大いなるもの 6
2024年4月14日 寺岡克哉
第2部 「大いなるもの」と人生
16章 苦しみはなぜ存在するのか
「大いなるもの」は、なぜ、人間に「苦しみ」を与えたのでしょう?
私は、まず第一に、「生きること」と「苦しみ」は表裏一体であると考えています。
なぜなら、生きていれば、かならず苦しみが存在するからです。これは、一つの「真理」
であるとさえ感じています。
もしも「苦しみ」を消滅させようと思ったら、たとえば「世捨て人」のような生活をし
て、他人とのコミニュケ-ションを断ちきり、一人だけの世界で無念無想に励まなければ
なりません。
そして、あらゆることに(自分が生きることに対してさえも)興味や欲を持たず、何も
考えず、どんな感情も起こさず、何も見ず、何も聞かずに、じっとしていなければなりま
せん。
つまり、「完全な無関心」や「完全なニヒリズム」を徹底し、自分が生きているのか死
んでいるのかさえ、分からないような状態にならなければなりません。
しかしそれでも、意識が少しでも存在すれば、やはり「苦しみ」を感じることがあるで
しょう。それをも完全に消滅させるためには、意識不明の昏睡状態になるか、あるいは死
ぬしかありません。
このように、「人間らしく、いきいきと生きること」と、「苦しみ」は、切っても切れ
ない関係があるように思えます。人間らしく活動的に生きようとすれば、どうしても「苦
しみ」が存在してしまうのです。
しかしだからと言って、
「生きることは、苦しみ以外の何ものでもない!」
「長く生きれば生きるほど、苦しみが増えるだけだ!」
「だから、すこしでも早く死ぬ方が良く、結局、生きることは無意味なのだ!」
と、いうような考え方には、私は賛成できません。私は、苦しみは「生きることを否定す
るため」にあるのではなく、「生きるため」にあると考えたいのです。
自分の生命を守るため。
人類という種族を絶やさないため。
人間がより良く生きるため。
そのようなことのために、「苦しみ」は存在すると思うのです。
たとえば、飢えや渇き、暑さ、寒さの苦しみは、「自分の生命を守るために」あります。
なぜなら、もしもこれらの苦しみがなかったら、食べようとせず、飲もうとせず、体を適
当な温度に保とうとしないからです。そして、すぐに死んでしまうことでしょう。
また、怪我や病気の苦しみがあるのも同じ理由です。怪我や病気をしているのに、痛く
も苦しくもなかったら、それを直そうとせずに死んでしまうでしょう。
恋人ができなかったり、失恋したり、結婚しても子供が出来なかったり、あるいは、愛
する子供を失ったときにも苦しみますが、これは「種族を絶やさないため」にあります。
恋人ができなくても苦しみを感じなければ、異性を求めて子孫を残そうとしないでしょ
う。また、愛する子供が死んでも何ともなければ、わざわざ子供を守り育てようとしない
でしょう。
そして、暴力、虐待、差別、殺人、テロ、戦争・・・ これらに苦しみを感じなかった
ら、愛や慈悲の心を育てたり、それを広めたり、平和や平等を求めたりはしないでしょう。
そして、すべての人間がお互いに殺し合い、人類はとっくに絶滅していたに違いありませ
ん。
また、「生きる目的」や「生きる意味」が見い出せなかったり、「自分は社会の役立た
ずだ!」などと感じてしまうと苦しみますが、これは「自分をより良く生かすため」に存
在します。自分の可能性を最大限に発揮させるために、このような苦しみが存在するので
す。もしも、そのような苦しみを全く感じなかったら、だれ一人として、自分を鍛えたり
