大いなるもの 3
                               2024年3月24日 寺岡克哉


6章 生命の幸福と「大いなるもの」
 私は、「生命の幸福」にとって、「大いなるもの」の存在が、どうしても必要だと考え
ています。

 ところで、ここで言う「生命」とは、ただ単に「肉体が生きている」という意味の、
「肉体的な生命」のことではありません。
 そうではなく、「人格や理性をもつ人間として生きている」という意味の生命です。そ
れを私は、「精神的な生命」と呼びたいと思います。
 この「精神的な生命」を理解するには、「生ける屍(しかばね)」という言葉について
考えてみるのが、いちばん分かりやすいでしょう。
 たとえば・・・ある人がせまい部屋に閉じ込められ、そこから出ることを許されず、水
と食事だけが与えられ、会話や読書が禁止され、どんな仕事や作業も与えられず、人格も
認められず、何かを考えることもせず、ただ肉体だけが生かされた状態でいると仮定しま
しょう。
 このような状態では、「人間として生きている」とはとても言えません。これが「生け
る屍」の状態です。
 しかしながら、この「生ける屍」という言葉は、一見すると矛盾しています。なぜなら、
「屍が生きている」からです! ふつうは、死んだ肉体のことを「屍」と言うのであって、
屍が生きている訳がないのです。

 だからこの言葉は、肉体としては生きていても、「何ものか」が死んでいることを意味
します。その、「何ものか」に相当するのが「精神的な生命」です。
 「生ける屍」とは、肉体は生きていても、精神が死んでいる状態のことです。「生ける
屍」という言葉の「屍」とは、「肉体的な生命の屍」ではなく、「精神的な生命の屍」な
のです。

 また、「人はパンだけで生きるものではない」という言葉がありますが、これは、人が
人として生きるために、パン以外の何かが必要なことを言っています。人は、パンを食べ
るだけでは人として生きられないこと。つまり、肉体的な生命を維持するだけでは、人と
して生きられないことを言っているのです。
 この、人が人として生きるための、パン以外に必要な何かが、「精神的な生命」なので
す。

 さらにまた、「食うために生きるな! 生きるために食え!」という言葉もあります。
これは前者が「肉体的な生命」を、後者は「精神的な生命」を表しています。この言葉は、
「肉体的な生命を維持するためだけに生きるな! 精神的な生命を生かすために、肉体的
な生命を維持せよ!」と言っているのです。

 つまり「精神的な生命」とは、「人間が人間らしく、人格や人間性を発揮させて、いき
いきと生きている」という意味での「生命」なのです。

             * * * * *

 さて、「精神的な生命の幸福」にとって、「大いなるもの」の存在は、どうしても必要
です。
 なぜなら、以前に1章でお話したように、人間が幸福に生きていくためには、
 自分を完全に受け入れてくれるもの。
 自分の存在を、根底から認めてくれるもの。
 自分を、大きな愛で包み込んでくれるもの。
と、いうような「生きる拠り所」が、どうしても必要だからです。
 現代社会では、衣食住が満たされ、医療がとても充実しています。だから、「肉体的な
生命」を維持するのに、なにも支障がありません。それなのに、生きることを辛く感じて
いる人が、とても多くなっています。それは現代社会において、「精神的な生命」の幸福
が、すこしも得られないからでしょう。

 ところで、「精神的な生命の幸福」のために、人類が2000年以上もの時間をかけて
追い求めてきた、その代表的なものが「神」でしょう。
 しかし、「大いなるもの(私が求める本当の神)」とは、ユダヤ教やキリスト教、ある
いはイスラム教などの、いわゆる「宗教の神」のことではありません。
 もちろん、この世に宗教が存在している以上は、「宗教の神」も、「この世を、この様
にしているもの」の一部なので、「大いなるもの」の一部に含まれます。
 しかし「大いなるもの」とは、それだけでなく、もっと広く一般的で、普遍的なものな
のです。

