根本的な原因」が、論理的に絶対必要なわけで
す。その、未知なる根本的な原因が「大いなるもの」です。
このように「大いなるもの」は、まず第一に、それを信仰するしないにかかわらず、
「論理的に存在しなければならないもの」なのです。
もしも「大いなるもの」の存在を否定すれば、「根本的な原因」が存在せずに、この宇
宙のすべてが存在していることになります。ゆえに、宇宙の存在のすべてが「非論理的」
になってしまいます。だから、理性によって論理的な考え方をする人ならば、「大いなる
もの」の存在を、絶対に認めざるをえないのです。
ところで私は、「愛とは存在の肯定である」と考えています。
以前に8章でお話しましたが、愛する人、愛する家族、愛する国、愛する民族、愛する
生き物、愛する自然、愛する地球・・・ これら「愛するもの」はみな、それが存在し続
けることを望み、その存在を肯定するからです。
ところで「大いなるもの」は、この宇宙を誕生させ、この宇宙を存在させ続けています。
だから「大いなるもの」は、この宇宙が存在し続けることを望み、この宇宙の存在を肯定
しています。
つまり「大いなるもの」は、この無限とも言える宇宙のすべてを「愛している」のです。
それを「大いなる無限の愛」と呼びました。
もしも「大いなる無限の愛」がなかったら、この宇宙は絶対に存在しません。
だから「大いなる無限の愛」も、論理的に存在しなければならないものです。
* * * * *
しかしながら、理性では「大いなるもの」の存在を理解できても、それを「実感するこ
と」はできません。
たとえば、
「大いなる無限の愛に抱かれている!」という実感と安心感。
自分の身も心も、すべてを捧げたくなるような「大いなるもの」への愛。
身も心も溶け合ってしまいそうな、「大いなるもの」との一体感。
「この宇宙のすべてを愛したい!」という感情。
心の底から湧きおこる、生きる希望や生きる勇気。
これらの感情や実感は、「理性」ではなく、「信仰」によって生まれるのです。
ところで以前の私は、「信仰は、盲目的であり危険である!」と、決めつけていました。
しかし今は、「大いなるものを頭で理解するだけではダメだ!」と、思うようになって
います。なぜなら、「大いなるもの」の存在を信じ、心と体のすべてで「大いなる無限の
愛」を実感すること。つまり「信仰」がなければ、大いなるものは「絵に描いた餅」とい
うか、「死んだもの」になってしまうからです。
たしかに、「盲目的な信仰」や「間違った信仰」は、たいへん危険なものです。宗教の
トラブルのほとんどは、これが原因だと言っても過言ではありません。信仰によって高揚
した精神が、もしも間違った方向に向かってしまったら、たいへん恐ろしいことになるの
です。
しかしこれは、べつに宗教に限らず、ナショナリズムやイデオロギーなどでも、まった
く同じです。暴動や戦争を起こすようなナショナリズムやイデオロギーは、「思想」とい
うよりは、むしろ「盲目的な信仰」や「間違った信仰」に近いと私は思っています。
だからこそ、「大いなるもの」には「理性的な部分」が絶対に必要なのです!
「大いなるもの」を信仰するときは、「理性に導かれた正しい信仰」でなければなりま
せん。
以前の私は、「理性」と「信仰」は互いに反発するもので、まったく相容れないと思っ
ていました。しかし今は、そうではなく、理性とは「信仰を正しく導くもの」だと考える
ようになりました。
「理性」によって正しく導かれてこそ、安心して「信仰」を深めることができるのです。
つづく
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