切磋琢磨しようとしないでしょう。
以上から私は、苦しみは「生きることを否定するため」にあるのではなく、「生きるた
め」にあると考えます。
自分の生命を守り、種族を絶やさないようにし、人間としての可能性を最大限に引き出
すために、「苦しみ」というものが存在しているのです。
もしも「苦しみ」がまったく存在しなければ、(たとえば「死への恐怖」という苦しみ
も無かったら)、人間は生きようとさえ、しないのではないでしょうか。
ところで私は、「苦しみは進化する」と考えています。
たとえば、戦争が終わって平和になり、「殺される苦しみ」が無くなっても、生活物資
が不足していれば、今度は「飢えや寒さの苦しみ」をつよく感じはじめます。
そして次に、社会が復興して生活が安定し、「飢えや寒さの苦しみ」が無くなっても、
今度は「怪我や病気の苦しみ」が生じてきます。
さらに科学や医療技術が発達して、怪我や病気の苦しみの大部分が無くなったとしましょ
う。(それが現代の日本の姿です。)
すると今度は、
「生きる目的や、生きる意味が見い出せない!」
「なんのために生きなければならない!」
「なぜ、死んではいけない!」
と、いうような苦しみが生じてくるのです。
平和になって殺される心配がなくなり、飢えや寒さの心配もなくなり、怪我や病気の心
配もほとんど無くなったのに、「苦しみ」が生じてしまうのです。このように「苦しみ」
は、取り除いても取り除いても、新しく生じてしまいます。
しかし私は、「古い苦しみ」にくらべれば、「新しい苦しみ」は「より進化した苦しみ」
であると考えたいのです。
たとえば、戦時中を生き抜いてきた人たちには、戦後の人間の苦しみなど、「甘えに過
ぎない!」としか感じられないのではないでしょうか?
また、戦後の高度経済成長を支えてきた「企業戦士」や「仕事人間」たちには、現代の
ひきこもりやニ-トの苦しみなど、「甘えに過ぎない!」としか感じられないのではない
でしょうか?
しかしながら、戦時中の「殺される苦しみ」や、戦後復興期の「飢えや貧困の苦しみ」
に比べたら、現代の「生きる意味が見い出せない苦しみ」というのは、「高度な苦しみ」
のように私には思えるのです。
生命の安全や、衣食住の充足を求めるというような「動物的な苦しみ」から、生きる意
味や精神的な充足を求めるという「人間的な苦しみ」へ、苦しみの質が進化したのではな
いでしょうか。
ところが、むかしの貧しかった時代は人々が助け合っていたのに、豊かになった現代に
おいて、「人を殺してみたかったから殺した」とか、「幼児や児童への虐待」などのよう
な、「進化した苦しみとは言えないようなもの」も新しく生じています。
だから、新しく現れた苦しみのすべてが、「進化した高度な苦しみ」ではないのも事実
です。そして世界を見れば、テロや戦争などの「進化に逆行した苦しみ」が、依然として
存在するのも事実です。
以上、ここまでお話して来ましたように、人間は生きている限り、苦しみからは逃れら
れません。苦しみを取り除いても取り除いても、新しい苦しみが次々と生じてしまいます。
しかしそれは、人間としてより良く生きるために、「大いなるもの」から与えられた
「人間の能力」だと私は考えたいのです。
なぜなら人間は、「苦しむ能力」や「苦悩する能力」があるお陰で、今まで進歩してき
たのであり、今後もさらに進歩しようとするからです。
17章 死はなぜ存在するのか
なぜ「大いなるもの」は、人間だけにかぎらず、すべての生命に「死」を与えたのでしょ
う?