 たとえば「大いなるもの」とは、
 この世の根底を支えるもの。
 この宇宙のすべてを司る根本原理。
 人間の理性が求めてやまない、絶対で普遍の真理。
 大自然の法則。
 生命の摂理。
 人間の良心、良識、理性、愛、善などの、因って来たる根源。
と、いうようなものです。

 だから、
 ギリシャ哲学の「イデア」(永遠で不変のもの)。
 仏教思想の「仏」(完全なる悟りに至った状態)。
 同じく仏教思想の「ニルヴァーナ」(完全なる安らぎの状態)。
 老荘思想の「道」(自然万物の根底にある真理)。
 孔子の思想の「天」(人間に道徳心を起こさせる根源)。
 そして、自然科学でいうところの、「宇宙観」、「自然観」、「生命観」。
 これらのものも、「大いなるもの」に含まれるのです。

 私は、「精神的な生命の幸福」にとって絶対に必要不可欠な「大いなるもの」について、
これから出来るかぎり、いろいろな面からお話して行きたいと思っています。


7章 存在するということ
 「存在する」というのは、とても不思議なことです。
 なぜ、宇宙は存在するのでしょう?
 なぜ、物質が存在するのでしょう?
 なぜ、太陽や地球が存在するのでしょう?
 なぜ、生命は存在するのでしょう?
 なぜ、人間は存在するのでしょう?
 なぜ、自分は存在するのでしょう?
 なぜ、このようなことを考える、「精神」や「心」というものが、存在するのでしょう?

 これらの疑問に思いが馳せるとき、やはり「存在する」ということは、とても不思議な
ことだと思ってしまいます。

 ところで、「存在するもの」は存在するのが当たり前で、べつに不思議なことでも何で
もないと、そのように思う人がいるかも知れません。
 しかし、いま上で挙げたような数々の疑問は、哲学や自然科学の主要な研究テ-マにさ
えなっています。人類は、これらの疑問を探求することにより、自己についての理解が深
まり、世界についての認識が広がって行きました。だから「存在すること」に対する疑問
は、人類の進歩の原動力とも言えるのです。

 しかしそれにしても、なぜ、「存在するもの」は存在するのでしょう?

 この「存在すること」に対する根本的な考え方には、「仏教的な考え方」と、「キリス
ト教的な考え方」の、大きく二つがあります。(ほかの考え方もあるのかも知れませんが、
私が知っているのはこの二つなので、ここではそれについてお話したいと思います。)

 一つ目の「仏教的な考え方」とは、原因と結果の「因果関係」が無限につづくことによっ
て、あらゆるものが存在しているという考え方です。
 そして、この「因果関係」にはさらに、「時間的な因果関係」と「構造的な因果関係」
の、二つがあります。

 まず、前者の「時間的な因果関係」とは、過去の原因が、現在の結果を生じさせている
という因果関係です。
 たとえば、今ここに私が存在するのは、過去に親から生まれたからです。そして私の親
が存在するのは、そのまた親から生まれたからです。このように時間的な因果関係は、無
限の過去まで続いて行きます。
 私の祖先は、人類の祖先から猿の祖先へとさかのぼり、さらには哺乳類の祖先、多細胞
生物、単細胞生物、そして、地球で生まれた最初の生命体にまでさかのぼります。
 しかし、それだけではありません。なぜなら、生命が誕生する前には、地球が作られな
ければならないからです。そして、地球が作られる前には、太陽系が作られなければなら
ないからです。
 さらには、太陽系が作られる前に、ビッグバン(宇宙のはじまりの大爆発)によって、
そもそも「この宇宙」が作られなければなりませんでした。
 しかしさらに、それだけではないのです。なぜなら、ビッグバンによって「この宇宙」
が作られる前でさえも、「時間的な因果関係」は、無限の過去まで続いていたはずだから
です。
 というのは、「この宇宙が誕生した!」という「結果」が存在するからには、その前に
かならず、「原因」が存在しなければならないからです。そしてさらに、「その原因」が
存在するからには、その原因を生じさせた「さらなる原因」が、かならず存在しなければ
ならないからです。
 このような、無限につづく「時間的な因果関係」によって、私は今ここに存在している
わけです。

