大いなるもの 5
                                2024年4月7日 寺岡克哉


13章 「慈悲」と「神の愛」
 「大いなるもの」による無限の愛・・・
 人類は古来から、この「大いなる無限の愛」を、ずっと探し求めてきたのでしょう。そ
してついに、仏教で言う「慈悲」や、キリスト教が言う「神の愛」という概念を、発見し
たのだと思います。
 これらの概念は、「大いなる無限の愛」を、実によく捉えています。なので、「慈悲」
や「神の愛」について、すこしお話してみたいと思いました。

             * * * * *

 まず「慈悲」についてですが、「慈悲」とは、およそ2500年前に、古代インドの釈
迦(ガウタマ・シッダールタ)が説いた「愛の概念」です。
 その内容については、たとえば以下の「スッタニパ-タ」という仏教経典の中で、釈迦
が説いています。

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 あたかも、母親が自分の一人子を命を賭けても守るように、そのように一切の生きとし
生けるものどもに対しても、無量の慈しみの心を起こしなさい。
 また、全世界に対して無量の慈しみの心を起こしなさい。
 上に、下に、また横に、分け隔てなく恨みなく敵意なき慈しみを行いなさい。
 立っている時も、歩いている時も、座っている時も、寝ている時も、眠らないでいる限
りは、この慈しみの心をしっかりと保ちなさい。
 この世では、この状態を崇高な境地と呼ぶ。
                  (スッタニパータ 第1章8節149~151)
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 「スッタニパ-タ」は、仏教経典の中でも最古のものです。だからそれに書かれている
ことは、釈迦が実際に話した内容に、いちばん近いとされています。
 それによると「慈悲」とは、「全世界と全生命に対する、分け隔てのない無量の慈しみ」
となります。つまり、「この世のすべてに対する、平等で無限の愛」と理解してよさそう
です。

 これは正に、「大いなる無限の愛」を的確に捉えていると言って良いでしょう。

             * * * * *

 つぎに「神の愛」についてですが、これはおよそ2000年前に、キリストによって説
かれた愛の概念です。その内容は、たとえば新約聖書の以下の言葉に示されています。

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 空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あな
たがたの天の父は鳥を養ってくださる。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。
働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花
の一つほどにも着飾ってはいなかった。今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の
草でさえ、神はこのように装ってくださる。(マタイによる福音書 6章26~30節)

 父(神)は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせ
てくださる。                 (マタイによる福音書 5章45節)
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 これら新約聖書の言葉によると、「神の愛」とは、鳥を養ったり、草花を育てたりする
愛であること。また、日光や雨の恵みを与えてくれる愛であることが分かります。
 そして「神の愛」は、鳥にも、草花にも、善人にも、悪人にも、生きとし生きるもの全
てに対して、別け隔てなく与えられる愛であることも示しています。
 さらに「神の愛」は、日光や雨など「生物の働きを超えたもの」にさえ、愛の概念を適
用しています。

 だから、これも正に、「大いなる無限の愛」を的確に捉えていると言えます。

             * * * * *

 以上から、「慈悲」も「神の愛」も、「大いなる無限の愛」を的確に捉えていることが
分かります。釈迦もキリストも、私と同じように「大いなる無限の愛」を感じていたと思
うと、何だか嬉しくなり誇らしくもあります。
 と、いうよりは、釈迦やキリストが「大いなる無限の愛」に私を導いてくれたと言うの
が本当のところです。つまり私が、仏教経典や新約聖書に触れたこと。それが契機となっ
て、私なりの考察と瞑想を積み重ねた結果、「大いなる無限の愛」を感じられるようになっ
たわけです。
 さらに言えば、以前に5章で定義したように、「大いなるもの」とは「この世を、この様
にしているもの」でした。だから「大いなるもの」が、釈迦やキリストをこの世に遣わし
(この世に誕生させ)、長い時間を経てその思想が私に届き、私を「大いなる無限の愛」に
導いてくれたと言うわけです。


14章 「大いなるもの」と「神」の違い
 私は以前、「大いなるもの」を表現するのに、「神」という言葉を使っていました。な
ぜなら「大いなるもの」の概念は、おおむね「神」の概念と同じであるし、ほかに適切な
言葉が思いつかなかったからです。
 しかし、「大いなるもの」と「神」とでは、やはり何か違うような気がして、いつも違
和感を持っていました。
 ここでは、その「違和感」というか、「大いなるもの」と「神」との違いについて、お
話したいと思います。

 ところで、以前に5章で定義したように、「大いなるもの」とは、「この世を、この様
にしているもの」でした。
 つまり「大いなるもの」というのは、人間や人類社会、生命、生態系、地球、太陽系や
銀河系を含めた宇宙全体を、この様に存在させ、この様な状態にし、この様な状況にして
いるものでした。
 それを、ここでは便宜的に、「宇宙の根本」と表現したいと思います。