すべての生命は、苦しみに耐えながら、一生懸命に生き抜いています。それなのに、最
後には必ず死ななければなりません。生命には、そのような不条理がどうしても存在しま
す。こんな状況では、「どうせいつか必ず死ぬのに、なぜ苦しみに耐えてまで、わざわざ
生きなければならないのだ!」という思いに取りつかれてしまうのも、無理はありません。
しかし私は、「死にも肯定的な意味が存在するのだ!」と、考えたいと思っています。
もちろん、「死」を正当化したり、美化する訳ではありません。そうではなく、死を「生
命の維持と発展のために必要なもの」として捉えたいのです。
そのように言える理由として、「食物連鎖」と「生命進化」の、二つの例を挙げたいと
思います。
一つ目の「食物連鎖」は、地球の生命全体を維持するために、どうしても必要です。な
ぜなら食物連鎖を否定すれば、地球のすべての生命が、生きられなくなってしまうからで
す。
たとえば肉食動物は、草食動物を食べなければ生きられません。そして草食動物は、植
物を食べなければ生きられません。
さらに植物も、動物の出す二酸化炭素を利用しなければ、あるいは、動物の糞や死骸を
肥料にしなければ生きられません。つまり植物といえども、動物がいなければ存在できな
いのです。
そして例えば、もしも肉食動物がいなかったら、草食動物が増えすぎて、植物を食べ尽
くしてしまうでしょう。そうなれば、草食動物も食べるものが無くなり、飢えて死んでし
まいます。
そしてこれは、たんなる空想の話ではなく、実際に起こった例があります。たとえば、
ある地域でオオカミを完全に駆除したら、シカが増えすぎて植物を食い荒らし、その地域
の生態系が壊滅的になったそうです。
このように、地球の生態系を維持するためには、どうしても食物連鎖が必要です。食べ
物になり、死んでくれる生命がいるからこそ、すべての生命が生きられるのです。
だから食物連鎖による「死」は、生命全体が生きていくために、どうしても必要なもの
なのです。
そして二つ目の、生命が進化して行くためにも、「死」がどうしても必要です。
なぜなら生命が進化するためには、つねに新しい生命の生まれる必要があるからです。
そしてそのためには、古い世代の「死」が、どうしても必要だからです。
もしも、いちど生まれた生物が永久に死ななければ、それらの生物で地球上がいっぱい
になってしまいます。そうなるともう、新しい生命の生まれる余地がなくなり、生命の進
化が不可能になってしまいます。
生命が無限に進化して行くためには、無限に新しい生命が生まれなければなりません。
そして、「地球」という限られた場所でそれを可能にするには、「世代交代」をするしか
ないのです。その「世代交代」をするために、古い世代の「死」が、どうしても必要にな
るわけです。
ここまでの「食物連鎖」と「生命進化」の考察により、生命全体の維持と発展のために
は、「生物個体の死」がどうしても必要なことが分かります。
「大いなるもの」は、生物個体に「死」を与えた代わりに、生命全体が生きられる環境
と、無限に進化する能力を与えたのです。そのようにして「大いなるもの」は、地球の生
命全体の存続と発展を達成させているのです。
生きられるだけ精一杯に生き、死ぬときが来たら死ぬのというが、生命にとって一番自
然なことだと思います。そしてそれが、「大いなるもの」によって与えられた「生命の摂
理」だと思います。
この「生命の摂理」に背き、もしも生物個体が永遠に生き続けるならば、それは多分、
死ぬよりも苦しいことになるでしょう。なぜなら生命の摂理に背けば、生物は苦しむよう
に出来ているからです。しかもそれは、死ぬことが出来ないので、永遠につづく無限の苦
しみとなるでしょう。
食われることによる死・・・
寿命が尽きることによる死・・・
これら「生物個体の死」が、生命の世界に大きな苦しみを与えているのは事実です。
しかし「大いなるもの」は、生命全体が永遠に存続し、生命全体が無限に発展するため
に、「生物個体の死」を生命の世界に与えたのです。
* * * * *
しかし、それでも・・・
「生命全体の永続とか発展などと言ったところで、結局、個々の生命は “苦しみと死”
でしかないではないか!」