 つぎに、後者の「構造的な因果関係」とは、「あらゆるものが、それよりさらに小さな
構造から出来ている」という因果関係です。
 たとえば「私」という一個の人間は、脳や内蔵、骨、筋肉、皮膚などからできています。
そしてそれらは、さらに小さな「細胞」というものがたくさん集まって出来ており、その
細胞は、さらに小さな「分子」というものがたくさん集まって出来ています。
 分子は、さらに小さな「原子」からできており、原子は、さらに小さな「原子核」や
「電子」からできています。原子核は、さらに小さな「陽子」や「中性子」からできてお
り、陽子や中性子は、さらに小さな「クォ-ク」や「グル-オン」からできています。
 そして現代科学では、まだ解明されていませんが、さらなる小さな構造も、無限に続い
ているのでしょう。
 このような、無限につづく「構造的な因果関係」によって、私は今ここに存在している
わけです。

 そして一方、上で挙げた二つ目の、「存在すること」に対する「キリスト教的な考え方」
とは、「神が在らしめている!」というものです。つまり、この世のあらゆるものは、つ
ねに「神の力」が働き続けることにより、存在しているという考え方です。
 これは例えば、発電所と、電灯のような関係です。もしも発電所が止まってしまったら、
電灯も直ちに消えてしまいます。それと同じように、宇宙の全てのものが「神の力」によっ
て支えられており、もしもその力が働かなくなれば、すべてが一瞬にして消えてしまうと
いう考え方です。
 私が今ここに存在できるのも、「神の力」が一瞬も休まずに働きつづけているからです。
もしも、その力が一瞬でも働かなくなれば、私は直ちに消滅してしまうわけです。

 このような考え方は、すこし稚拙な感じがするかも知れません。そして、何でもかんで
も原因を神におしつけ、思考停止におちいる恐れも拭いきれません。
 しかしながら近代自然科学が、キリスト教圏で生まれたという事実を忘れてはいけませ
ん!
 「この宇宙を在らしめる神の見えない働き(つまり大自然の法則)」を発見しようとし
て、近代自然科学が生まれ、それが発展して現代科学文明を築いたのは、否定できない事
実なのです。

 たとえば、
 太陽の引力によって、地球が太陽に落ちてしまわないこと。
 太陽が燃え尽きないで、いつまでも輝き続けていること。
 原子核の周りの電子が、電気的な引力によって原子核に落ちてしまわないこと。
 原子核のなかの陽子と陽子が、電気的な反発力によって飛び散ってしまわないこと。

 これらは、
 地球が地球として存在できること。
 太陽が太陽として存在できること。
 原子が原子として存在できること(つまり物質が存在できること)。
 そのためには、何らかの力や作用が、つねに働き続けなければならないこと。
 つまり、この宇宙の全てのものが存在するためには、つねに「何かの見えない力」が、
一瞬も休まずに働き続けていなければ、ならないことを示しているのです。

 科学者たちが、このような問題に異常なほどの探究心と情熱をもつのは、
 「神の見えない力が必ず存在しており、それが万物に働いているのだ!」
 「我々は、一つでも多く、それらを発見し、解明していくのだ!」
 「それが、神の意志を理解していく方法であり、神に一歩でも近づく方法なのだ!」
 と、いうような、「キリスト教的な考え方」が強く影響しているのは間違いありません。

