大いなるもの 4
                               2024年3月31日 寺岡克哉


10章 大いなるものの実感
 私は、しずかな部屋で一人になり、瞑想をすることがあります。
 そんなとき私は、その瞑想によって「愛の感情」を生じさせ、それをどんどん高めて行
くようにします。そうすると、ついに「愛の感情」が最も高まった状態となりなますが、
それが「大いなるものの実感」であると私は思っています。
 ここでは、私が感じたことのある「大いなるものの実感」について、お話してみましょう。

 さて、瞑想によって「大いなるもの」を実感するためには、まずはじめに「愛の感情」を
生じさせなければなりません。
 そこで、私が最初に生じさせる「愛の感情」は、最愛の異性と「ギュ-ッ」とつよく抱き
しめ合い、「身も心も一つに溶け合ってしまいたい!」というような感情です。あるいは、
「最愛の異性に、身も心もすべて捧げ尽くしたい!」というような感情です。
 この感情は「異性への愛」ですが、しかし、この「愛のレベル」は単なる肉体の性欲をす
でに超越したものです。なぜなら、心はたいへん高揚していますが、性欲などまったく感じ
ないからです。愛の感情が、あるレベルより高くなると、反って性欲は消え去ってしまうの
です。
 しかしながら、胸が「キュン」としたり、「ジ-ン」としたり、「ドキドキ」したり、
「ワクワク」したりして、めくるめくような、とろけるような幸福感があります。
 また、体の全体に「愛のエネルギ-」が満ちあふれ、体中が「ジンジン」としてきます。
体がほんわかと温かくなり、少し頭に血が上って「ポ-ッ」とします。そして全身が、暖
かく優しい空気に包まれるような感じがするのです。
 「大いなるもの」を実感しようとするとき、まず私はこのようにして、「愛の感情」を
生じさせます。

 そして次に、その生じさせた愛の感情を、だんだんと高めて行きます。
 「愛の感情」が次の段階に高まると、「最愛の異性と、身も心も一つになりたい!」と
いうのと同じ感情が、赤ちゃんや子供に対しても生じるようになります。赤ちゃんや子供
を、「ギュ-ッ」と抱きしめたくなってしまいます。

 さらに「愛の感情」が高まると、大人や老人に対しても、同じような感情が生じてきま
す。男も女も子供も大人も老人も、みな同じように愛しく感じるのです。
 そして、病人や怪我人、体の不自由な人、精神的に苦しんでいる人、戦争や飢えに苦し
んでいる人々に対して、「何とか力になってあげたい!」とか、「何とか苦しみを取り除
いてあげたい!」という気持ちが起こってきます。
 もちろん私の力では、それら全ての人々を救うことなど、とても出来ません。しかし心
の底から、そのような気持ちが湧き起こってくるのです。

 さらに「愛の感情」が高まると、犬や猫などの動物や、草や木などの植物など、それら
「地球のすべての生命と一つになりたい!」という気持ちになります。とにかく地球のす
べての生命が、愛しくて愛しくてたまらないのです。
 自分が生きていることと、この地球に生命の存在することが、嬉しくて嬉しくて仕方が
なくなります。そしてそれが、涙の出るほどありがたく感じます。ただひたすら、すべて
の生命の幸福と平和が、自分の望みの全てになるのです。

 そして、さらに「愛の感情」が高まった状態が、「大いなるものの実感」です。
 この状態になると、精神が「ギュ-ッ」と一点に集中して、何も考えられなくなります。
つまり、思考が止ってしまうのです。思考は止まっているのですが、しかし精神はたいへ
ん高揚しています。そして心身の全体が、「ジンジン」とした愛のエネルギ-に満ちあふ
れ、暖かな優しい空気に包まれます。
 この状態になると、心の中に存在するは、「無限の愛しさ」だけになります。「愛しい
思い」が「愛しい思い」をさらにつのらせ、「愛しい思い」がどんどん無限に大きくなっ
ていきます。
 しかし、具体的な「愛しいもの」が存在するわけではありません。ただひたすら、いつ
までも「ギユーッ」と抱きしめていたくなるような無限の愛しさ・・・ それだけが、
「自分の存在のすべて」になるのです。
 すこし大げさな表現をすれば、そのとき私は、「大いなるものと自分が一つになった!」
という感じがします。そしてこれが、私の感じる「大いなるものの実感」です。つまり、
私が感じる「大いなるもの」とは、「無限の愛しさ」なのです。

 たしかに「大いなるもの」は、見ることも触ることもできません。
 しかし、いま上でお話したように、「大いなるものを実感すること」は、間違いなく可
能なのです。

追記
 しかしながら、上でお話した「大いなるものの実感」は、私が39歳のときに感じたも
のです。
 60歳になった現在では、そのようにテンションが上がった状態ではなく、もっと穏や
かで落ちついた状態であり、「大いなるものの愛と光に、全身が包まれている感じ」とい
うのが、「大いなるものの実感」です。
 そしてまた、上のように「大いなるものと自分が一体になる」というよりは、「大いな
るものに優しく抱かれる」というような感覚です。