「だからこんな生命など、この世に存在すること自体が、そもそも間違いなのだ!」
「生命なんか、はじめから存在しなければ良かった! そうすれば、苦しみも死も存在
しなかったからだ。」
「生命など、この世から消滅してしまえば良いのだ! そうすれば、苦しみも死も完全
に無くなるのだ!」
と、このように考えてしまう人も、いるかも知れません。私も以前は、よくそのような
考えに取りつかれました。だから心情として良く分かるのですが、しかしこれは、生命現
象の事実とは異なる、まちがった認識です。
なぜなら、生命現象を冷静に観察すると、「地球の生命全体が永遠に生きるために、個々
の生物の苦しみや死が存在する」ということが分かるからです。
生命全体が永遠に存続するために、個々の生物の苦しみや死が存在するのであって、個々
の生物に苦しみや死が存在するからといって、生命全体の存在を否定するのは間違いなの
です。
なぜそう言えるのかといえば、個々の生物の苦しみと死の下で、地球の生命が40億年
も生き続けてきたという「事実」が存在するからです。これは、個々の生物の苦しみや死
よりも、生命全体の存続と発展が優先されていることの、疑いえない証拠です。
と、いうのは、もしも個々の生物のすべてが、苦しみを避けるために生きることを放棄
したならば、地球の生命はとっくの昔に消滅していたはずで、40億年も存続するわけが
無いからです。
「苦しみ」と「死」は、生命の存続と発展のためにあるのであって、生きることを放棄
したり、生命の存在を否定するためにあるのではありません。
なぜなら「苦しみ」は、生物個体を可能なかぎり、生きられるだけ良く生かすために存
在するからです。
そして「死」は、地球の生命全体が永遠に生き、永遠に進化し、永遠に発展するために
存在するからです。
そのために「大いなるもの」は、生命の世界に「苦しみ」と「死」を与えたのだと思い
ます。
追記
上の文章は、私が39歳のときに考えたことですが、60歳になった現在では、以下の
体験を通して、「死の存在が救いになりえる」という考え方もするようになりました。
・・・私が52歳のとき、母が癌(がん)で亡くなりました。
その母が亡くなる少し前、いよいよ癌の末期状態になったとき、まだ試していない抗癌
剤が一種類残っていました。そして、その抗癌剤を使えば、あと数ヵ月ぐらいは長く生き
られるはずでした。
が、しかし、「もう、抗癌剤を使うのは嫌だ!」という母の意向を尊重して、抗癌剤治
療を打ち切ったのです。つまり私の母は、抗癌剤治療によって苦しみが続くことよりも、
死期が早まることを望んだのでした。
私と母が主治医に相談して、抗癌剤治療の中止が決定されたとき、母には悲愴な感じが
見られず、どちからと言えば、すこしホッとして、安心していたように見えました。
そのとき私は、「死の存在」が、死にゆく本人にとって「救いになりえる」ということ
を、目(ま)の当たりにしたのです。
この体験を通して私は、「大いなるもの」が死を存在させることによって、生きられる
だけ生き抜いたら、苦しみから解放される道も、用意しているように感じた次第です。
18章 自殺について
なぜ、この世に「自殺」などというものが、存在するのでしょう?
なぜ「大いなるもの」は、人間に「自殺する能力」を与えたのでしょう?
人間は、自殺の可能な生物です。
なぜなら事実、「自殺を行う人間」が確かに存在するからです。
「大いなるもの」によって、人間はそのように作られているのです。つまり、40億年
の生命進化によって、人間は「自殺が可能な生物」として作られたのです。
ところで・・・「大いなるもの」によって「存在を否定されているもの」とは、一体ど
んなものでしょう?
それは、「自然の法則」や「生命の摂理」によって、その存在を否定されているもので
す。たとえば、年齢が500歳をこえる人間とか、身長が100メ-トルを越える人間と
か、そういう「原理的に存在し得ないもの」が、「大いなるもの」によって「存在を否定
されているもの」です。
ところが自殺は、「原理的に存在し得るもの」です。そして事実、「自殺」という現象
が、この世に存在しています。ゆえに「大いなるもの」は、自殺の存在を否定していませ
ん。
しかしながら「大いなるもの」は、自殺をできるだけ少なくしようと望んでいます。な