 ところで「存在すること」に対する、「仏教的な考え方」と「キリスト教的な考え方」
とでは、一体どちらが正しいのでしょう?
 このような疑問は、とうぜん起こると思います。しかし、私が提唱している「大いなる
もの」の概念では、どちらが正しいと言うのではなく、それらの両方を含みます。なぜな
ら以前に5章で定義したように、「大いなるもの」とは、「この世を、この様にしている
もの」だからです。
 ゆえに、「時間的な因果関係」も「構造的な因果関係」も、「万物に働く見えない力」
も、それらは結局、「この世をこの様にしているもの」の一端であり、それらすべてを
「大いなるもの」が司っているのです。


8章 大いなるものに愛されること
 「大いなるものに愛される」とは、一体どういうことでしょう?
 私は、「大いなるものに愛される」とは「存在すること」だと考えています。
 それは、なぜなのか、以下に説明して行きましょう。

 まず、この宇宙に存在するあらゆるものは、すべて「大いなるものの働き」によって存
在しています。この「大いなるものの働き」とは、時間や空間、エネルギー、物質、そし
て生命を、この宇宙に存在させている大自然の働き、大自然の力、大自然の法則、大自然
の摂理のことです。
 これら大自然の法則や摂理、つまり「大いなるものの働き」が無ければ、あらゆるもの
が存在できないのは明白です。宇宙に存在する全てのものは、「大いなるものの働き」が
あるからこそ、存在できるのです。

 ところで、この宇宙には無限と言えるほど、多くのものが「存在」しています。それは
「大いなるもの」が、それらの存在を望み、それらの「存在を肯定」しているからです。
 その反対に、もしも「大いなるもの」が「存在を否定」していたら、つまり、大自然の
法則や摂理によって「存在」という現象が否定されていたら、この宇宙に、こんなに多く
のものが存在するはずがありません。
 だから、「大いなるもの」が「存在を肯定」しているのは、絶対に否定できない事実で
す。

 そして「存在の肯定」とは、じつは「愛すること」なのです。
 なぜなら、たとえば愛する人、愛する家族、愛する仲間や組織、愛する町や国、愛する
動物や植物、愛する自然、愛する地球など・・・これら「愛するもの」はみな、その存在
を望み、その存在を願い、その「存在を肯定」するからです。

 その逆に、「存在の否定」とは「憎むこと」です。
 なぜなら、たとえば憎い人間、憎い組織、憎い制度、憎い国など・・・これら「憎いも
の」はみな、その消滅を望み、その消滅を願い、その「存在を否定」するからです。
 このように、「存在の否定」が憎悪であることを考えれば、「存在の肯定」が愛である
ことを、納得して頂けるのではないでしょうか。

 繰り返しますが、この宇宙には、無限と言えるほど多くのものが「存在」しています。
それは「大いなるもの」が、それら全ての「存在を肯定」しているからです。そして「存
在の肯定」とは、じつは「愛」のことでした。
 ゆえに「大いなるもの」は、この宇宙に無限に存在する全てのものを、「愛している」
のです!
 この、大いなるものによる無限の愛を、「大いなる無限の愛」と呼びたいと思います。

 だから「存在する」ということは、「大いなる無限の愛」で、大いなるものに愛されて
いることです。
 あなたや私が存在できるのも、「大いなる無限の愛」で、大いなるものに愛されている
からです。
 また逆に、あなたや私が今ここに存在しているという、まさにその事実が、「大いなる
無限の愛」で、大いなるものに愛されているという絶対的な証拠なのです。

             * * * * *

 しかしなぜ、悪や不幸、悲しみ、憎しみなどといった、「存在しない方がよいもの」も、
この世に存在するのでしょう? 
 この世に存在するあらゆるものは、すべて「大いなるものの働き」によって存在してい
るはずです。だから「大いなるもの」は、悪や不幸の存在を、少なくても禁止はしていな
いはずです。