 さて、「大いなるもの」と、「神」とでは、いったい何が違うと言うのでしょう?
 いろいろと考えてみたのですが、「神」には、私の考えている「大いなるもの」の概念
のほかに、さまざまな違う概念も含んでいます。だから、「大いなるもの」を表現してい
るつもりで「神」という言葉を使えば、いろいろと誤解をまねく恐れがあるのです。それ
で私は、「神」という言葉に、何となく違和感を持っていたのでした。

 そのような違和感の例として、たとえば「多神教の神」があります。
 日本に古来からある、山の神、海の神、竜神などの神々・・・
 あるいは、ゼウスやアポロンなどのギリシャ神話の神々・・・
 そして、インドラやシヴァなどのヒンドゥー教の神々・・・
 不用意に「神」という言葉を使えば、これら「多神教の神」をイメージする人もいるで
しょう。

 しかし「大いなるもの」は、「宇宙の根本」なので、たった一つしか存在しません。
 なぜなら、もしも「宇宙の根本」が何個もあれば、それらを束ねる、さらなる「宇宙の
根本」が、かならず存在するはずだからです。
 なので、いちばん根本にある「宇宙の根本」、つまり「大いなるもの」は、たった一つ
でなければならないのです。

 一方、ヤハウェやアッラ-などの「一神教の神」も、たった一つしか存在しませんが、
しかしこれらは、人間と同じような人格をもち、人間の言葉さえも語ったりする、いわゆ
る「人格神」です。

 しかし「大いなるもの」は、人格を持ったり、人間の言葉を語ったりしません。
 なぜなら、「大いなるもの」は「宇宙の根本」なので、そもそも「人間の人格」などと
いう小さなものに収まるはずがないのです。そして「宇宙の根本」が、人間の言葉を語る
訳もありません。

 以上のように、いわゆる「宗教の神」と、私が求めている「大いなるもの」とでは、や
はり違いがあります。
 それなのに、「神」という言葉を不用意に使えば、「大いなるもの」と「宗教の神」を
混同してしまう人が多いと思うのです。とくに、何かの宗教を信仰している人にとっては、
なおさらでしょう。それで、「神」という言葉を使うことに対して、私はいつも違和感を
持っていたわけです。

 また、「大いなるもの」と「宗教の神」では、他にも次のような違いがあります。
 たとえば「大いなるもの」は、科学的な事実を否定しません。なぜなら「大いなるもの」
は「宇宙の根本」であり、大自然の法則を司っているからです。
 一方、たとえばキリスト教の神は、かつては地動説を否定し、現在でも進化論を否定し
ています。このように「宗教の神」は、科学的な事実(つまり自然法則)を、否定するこ
とがあるのです。

 また「大いなるもの」は、自然法則を超越するような、いわゆる「奇跡の力」などを発
揮することはありません。なぜなら「大いなるものの働き」とは、あくまでも自然法則に
従った働きだからです。
 しかし「宗教の神」は、病気を一瞬で直したり、死者をよみがえらせたりなど、超自然
的な奇跡の力を示すとされています。

 また「大いなるもの」は、テロや戦争を煽り立てたりしません。布施や寄付を要求する
こともなく、生けにえや、捧げ物なども求めません。
 しかし「宗教の神」は、そのようなことが往々にしてあります。

 以上のことを比べれば、やはり、「大いなるもの」に対して「神」という言葉を使うの
は、誤解を招いてしまう気がします。
 そして、それぞれの神を信仰している人から見れば、やはり、その人にとって自分の信
仰している神が「神」なのです。だから、いくら私が「大いなるもの」を表現するつもり
で「神」という言葉を使っても、そのような人は「自分の信仰している神」をイメ-ジし
てしまうでしょう。

 しかし私にとって、「大いなるもの」は、やはり「神」なのです!

 その神を強いて言えば、「私が考える本当の神であり、私が感じる本当の神であり、私
が求める本当の神である」と表現するのが、私の感覚にピッタリと当てはまります。
 が、しかし、この表現は長ったらしくて実用的でないし、こんな表現を使えば、多くの
人にさらなる誤解と混乱を招いてしまうでしょう。なので、それを避けるために、本書で
は「大いなるもの」と表現することにしたのです。


15章 理神論について
 「理神論:りしんろん」とは、17世紀から18世紀のヨーロッパに現れた、神に対す
る一つの考え方です。
 それによると、「この宇宙を作ったもの」としての「神の存在」を認めますが、しかし
神の人格性は認めず、超自然的な奇跡の力も否定します。理神論による「神」は、あくま
でも自然の法則にしたがう「理性的な神」であり、信仰は理性の範囲に限定されます。

 ところで、この理神論における神は、私が考えている「大いなるもの」と、ほとんど同
じように思いました。私と同じような考え方をした人々が、400年前の昔とはいえ、他
にもいたのです! それで嬉しくなり、理神論について少しお話したくなりました。