ぜなら人間は、なかなか自殺が出来ないようになっているからです。つまり「大いなるも
の」が、「生かされる強制力」と言えるようなものを、人間に働かせているのです。
その「生かされる強制力」とは、たとえば・・・
死ぬことが怖くて、なかなか自殺の決意ができない人。
子供や家族、あるいは恋人のことが心配で、なかなか自殺の実行に踏み切れない人。
「死にたい!」という気持ちを、他人に打ち明けずにはいられない人。
自殺を決行したけれども、未遂に終わってしまった人。
自殺さわぎを起こしたために、周囲の監視がきびしくなり、自殺の実行ができ難くなっ
た人。
自殺未遂の後遺症で、体の自由が効かなくなり、自殺の実行ができなくなった人。
自殺未遂を何回もくり返す人・・・。
このような人は、「大いなるもの」によって、「生かされる強制力」が強く働いている
人なのです。
私は、そのような「生かされる強制力」が、本当に存在すると思っています。
たとえば、死ぬことが怖くて、なかなか自殺の決意ができない人の場合・・・
この「死ぬのが怖い!」という感情が起こるのは、「生存本能」という強制力によって
「生かされている」からです。そして生存本能とは、40億年の時間をかけた、生命進化
によって獲得されたものです。つまり「死にたくない!」という意志が、40億年もの長
い間、子々孫々と受け継がれて、私たちがそのように進化して来たのです。
だから「死ぬのが怖い!」という気持ちは、個人の自由意志ではありません。そうでは
なく、個人の自由意志をはるかに越えた、おそらく何億世代もの祖先たちから働きかけて
くる、「生かされる強制力」なのです。
子供や家族、あるいは恋人のことが心配で、なかなか自殺の実行に踏み切れない人の場
合・・・
これは、その(自殺を望む)人が、「周りの人たちにとって必要とされている」からで
す。だからこの場合は、その人の周りにいる家族や恋人の存在が、「生かされる強制力」
として働いています。
「死にたい!」という気持ちを、他人に打ち明けずにはいられない人の場合・・・
これは、「生かされる強制力」が自分に働くことを、自ら求めている人です。というの
は、他人にそのような気持ちを打ち明ければ、それを聞いた人は、何とかして自殺を止め
ようとするからです。
自殺を決行したけれども、その意に反して、未遂に終わってしまった人・・・
この場合は、その人を助けようとした人々の意思や行動、あるいは、さまざまな偶然や
幸運が、「生かされる強制力」として働いたのです。
たとえば、
自殺の現場を発見した人。
それを通報して、救急車を呼んだ人。
救急車で病院に運んだ人。
そして、病院の医師や看護師、あるいは薬剤師・・・
これら多くの人々の意思や行動、そして、さまざまな偶然や幸運のすべてが、「生かさ
れる強制力」として働いたのです。
ところで、赤の他人であっても、自殺しようとする人を止めたり、自殺を決行した人を
病院に運んで助けたりするのは、「人間がそのような生物」だからです。
人間は、同胞が死にそうになっているのを見れば、できるだけ助けようとします。なぜ
なら、「大いなるもの」によって(生命進化によって)、人間がそのように作られている
からです。
自殺さわぎを起こしたために、周囲の監視がきびしくなり、自殺の実行ができ難くなっ
た人・・・
自殺未遂の後遺症で、体の自由が効かなくなり、自殺の実行ができなくなった人・・・
自殺未遂を何回もくり返す人・・・
このような人も、周囲の人々の監視の目や、自殺未遂の後遺症や、その他さまざまなタ
イミングや偶然が、「生かされる強制力」として働いているのです。
以上、ここまでお話してきましたように、
「死にたくない!」という生存本能。
他人からの救いの手。
さまざまな偶然やタイミング。
それら、自分の意思ではどうにもならない力が、「大いなるもの」による「生かされる
強制力」なのです
この、「生かされる強制力」が働いている間は、絶対に死ねません。それなのに無理に
死のうとすれば、どうしても死ぬに死にきれず、心や体にさらに深い傷を負ってしまうで
しょう。そして「生きることの苦しみ」を、ますます大きくしてしまいます。
たとえば、病気や怪我をしたり、事故、犯罪、戦争、災害などに巻き込まれて、「生き