 この疑問に対して私は、「この世に存在するものは、何であろうとも、大いなるものは、
その存在を禁止していない」と考えます。
 たとえば、身長が100メ-トルの人間とか、寿命が1000年の人間とか、そのよう
な「大自然の法則や摂理によって、その存在を禁止されているもの」は、大いなるものに
よって、その存在が禁止されています。
 しかし悪や不幸は、「大いなるもの」によって、その存在が禁止されていないのです。
なぜなら事実、この世に悪や不幸が存在するからです。
 しかしながら人間には、善や幸福をのぞみ、悪や不幸を嫌うという性質があります。そ
して、このような人間の性質も、「大いなるもの」によって与えられたはずです。

 善と悪、幸福と不幸、喜びと悲しみ、愛と憎しみ・・・
 「大いなるもの」は、それら全てを、この世に存在させています。そして、そうするこ
とにより、人間が「より善く幸福な生きもの」になるように、人間を導いているのだと思
います。
 ふつう人間は、悪より善を、不幸より幸福を、悲しみより喜びを、憎しみより愛を、
「好ましくて良いもの」として選びます。人間とは、そのような生きものです。
 それは、生命の進化(これも大いなるものの働き)によって、人間がそのように作られ
ているからです。
 たしかに世の中には、嫌なことがたくさんあります。しかしそれは、人間が「より善く
幸福な存在」になるための、大いなるものによる「試練」だと思うのです。大いなるもの
は、そのようにして人間を導き、そのように人間を愛しているのだと思います。

補足
 「大いなるもの」は、たとえば「悪の存在」を禁止しないけれど、「悪の存在」を積極
的に肯定もしません。つまり「大いなるもの」は、悪を愛しているとは言えないのです。
 なぜなら、「悪は必ず滅びる」とか「悪が栄えた試しなし」と言われるように、一時的
に悪が存在しても、しばらくすれば衰退し、消滅してしまうからです。
 ゆえに「大いなるもの」は、悪の衰退を望み、悪の消滅を願っています。つまり「大い
なるもの」は、悪の存在を否定しているのです。


9章 「大いなるもの」は愛の根源
 どうして人間は、「愛の感情」を持つのでしょう?
 たしかに人間には、「憎しみ」の感情も存在します。しかしそれでも、なぜ人間は「憎
しみ」を不快で嫌なものと感じ、「愛」を好ましくて良いものと感じるのでしょう?

 前で少し触れましたが、この疑問をどこまでも突きつめると、けっきょく最後は、「大
いなるものによって、人間がそのように作られたからだ!」としか、答えようがないと私
は思っています。
 言葉を換えていえば、「ビッグバン」によってこの宇宙が生まれ、太陽や地球などの星
ができ、地球に生命が生まれ、その生命が進化し、人類が誕生し、さらには人類が、さま
ざまな歴史を経験してきた結果として、人間が今のような存在になったということです。
 さらに言えば、ビッグバンによってこの宇宙が生まれる前にも、それを生むための「何
かの働き」が、無限の過去から働き続けていたはずです。
 このように、「何かの働き」が無限の過去から働き続けて、人間が今のような存在になっ
たのです。この働きは、もはや人間には理解することのできない働きであり、「大いなる
ものの働き」としか、言いようがありません。
 そしてまた、この地球に人類が誕生したのも、必然だったわけではありません。さまざ
まな「偶然」が、無限回とも言えるほど積み重ねられて、やっと人類が誕生したのだと思
います。そのような「無限の偶然」も、「大いなるものの働き」によるものです。

 ゆえに、人間が「愛の感情」を持ち、人間は「憎しみ」よりも「愛」の方が好ましいと
感じるのは、「大いなるもの」によって、人間がそのように作られたからなのです。

            * * * * *

 しかしながら、
 「愛」は、どうして生じるのでしょう?
 「愛」は、どこからやって来るのでしょう?
 つぎに、そのことについて考えてみたいと思います。

 まず、「愛している」という感情が生じたり、「愛されている」と感じ取ったりする場
合を考えてみましょう。
 そうすると、愛する異性、愛する子供、愛する家族、愛する友人、愛する動物などと触
れ合ったときに、その相手に対して愛の感情が生じたり、その相手からの愛情を感じ取っ
たりするのが分かります。
 つまりこの場合は、「具体的に存在するもの」に対して、愛が生じたり、愛を感じ取っ
たりしています。