 まず、「理神論」という言葉を辞書で調べてみると、次のようになっています。
----------------------------------------
 「世界の根源として神の存在を認めはするが、これを人格的な主宰者とは考えず、従っ
て奇跡や啓示の存在を否定する説。」 (広辞苑 岩波書店)
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 つぎに、いま上に挙げた「理神論における神」と、私が考えている「大いなるもの」を、
いろいろと比較してみましょう。

 世界の根源として神の存在を認める・・・これは、私の考えている「大いなるもの」と、
まったく同じです。
 私は「大いなるもの」を、「この世を、この様にしているもの」つまり、人間や人類社
会、生命、生態系、地球、太陽系や銀河系を含めた宇宙全体を、この様に存在させ、この
様な状態にし、この様な状況にしているものと、以前に5章で定義しました。だから「大
いなるもの」は、まさに世界の根源としての神に相当します。

 神を人格的な主宰者(主となって司る者)とは考えない・・・これも、私が考えている
「大いなるもの」とまったく同じです。
 「大いなるもの」は宇宙全体を司るものであり、人間的な「人格」などに、宇宙全体を
司ることなど出来るわけがありません。「大いなるもの」は、人間の人格などをはるかに
越えた存在であり、「人格」などという小さなものに収まりきれるはずがないのです。

 奇跡や啓示の存在を否定する・・・これも、私の考えている「大いなるもの」と、まっ
たく同じです。
 宇宙全体をつかさどる「大いなるものの働き」は、あくまでも自然法則に従った作用や
働きであり、超自然的な「奇跡」や「啓示」など行えるはずがないからです。
 たしかに、宇宙の誕生や、生命の誕生や、人類の誕生などは、「奇跡」に違いありませ
ん。しかしそれは、信じられないほど偶然に起こった現象が、無限につみ重なって起こっ
た奇跡なのです。それら一つひとつの現象は、たいへん偶然に起こった現象とはいえ、あ
くまでも自然法則で許された現象です。だから宇宙の誕生や、生命の誕生などの奇跡は、
「超自然的な力」などでは決してありません。

 このように「理神論における神」は、私が考えている「大いなるもの」と、同じところ
が本当に多いのです。
 しかしながら、すこし異なる所もあります。それは、理神論は「理性宗教」であり、信
仰はあくまでも「理性の範囲」に限定されるところです。
 しかしそれに対して、私が考える「大いなるもの」には、「感性的な要素」も入ってい
るのです。
 宇宙全体を包み込んでいる、「大いなるもの」による無限の愛。そのような「大いなる
無限の愛」を、感性によって実感できた方が、私は心の底から安心できるし、生きる喜び
に満たされて、幸せな気分になれます。だから「大いなるもの」には、感性的な要素が絶
対に必要であり、それがとても大切だと私は考えています。

 また理神論では、神は宇宙の支配者ではなく、いちど宇宙が作られたあとは、宇宙が自
ら変化し、進化していくと考えるようです。
 たしかに私も、「大いなるもの」が宇宙のすべてを支配している訳ではないと思います。
なぜなら私の思考や言動のすべてまでもが、「大いなるもの」に完全に支配されていると
は、とても思えないからです。
 「大いなるもの」は、あるていどの自由(自然法則で許された範囲の自由)を、この宇
宙や、生命に対して認めていると思います。しかしながら私は、大いなるものが「見えな
い力」によって、この宇宙全体を、そして生命全体を、「ある方向へ導いている!」とい
う気もするのです。

 この「見えない力」とは、まだ人類に知られていない、大自然の働き、作用、法則、原
理、摂理などのことです。
 この宇宙全体を、大自然の法則に従って変化し、進化するように。
 そして「生命」の場合は、できるだけ多くの生命が生きられるように。また、生命が永
遠に存続するように。さらには、生命が「生命としての理想」をつねに追い求め、生命が
「より善い存在」になって行くように。
 そのように「大いなるもの」は、宇宙全体や生命全体を、導いているような気がするの
です。
 つまり宇宙の進化や生命の進化は、まったく自分勝手に進化しているのではなく、大い
なる作用や働き、宇宙や生命をつかさどる大自然の法則によって、「ある方向に導かれて
いる」という感じが、私はどうしてもするのです。
 そこら辺が、理神論における神と、私が考えている「大いなるもの」との違うところで
す。

 ところで、「理神論」に対峙するものとして「有神論」というのがあります。それを辞
書で調べてみると、次のようになっていました。
----------------------------------------
 「世界を超越して存在し、世界を創造し、世界に自己の摂理を働かせている人格的な唯
一の神を信ずる立場。」 (広辞苑 岩波書店)
----------------------------------------

 私が考えている「大いなるもの」は、上の「世界に自己の摂理を働かせている」という
部分だけ、理神論から少し有神論に傾いているのかも知れません。
 しかし「大いなるもの」は、上にあるような「 “人格的” な唯一の神」などではないの
で、決して有神論ではありません。



 つづく



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