たいのに生きられない人」というのも、世の中にはたくさんいます。このような人たちは、
「生かされる強制力」が働かなくなってしまった人たちなのです。
それを考えれば、「死にたいのに死ねない!」というのは、「生かされる強制力」がと
ても強く働いているのが分かるでしょう。
ちなみにインターネットで、ある自殺防止のサイトを見たのですが、自殺の未遂は、既
遂の20倍もあると言われているそうです。
そして一般的に、自殺を実行する人の10倍ぐらいは、本気で自殺を考えている人が存
在すると言われています。
つまり、一人の自殺既遂者に対して、その20倍の20人が自殺未遂者で、さらにその
10倍の200人が、いつ自殺を決行してもおかしくない「自殺志願者」なのです。
このように考えると、「生かされる強制力」を免れて死ぬことができる自殺志願者は、
200人に1人だけです。たったの0.5パ-セントです。あとの99.5パ-セントの
自殺志願者は、「生かされる強制力」が働いて、死ぬことが不可能になっているのです。
そして、もしも自殺未遂などをすれば、とても深い心の傷を負ったり、重度の身体障害
に見舞われる恐れが十分にあります。そうなっては、もはや取り返しがつきません。
やはり、「生かされる強制力」が働いている人は、無理に自殺をしない方が賢明のよう
に思います。そして事実、ほとんどの自殺志願者には、「生かされる強制力」がとても強
く働いているのです。
以上から、
「大いなるもの」は、自殺を否定しておらず、人間に「自殺が行える自由」を与えてい
ます。人間の最終的な選択肢として、「大いなるもの」はそれを認めています。なぜなら、
この世に自殺が存在するのは、絶対に否定できない事実だからです。
しかし、その一方で「大いなるもの」は、人間がなかなか自殺ができないように、「生
かされる強制力」を、とても強く働かせているのです。
19章 「大いなるもの」に守られていること
前章の「生かされる強制力」と話が似ていますが、「大いなるもの」は、私たちを様々
な危機から守ってくれます。それは例えば、私の人生を振り返ってみても、随分そのよう
なことがありました。
ここでは、「大いなるものに守られている!」と強く実感したときの、私の体験談を紹
介しましょう。
まず、これは母から聞いた話ですが、私は生まれたときに産声を上げなかったそうです。
すこし未熟児で、ぐったりとした状態で生まれ、病院の人たちに心配されましたが、その
後、幸運にも息を吹き返したそうです。
これも記憶にないのですが、2歳ぐらいのとき、私はタバコの吸い殻を口に入れたそう
です。みるみる顔が青くなり、ぐったりとなったそうですが、母がすぐ病院に駆け込んで、
急いで胃洗浄をした結果、なんとか私の命が助かったみたいです。もしも母の対応が少し
でも遅れていたら、私は死んでいたでしょう。
これは、いちばん古い記憶にある初めての危機ですが、私が4歳ぐらいのとき、冬に凍っ
た川の上で一人遊びをしていて、氷を踏み抜いてしまいました。まず「ガボッ」という音
がして右足を踏み抜き、とっさに左足で踏ん張りましたが、それも踏み抜いてしまいまし
た。私はすごく焦りましたが、氷の上に手と膝をついて四つんばいになり、そろりそろり
と川岸に移動することで、何とか助かりました。
私が小学校2年生のとき、なかなか熱が下がらなくて、精密検査を受けるために入院し
ました。しかし検査の結果「白血病」と診断され、「もう長くないので覚悟してください」
と、両親が医者から言われたそうです。ところが入院して薬(抗生物質)を飲んでいるう
ちに、熱が下がって、白血球の数も正常になり、2週間ほどで退院することが出来ました。
治った原因は、医者にも分からなかったそうです。
(しかしその後、私は虫垂炎になって手術をしたので、白血球が増えたのは虫垂炎が原因
だったと仮定すれば、抗生物質で一時的に改善したのも理解できます。)
私が小学校6年生のとき、公園で野球をしていて、打たれた球を拾おうとしたら、「ガ
ツッ」という音がして、目の前が真っ暗になりました。球を拾おうとした先に、ブランコ
の立ち乗りをしていた子供がいて、そこに私が突っ込んで行き、ブランコの板に額をもろ
にぶつけたのです。みるみる額が腫れていき、目が開けられなくなりました。ぶつけた場