 一方、「大いなるもの」の存在を確信すると、「大いなるもの」を思い浮かべることに
よって、自分の心に愛が生じるようになります。
 そして、「大いなるもの」から与えられる「大いなる無限の愛」も、感じ取ることが出
来るようになるのです。
 つまり、「具体的に存在しないもの」に対しても、愛が生じたり、愛を感じ取ったりす
るわけです。

 そのような体験を何度も重ねることによって、
 「大いなるもの」は愛の根源であることが、心の底から納得できるようになるのです。

 ところで実際に人間は、具体的な対象が目の前になくても、それに対して愛の感情が生
じたり、その対象からの愛を感じ取ったりします。
 それは例えば、「恋愛」の場合を考えてみると、納得できるのではないでしょうか。
 「恋愛」も恋心がつのると、目の前に恋人がいなくても、その人のことを考えただけで
幸せな気持ちになり、愛の感情が生じるようになります。また、相手のことを思い浮かべ
ただけで、その人の愛を感じることもできます。まるで、その恋人が今ここにいて、私を
優しく愛してくれているかのようにです。

 また、とても強く愛し合った人と、不幸にして死に別れてしまった場合も同じです。
 確かにしばらくの間は、大きな悲しみに打ちひしがれるでしょう。しかし何十年もの月
日が経てば、「良い思い出」だけが残るようになります。そして、その人のことを思い出
すたびに「愛の感情」が生じて、優しい「愛の思い出」に包まれるのです。

 そしてさらには、釈迦やキリストのような、実際には見たことも一緒に暮らしたことも
ない人・・・
 そのような人であっても、その言動や生きざまを思い浮かべるたびに、愛の感情が生じ
てくるのです。そして釈迦やキリストの「大いなる愛」に、自分が優しく包み込まれてい
る感じがするのです。
 このように人間は、その場に存在しない人や、さらには、この世に存在しない人に対し
てさえ、愛の感情が生じたり、その人の愛を感じ取ったり出来るのです。

 ところで、「恋の相手」は現実に存在する人間であり、「死んでしまった人」は過去に
存在した人間です。だからそこには、「具体的に存在するもの」とか、あるいは「具体的
に存在したもの」という、いわゆる「具体的なイメ-ジ」があります。
 ところが「大いなるもの」の場合は、「具体的なもの」として存在しないので、具体的
なイメ-ジがありません。しかしそれでも、人間はそのようなものに対してさも、愛の感
情が生じたり、その愛を感じ取ったり出来るのです。

 実際に私も、「大いなるもの」に対する具体的なイメ-ジを持っていません。
 私が持っている「大いなるもの」へのイメ-ジは、「宇宙のすべてを、無限の愛で包み
込んでいるもの」とか、「暖かで柔らかな、愛の光や波動」というような、とても抽象的
で漠然としたものです。
 しかしそれでも、「大いなるもの」を思い浮かべれば、私の心に愛の感情が湧き起こり
ます。そして「大いなる無限の愛」も、確かに感じ取ることができるのです。

 このように、
 「大いなるもの」は「具体的に存在しないもの」ではありますが、
 その「具体的に存在しないもの」から愛が無限に生じて、その「大いなる無限の愛」が
宇宙全体を包み込んでいます。
 何と言いますか、宇宙の中心にある場所から、愛の光と波動が無限に湧き出し、それが
宇宙全体に広がって、私を含めた宇宙全体を包み込むようなイメージです。

 その「大いなる無限の愛」を、いつでも実感するようになると、「大いなるもの」が
「愛の根源そのもの」であることが、心の底から納得できるのです。



 つづく



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