11章 大いなるものを愛すること
 大いなるものを愛するとは、「大いなるものを一心に求めること」だと、私は思ってい
ます。

 それは例えば、
 「大いなるものと交わりたい!」
 「大いなるものと、つながっていたい!」
 「大いなるものと一つになりたい!」
と、たいへん強く望むことです。

 前の10章でお話しましたが、この感情は、「愛する異性にすべてを捧げつくし、身も
心も一つに溶け合ってしまいたい!」というような気持ちを、無限に高めて行ったもので
す。
 そのように、「大いなるものと一つになりたい!」と、心の限りをつくして望むのです。
 つまり「大いなる無限の愛」と、自分が完全に一体となり、それが「自分のすべて」に
なるようにと、ひたすら一心につよく望むのです。

 このように「大いなるものへの愛」は、「異性への愛」と良く似た所があります。しか
し、根本的にちがう所もあるのです。
 なぜなら「異性への愛」は、はじめのうちは「お互いにすべてを捧げつくしたい!」と、
大変つよく思う時期があります。しかし時間が経つにつれて、お互いの考え方の違いや、
ライフスタイルの違いなどが衝突し、どうしてもエゴとエゴのぶつかり合いが生じてしま
います。だから、ほとんどの場合、「異性への愛」は永遠のものではありません。
 しかし「大いなるものへの愛」には、そもそも「エゴ」というものが存在しません。だ
からそれが衝突することはなく、その愛は永遠のものとなるのです。

 また異性への愛は、
 「相手の気持ちを、ひとり占めにしたい!」とか、
 「相手を自分の思うようにしたい!」
というような、いわゆる「独占欲」が生じます。この独占欲が生じると、嫉妬や不安、怒
り、イライラなどが起こります。そして「愛の感情」なんか、どこかに吹き飛んでしまう
のです。
 しかし「大いなるものへの愛」には、独占欲が存在しません。というよりは、そもそも
「大いなるもの」を独占することは、絶対に不可能です。
 なぜなら、たとえば一人の異性を二人が愛せば、すぐに奪い合いが起こって独占しよう
とします。が、しかし、一つの「大いなるもの」を、たとえ何億もの人々が愛したとして
も、奪い合いなど絶対に起こらず、従って独占などしようがないからです。
 「大いなるもの」から万物に与えられる無限の愛(大いなる無限の愛)は、すべての人
に対して、その人が十分に満足するほど与えられます。
 だから「大いなるものへの愛」には、独占欲や嫉妬や不安が存在しないのです。

 ところで、大いなるものへの愛は、「片思いの恋」にも良く似たところがあります。
 「片思い」は、相手への思いがつのりにつのって、相手をどんどん理想化して行きます。
恋に恋して、恋心がどんどん大きくなり、相手が「限りなく素晴らしい人」に思えてきま
す。
 しかし実際の相手は、あくまでも「人間」です。だから片思いの相手は、「自分が勝手
に作り上げた理想」とは程遠いのが現実です。そしていつかは、その現実に気がつき、幻
滅してしまいます。それが、「恋が冷めた」という現象なのでしょう。
 ところが大いなるものは、「無限に理想化すること」ができます。なぜなら大いなるも
のは、自分が考える最高の理想の、さらにそれを越えた存在だからです。だから「大いな
るものへの思い」は、無限に高めることができるのです。
 この場合の「大いなるもの」とは、人間の理性が求めてやまない、「究極の真理」とか、
「絶対の善」とか、「永遠で無限の愛」というようなものです。
 これは、「絶対で究極の理想」に対する、人類の永遠の思いです。この永遠の思いは、
片思いの恋のように幻滅することがありません。だから、「大いなるもの」を求めれば求
めるほど、そして理想化すればするほど、その思いはつのり、その愛は無限に大きくなっ
て行くのです。

 長年に渡って「大いなるもの」を愛し続けていると、「異性への愛」よりも、「大いな
るものへの愛」の方が、強く大きくなります。年月が経つにつれて、私のその確信は、ま
すます強くなっています。

追記
 上の文章は、私が40歳のときに書いたものです。60歳になった現在では、「大いな
るものを愛する」というのは、「大いなるものに親しみを持って、いつも大いなるものと
共にある」というような、もっと穏やかなものになっています。


12章 究極の幸福
 生きることは素晴らしい!
 この世に生まれて良かった!
 この地球に、生命や人類が存在することは素晴らしい!
 そしてそもそも、地球や太陽や、この「大宇宙」が存在することが素晴らしい!
 と、ほんとうに心の底から感じる時、つまり「究極の幸福」を感じる時とは、一体どん
な時でしょう?