所は、額の「眉毛の高さ」でしたが、もう少し下の「目の高さ」だったら、死んでいたか
もしれません。
同じく小学校6年生のとき、ラジオのアンテナがわりに、太いピアノ線をラジオに取り
付けて、感度が良くなるか試していたのですが、ふとした拍子に、そのピアノ線を「下ま
ぶた」に突き刺してしまいました。刺した場所が、もう少し上の「目」だったら、まちが
いなく失明していました。
時は流れて、大学2年生の夏。山岳部に所属していた私は、岩登りで、北アルプスの
「丸山東壁」という岩壁に挑戦しました。ところが失敗して夜になり、真っ暗になった岩
壁からの撤退を、余儀なくされたのです。精も魂も尽き果てて、意識が「ボーッ」として
いる中での撤退でしたので、よく生還できたものだと今でも思っています。
同じく大学2年生の冬。青森県にある岩木山の単独登山に挑戦しました。しかし吹雪で
視界がまったく無く(ホワイトアウト)、自分の現在位置さえも分からなくなってしまい
ました。地図によれば、山小屋に着いているはずの位置だったのですが、小屋がどこにも
見あたりません。しかしそのとき、風が一瞬止んで視界が少し良くなり、ふと後ろを振り
返ったら、およそ10メートル先(つまり目と鼻の先)に小屋があり、私は助かったので
す。そのとき、もし風が一瞬でも止んでいなかったら、私はどうなっていたか分かりませ
ん。
大学3年生の春。青森県の白神山地で沢歩きをしたとき、滝を登っている途中で落下し
ました。「フワッ」と体が軽くなったと思ったら、「ドスン」と音がして、滝の途中にあ
る岩のくぼみに身体が引っかかって止まりました。もしも滝の下まで落下していたら、10
メートルぐらいの高さがあったので、体のどこかが骨折していたかもしれません。
大学3年生の夏。北アルプス剱岳の長次郎雪渓を登っていて、大規模な落石に遭いまし
た。すぐ逃げようとしましたが、足がスリップして四つんばいになり、そのまま動けなく
なりました。その瞬間、人の頭ほどの大きさの石が10個ぐらい、雪渓の上の方から勢い
よくバウンドしながら、私の方に向かって落ちてきたのです。私は四つんばいで動けない
まま、それらの石をスローモーションのように見ていました。幸いにも、すべての石が私
の手前でバウンドし、私の体の上を通り過ぎて行きました。もしも体に当たっていたら大
怪我をする所でしたし、頭に当たっていたら死んだでしょう。
大学3年生のときの3月。北海道の大雪山を縦走して最終日に下山するとき、ルートを
間違って崖を降りてしまいました。登り返そうとしましたが、雪のついた急な崖でズルズ
ルと滑り、無理に動けば崖から落ちそうでした。それでまず、リュックサックを崖の下に
落とし、身軽になって崖から飛び降りることにしたのです。崖の高さは5メートルぐらい
ありましたが、下に雪が積もっていたので助かりました。崖から落としたリュックサック
は見失いましたが、春になって雪が融けると、現地の人が見つけて警察に届けてくれたの
で、ちょっとした遭難騒ぎになりました。
時が流れて、38歳ぐらいのとき。サイクリングをしていたら、暴走している対向車が
私の方に突っ込んできました。運よく、私にはぶつかりませんでしたが、その直後に「ド
ン」という音がして、その暴走車がカーブの土壁に激突していました。もどって様子を見
に行ったら、他の車の人が助けていたので、そのまま私は目的地に向かいました。
43歳ぐらいの冬。買い物のために歩道を歩いていたら、スリップした自動車が私の方
に突っ込んできました。幸運にも、自動車は私のわずか30センチ手前で止まり、ぶつか
ることはありませんでした。歩道と車道の間に、除雪でできた「雪の壁」があったので、
それにぶつかって自動車が止まったのです。もしも雪の壁が無かったら、まちがいなく私
は自動車に轢(ひ)かれていました。
以上、「大いなるものに守られている!」と強く実感したときの、私の体験談を紹介し
ました。昔を思い出し、こうして書き並べてみると、これまでの人生の間に、たくさんの
危機に直面していたことが分かりました。今にして思えば、それら全ての危機を回避でき
たのは、やはり奇跡的な出来事であり、「大いなるものに守られていた!」としか考えら
れません。
つづく
目次へ トップページへ