 それは、「大いなる無限の愛」に抱かれ、それを実感し、その愛と自分が完全に一つと
なり、そのことによって限りない喜びと幸福を感じるときです。
 これは前に10章でお話した、「大いなるもの」を実感しているときです。つまり、精
神が一点に「ギュ-ッ」と集中し、全身が暖かな優しい空気に包まれ、心と体の全体に
「愛のエネルギー」が満ちあふれているときです。
 この幸福感に比べたら、たとえば異性を求めることや、金や権力を求めること。あるい
は、学問や芸術によって真理や美を求めることでさえも、それらは結局、「大いなるもの」
を求めることの代用品にすぎないとしか、感じられなくなってしまいます。

 事実、私のつたない人生においても、
 たとえば恋愛をしたり、
 大学に合格したり、
 山に登って大自然を体感したり、
 雪山登山で遭難ギリギリまで追いつめられたけど、無事に生還できたり、
 初めて外国に行ったり、
 大学での研究成果が、国際学会で発表できたり、
 研究論文が学術雑誌に掲載されたり、
 自分の書いた本が出版されたり・・・
 そのようなときに、大きな喜びと幸福を感じることができました。しかし、「大いなる
無限の愛」と自分が一体になる喜びや幸福は、それらとは全くレベルが違うのです。言葉
は変ですが、「脳みそが裏返る」というか、「脳の構造が変わってしまったのではない
か?」と思えるほどの、大きな喜びと幸福なのです。
 それは、今まで私が経験した最大で最高の、「究極の幸福」であることは間違いありま
せん。
 私は、「大いなる無限の愛」と自分が一体になって「究極の幸福」を実感するとき、
「生きていて良かった!」と、本当に心の底から思えます。生きる意欲や生きる勇気が、
どんどん湧き起こって来ます。心と体に「生きるエネルギ-」が満ちあふれ、生き生きと
して来るのです。

 ところで「大いなるもの」とは、前の9章でお話したように「愛の根源」でありました
が、今ここでお話したように、生きる力の根源、つまり「生命力の根源」でもあるのです。
 だから「大いなるもの」とは、「愛と生命」の根源、あるいは愛と生命の「根源的な本
体そのもの」と、言って良いかもしれません。

 ところで・・・ 
 現代社会には、生きることへの恐れや不安を煽り立てたり、人間から生きる意欲を奪い
さったり、あるいは怒りや憎悪をかき立てたりして、世の中を「生き苦しくするもの」が
たくさんあります。
 たとえば・・・ いじめ、不登校、ひきこもり、うつ、リストカットなどの自傷行為、
自殺、無慈悲なリストラ、過労死、DV、家庭内暴力、幼児や児童への虐待、不倫、家庭
崩壊、少女売買春、性犯罪、妊娠中絶、少年犯罪、突然にキレて起こす殺傷事件、暴力、
殺人、テロ、戦争・・・
 これら、現代社会を蝕んでいる「心の闇」は、自分や他人への思いやりの欠如(愛の喪
失)と、生きる意欲や生命力の欠如(生命の喪失)が原因となっています。
 つまり現代人の心の闇は、ひとえに「愛と生命」の喪失、つまり「大いなるもの」の喪
失に、その根本原因があるのです。

 現代社会における「大いなるものの喪失」について、多くの人々が薄々は気づいている
のだと思います。しかし現代の風潮では、「大いなるものの必要性」を世間に向かって主
張するのに、ものすごく勇気が必要ではないでしょうか。少なくとも私は、そのような世
間の圧力を、とても強く感じます。

 しかし世の中には、「大いなるもの」が必要な人たちが必ずいます。
 「大いなるもの」が存在しなければ、生きて行けない人たちが必ずいます。
 「大いなるもの」を、最後の心の支え、最後の「生きる拠り所」にしている人たちが、
必ずいるのです。
 そしてまた、もしも「大いなる無限の愛」に触れることができ、それを実感することが
出来たならば、自殺をしなくて済んだ人もたくさんいたと思います。

 そのような人たちから、世間の圧力によって、強引に「大いなるもの」を取り上げよう
とするのは、「生きる力の根源」を、むりやり奪いとる行為です。それは、いじめで自殺
に追いやるのにも匹敵する行為だと、私は考えています。

 「大いなる無限の愛」と自分が一体になることは、すべての人間が「究極の幸福」を得
ることができる、唯一の方法だと思います。
 たとえば、
 親がいなくても・・・
 学歴や知識がなくても・・・
 恋人がいなくても・・・
 就職できなくても・・・
 結婚できなくても・・・
 子供がいなくても・・・
 金や権力がなくても・・・
 不治の病にかかっていても・・・
 目や耳や体が不自由であっても・・・
 それであっても、「大いなる無限の愛」と一体になることが出来れば、人間は「究極の
幸福」を得ることができるのです。

追記
 上の文章は、私が40歳のときに書いたものです。60歳になった現在では、「大いな
る無限の愛と一体になる」と言うよりは、「大いなる無限の愛に抱かれ、優しく全身が包
まれる」という、穏やかな感覚に変わってきました。しかし、それでも、今の私が得られ
る「究極の幸福」であることは間違いありません。



 つづく



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